20
翌日は全くと言って良いほど仕事に身が入らなかった。千春がそばにいないだけでこんなにも心が乱れるものか、と透は自分にとっての千春の存在の大きさに驚いていた。春美との電話以来、何となくざわざわと胸の奥の奥で蠢いているものも透の気持ちを散漫なものにさせていた。春美の電話の内容は不自然ではなかった。しかし何かが引っかかる。その正体が何なのか、いつまで経っても見極められず、透は半ば自棄気味に仕事を残したままマンションに戻った。
壁に掛けてあるプレゼントのスーツを見つめていると不思議と心が凪いでいくように感じられた。床に座りベッドに凭れて時間の感覚を忘れてしまうほど心を空っぽにしてぼんやりと眺めた。
この三ヶ月を振り返って思い出すのは千春の笑顔ばかりだ。あの笑顔にどれだけ助けられたことか。しかし、千春のあの笑顔の裏には癌と闘い続けた深い苦悩が今も癒しきれずに存在しているはずだ。俺はその苦悩を少しでも和らげてやれているのか。千春にもらった元気を同じように千春に与えられているのか。今も再発の恐怖に囚われているのなら千春をこの手で解放してやりたい。透が思うのは千春のことばかりだった。
ピンポーン。ピーン……ポーン。ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。
チャイムの響きに透は苦笑して玄関に向かった。和馬は他人から命を狙われるという危機に遭遇しても何も変わっていないらしい。変わらない根本的な精神力はさすがの一言だ。
ドアを開けると缶ビールを立ち飲みしている和馬が立っていた。手の甲で濡れた唇を拭うと、コンビニの袋を揺らしながら部屋の中に入ってきた。
「今日は意外と早く帰ってきたんだな」
昨日は十一時にまだ職場にいたことを春美から聞いたのだろうか。「部屋の前でビール飲みながら待ってるつもりだった」と言いながらこたつの前に座る和馬を見て、早めに帰ってきて良かった、と胸を撫で下ろす。
和馬は持っているコンビニの袋からスルメを取り出しうまそうにしゃぶっている。こんな格好で部屋の前で待たれていてはマンションの他の住人に白い目で見られそうだ。
「飯食ったのか?」
以前にもこの部屋で和馬にこう訊ねられたことがある。透は和馬に大晦日の夜に居酒屋に連れて行かれたことを思い出した。何とはなしにスーツを眺めているうちに時間は過ぎて九時になっていた。気が付けば空腹なのは夕飯を何も食べていないから当然だった。
「またあの居酒屋?」
「馬鹿言え。そう何度もただ酒飲ませられるか」
和馬はスルメを銜えながらコンビニの袋から鮭弁当と缶ビールを取り出して透に手渡した。弁当は温かかった。立ち上るご飯のにおいが食欲を増進させる。
「いいの?」
「ああ。どうせろくなもん食ってねぇだろうと思って買ってきてやったんだ。俺は外で食べてきたから気にするな」
コンビニ弁当はろくなものなのか、と憎まれ口を思いついたが、黙って包みのラップをはがす。遠慮せずに食べ始めると和馬は慈しむような目で透を見てくる。そんな兄弟愛を感じさせるような優しい眼差しが気味悪かったが、透は食べ始めると止まらなくなって和馬を無視して箸を動かし続けた。やがて弁当を空にし、缶ビールを咽喉の奥に流し込むと、小さなげっぷとともに人心地ついた満足感が胃の奥から湧き上ってきた。
「お前、変わったな」
「そうかな?」
否定するような表情を作りながらも内心透は自分の変化を認めていた。食べ物を見て耐え切れないほどの食欲に動かされるということ自体がすでに以前の透にはありえないことだった。
「影が見える」
「影?」
「大晦日にここに来たときに見たお前はまるで幽霊みたいだったよ。じめじめと陰気な薄暗い部屋の中で、お前は、いるのかいないのかはっきりとしない向こうが透けて見えるような曖昧な感じで、その辺りにゆらゆら漂ってた。けど、今のお前には実体があるよ。はっきりと一人の人間として、ここにこうして座っている。蛍光灯の光を受けてその反対側にしっかりと影を作ってる」
「まさに、生き返ったんだよ」
ふざけた調子で笑ったが的外れなことでもない。和馬の言うように昨年の自分は生きているとは言えない状態だった、と透は思った。仕事に出ることなく、できる限り世間から遠ざかってこの部屋の中にだけ存在しようとしていた。昼と夜の区別もなく、寝たいときに薬を飲んで横になり、起きたいときに少しずつ目を開く。何も考えることなくスナック菓子を口に運び、それをジュースで胃に流し込みながら、テレビゲームの中の主人公を自分に準え指に任せてコントローラーを操作しているだけだった。
今は違う。三度三度の食事を摂り、就寝と起床の時間もある程度一定となり、雨の日も風の日もどこかに寄り道することなく職場と部屋とを往復している。昼間はカーテンを開いて陽光を取り入れ、夜は蛍光灯の灯りの下で千春と翌日の予定について語ったりもした。まだ手探り状態ではあるが、人として世間という世界に生を取り戻して参加することになった。まさに生き返ったのである。
「千春ちゃんの体調が心配だな」
やはり和馬は今日春美と連絡を取ったようだ。電話で春美と喋ったのなら千春のことを何か聞いているんじゃないか、と透は思った。先ほど春美に電話しても呼び出し音が続くだけで春美が出ることはなく、千春の様子がずっと気掛かりだったのだ。
「ああ、春美さんに世話になってる。春美さんは何か言ってなかった?」
透の問いかけに和馬は意外な返事を寄越した。春美とは電話ではなく直接会ったと言うのだ。
「そうそう。今日になって熱が少し下がったみたいなんだけど、寝汗の量がすごいらしいんだ。何度も着替えなきゃならないのにホテルじゃ不便だからってことで春美に呼び出されて、車で春美の部屋に千春ちゃんを運んだよ」
「じゃあ、今はあの春美さんの部屋で寝てるのか?」
「そういうことだ」
何でそんな大事なことをもっと早くに言わないのか。人の気も知らないで、と思ったが相手が和馬なので怒る気にもなれない。
「千春はどんな具合だった?」
「車で移動している間もぐったりしてたな。でも自分で歩いてたから昨日よりは回復してるんじゃないか?昨日はベッドから起き上がることもつらかったみたいだから」
「ここにも寄ったのか?」
今日帰ってきたときにクローゼットの中にあるはずの千春のリュックがなくなっていたことに気付いていた。スケッチブックも消えていて、部屋の中には千春の痕跡がまるきり見つけられなくなっていたのだ。千春がこの部屋で暮らした三ヶ月の証が忽然と雲散霧消してしまった。考えてみれば、この三ヶ月で千春の荷物は何一つ増えていない。いつかはこの部屋から姿を消さなければならない。そう考えていたからこそ千春は今まで自分のモノを増やさないでいたのではないのだろうか。もう二度と千春はこの部屋で生活をすることはないのかもしれない。縁起でもない予感に透は心に大きな穴が開いた感じがして全身から力が抜けて寝込みたくなってしまう。今千春を感じさせてくれるのはプレゼントのスーツだけだった。これがなかったら千春の存在自体が夢だったのかと疑ってしまいそうだった。だから透は時間を忘れて壁に掛けたスーツを眺めていたのだ。
「ああ。千春ちゃんの身の周りの物が必要だったからな。下の階の大家さんに鍵を開けてもらったよ。実の兄なんですけどって言ったら簡単に開けてくれたぞ。嘘じゃないからいいようなもんだけど、あんなに簡単だとちょっと心配だな」
「春美さんの方は元気なの?」
「ああ。千春ちゃんの看病で気が紛れるんだろうな。一昨日ここで会ったときは病人みたいな顔してたけど、今日はちょっと気の強いいつもの春美だった」
和馬の灰汁の抜けたような無邪気に嬉しそうな顔は弟の目から見ても新鮮で微笑ましい。和馬と春美はやがて幸せな家庭を築くことになるだろう。そのためには越えなければならない大きな山が幾つかあるのだろうが、それを登り切るのは時間の問題に思える。そしてそこから見える二人の景色はまた格別のものに違いない。
「迷惑掛けたな」
透は和馬が千春を春美の部屋に運んでくれたことに礼を言った。言いながら、前回和馬に礼を言ったのはいつだったろうか、と頭の中で振り返ってみた。どうやらそれは思い出せないほど昔のことのようだ。
「礼を言うのはこっちの方だ。おかげで春美の部屋の場所が分かったからよ。旦那は冷たい塀の向こうだから気兼ねなく忍び込ませてもらうとするさ」
二人は顔を見合わせて笑った。笑いながらも透はやはり千春のことを考えていた。
今日透は薬箱の中の睡眠薬や抗不安剤の量を数えなおしてみた。そしてやはり明らかに残量が不足していることが分かった。もしも透の睡眠薬を千春が飲んでいたのだとしたら、そのことと今回の体調悪化と何か関係があるのではないか。千春は透のそばで透に気付かれないようにしながら何を思いつめて眠れない夜を過ごしていたのだろうか。
和馬の向こうの壁に掛けてあるスーツの礼をまだ言えていない。透はどうしても千春に会いたいという気持ちが募って仕方がなかった。