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 タクシーを降りると、入口前の階段に腰かけていた人影が立ち上がった。こちらに向かってゆっくりと近づいてくる。

「いつまでも冷えるな」

 軽く右手を挙げたのは和馬だった。春美からの連絡を受けて先回りしていたのだろう。

 透は心の中で身構えた。和馬は何を知っていて何を告げるためにここで待っていたのか。透を喜ばせるつもりでないことは分かる。おそらくはこの病院で起こっている透にとって最悪と言える事態について透に前もって心の準備をさせようという兄なりの配慮なのだろう。大きなお世話だと透は思った。透は立ち止まったまま睨みつけるように和馬を見据えた。千春の病気は俺の問題だ、という思いが透の胸を満たしていた。事ここに至って千春についての情報を第三者の和馬の口から聞かされることは極めて不愉快だった。たとえどんなにつらいことでも千春のことならば全て自分の目で見届けたいと透は思っていた。

「この髪だと首筋がスースー寒いんだ」

 自分の短く刈り揃えた頭を撫でながら透の三歩前のところで立ち止まる和馬。その表情は暗がりの駐車場では良く見えない。「五階の五〇一だ」

 透は小さく頷くと何も言わず和馬の横を通り抜けて夜間入口に向かった。

 背後で車が急停車しドアが開く音がした。

「透君!」

 春美の声が静かな病院の敷地にこだまする。

 振り返ると春美がこちらに向かって駆けてくる。コツコツとアスファルトを叩きつけるのは先ほど電話で聞いたものと同じだった。

「透君、千春ちゃんを責めないで。ねぇ透君、聞いて」

「いいんだ、春美!」

 透のもとへ駆け寄ろうとする春美を和馬が押し留める。「俺たちが口を出すようなことじゃない。透と千春ちゃんの問題なんだ」

「でも……」

「いいんだ。透だって分かってるよ」

 俺が千春を責めるはずがない。こちらを見上げる春美に向かって透はゆっくりと頷き建物の中に足を踏み入れた。

 すぐ右に受付があり紺のカーディガンを羽織った看護婦が一枚の紙とボールペンを差し出した。用紙に氏名などの必要事項を記入すると、ここでも五○一号室と告げられた。

 外来受付の時間が終わっているからか最低限に灯りの数を減らされた薄暗い廊下を歩いていくと、やがてエレベーターホールに出た。ボタンを押すとすぐに扉が開き、箱の中から眩い光が溢れてきて透を包み込むように明るく照らした。節電したくてもエレベーターボックス内は灯りを抑えることはできないのだろう。光り輝くUFOの機内から宇宙人が現れる、というSF漫画でよくあるようなシーンを透は頭に思い描いた。扉の向こうに本当に人影を見たように思い目を凝らすと、それはエレベーターの壁に備え付けられた鏡に自分の姿が映っているのだった。扉が閉まりかけ、明るさに慣れない目を瞬きながら透は慌てて乗り込んだ。

 この箱は俺をどこに連れて行くのだろうか。先にあるのは悪夢の世界か、それとも三ヶ月間の長い夢から現実に連れ戻されるのか。

 ボタンに手を伸ばし、伸ばした指が震えていることに気付く。透は自分を落ち着けるように顔の前で手を開く、握る、開く、握ると動かしながら大きく息をつく。覚悟を決めるとともに五階のボタンを押した。扉が閉まりエレベーターが動き出すと透は背後を振り返った。鏡に映った自分の顔は少し青ざめ強張ってはいたが、緊張感に引き締まって見えた。数ヶ月前は同じ顔色でももっと腑抜けた覇気のない相貌だったことを思うと、自分でも回復振りがよく分かる。透はごしごしと掌で顔を擦り、指の間から階数表示を見つめた。

 あっという間に五階まで上昇したエレベーターは同情の欠片もなく無造作に扉を開いた。

 軽く頬を叩いて気合を入れると、透は薄暗い廊下に足を踏み出した。

 正面の壁に病室の案内が載っている。五〇一号室は廊下の突き当たりだった。そちらの方へ視線を送る。

 廊下に出ている人は誰も居なかった。手前の三部屋はドアの窓から灯りが漏れているのに一番奥の部屋だけは暗かった。

 腕時計に目をやると七時を過ぎたところだった。夕食の時間はもう終わったのだろうか。どこの部屋からかテレビの音が微かに漏れていた。

 透は廊下の突き当たりに向かって歩を進めた。五〇一号室に近づけば近づくほど心臓が激しく脈を打った。千春はどのように俺を迎えてくれるのだろうか。「実は全てお芝居だったのよ」と深刻そうな俺の顔を指差して大きな声で笑い飛ばしてはくれないだろうか。和馬や春美とも一緒に肩を組み互いに罵りあいながら透の部屋に戻れればこんなに幸せなことはないのだが。

 手前の五〇二号室から高校生と言えなくもないぐらいの若い看護婦が出てきた。すれ違いざまに奥の部屋に向かう透に目を合わすどころか顔を背けたように見えた。

 彼女は五〇一号室で起こっている悲劇を知っていて透と顔を合わすことができなかったのではないか。透の胸はさらに不安に締め付けられた。

 五〇一号室の前に立ち止まる。病室内には小さな灯りが点いていることがすりガラスの入った小窓で分かった。「河本千春様」と書かれたたプレートを扉の横に見つけて、透は思わずその場に崩れそうになった。一気にこみ上げてくる涙で視界が霞む。声を上げてしまいそうになる口を右手で強く押さえつけた。不意に「私、お兄ちゃんがいないとダメみたい」と力なく笑った千春の顔が思い出された。あのとき既に千春は自分が長く生きられないことを知っていたのだろう。それでも四月八日までは何が何でも生き続けると約束してくれたのだ。この部屋で間もなく千春は短い生を終えるのだろう。

 ごめんな、大事な時にそばにいてやれなくて。

 透は廊下の天井を見上げた。涙が乾くまでには数分かかった。しかしその時間で漸く透は扉を開ける勇気ができた。

 小さくノックをし、ドアの取っ手を握ってゆっくりと開く。部屋の中は夕焼けのような橙色の灯りにぼんやりと浮かび上がっていた。正面にベージュのような淡い色のカーテンを引いた窓が見える。ベッドの一部分も確認できた。そこに千春が横たわっているのかと思うと再び目に涙が浮かんでくる。

 室内に足を踏み入れると、ベッドの脇に透が来るのを待ち構えていたかのように背広姿の男性と西洋人の女性が緊張した面持ちで立っていた。女性の方は今し方まで泣いていたのか、赤い目をしていて口元にハンカチを添えている。

「神谷透さんですか?」

 白髪混じりの恰幅の良いその男性は柔和な表情で透を迎えたが、その顔には疲労が色濃く滲んでいるように見えた。

「はい。神谷です」

 透が答えると二人は顔を見合わせて頷き合った。女性の方が「あの子の絵にそっくり」と言ったように聞こえた。

「千春の両親です」

 二人は深々と透に向かって頭を下げた。

 驚きはなかった。二人の姿を見たときに透はそうだと直感していた。特に母親の方は顔立ちが千春によく似ていた。

「こちらへどうぞ」

 千春の父親がベッドを挟んで反対側に置いてある椅子を透に勧めてくれた。「ずっと眠ったままなんだが」

 透は勧められた椅子に腰を下ろして千春の顔を覗き込んだ。

「可哀想に。やつれたでしょう?」

 母親が口元をハンカチで押さえたまま透に訊ねてきた。流暢な日本語だった。

 頷くしかなかった。千春は鼻から顎にかけて酸素マスクに覆われていた。そのマスクの下の顔はやつれ、頬の肉が大分落ちてしまっている。それは千春の病状の深刻さを物語っているようだった。しかし、眠っている顔に苦痛の色は無く穏やかそのものだった。

 枕もとに見覚えのあるスケッチブックが立てかけられていた。何枚もの透の絵がそこには収められているはずだ。

 透は居住まいを正して千春の両親と向き合った。

「ご存知かもしれませんが、先月末まで僕は千春さんと……」

「聞いてますよ。あなたとのことはそのスケッチブックを開きながら千春が嬉しそうに教えてくれました」

 初めて千春の母親が微笑んでくれた。「人生で一番幸せな三ヶ月間だったって」

「僕にとっても、人生で最も幸せな三ヶ月間でした」

「それを聞いたら千春はさぞかし喜ぶことだろう」

 父親は愛しそうに千春の寝顔を眺めた。

「いつから眠っているんですか?」

「ちょうど丸二日になるかな」

 彼は千春の髪を優しく撫でた。「冷たく聞こえるかもしれないが、娘は明日までもたないだろう。もう目を開くこともないかもしれない」

「そんな……」

 後頭部を鈍器で殴られたような衝撃があった。咄嗟に透は千春の母親の顔を確認した。否定してほしいという淡すぎる期待は、彼女が透に目を合わせることなく顔を俯けてしまったことであえなく破れた。

「君を悲しませたくて言っているのではないんだ。しかし、癌細胞はすでに千春の全身に転移してしまっている。一週間ほど前にこの病院に入院したときには、すでにいつ亡くなってもおかしくない状態だと医者からは言われていた。今朝になっても息をしている千春を見て医者たちは千春の生命力に感嘆してるぐらいなんだよ」

 彼はまるで娘が何かの表彰を受けたかのように誇らしげに語った。

 透は千春との約束を思い出していた。始業式が終わったら迎えに来る。千春は夢の中でも透が姿を現すのを待っているのかもしれない。

 透は両膝に力の限り掌を押し付け千春の両親に頭を下げた。下を向いた途端それまで何とか堪えていた涙がこぼれて落ちた。熱く湿った吐息が手の甲にかかる。

「……申し訳ありません。本当に申し訳ありません」

「どうして謝るんですか?どうか顔をお上げになって」

 母親の言い方は子供をあやすようだった。優しい人だ。

「僕と一緒に暮らしている間にも千春さんの身体は癌細胞に少しずつ蝕まれていたことになります。僕が千春さんの身体の異常に気付いて、もっと早くに入院させていればこんなことにはならなかった」

「それは違う」

 千春の父親はゆっくりと首を横に振った。「君が千春と出会ったとき、すでに千春の身体は手の施しようがないぐらいに癌細胞に蝕まれてしまっていた。医者もなす術を失っていて、私たちに千春の余命は長くて一ヶ月と宣告したくらいだった」

「一ヶ月……」

 すでに一ヶ月は三回クリアしている。医者が驚くのも無理はない。しかし、余命一ヶ月の患者を病院側はどうして退院させるようなことをしたのだろうか。千春の両親もなぜ見す見す娘の死に顔さえ見ることができなくなるかもしれない状況を許したのだろうか。

「一つ伺ってもよろしいですか?」

「何かな?」

「千春さんにはお兄さんがいらっしゃいますか?」

 千春は両親を事故で失ったと言っていたが、実際には二人ともここに生きている。となると兄の話も疑わしい。今現在も元気に生きているかもしれないし、逆にそもそも最初から兄なんていなかったのかもしれない、と透は思ったのだ。しかし、透は千春の兄のことを口にした瞬間に、そのことを後悔していた。

 千春の両親は表情こそ変えなかったが、二人の間の空気が冷たく張り詰めていくのを透は感じた。千春に兄はいたのだ。しかも今はもういない。

「どうしてそんなことを?」

 千春の父親の口調は柔らかい。しかし、その瞳には物悲しい光が宿って見えた。

「いえ、あの……」

 透は口ごもった。しかし今さら後には退けない。「千春さんが僕のことを『お兄ちゃん』って呼ぶんです。僕が千春さんの本当のお兄さんに似ているからと言って。僕って千春さんのお兄さんに似てますか?」

「千春に兄はいる。いや、いたと言うべきだね。もう亡くなって十五年になる。亡くなったときは十二歳だったから今の君と似ているかと訊かれても……。しかし、千春は君に兄の面影を見たのかもしれないな」

 千春の父親が小さくため息を漏らす隣で、母親の方が一語一語紡ぎ出すように語り出した。

「千春の兄も癌でした。十二歳のときに殺風景な無菌の集中治療室で全身にチューブをつながれ化学実験の材料のように扱われて死んでいったのです。肉親の私たちでさえも普段はガラス越しでしか顔を見ることができませんでした。手を洗い、白衣を着、マスクをし、帽子をかぶり、全身を滅菌処理してからでなければ息子の手を握り直接声を掛けることもかなわなかったのです。ビニールの管に巻かれ青白い顔で生気なく横たわっていたあの子は正直言って腹を痛めた我が子でありながら既に自分の息子ではない感じがしました。死は免れないとするならば、もう少し人間らしい死に方を与えてあげたかった。そして死ぬ前にもう一度この手で抱き締めてあげたかった。あの子もきっと無念だったと思います。今思えばあの子はあの寒々しい集中治療室に入れられたときに人間としての生を終えていたのです。……私たちは千春にまでそんな死に方はさせたくありません。何とかこの子にはこの世に生まれてきたことの喜びを感じてほしかった。人間でなければ味わえない幸せを一度だけでも噛締めてほしかった。ですから私たちは余命一ヶ月と知った千春が『このまま動けなくなって死ぬのは嫌。歩けるうちに病院を出てやりたいことがある』と泣いて叫んだとき、反対することなく送り出したのです。病に身体を侵されていることを知りながら医療行為から娘を遠ざけた私たちの行動は非難されるべきことなのかもしれません。けれど私たちも千春も何一つ後悔しておりません。あの子が病院に帰ってきたときのあの晴れ晴れとした笑顔。千春は間違いなく人間として人生を謳歌したのです。千春が出て行ってから、私たちは来る日も来る日も『今日も千春が帰ってきませんように』と祈っていました。悲しいことですが、千春が帰ってくるということは千春が死ぬということですから。余命と宣告された一ヶ月が過ぎ、二ヶ月が過ぎても姿を見せないことに、私たちは涙を流して喜んでいたのです」

 再びハンカチで目頭を押さえる母親の背中に、父親が優しく手を添えながら透を見る。

「初めて自分が癌に侵されていると知ったとき、千春は私たちに『こんなに苦しむぐらいなら生まれてこなければ良かった』と当り散らして手がつけられないことがあった。しかし君のもとから帰ってきたとき千春は『お父さんとお母さんの子に生まれて良かったよ』とにっこりと笑ってくれた。千春のあんな笑顔はここ何年と見ていなかった。私も妻も君には本当に感謝している。たった三ヶ月の間だったが、娘に幸せを与えてくれて本当にありがとう」

 二人は透に向かって深々と頭を下げた。

「とんでもない。礼を言わなければならないのは僕の方です。千春さんに出会わなければ僕はじめじめした暗い部屋のなかで未来に希望を見出せず、諦めの中で味気ない人生を終わらせてしまうところでした。千春さんが僕に勇気をくれたんです。千春さんのおかげで今日僕は人生の再スタートを切ることができました。一年半のブランクを乗り越えて今日教壇に立てたんです」

 千春の両親は我が子の成長を見るような眼差しで透を見つめた。

「千春があなたのことを『お兄ちゃん』と呼んでいたことは、お父さんがいないときにこっそりと千春から聞いていました。あの子は本当はあなたを『透さん』とお名前で呼びたいんだけど、そう呼ぶのはどうにも照れてしまって顔を見られなくなってしまうからできなかったって。あの子は何度もそう呼んでみようと試みたようです。だけどやっぱりあなたと面と向かうと恥かしくてできなかったみたい。それだけが心残りだ、と言っていました」

「そうだったんですか。全く知りませんでした」

「どうか手を握ってやってください。あなたが呼びかけてくだされば、千春はもう一度目を覚ますかもしれません」

 彼女の目は真剣だった。もう一度愛娘と目と目を合わせて見つめ合いたい。その切なる願いが痛いほど伝わってくるようだった。

「千春」

 透は布団の中に手を伸ばした。透の指先が触れたのは硬い骨の感触だった。針金のように細い指。皿のように薄い掌。痩せて骨ばった千春の左手から伝わってくるのは死が避けられないものであるという厳然たる事実だった。堪えていた感情が堰を切った。二つ三つと千春の布団に涙の染みが広がっていく。透は俯き、嗚咽を押し殺すように奥歯を噛締め、強く目を閉じた。千春のためなら何でもできる。自分の命を削ってでも千春を救いたい。透は千春の手を包み込むように両手に挟み込んだ。叶わない願いだとは分かっている。それでも奇跡を祈らずにはいられなかった。

「千春。約束通り迎えに来たよ。千春。千春」

 透が涙声で呼びかけたとき握り締めていた手がぴくりと動いた。枯葉が風に揺れた程度の心許ない感触でしかなかったが、それは幻ではなかった。ハッと透は目を見開いた。「今、今……」

 驚き急き込んで言葉が出てこない。

 しかしそれだけで千春の両親は全てを理解したようだった。千春。千春。両親が代わる代わる愛娘に向かって呼びかける。

「千春!千春!」

 透がさらに強く呼びかけると千春は微かに顎を動かし、やがてうっすらと目を開けた。

「千春!分かるか?俺だ、千春」

 焦点の合っていない眼差しが少しずつ透に向けられる。透は息を飲んで千春の瞳が自分を捉えるのを待った。

「……お、お兄ちゃん」

「千春」

「……私、やつれちゃって、ひどい顔してるでしょ?……こんな顔見せたくなかった」

 途切れ途切れに千春は言葉を紡いだ。遠くの道路を車が走る音にさえ千春の弱々しい声は掻き消されてしまいそうで透は息を殺して千春の微かな口の動きに注視した。

「何言ってるんだ。千春はいつだって綺麗だよ」

「……ありがと」

 千春は力なくゆっくりと頬を緩めた。「私……あの日本当は、一晩のつもりだったの。……夜明けがきたら……お兄ちゃんが起きる前に帰ろうと思ってた。それで十分自分の人生に満足できると思ってた。でも、……お兄ちゃんの隣は静かで温かくて居心地が良くて……。もう少しだけ。あと少しだけって。……ごめんね。……私のわがままでお兄ちゃんの、……透さんの人生に迷惑かけちゃって」

 そこまで言うと千春は苦しそうに咳をした。枯れ木を折るような乾いた空咳があまりに頼りない。千春の輪郭がぼやけたような気がする。目の前で今にも気化してしまいそうな千春にすがりつくように透は彼女の手を握る力をさらに強くした。

「そんなことない。今日千春がくれたこのスーツで俺は教壇に立ったんだ。千春のおかげで俺は生き返れたんだよ」

 千春の色を失った唇が微かに弱々しく動く。何と言おうとしているのか。もはや声は全く聞き取れない。

「千春!」

 千春が死んでしまう。しかし、もうその現実をどうすることもできない。透には声を限りに千春の名前を呼ぶことしかできなかった。

 透のスーツ姿を愛しそうにじっと見つめる千春の両目が次第に潤みを増していった。もう声は出ず唇を動かすことさえもままならない状態となって、千春は乾いた身体を絞るようにしてその瞳に涙を湛え必死に喜びの気持ちを伝えようとしてくれたのだ。しかし涙は頬にこぼれることはなかった。千春の命が今枯れ果てようとしている。

「千春。分かる?お母さんよ」

 千春の母親が千春の右手を握り呼びかける。千春は母親の方に顔を向け、にこりと微笑んだ。ゆっくり頷いたかと思うと、すぐに千春の手が母親の手からコトリと滑り落ちた。

 誰もがそのときが来たことを悟った。安らかな眠りが訪れた瞬間だった。


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