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 千春からのプレゼントのスーツを着て透は四月八日を駆け抜けた。予想通り息をつく間もなく、周りを見る余裕もなかったが、なんとか無難にこなし切った感触だった。教室に生徒を集めての担任としての自己紹介も多少声は震えたがスムーズにできたし、一人ひとり名前を呼び上げたときには腹の底に力が入って、自分でも満足のいく出来だった。配布物や提出物の確認などの事務的な処理も手落ちなく済ませ、一日の行事を終え下校の途につく生徒を見送った後に、透は誰にも見られていないことを確認してから教室の隅で小さくガッツポーズをした。

 職員室の自分の席に戻ると、何度も時計に目をやりながら残務をこなした。今日の出来と明日への自信を早く千春に報告したいという気持ちが募れば募るほど時計の秒針は遅々として進まなかった。

 漸く終業時間となり喜び勇んで席を立とうとすると、背後から肩を叩かれた。

「一杯どう?」

 振り返ると景山教頭が酒を飲む仕草をしていた。景山教頭なりに気遣ってくれているのだと思うと嬉しくもあり、その誘いを断るのは心苦しかったが、今日だけはどうしても寄り道はできなかった。

「妹が待ってますので」

 他の同僚には聞こえないように声を潜める。景山教頭は目を見開き、ポンと一つ手を叩いて納得の意を示した。彼は透に妹がいないことを知っている。

「そうだった、そうだった。兄妹水入らずか」

 笑いをかみ殺すような顔で「野暮なことを言ってすまん」と去っていった。

 景山教頭の背中に「すみません」と詫びると、透はこそこそと職員室のドアに向かった。新人教師はこれから歓迎会と称して飲みに連れて行かれるだろう。若い透も声を掛けられかねない。中には強引な同僚もいる。そんな奴らに囲まれでもしたら退くに退けなくなってしまう。透は足音を忍ばせるようにして外へ出た。

 空気が冷たく澄んでいた。北斗七星が雲のない北の夜空にくっきりと浮かんでいる。いつの間にか満開を過ぎた校庭の桜の花びらが次々に風に飛ばされ、濃い緑色の葉が目立ち始めている。今年はゆっくりと桜を眺めるような余裕はなかった。しかし、去年は部屋から出られず風に舞う花吹雪を見ることさえなかったことを思えば、我ながら頑張ったものだ、と葉桜に向かって微笑んだ。

 携帯電話を取り出し春美に掛ける。花冷えの寒さのなか透はスーツの襟を少し立てて春美が出るのを待った。

「透君?」

 気のせいだろうか。春美が泣いているように思えた。声が震え鼻が詰まっているように聞こえたのだ。

「終わったよ。何とか無難に終わった。千春はそこにいるんでしょ?悪いけど代わってよ」

「透君」

 その声は間違いなく涙に染められていた。「千春ちゃんはここには居ないの」

 予想もしない返答に、達成感に昂揚していた気持ちが急速に萎んでいく。春美の言葉が上手に飲み込めない。冗談を言っているのではないことはその口調からしっかりと伝わってくるだけに、透はうろたえた。

「居ない?居ないってどういうこと?。マンションに戻ってるの?」

 千春に会わなければ今日という日を終えられない。今日一日何を張り合いにして頑張ってきたのか。全ては千春の笑顔を見るためなのだ。透は噛み付くように春美を問い詰めた。

「……マンションにも戻ってないの」

「じゃあ、千春はどこに居るんだよっ!春美さんっ!」

 渦巻くような混乱によって透の胸の裡に生み出された怒りの奔流は、春美という唯一のはけ口に向かって殺到した。透は我を忘れて怒鳴っていた。わなわなと全身が震え出す。春美の返事を一言も聞き漏らすまいと痛いほど耳に電話を押し当てる。

「ごめんね。透君、ごめん。本当にごめん」

 春美の声はますます潤み、やがて嗚咽しか聞こえなくなった。

 何の説明もなく繰り返し謝るだけの春美の態度に透の苛立ちは強まる一方だった。泣いている意味が分からない。迎えに行くという千春との約束はどうやって果たせば良いのか。透は怒りに任せて桜の樹を足の裏で突くように蹴った。目の前に聳える幹は太くごつごつと堅い。二度三度と繰り返してもびくともしない桜の力強さが足から伝わってくる。舞う花びらがなだめるように頬をやさしく掠め、徐々に透に落ち着きを取り戻させた。透は掌の小さな携帯電話にすがりついた。

「泣いてちゃ分かんないよ。春美さん。千春はどこに居るんだ?」

 春美さん。教えてくれよ、春美さん。精一杯の優しさと冷静さを装って、泣いてばかりで返事をしない春美に透は何度も呼びかけた。千春につながる道は春美が知っているはずだ。黙って何も言わないのは何かを知っている証拠とも言える。

 透は春美に呼びかけながら走り出した。駅の近くまで行ってタクシーをつかまえるつもりだった。電話では限界を感じていた。春美に会って顔を見て話を聞けば何かしら手がかりが掴めるのではないか。何よりも春美の部屋に千春がいないことを自分の目で確認しなければ今何が起きているのかを理解できないと透は思った。

「……病院」

「病院?」

 透は足を止めて耳に神経を集中させた。「千春は入院してるの?」

「……うん」

「風邪をこじらせたってこと?この前俺が無理言って外出させたのがいけなかったのかな?」

「……違う」

「違う?じゃあ、どうして入院してるんだよ」

 春美はまた口を貝のように閉ざしてしまった。言いづらいのか、千春に口止めされているのか。何かを言おうとしながらも言ってしまって良いものかと逡巡している春美の様子が伝わってくる。

 透は春美の様子に注意を払いながら再び駅に向かって歩き出した。

「春美さん。病院ってどこ?名前は?」

 そのとき空車のタクシーが透を追い抜いて行った。透は慌てて「タクシー!タクシー!」と叫びながら追いかける。車道に出て右手を大きく振った。背後に襲い掛かるようにブレーキの音と激しいクラクションが鳴り響く。透は構わずにタクシーを追い続けた。

 漸く運転手が気付いてくれたのかタクシーはハザードランプを点滅させながらスピードを緩め路肩に停まった。歩道に向かってドアが開く。

 透は後ろの車に向かって手を挙げ頭を下げて詫びを入れると、すぐにタクシーに飛び乗った。

 バックミラーに五十がらみの運転手の目が映った。その目が行き先はどこかと訊ねている。

「春美さん!どこの病院だ?」

 それでも春美は何も言わない。しかし透も必死だった。「黙ってちゃ分からないよ、春美さん!教えてくれよ、春美さん!」

 車道に出て手を振って追いかけてきたと思えば乗車しても行き先を言わず電話に向かって怒鳴り散らす。透を見る運転手の視線が胡乱な客を訝るようなものに変わりつつある。

 根負けしたように春美がぼそっと病院名を漏らした。透はそれを悪い夢のように聞いた。放心したようにタクシーの座席に身を委ね、電話の重さに耐え切れず耳から離して腕を下ろす。追い抜いていく車のテールランプが透の目に赤い残像を残していく。

「国立がんセンター」

 透の呟きでタクシーはゆっくりと滑り出した。

 国立がんセンターは隣の市にある癌治療専門の病院で最先端の癌治療研究が行われている国立機関だった。そこに入院しているということは当然ながら千春の身体が癌に侵されていることを意味している。千春の体内に息を殺して潜んでいた癌が時を得て再び活動し始めたということだ。

 透は渾身の力を振り絞って再び電話を耳にまで持ち上げた。電話はまだつながったままだった。

「春美さん」

「うん?」

 電話の向こうはバタバタと騒々しかった。ドアが開きすぐに閉まる音がする。やがてコツコツと靴音のようなものが聞こえてきた。

「千春はいつから入院してるんだ?」

「……火事騒ぎがあった日の次の日から」

 透は静かに携帯電話を切った。

 先ほどから運転手が時折透の様子をバックミラーで確認してくる。その目には先ほどまでの異邦人を見るような冷たさはなかったが、同情に染まった哀れむような色が浮かんでいて、それが透には顔の周りをうろつく蛾のような鬱陶しさだった。

透は運転手の視界から消えるように窓に凭れかかった。窓ガラスに額を当てるとひんやりと冷たくて、火照った顔に気持ち良かった。

 道路脇に等間隔に並ぶ街灯が近づいては遠ざかっていく。同じリズムで現れる一つひとつの光に千春の姿が繰り返し浮かんでは消えていった。

 突然何の前触れもなく元日の朝、目の前に現れた千春。透の傍らを離れず、いつもスケッチブックの上に色鉛筆を走らせている千春。出来上がった絵を透の前に広げて見せ、無邪気に笑う千春。

 千春と過ごしたこの三ヶ月は間違いなく透の人生の中で最も華やいだ時間だった。生まれて初めて心から笑った気がしていた。

 おみくじの「病」の欄を気にする千春。右胸の手術の痕をさらけ出して迫ってきた千春。風邪をうつすのは嫌だから、と大きなマスクで顔を覆う千春。

 千春は睡眠薬を透に隠れて飲んでいた。それはきっと癌が身体を蝕んでいることを何らかの形で知り、不安で仕方なかったからに違いない。自分は苦しみから解放してもらったのに、その身代わりのように千春が苦悩を深めていたことに気付けなかったことが透は情けなく腹立たしかった。

 千春は透のわがままに応えてアドゥマンまで来てくれた。あの時は既に入院していて、病院から抜け出してきたことになる。そして透に「必ず八日に迎えに来て」と約束した。千春は何故あんなことを言ったのだろう。新学期の開始を控えて切羽詰っている透に心配をかけさせないためだろうか。それとも八日に会うことを目標に病魔と闘うためだろうか。

 千春。千春。

 透はいつの間にか自分の頬が涙に濡れていることに気付いた。次から次へと溢れ出る涙を止めることができない。千春は今頃病院のベッドで透が姿を見せるのを待っているだろう。一刻も早くこのスーツ姿を千春に見せたい。透がそう思ってフロントガラスに目を向けたとき、タクシーは病院の門を潜り夜間入口に向かってスピードを緩めつつあった。


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