21
昼休みのチャイムが鳴ると同時に透は携帯電話を持って職員室から走り出た。苛立つように画面に春美の番号を呼び出して通話ボタンを押す。電話を耳に当てながらどこへ行くという当てもなく足の向くままに歩を進める。
二回。三回。四回。呼び出し音が透の耳に空しくこだまする。春美は出ない。五回。六回。七回。電話を掛けたときに呼び出し音の回数を数えることなどこれまでなかった。八回、九。
「もしもし?」
漸くつながった春美の声はこちらの気配、息遣いを探るような慎重さを帯びていた。春美は鳴っている携帯電話を前にして、心の準備ができるまで出るのを躊躇っていた。そう思わせる重苦しい雰囲気が電話の向こうから伝わってくる。千春に何かがあったのだ。目の前が一瞬真っ暗になる。
あれはいつのことだったろう。ボツボツとした手触りの不吉な紫色の実が胸の奥に垂れ下がり始めたのは。表面のざらついた無数の突起はやがて硬く鋭い棘と変質し、そのために触れることもままならず、少しずつ少しずつ確実に膨らみ続けていく禍々しい光景を今日まで見て見ぬ振りしてきたのだ。その不安という名の果実は、やがて甘酸っぱいにおいとともに皮がたるみ爛熟して今まさに現実のものとして透の眼前に落下した。落ちた衝撃で中から赤黒い血のような果汁が勢い良く弾け、透の目に飛び込んできて、たちまち視界を遮ってしまった。
「もしもし?もしもし、透君?」
「あ、ああ」
「何よ、電話してきたくせに一言も喋らないなんて」
「ごめんごめん。ちょっと考え事してたから」
「何それ。おかしな人ね」
おかしい、と言いながら春美はくすりとも笑わない。
「千春は?」
「熱は下がってきたわ。でもまだ微熱が残ってるのよ」
「会いたいんだ。今から行ってもいいか?」
春美が息を飲んだのが分かる。次の瞬間、何かを割り切って決心したようにやけにはっきりと春美は言った。
「千春ちゃんは、始業式が終わるまでは透君とは会わないって言ってる」
春美の口調は取り付く島なくこちらを突き放すような感じだった。
「どうして?何でだよ」
千春がどんどん遠ざかっていく。どうしようもない速さで手の届かないところへ行ってしまう。
「嫌なんだって」
「嫌?」
「透君、もうすぐ新学期が始まるんでしょ?今が正念場じゃない。千春ちゃんは大事な時期に透君に風邪をうつしたら困るからって。今会って万が一にも透君が寝込むようなことになったら一生後悔するからって」
「だから、千春は俺と会うのが嫌だって言ってるのか?」
「嫌っていうわけじゃないけど」
「さっきそう言ったじゃないかっ!」
思わず頭に血が上り声が震える。
「そうじゃないの。そうじゃないのよ」
春美が電話の向こうから手を伸ばして透の背中をさするような声を出す。
興奮した牛を鎮めるような春美の物言いが余計に透の神経を逆なでする。
「千春に代わってくれ」
「透君」
「千春はそこにいるんだろ?電話で喋ったって風邪はうつらない!代わってくれよ」
「透君。分かってあげて。千春ちゃんも我慢してるのよ。千春ちゃんだって会いたいに決まってるじゃない!」
いくら春美が理屈を並べたところで納得できない。透の苛立ちは募る一方だった。
「どうしても会いたいんだ」
搾り出すように透は哀願した。今、会わなければもう二度と千春に会えないような恐怖心に透は追い詰められていた。
「分かったわ。千春ちゃんに訊いてみる。電話は一旦切るわね。また連絡するから」
一方的に電話は切られ、千春の返事は十分後にメールで送られてきた。
私も会いたい。明日、PM三時にアドゥマンで。
従うしかなかった。
千春に会うには全てを信じるしかない。透は千春と会えることだけをエネルギーに、その日は前日の分を取り返すべく日付が変わるまで仕事に没頭した。新学期を迎えるプレッシャーもそのための準備をしている間は軽減された。仕事をしている間は悪いことを考える暇もなく、透にとっては仕事から解放されることの方が恐ろしかった。
しかし、翌日は朝から全く仕事にならなかった。学校からアドゥマンまでは一時間弱の道のりだ。二時になったら、忘れ物を取りに帰るという理由で学校を出る。電車とバスを乗り継いで三時になれば千春の顔を見られる。あと数時間で千春に会えるのかと思うと嬉しいような苦しいような不思議な気分で、何をしても集中できなかった。千春に会うことに緊張している自分がいる。何かに心を乱されて落ち着かないのだが、その何かの正体がどうにも見極められない。
正午直前からとうとう何も手に付かなくなり、最後の手段として透は消しゴムを三個持って新学期から自分が受け持つ教室に入った。整然と並ぶ机を前に怯むような気持ちになる。本番ではここに生徒たちが座り、一様にこちらを見てくる。それを正面から受け止めることから透の新学期は始まる。
透は一つずつ机に向かって座り、落書きを消して回った。一心不乱に消しゴムを使った。誰かの似顔絵。プロ野球選手の名前。女性の性器。スペースシャトル。透は全て消し去った。消しゴムが熱を持ち皹が入りやがて折れるまで。折れてもカスと大きさが変わらなくなるまで消しゴムで机の表面を飽きることなく擦った。昼ご飯を食べることも忘れて、ただただ落書きと戦った。やがて指の感覚がなくなり手首や肩の疲労が限界になる頃、全ての落書きを消し終わり、時刻は二時になった。
透が「忘れ物を取りに」と言っても誰も訝しむような顔をしなかった。誰もが新学期の準備に追われて他人のことに目を向ける余裕がないのだ。透は堂々と職員室を後にした。
電車もバスも透の足も予定通りに透を運んだ。
暖かな春の日差しにどこからともなく桜の花びらが舞い飛ぶ。いつの間にか桜が開花していたようだ。歩いているとアスファルトの照り返しもあって、額に汗が浮かんでくるほどだった。この陽気なら少しぐらい外出しても千春の体調に悪い影響はないだろう。透はスーツのズボンからハンカチを取り出し、顔を拭った。手もじっとりと汗ばんでいる。息苦しさを感じネクタイを少し緩めてワイシャツの一番上のボタンを外した。
やがて右手に自分のマンションの一部分が姿を現し、左手にアドゥマンの茶色い建物が見えてきた。透は立ち止まって空を仰いだ。ここまで来て何故かここから逃げ出したいような気持ちになっている。会って千春と何を話せば良いのか。今さらそんなことに思い至って頭が真っ白になった。俺は千春に何を告げたいのか。千春に何を言ってもらいたいのか。
透はもう一度顔を拭い、喫茶店に向かって歩を進めた。
ただ、千春の顔を見られれば良い。あの初夏の太陽のように降り注ぐ眩しく優しいあの笑顔をもう一度目に焼き付けたい。
アドゥマンの重い扉を開くといつもの席に赤いダッフルコートと淡い黄色の毛糸の帽子を見つけた。ひまわりの花のような存在感のあるその帽子は間違いなく千春だった。いかにも千春らしいその色に透はほっと頬を緩めた。まだ千春は俺のそばにいる。約束どおり来てくれたことが千春の愛の証だ。
「いらっしゃい」
マスターは相変わらずの仏頂面でティーカップを磨いている。白髪の男性は今日もカウンターに座っていた。振り返っていつも通りの笑顔でこちらに会釈をくれる。彼はいつもあそこに座って何をしているのだろうか。マスターとの会話を楽しむわけでもない。ただひたすら厨房の壁を見つめて時間を過ごしている。マスターとはどういう関係なのだろうか。いろいろな疑問を頭に浮かべながら透は会釈を返し千春の席に向かった。
千春の横に立つとシナモンの香りが漂っていた。そう言えば、と透は前回アドゥマンに来たときのことを思い出した。あのとき千春はシナモンティーを注文したのだが、火事騒ぎで一口も味わうことができなかった。
「美味いか?」
そう言って千春の向かいに腰を下ろし正面を向いたときに透は思わず声を出して驚いた。
「不細工でしょ」
千春の顔は鼻まで隠れる大きなマスクで覆われていた。頭にはひまわりのようなニット帽を被っているので千春の顔で見えているのは青みがかった瞳とその周辺だけだった。その瞳が透を試すような色を帯びている。いたずら好きの子供のように透の反応を楽しんでいるようだ。
「何だよ、それ」
「マスクよ」
「分かってるよ、そんなことは」
愚弄するような千春の物言いに透の口調も強くなってしまう。せっかく顔が見られると思っていたのに、と心の中で嘆息した。
「風邪をうつすといけないから」
怒らないで、と千春は上目遣いになる。
「風邪なんてな……」
身を乗り出そうとしたところにマスターが注文を取りに来る。出鼻を挫かれたような気になったが、ホットコーヒーを注文すると再び千春に向き合った。「風邪なんてひくときはいくら気を付けててもひくし、ひかないときは腹出して寝ててもひかないもんなんだよ」
「ワタシ、ニホンゴ、ワカリーマセン」
「また、それか」
透は舌打ちして自棄気味に背もたれに身体を預けた。
「可能性の問題よ。用心するに越したことはないの。これで万が一にもお兄ちゃんに風邪がうつったら、死ぬまでネチネチ言われそうだもんね」
「言うかよ」
透は苦笑を浮かべて足を組んだ。拗ねたような素振りを見せつつ透は内心ほっとしていた。千春との会話にぎこちなさはない。変に気負うことなく向き合えたのは千春のマスクのおかげなのかもしれない。
「大体それじゃせっかくのシナモンティーが飲めないだろ」
「いいの。お兄ちゃんが来るまでに少し飲んだから」
「じゃあ残りは俺が帰ってから飲むつもりか?」
「そうよ」
二人の間の空気が一瞬にして凍りついた。冗談のつもりで言ったことが冗談にならなかった。千春は透の前でマスクを取るつもりはないと宣言したのだ。冷める前に帰ってくれと暗に突き放されたようにも取れる。これまで透に対して全てをさらけ出し、透の腕の中に全身で飛び込んできていた千春が今はたった一秒でさえ素顔を見せることを拒否する。透は千春との距離が七十センチメートルほどのテーブルの幅だけではないことを思い知らされた気がした。千春の心がどこにあるのか。それを探る手がかりは僅かに覗く目元しかなかった。
マスターがやってきてコーヒーカップを透の前に置いていく。二人の間に柔らかい湯気が立ち上り、張り詰めた雰囲気が一瞬和らいだ。
透は間を取り繕うようにカップに手を伸ばし、熱いコーヒーをゆっくりと啜った。
「荒れちゃってひどい顔してるのよ。お兄ちゃんにだけは見せたくないの」
千春は詫びるようにシナモンティーに目を落とした。
千春の顔で透から見えるのは頬骨の上から眉毛の辺りまでだった。その覗いている部分に改めて目を凝らし、透はハッと胸を押しつぶされたような気持ちになった。目の周辺をうっすらと影が覆っているように見える。明らかに肌に張りがなく眼窩が窪んでいるのだった。お粥のようなものしか口にできていないのだろうか。素人目にもビタミンなどの栄養が不足しているのが分かる。透はマスクに気を取られすぎていて千春の体調を気遣うことを忘れていたことに反省する思いだった。気丈に振舞ってはいるが、やはりかなり体力が衰弱しているに違いない。ここまで来てくれただけでありがたく思わなければいけないのだ。
「熱はまだあるのか?」
「うん。まだ微熱が続いてて」
僅かにだが千春は肩を上下させている。今こうしてただ椅子に座って会話をするだけでも少しずつ体力を奪われているのかもしれない。
透は自分自身の愚かさを呪った。新学期を迎えるプレッシャーに負け、千春のいない空虚な暮らしに自分を見失い、ただ自分の都合だけで千春を病床から呼び出すようなことをしてしまっている。
「すまない。わがまま言って千春に無理をさせちゃったみたいだな」
「いいの。私もお兄ちゃんに会いたかったから」
千春は物憂げで弱々しい視線を手元に落とし小さく首を左右に振った。「ベッドで寝てるとこの三ヶ月のことを思い出すんだ」
千春は窓の外に目をやった。千春の視線は三ヶ月を一緒に過ごしたマンションの方角を向いている。細く長い睫毛に春の柔らかい日差しが降り注ぐ。
「昨日、俺も思い出してた。あっという間だったな」
「楽しかったね」
「ああ。楽しかったな」
窓の外を見つめたまま千春が右の目元に指を添える。左の目尻から一筋の涙がこぼれマスクに滲んでいった。
透は一瞬目の前にいる千春の向こう側が透けて見えたような気がした。生命力に満ち溢れていたはずの千春が、春の綿雲のようにとらえどころのないぼんやりとした存在になってしまっている。千春がどこか遠くへ、手の届かないところへ行ってしまうという予感はさらに確固たるものとなり透の背筋を寒くさせる。
「千春」
「へへへ。私、お兄ちゃんがいないとダメみたい」
千春は照れを隠すように笑いながら、右手の指でゆっくりと両の目尻の涙を払った。
「俺だって同じだよ。俺も千春がそばにいなきゃ前に進めない」
そんなことない、という感じで千春は小さく首を横に振った。
「私、お兄ちゃんのこと本当にすごく好きだよ」
「分かってる」
「ううん」
千春は今度はしっかりと首を横に振った。「お兄ちゃんが思っているよりも、もっともっと私はお兄ちゃんのことが好き」
「千春……」
「……だから、もう行って」
「千春」
「お願い」
「千春!」
透が身を乗り出して千春の肩に手を伸ばすと、千春はそれを拒絶するように身体を強張らせた。透は千春に触れることができなかった。透の手が空しく宙を掻く。
「八日の始業式が終わったら迎えに来て」
千春は必死に取り繕ったような笑顔で透を見つめた。「それまでには絶対に治しておくから」
透は唇を噛締めながら立ち上がった。
その透に千春は慌ててすがりつくような視線を送ってくる。
透はなんとか口角を引き上げ歯を見せて笑顔を送った。
「千春。スーツありがとう。俺はもう大丈夫だ。何があってもあれを着て教壇に立つよ。始業式が終わったら一緒に花見をしよう」
千春は眩しそうに目を細めて透を見上げ大きく頷いた。
「そうだ。千春に教えてやるよ」
「何を?」
「調べたんだ。アドゥマンって言葉の意味。」
「へぇ。どういう意味なの?」
「フランス語で、また明日って意味さ」
透の言葉に千春は本当に嬉しそうににっこりと笑った。その表情はマスクでほとんど隠れてしまっていたが、透にはマスクの下にいつもの千春の笑顔が見えるようだった。透をここまで生き返らせた奇跡の笑顔だった。