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「お兄ちゃん。お兄ちゃんってば」


「?」


 千春に腕を強く揺すられて、眠りから覚めたように意識が覚醒する。

 トンネルを抜け出たときのように、視神経に飛び込んでくる光の強さで、一瞬世界が白く弾けて見えた。


 徐々に慣れてくると三重四重にぼやけていた千春の顔に漸く目の照準が合ってくる。

 眉根を寄せた千春はひどく不安げな顔をしていた。


「ごめんね、お兄ちゃん。帰ろ」


 千春が腕を取り透を立たせる。


 立ち上がると視界がぐらっと揺れたような気がして、思わず千春の肩にもたれかかってしまう。

 後頭部からすっと何かを抜き取られたような感覚がして立ちくらみに襲われる。

 額に手をやるとべっとりと汗が付着した。

 その手で両目を覆い、指の腹で眼球を強く圧する。

 目の奥にじりじりと重い痛みがある。

 再び目を開くと揺れは治まっていたが、視界の上部で埃のようなものがチリチリと点滅していた。

 どうやらパチンコ台の電飾が網膜に焼き付いてしまったようだった。

 軽い吐き気が胃をゆらゆら揺する。


 踏み出すと千春が脇で支えてくれていた。

 足元のふらつく感じはすぐに薄らいだが、無理をせず千春に腕を委ねたまま歩いた。


「お、おいおい。お嬢ちゃん、本当にいいのかい?」


 千春は台を振り返り大きく頷くと、再び透の身体を支えて出口に向かった。


 自動ドアが開き戸外に出ると容赦ない全身を刺す寒気が気付けになった。

 大きく深呼吸をすると幾分身体がすっきりした。

 頬に手をやると驚くほど熱く、店内の空調に逆上せていたことが分かる。

 透は黙って千春から身体を離して歩き出した。

 斜め後ろをついてくる千春の案じるような視線が首筋に痛い。


「ごめん。もう大丈夫」


 透は千春を振り返らずそれだけ言うと、一歩一歩確実に足を運んだ。


 駐車場は相変わらずの混雑振りだったが、誘導しているのは先ほどの着膨れの警備員でも彼を叱りつけていたベテラン警備員でもなかった。


 店に入る前よりも雲が厚くなっていて、さらに気温も下がったようだった。

 その寒さに抗うように大きく白い息を吐き出す。

 傍らを見ると赤いダッフルコートに身を包み、いつの間にか透のマフラーを鼻の辺りまで覆うようにして巻いている千春が目だけで笑って見せた。

 あまりに無垢なその表情に透は思わず微笑み返しそうになる。

 透もダウンジャケットに顎を引き、来たときと同じように警備員の脇を通って道路に出た。


 ポケットに手を突っ込み数歩前を見つめて何も喋らず並んでとぼとぼと歩く。

 気温は低いが風はなく、アスファルトに響く二人の足音が耳に心地良かった。

 パチンコ屋から離れると車通りも少なく、人影もまばらで正月の町は静かだった。

 先ほどまでの不安定な感覚は消え去っていた。

 もう少しこのまま歩いていたい気がして、帰り道を透は遠回りに変えてみた。


 来た道と違うことに千春は気付いていないのか黙ったまま同じ調子で歩いている。


 やがて家並みの向こうに木々の生い茂った一角が見えてくる。

 その一角に至り透が立ち止まると千春はきょとんと透を見上げ、それから周囲を見渡して歓声をあげた。


「神社だ!」


 さして立派とも言えない古びた社殿が一つと、その横に社務所があるだけのこぢんまりとした神社で、三が日の内だというのにまるきり人の姿が見えない。

 目を怒らせた狛犬も心なし張り合いなさげに見える。


「静かだねぇ。誰もいない。巫女さんもいないよ」


 正月は大抵の神社はアルバイトで巫女さんを雇っている。

 この神社も元日はさすがに巫女さんがいただろうが、正月も三日目のこのような閑古鳥が鳴くような状況ではアルバイトを雇うのは人件費の無駄というものだ。


「ねぇ、おみくじはどこで引くの?」


「自動販売機」


「自動販売機って……」


 千春は軽く背伸びをして境内を窺った。「ないよ。そんなの」


 透は社務所にある受付用の小窓の脇に設置されている赤く細長い箱を無言で指差した。

 鉄製の無機質なその箱に百円玉を入れレバーを降ろすとおみくじが出てくる仕組みになっている。


「風流の欠片もないのね」


 つまんない、と千春は嘆いたが、透には欧風な顔立ちの千春が「風流」という言葉を遣うのが新鮮に耳に響いた。


 透は千春に目の動きで社殿の方向を示した。


 しかし、千春は透の目配せの意味が分からないようで、社殿と透の顔を交互に見比べている。

 それでもいつまで経っても足を境内に踏み入れることなく腕を組んで棒立ちしている透の様子に、千春はその意図に思い当たったようで小さく吹き出した。


「はいはい。初詣したいって言ったのは私ですよ。一人で初詣してきますよ」


 拗ねたような口ぶりで千春は社殿に向かって歩き出した。

 律儀に手水舎に寄り柄杓に右手を伸ばす。


 まず左手に水を掛け、次に左手に柄杓を持ち直して右手を清め、さらに右手の掌に柄杓で汲んだ水で口を濯いだ。

 最後にまた右手を水で流すと千春はダッフルコートのポケットからハンカチを取り出しそっと口を拭う。


 離れたところから眺めていても、神社という日本文化の最たる場所に西洋の肌の色をした千春はやはり異質で景色から浮かび上がっていた。

 しかし、彼女の柄杓の水で自らを浄化させていく一連の滑らかな所作は、それだけに一層際立って美しく見えた。

 彼女の雪で造ったような白い手に流れる神の水は見る者の心をも清めてくれるようだった。


 見惚れるように眺めていた透を千春が不安そうに見つめ返す。


「おいて帰っちゃダメだからね」


 小学生のような不安を口にする千春に、それまで大人の女性の美しさを見ていた透は冷水を浴びせられたような気分だった。

 面倒臭そうに頷くと、千春は諦めたように社殿に向き直り、静々と石畳の上を歩いていく。

 コートをごそごそ探っているのは財布を探しているのだろう。

 やがて賽銭箱に硬貨が跳ねる音がして、千春は梁からぶら下がっている布を掴み全身を使って鈴を振った。

 シャランシャランと軽やかな鈴の音が静かな境内に鳴り響く。

 次に千春は社の奥に向かって二度頭を下げ拍手を二度打った。

 乾いた音が冬の冷たく張り詰めた空気を割くようにこだました。


 何を祈っているのだろうか。

 千春は胸の前で手を合わせたままぴくりとも動かない。

 どうかしたのだろうか、と見ている透が不安になってきた頃に漸く手を解くと、彼女は社殿に向かって再び深く一礼した。


 願掛けが済むと、どことなくさっぱりしたような表情で社務所に向かい、おみくじ販売機の前に立った。

 しげしげと赤い箱を見つめ何かを確かめるようにぽんぽんと軽く叩いたり撫でたりしている。

 さらにその赤い箱に対しても拍手を二度打ち一礼して願を掛ける。

 レバーが下がる音がして千春がおみくじを握り締め小走りで戻ってきた。


「今度はお兄ちゃんね」


「は?俺はいいよ」


 千春は帰ろうとする透の腕にすがりつき、ぶらさがるようにして留めようとする。


「ダメだよ。せっかくここまで来たんだから。行っといでよ、ね?ほら」


 千春は駄々っ子をなだめすかすような口調だ。


 あたりは急速に暗くなりだしている。

 この季節は夜まで一足飛びだ。

 先ほどまで火照っていた身体も今はすっかり冷え切ってしまった。

 こんなところでつまらない押し問答をしている場合ではない。

 透は渋々千春の言葉に従って社殿に向かった。


「おみくじも買っておいでよ。私のは開かずに待ってるから」


 透の背中に、これを楽しみに待っていたんだ、という嬉々とした千春の声が届く。


 どうしておみくじ一つでそんなに楽しめるんだ。

 透は小首を捻りながら賽銭箱の前に立った。


 賽銭を投げることもなく、鈴を振るでもなく簡単に拍手を二つ打つと、ろくに頭も下げずに透の初詣は終わった。

 自動販売機でそそくさとおみくじを買うと、今度は焦らすようにゆっくりと千春のところに戻る。


 千春の表情からは先ほどのにこやかさはすっかり消えてしまっていた。


「お兄ちゃん、もっと真面目にお参りしないと罰が当たるよ」


 千春は怒っていると言うよりも透が神の不興を買うことを真剣に心配しているようだった。「この神社の祭神は大物主神って書いてあったわ。大物主神って言ったら強力に祟ることで有名なのよ。雷神様だから怒りに触れたら頭から雷落とされて丸焦げになっちゃうよ。どうすんのよ」


 両の拳を握り締めて神の恐ろしさを訴える千春の口調に熱がこもればこもるほど、透は千春のことを遠くに感じる。

 神仏のご加護などおよそ当てにできない現代において、少し参拝の作法を軽んじたぐらいでそれが何だと言うのだろうか。

 女だてらに強引に男性の部屋に泊まりこんでテコでも動かない奔放さを持ちながら、日本古来の神の存在を真正面に肯定し、その霊験を信じて疑わない古風な面を見せる。

 外国語訛りのない西洋人顔の千春の頭の回路は透の想像の範疇を超えている。


「そんなことよりもおみくじ見てみろよ」


 そうだったそうだった、と思い出したように千春は握り締めていた右手から漸く力を抜いた。

 あまりに力を込めていたものだから、小さなおみくじがさらに小さく丸まっている。

 どれどれ、と高級和菓子の包み紙を解くように少しずつ丁寧に広げる。

 現われたのは「大吉」の二文字だ。


「また大吉かぁ」


 最良の結果に喜びを爆発させ踊り出すのか、はたまた奇声を上げるのか。

 一瞬身構えた透には拍子抜けの冷静さを千春は見せた。

 どこかつまらなさそうにさえ映る。


「やっぱりおみくじって大吉しか入ってないんだ」


 寂しそうにぼそっと口にした千春の独り言が、ここ十年ほど大吉という文字を拝んだことのない透を驚かせる。

 おみくじに仕掛けがあるのではなく千春が稀に見る強運の持ち主なのだということを説明すると今度は千春が大きく目を見広げた。


「私、毎年初詣でおみくじ引いてるけど大吉ばっかりだもん。巫女さんが気を使って大吉ばっかりにしてるんだと思ってた。私、一度で良いから小吉とか末吉とか出してあんな風に木の枝に括りつけてみたい」


 千春が指差した先には梅の木が立っていた。

 その枝に結わえ付けてある無数のおみくじが季節を先取りして咲いた白い花びらのように見える。


「俺、凶引いたことあるけど」


 大学受験のシーズン直前に引いたのが凶だった。

 こんなものは何の意味もない運試しにすぎないと頭では理解していたが、受験が終わるまであの禍々しい一文字を心の片隅から排除することができなかったのを思い出す。

 おみくじを引いたのはあれ以来だ。


「いいなぁ!凶ってさ、響きが格好いいもんね」


 宝くじの当選者を見るような千春の目の輝きを透は冷ややかに見つめ返した。

 おみくじに格好良いも悪いもない。

 大吉を疎み、凶を羨むなんてそれこそ罰当たりというものだ。


「『恋愛』は、『そのまま進め』、だって。よしよし。順調、順調。『病』は、……」


 強く念ずれば治る。

 透が目の端で確認した「病」の欄にはそう書いてあった。

 千春の顔に一瞬影が差したように見えた。


「強く念ずれば、か。微妙だなぁ」


 どこから見ても元気の塊のような千春がまるで病人のような物言いをする。

 それが何となく心に引っかかったが、千春のことだから、と透は深く考えないことにした。


「お兄ちゃんのは?」


 他の項目には目もくれず千春はおみくじを折りたたんで財布の中に仕舞うと透の手元を覗き込んだ。

 透は千春とは対照的に子供の遊びに付き合っていられないという体で紙片を一気に開いた。


「半吉だ。渋いっ!」


 おみくじに渋さなどない。

 しかし千春は心からそう思っているようで、透の手から毟るように奪うと感嘆の声を漏らした。

 覗き見ると「恋愛」は「波乱あり」で「病」は「長引くが治る」となっている。


「いいなぁ、半吉だなんて」


「嫌味か」


「嫌味じゃないよ。だったら私のと換えっこしてよ」


「そんなことして何の意味がある」


「交換したら私が半吉でお兄ちゃんが大吉だったってことになるじゃん」


「ならねぇよ」


 交換したところで千春が大吉で、透が半吉だったという事実がどうこうなるわけでもないし、それで運勢が変わるわけでもないだろう。

 透は呆れ加減で千春を置いてさっさと歩き出した。

 陽はすっかり落ちて遠景の輪郭は朧になり、少しでも動いていないと足元から膝、腰へと這い上がってきた寒気で身体が震え出しそうだ。


「待ってよ、お兄ちゃん」


 千春は人込みではぐれまいと必死にすがりつく幼児のような心細そうな目で透を見る。


 透には妹はいないが、千春に本当の兄として慕われているような気になる。


「このおみくじどうすんの?」


 言われて千春が差し出した掌の上の紙片に目を落とす。

 半吉がどれぐらいの運勢なのかよく分からないが縁起の良さはあまり感じない。


「結んでくるか」


 持って帰っても仕方がない。

 ズボンのポケットに入れたまま洗濯をしてゴミにしてしまうぐらいなら梅の木の賑わいにした方がましだ。


「要らないのならちょうだい」


 他人のおみくじなんかもらってどうするつもりなのか。

 呆れ加減で頷くと、千春は「やった」と小躍りして大吉のおみくじと同じ場所に仕舞いこんだ。


「あのおっさんが花屋って知ってたんじゃないのか?」


 先ほどから透はそのことが気になっていた。

 様子を見る限りでは知り合いではなさそうだったが、想像で描いたにしては花を束ねている人を描いたあの絵はあまりに的を射すぎている。

 それとも千春には何か特殊な能力が備わっているのだろうか。


「あー、あれね。あのおじさんの指見た?すごく荒れてたし爪の周りが緑色に汚れてたでしょ。だからきっと花屋さんなんだなって。隣に座ったときに微かにお花の香りもしたしね」


 言われてみても透は何も思い出せず、ただただ千春の観察眼の鋭さに驚くだけだった。


「俺って熊と戦ってるように見えたのか?」


「気にしてるんだ」


 千春は透をからかうようにころころと笑う。「怒ってるの?」


 そういうわけじゃない、と透は首を横に振る。

 怒りよりも惨めさに近い。

 娯楽であり遊戯であるべきパチンコに対し欲深く目を吊り上げて血戦を挑み、そしてあえなく敗れ去った哀れな俺。

 思い返せば楽しむという感覚からは程遠く、残ったのは首と肩のコリだけだ。とても格好の良いものではない。


「熊と戦っても勝ち目ないよ」


 パチンコは向いていないと言いたいのか。

 鋭い勘を働かせる千春の次の言葉を透は待ったが、千春はいつものにこやかな表情を浮かべるだけで、それ以上何もしゃべらなかった。

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