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 冗談じゃなく千春は居着いてしまった。


 彼女のこの部屋に居座る目的が何なのか透には全く分からなかった。

 いつか何かしらの法外な請求が来るに違いない。

 透はそうびくびくしつつも頑として出ていかない千春に手を焼き、結果的には千春の存在を無視するという嫌がらせしか思いつかず、ただゲームに時間を費やすだけだった。


 千春は透の仕打ちには頓着せず、この部屋に自分の居場所を確保した顔で悠々と時間を過ごしているように見える。

 彼女は恐ろしいほどのマイペースぶりで食事をし、シャワーを浴び、パジャマに着替え、透のベッドに入り眠った。

 いつの間にか運び込んであった大き目のボストンバッグの中に、必要最低限の生活を送るためのグッズが入っているようで、この部屋で暮らすことで何かに困っている様子は見当たらない。

 絵を描くのが好きらしく、テレビに正対してコントローラーを操作する透の脇で、一言も喋らずにスケッチブックの上にせっせと色鉛筆を滑らせている。


 よくも飽きずに描いていられるものだと内心呆れていると、あるとき千春は突然財布一つを持って出かけていった。

 そして三十分もせずに近くのスーパーの買い物袋を三つも提げて帰ってきた。

 おかげで今我が家の冷蔵庫は史上最も充実している。


 テレビ画面では恐竜のような格好の中ボスが派手な爆発音とともに身体の内部からの破裂を幾度となく繰り返している。

 千春の様子を盗み見ながら操作していたからかミスを連発してしまったことに加え、まだこちらのレベルが不足していたようで、予想に反してあわやこちらが全滅かという状況になるほど苦戦を強いられた。

 最後はまるで自分が直接剣を握り魔法を唱えているような心持ちで戦闘に集中していたので、目がじんわりと痛み咽喉がカラカラになっていた。

 何か飲みたいと思ったら、すっと千春がコップにアップルジュースを注いで透の目の前に置いた。

 不気味なぐらいタイミングが良い。

 それまで無視するのはもったいないので、黙ってコップに口をつけると丸二日ぶりに千春が話しかけてきた。


「ねぇ」


 いよいよ来たか、と透は心の中で身構えた。

 要求は何だ。

 金か。

 あるいは白い粉をどこそこへ運べと指示してくるのか。


「初詣行こうよぉ」


 もっと途方もない要求を突きつけられるものと冷や冷やしていた透は、あまりのハードルの低さに逆に何と返事をすれば逡巡し、結局さらに無視を決め込んでゲームを続けた。

 怒ったり拗ねたりするかと思ったが、千春は特に気分を害した様子も見せず、また黒と黄色の表紙のスケッチブックを開いて色鉛筆を走らせた。

 何を描いているのか気になったが透は極力千春を意識しないようにテレビ画面から目を逸らさなかった。


 理由はよく分からないが、和馬がいやに千春を気に入っている。

 そのために透が力ずくで彼女をこの部屋から追い出すことはしづらい。

 従って、彼女から自発的にこの部屋を出て行ってもらうしかこの砦に以前の平穏を取り戻す術は思いつかない。

 それには無視を続けて彼女に嫌気が兆すのを待つのが一番だろうと一言も口をきいていないのだが、千春にも相当の覚悟があるらしく、今のところ音をあげる様子は全く見せない。

 ただひたすら絵を描いている。


「気になる?」


 千春の様子が気になってチラッと視線を滑らせると、人の気持ちを見透かしたような笑顔の千春とぶつかってしまった。「私が何を描いてるか気になるんでしょ?顔に書いてあるよ」


 それでも透は口をきかなかった。

 敵はこちらを挑発して何とか口を開かせようとしているのだ。

 その手に乗るかと、透は口元を引き締めてさらに沈黙し続けた。

 もうひと踏ん張りで相手は必ず透という存在に嫌気が差すはずだ。

 捨て台詞を投げつけてここを出ていく時が来るのも遠くはない。


「ここで口きけば負けだと思ってるんでしょ」


 くすくす笑う千春に苛立ちを覚える。

 千春に分からないように透は奥歯に力を込めた。


「いくら無視したって私、お兄ちゃんのそばから離れないからね」


 完全に見透かされている。

 敵わない、という思いが一瞬胸を過ぎる。

 どうしてこいつに俺の生活を狂わされなくちゃいけないんだ、という怒りもこみ上げてくる。

 とうとうゲームを続けられなくなり目を吊り上げて透は身体ごと千春の方を向いた。


「はい」


 振り向いた透のすぐ目の前にスケッチブックが開かれた。

 近すぎてよく見えず、少し身体を引くと、色鉛筆の淡い色彩で描かれているのは人間だった。

 バスケットボールを床に突きながら、どこかを指差して何かを吼えている。

 見覚えのある白地に青のユニフォーム。

 黄色のリストバンド。

 アシックスのシューズ。


「これって……」


 絵の主人公に心当たりがあった。

 それは明らかに透だった。


「下手だった?お兄ちゃんのつもりなんだけど……」


 決して下手ではない。

 滴る汗。

 踊る筋肉。

 前だけを見つめる強い眼差し。

 今にも紙面から飛び出して来そうなほど躍動感のある絵だった。

 ボールの弾む音や、キュキュッというシューズの摩擦音が聞こえてくるようだ。

 バスケットボールに明け暮れた高校時代。優秀な成績を残せたのでも、誰かに誉められたわけでもないが、ただただ楽しかった透の唯一と言っても良い美しい思い出の日々。


「この絵はね、お兄ちゃんの最後の試合。そうよ。夏の県大会の準決勝」


 三点差の負けゲーム。

 ブザービーター狙いで無理やり打ったスリーポイントシュート。

 ボールは空しくリングに弾み、着地と同時に足がつった。

 決勝に進んだ相手チームがそのまま優勝して、「あそこで勝ってたら優勝できたのにな」って大会の後の打ち上げで口をそろえて笑いあった。

 優勝なんて目指してたわけじゃなく、準決勝に進出しただけでも顧問の先生が男泣きするほどの快挙だったのに。


「気づいてないと思うけど私、お兄ちゃんの高校の後輩なのよ。一年生のときにミーハーな友達に連れられて観た最初で最後のあの試合でボールを追いかけて走りまくってたお兄ちゃんを、私、好きになっちゃったの」


 千春は堂々と透の目を見て言った。


 考えてみれば「好き」という言葉ほど曖昧なものはない。

 あるときには「嫌いではない」という意味であり、またあるときには「人間としては好ましいが異性として意識しているわけじゃない」ということもある。

 上手に心情を覆い隠して振舞うことが社会的に是とされがちなこの奥ゆかしい人間社会の中では、往々にして「恋愛対象として愛しく思っている」という意味以外で「好き」という言葉は遣われる。

 逆に「恋愛対象として愛しく思っている」ということを告白するための「好き」を口にするのであれば、それは人間として生きていくなかで最も勇気を必要とする行動の一つであるはずだから、赤面してしまうだとか相手の顔を直視できないだとかいう外見的な特徴を示してしかるべきだろう。

 しかし、今回のようにこうも臆面もなく「好き」と言われても、「好き」という言葉に免疫のない透はただただ困惑するだけだった。

 千春のように欧米列強の血を享受した大陸系の人間には島国育ちの農耕民族の常識は通用しないのだろうか。

 本来であれば心の奥の奥に密かに仕舞われているはずの好意を千春に堂々と開帳されて、透は黙って俯くしなかった。


「ちょ、ちょっと、赤くならないでよ」


 指摘されると余計に顔が火照ってくる。

 もともと自律神経の働きには自信がない。

 全身を揺さぶるほど強く心臓が跳ね出した。

 肺の奥まで空気を吸い込めず浅く速い呼吸を繰り返す。

 首筋や腹部、臀部にじっとりと汗が滲み出る。

 自分の身体なのに全くコントロールできないのがもどかしかった。


 しかし千春の方も透に影響されたのか、よく見ると首筋や耳が赤くなっていた。

 慌ててスケッチブックを広げ、何かを探すようにページを繰っていく千春の様子を見ていると透は少しだけ心にゆとりが持てた。

 一見強気に見える彼女の振る舞いは実はあらかじめ作り上げていた表面的な装いに過ぎないのではないか。

 想定外の状況に陥ったときに仮面の差し替えが間に合わず、偶発的に表に出てきてしまったような今の表情は何ともあどけない少女のそれに見えた。


 透は立ち上がってクローゼットからダウンジャケットを取り出した。

 マフラーを首からぶら下げる。


「ちょっと。どこか行くの?」


「ああ」


「待って。私も行く」


 透は千春に構わずスニーカーをつっかけ玄関を出た。

 じっとしていることができなかった。

 カッカと火照った身体を一刻も早く冬の清冷な空気で鎮めたかった。

 何かがひっくり返って散乱したと思われる派手な音と千春の小さな悲鳴が部屋の中で響き透は足を止める。

 しかし、すぐに追いかけてくる軽やかな足音が聞こえてきて透は歩を進めた。


 空は鉛色の雲が低く垂れ込めていて、時折強く吹きつけてくる北風が耳に痛いほど冷たかった。

 まだ昼の三時を過ぎたばかりだが、あたりは夕暮れ時のうす暗さだ。

 普段から人通りの少ない道だが、今日は雀一羽姿を見せず、モノトーンの世界は視覚的にも寒々としている。


 今日は雪になるかもしれない。

 傘を持ってこれば良かったか。

 そう考えたところで透はくすりと笑った。

 仕事に行かなくなってからは外出することも少なくなり、雨や雪に降られるという経験もとんとご無沙汰になっている。

 こうやって戸外の空気を感じ、立ち止まって頭上を眺めて天気の心配をしている自分が新鮮だった。

 歩いているうちに心身ともにクールダウンしてくる。

 自律神経失調症特有の激しい動悸や過呼吸も今日は軽く済み、今はもう何ともない。


 雪が降ったら濡れれば良い。

 風邪をひいたら寝れば良い。

 それだけだ。


 透がまた歩き出そうとしたとき背後から何かがぶつかってきた。

 その勢いでよろめく透に、さらにぐいぐいと身体を押し付けてくるのはもちろん千春だった。

 案の定スケッチブックと色鉛筆を小脇に抱えている。

 軽く息を弾ませ千春はあっという間に透の腕を取ると、頬を摺り寄せてくる。

 透は腕を振り解こうと試みるが千春は頑として離れない。


 急に透が外出すると言い出したので慌てたのだろう。

 千春はジャージのズボンにトレーナーという部屋着姿に赤いダッフルコートを羽織っただけの格好だ。

 足元は透のサンダルを履いている。


 うら若き乙女がこんなみすぼらしい格好で、と可愛そうなことをしたような気持ちが兆す。


 しかし、当の本人はそんなことには全く頓着している様子を見せず、ただただ透との外出を楽しんでいるような喜色に富んだ表情だった。


「ねぇねぇ、どこ行くの?」


 最初から返事を期待していないのか、それとも行き先などどこでも良いのか。

 千春は返事をしない透に気分を損ねることなく寒さも気にならない様子で、何の面白みもない空や道や電柱をニコニコと眺めている。

 透き通るような肌の白さがいかにも寒さに弱そうに映るが微かに、頬を上気させて千春は元気良く透の横を歩いた。


 五分ほど歩くと道路上に車の列が見えてきた。

 このあたりで一番大きいパチンコ屋の前だ。

 先月訪れたとき、ある客に店員が「三が日は設定甘くしますんで」と耳打ちしていたのを聞いていた。

 次来るなら三が日だな、とそのとき頭に刻み込んだことを透は先ほど思い出したのだ。


 丸々と重ね着をして制服が妙にもこもこと膨らんでしまっている警備員が薄暗い真冬の曇天の下、何もかもが気に入らないような素振りで手先だけを動かして車を誘導していた。

 広い駐車場はすでにびっしりと車で埋まっている。

 その駐車場の一隅から出てきた軽自動車にその警備員は気付いておらず、その進路を阻むように突っ立っている。

 軽自動車のクラクションが鳴ると、事も無げにのっそりと脇に寄り頭を下げることもしない。

 駐車場の奥にいたもう一人の警備員が走ってきて周りのドライバーに頭を下げつつ、職務怠慢の警備員を小さい声だが鋭く何やら叱りつけた。

 その傍らを通って透は店内に向かう。


「パチンコ?」


 生まれて初めて、とはしゃぎながらさらに透の腕にからみつく千春。


 着膨れの警備員が叱られた腹いせなのか横目でこちらをねめつけてきた。

 彼の目には正月を楽しく過ごす幸せ絶頂のカップルに見えるのだろうか。


 彼の羨望を超えて怒りに達したような鋭い視線に気付かないのか、千春はキャッキャと騒がしい。


 その能天気さに居たたまれず、透はマフラーに口を埋めて早足でドアに向かった。


 自動ドアに近づくと店内の喧騒が漏れ聞こえてきて、中の様子が窺い知れる。

 ドアが開くと想像どおりの暴力的なボリュームのBGMが透の鳩尾の辺りを揺さぶった。

 同時にヤニと消臭剤の混じった退廃的で生暖かい空気が透を包む。

 あちらこちらから聞こえるパチンコ玉が釘をはねる音が耳にやかましい。

 外の冷たい空気が透の足元を通り抜けて勢い良く店の床を這い進み、ドアのそばに陣取っている十人ほどの客の目が一斉にこちらに向いた。


 人が見ている。

 こちらを見ている。


 それだけで腰が引ける透の手を「わぁ」と興味津々の様子の千春が店内に引っ張る。


 飼い主の手にボールを見つけた犬のように目を輝かせて透の次の動作を待つ千春に、仕方なく透は店内に歩を進めた。


 人、人、人。

 狭くはないはずの店内が人で溢れかえっている。

 見える範囲に空いている台はなく、通路も行き交う客でごった返している。


 透はマフラーを首から外し深い呼吸に努めた。

 しかし、どうにも空気が腹まで入ってこない。

 久しぶりにこんなに大勢の人ごみにいる。

 心が戸惑っている。

 身体が緊張している。

 肺が強張っている。

 透は喘ぐように人の波をかき分けて進んだ。


 歩いているうちに奇跡的に空席が二つ並んでいる台を見つけ。

 椅子取りゲームのように慌てて椅子に腰を滑らせる。

 そのまま台にすがるように凭れかかり息を整える。

 たった五分ほど歩いただけで息が上がってしまっている。

 身体が疲れている。

 しかしせっかくここまで来たのだ。

 何もせずに帰るわけにはいかない。

 透は台にプリペイドカードを差し込んで玉を買いレバーを握った。

 遠くの打ち上げ花火のように次々と玉が跳ね上がり、星のように輝く釘の間を抜けて消えていく。

 チャッカーに玉が吸い込まれ、液晶画面がきらびやかに踊り出す。


「何?何?何が始まるの」


 左隣に座った千春が画面と透の顔を交互に覗き込む。

 彼女の深海のような色の瞳が台の電飾を吸い込んで宝石のように光を放っている。


 一列目の数字が3となり、二列目も3が出た。


「わ、わ、わ。リーチだって。リーチだって」


 興奮した千春が透の袖を加減なく強く引く。

 眼球が飛び出してしまうのではないか、と心配になるほど大きく目を見開いている。


 慌てるな、と諭したいところだが、透も前回小耳に挟んだ店員の言葉が目の前にちらついて思わず息を飲む。


 しかし二人の前に現れた数字は2だった。

 小さく息を漏らす透の隣で、「なんだぁ」と千春が大げさにぐったりする。

 もう一度3が来たら何が起こるのか知りもしないくせに。


 釘が甘いのか次から次へと玉がチャッカーに吸い込まれ、メインデジタルに幾度もリーチアクションが起こるが、どれもこれも派手さがなく、案の定大当たりにつながらない。


 まんまと担がれたか。


 つぎ込む資本だけが嵩んでいく。

 顔も知らない店長が口の端だけを歪めて笑う様子が脳裏を掠めるが、そろそろ来るかと思うと容易に台を換えるわけにもいかない。

 自分が甘ったるい香りに誘われて食虫植物に吸い寄せられる愚かな羽虫のように思えてきた。


 やがて見飽きてきたのか千春はパチンコ台に色鉛筆を何本か並べ何やら絵を描き出した。


 その向こうから蝶ネクタイの店員がワゴンを押し灰皿を交換しながらやってくるのが見える。

 混雑している店内で一台を独占しながら絵を描いている客。

 何か小言を言われるかもしれない。

 台を探している客がいるのだ。

 言われても仕方ない。

 そのときはそれをきっかけに帰れば良いか、と心に決める。


 近づいてきた店員は逞しそうな体格で冬なのに顔は褐色に焼けている。

 茶髪にピアスに無精髭。

 しかも、やけに目つきが鋭い。

 街中ですれ違ったら絶対に目を合わせたくないタイプだ。

 いっそ注意される前に帰った方が得策かもしれない。


「おっと、悪いね、兄ちゃん」


 千春の左隣に座っていた五十歳がらみの眼鏡を掛けたおじさんが山盛りの灰皿を店員に渡す。

 店員は一つ頷いて、代わりの空の灰皿を返した。


 おじさんは早速煙草に火をつけ、首から掛けた緑色のエプロンのポケットに手を突っ込み、レバーを握る。


 そのおじさんに何となく見覚えがある気がするのだが思い出せない。

 誰だっけ、と考えていると、店員が千春のスケッチブックを覗き込んだ。

 しかし、彼は千春ににっこり微笑みかけただけでそのまま立ち去っていった。

 店員のあまりに柔和な表情に、内心びくびくと身構えていた透は全身から力が抜けそうになる。


「何描いてるんだい?」


 店員の背中を見送っていたら背後で声がしてドキッとする。

 振り返ると今度はエプロンのおじさんが千春の絵を覗き込んでいた。

 絵と透を交互に見比べると、うんうんと頷きながらかみ殺すように笑い出した。

 千春もにんまりと笑っている。

 馬鹿にされたように感じて台に向き直ると、千春がスケッチブックを透の顔のすぐ横で広げて見せた。


「近い」


 絵が顔に近すぎて何が描いてあるのかさっぱり分からない。

 これで二回目だ。


「あっ、ごめん、ごめん」


 千春がスケッチブックを引くと、見えてきたのはいかにも獰猛そうな巨大熊と対峙する柔道着を着た人間だった。


「……誰?」


「もちろん今のお兄ちゃんよ」


 平然と答える千春が透にはますます得体の知れない存在に思えた。

 透が向かい合っているのは当然熊ではなくパチンコ台で、しかも柔道着は着たことがない。

 一体この混血娘は何を見てどう思ったのか。


「だってすごく険しい顔してパチンコしてるんだもん。やらなきゃやられる、みたいな。そんな顔してる人、他にいないよ」


「うんうん。よく特徴とらえてる。こうして見てると台が熊に見えてくるもんな」


 エプロンおじさんが人の良さそうな笑顔を振り撒き、調子の良い感じで割り込んでくる。


 味方を得た千春が、「ほらほら」と悪乗りする。


 相手にしないことにして透はさらに玉を買った。


「次はおじさん描いてあげる」


 透の無視にすっかり慣れたのか、千春は微塵もめげた様子を見せず透に背を向けた。


 男前に頼むよ、とおじさんも愛想が良い。

 しかし、絵のモデルの経験がないからか、若い女子に弱いのか、すっかり肩に力が入ってしまってパチンコどころではなさそうだ。

 ちらちらと千春の様子を気にするので玉の飛びが一定しない。


 さすがにスケッチブックを持ち歩いていることだけあって、千春は迷いなくさらさらと描き上げていく。

 あっという間に仕上がった絵を肩越しに盗み見て、透は思わずあっと声をあげそうになった。


 白紙に現れたのは花を束ねるおじさんの姿だった。

 その絵で透はおじさんが近くの花屋の店主だということを思い出した。

 花には縁のない透だったが、一度だけ同僚が寿退職する際に、花束を用意するように上司に言われて、その花屋に買いに行ったことがあった。

 どんな花束が良いか、そのとき色々相談したので何となく顔を覚えていたのだ。


 花屋、花束、職場、同僚、上司。


 不意に透の頭の中で花屋と職場がリンクする。


 目の前の世界が急に色あせて見える。

 レバーに込めていた握力が抜けていく。

 耳に入ってくる全ての音がひどく遠くに聞こえる。

 心臓がバクンバクン壊れかけのエンジンのように唸る。

 脇にじっとりと汗をかき、逆に舌はカラカラに乾いてきた。

 食道を何かがせり上がってくる感じがする。


「はい、おじさん。これあげる」


 千春は描き上げたおじさんの絵をスケッチブックから切り取って渡した。


「おお、上手だねぇ」


 確かに良く描けている。

 しかし、千春はどうしておじさんから花を連想したのか。

 透と同じようにあの花屋を利用したことがあるのだろうか。


「でしょ?」


 透が誉めなかったからか、千春は透に誇示するようにひどく得意げだ。


「たいしたもんだなぁ。でも、おじさんが花屋って知ってた?店に来てくれたことあったっけ?」


「ないよ。何となくパチンコしてるおじさんの姿がお花を連想させたの」


「ほぉ、嬉しいこと言ってくれるね。よし、これは絵の代金だ」


 おじさんはご機嫌で自分の台から玉を手で掬い、千春の台に補充した。


「いいの?」


 千春は念願叶ったような笑顔で、待ってましたとばかりに勇んでレバーに手を伸ばした。


 すかさずおじさんが千春の手を取り指南を始める。


 その様子が透にはひどく遠くのなじみのない光景に感じる。

 まるで透が一人でパチンコにやってきて、たまたま座った台の隣がエプロン姿のおじさんに連れてこられた若い女性だったというような感覚になる。

 透の目には二人がその他大勢の客に同化して映った。

 やっぱり俺は一人なんだ。


 自分以外ハ他人ダ。

 自分以外ハミンナ楽シソウニ生キテイル。

 自分ダケガ、コンナ意味ノナイ毎日ヲ送ッテイル。

 自分ダケガ答エノナイ悩ミニ神経ヲスリ減ラシテイル。

 自分ダケガ居ルベキ場所ガ見ツカラナイ。

 自分ダケ、イツマデコンナ先ノ見エナイ生活ヲ続ケルノカ。

 コンナコトモウ考エタクナイ。

 ソレナノニ頭ガ考エルノヲヤメヨウトシナイ。

 コノ頭ヲ何トカシテシマイタイ。


 あ、回転し出した。

 もうリーチか。早いなぁ。センスがいいね。

 何かキラキラしてるよ。

 お、これは来るなぁ。

 来るって何?ねぇ、何が来るの?

 バカ当たりするってことだよ。

 バカ当たりってすごいの?ここにあと一つ7が来ればいいんだよね?あー、ドキドキする。

 ドキドキするねぇ。

 7だ!来たぁ!

 よっしゃー。どんどん打って。もっともっと。

 すごーい。いっぱい出てきたよ。

 遠慮せずにどんどん打って。まだまだ、こんなもんじゃないよ。

 わ、わ、わ。何これぇ。止まらないよ。どれだけ出るの?壊れたんじゃない?

 壊れてないよ。ほら、また当たった。まだまだいける。どんどん打って、どんどん。

 どんどん?おじさん、もう指が痛くなってきちゃったよ。

 そんなこと言わないで。どれだけ出してもいいんだから。

 どれだけでも?なんか怖いよー。

 怖くないよ。楽しくて笑いが止まらないよ。

 また出てきた。何なの、これー。

 何なのってこれがパチンコってやつだよ、お嬢ちゃん。


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