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校庭に出ると髪が揺れスーツの裾がはためいた。ここ数日雨が降っていなかったせいか桜の花びらを舞い上げる風が埃っぽい。
「風が強いなぁ」
「うん。今日で見納めだね」
電話の向こうの春美が残念そうに言った。吹き抜ける風に目を細めながら見上げれば、校庭の桜は花弁よりも深緑色の葉の方が目立ち始めている。春美もどこかで同じように目にゴミが入るのを気にしながら桜の樹を見上げているのだろうか。
「毎年思うけど、桜ってあっという間だよね。この時期はいつも忙しくてゆっくり見たためしがない」
「私も、今年は慌ただしくて桜見る余裕なかったな」
春美の口調はため息交じりだったが、何かを成し遂げた充実した感じがあった。「出してきたよ。漸く」
春美が出したもの。それは婚姻届のことだ。先月から同棲を始めたことは和馬から聞いていたが、今日という日に法律の上でも二人は晴れて夫婦になったということになる。
「そっかぁ。おめでとう。こんな日が来ることを俺も心待ちにしてたよ」
「ありがとう。なんだか長い道のりだったわ。でもこれでいろんなことが吹っ切れた気がする」
春美の言葉には実感がこもっていた。二人の軌跡を辿れば透も確かに長かったと思う。何よりも前夫との離婚に時間がかかり過ぎたのが誤算だっただろう。
透の部屋を放火して逮捕された前夫に春美は離婚を申し出た。自分を殺そうとするような犯罪者と夫婦関係を続けられるはずがない。そして和馬や透は当然前夫が速やかにそれを了承するものと思っていた。それが常識だと高を括っていたのだ。
しかし現実には彼は春美の希望に応じようとはしなかった。それどころか、春美がいなければ頭がおかしくなって生きていく自信がない、自殺するかもしれないなどと半ば脅すようなことを口にした。放火事件についての刑事裁判においても彼の弁護士は心神喪失状態による無罪を主張。愛する妻の度重なる浮気によるストレスで被告人は精神の健康を著しく損ない犯行当時は責任能力に欠ける状態にあったと弁明した。事件当時の被告人の責任能力の有無についてが争点となり裁判は難航。被告人の精神鑑定が要求され、さらに勾留中に彼が自らの服を使って首吊り自殺を図るという事件が起こり二ヶ月の入院加療が必要となって裁判は一層長期化した。その後の法廷において春美は和馬が聞いている前で過去の男性関係についてあれこれと問い質されたこともあった。
和馬と春美にとっては苦難の連続だったに違いない。それでも最終的には愛を成就させた二人の互いを想う気持ちの強さに、二人の姿を間近に見てきた透は万感胸に迫る思いだった。
「二人ともすごいよ。本当によく頑張ったと思う。きっと幸せになれるね。俺が保障するよ」
「何それ。すごい自信ね」
「あれだけのことを乗り越えてきたんだもん。幸せにならない方がおかしいよ」
「そうね。我ながらよくやったと思うわ。透君にもいっぱい迷惑掛けちゃったね」
「迷惑はお互い様だよ。これからもよろしく」
「こちらこそよろしくね。透君は私と同い年だけど義理の弟になるんだよね。何か変な感じ」
「義姉さんに何を甘えようかなぁ」
「ちょっと、やめてよ」
張り詰めていたものが少し緩んだような春美の柔らかい笑い声が聞こえてきた。「あれから二年が経つのね」
「ああ。今から千春のところに行ってくるよ」
今日は千春の二回目の命日だった。二年前の今日、透は本当の教師生活を取り戻し、その代わりのように千春は息を引き取った。あの日からの二年間は透にとっても楽ではなかったが、周りのバックアップもあって何とか今日まで引きこもりに戻らずに生活することができている。今年もこのスーツ姿を千春に見せられると思うと、この一年も無事に乗り切れそうな気がしてくる。千春にもらったスーツは普段は大切に仕舞って入学式の日にだけ着ることにしていた。毎年この日にこの格好で千春の墓前に立つことを二年前眠りについた千春に誓ったのだ。
電話を切ると、透は花びらがまだ残っている枝を探して慎重に折った。千春には桜が似合う。千春と花見をすることは叶わなかったのに透はそう思って去年もこの校庭の桜の樹の枝を墓前に飾っていた。
「こらっ。桜泥棒!」
驚いて振り返ると、そこには一人の女子生徒が透を睨みつけるように立っていた。
「なんだ、春香か。びっくりさせるなよ」
「なんだ、じゃないわよ。その枝どうすんの?」
「どうするって……部屋に飾るんだよ」
「ふーん。綺麗だもんね」
そう言って春香はニヤニヤと笑う。透は可憐な桜の枝を手に顔が赤らむのを感じた。春香の視線が透の顔に纏わり付いてくる。その目は透が部屋に桜を活けるなんて似合わないと言いたげだった。
「何だよ」
「別に。……それよりさ、また神谷先生が担任だね。これで私、三年間ずっと先生のクラスだよ」
「そう言えばそうだな」
「そう言えばって何よ。こんな偶然なかなかないのよ」
「そうでもないだろ。他にもあと二人ぐらいいたぞ」
「それはそうだけど……。とにかく、また今年度もよろしくね。じゃね」
春香は小さく手を振ると、元気良く制服のスカートの裾を翻らせて透に背を向け小走りに去っていった。風に揺れる春香の長い髪が透の脳裏に千春の姿を思い起こさせる。
透は風にそよぐ桜の樹を見つめながら千春の名前を呼んだ。
千春。あの春に、君は逝ってしまって、そしてもう二年が過ぎた。僕は来年の今日もきっとこの場所に立って君の事を想って桜の枝を手折るだろう。
なぁ、千春。過去には戻れないってことは分かってる。分かってるんだけど、今でもよく思うんだ。俺たちにはこんな結末しかありえなかったのかなって。