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 大晦日だというのに和馬に連れてこられたその居酒屋は込みあっていた。

 いや、大晦日だからこその盛況ぶりなのかもしれない。

 世間の感覚というものを推し量るものさしを持ち合わせていない透には、この居酒屋の混雑振りをどう評価して良いのか分からなかった。


 煙草の煙。

 肉汁の焦げたにおい。

 酔いに任せた野卑な笑声。

 ジョッキのぶつかり合う硬い音。


 居酒屋の中に響く喧騒は久しぶりに外出した透には五感にうるさかった。

 そのせいか店内に入ったときからこめかみの辺りに重い痛みがあった。

 それを紛らわせるためにジョッキを呷ると、久しぶりに飲む生ビールが驚くほど咽喉に爽快だった。

 普段は腹が張るわりには酔いの回りが遅いからと避けていたビールだが、今日は麦の香ばしさと炭酸の刺激がやけに心地良かった。


「おいおい」


 二杯目のジョッキをあっという間に空にして息をついた透に和馬は呆れ顔だった。「少しは食えよ。酒を飲ませるために連れてきたんじゃねぇぞ」


 和馬が指差したテーブルの上には和馬が勝手に頼んだ料理が並んでいる。

 レバニラ、レバ刺し、マグロの山掛け、山芋のてんぷら、ニンニクのホイル焼き……。

 和馬の頭の中には精力イコール栄養という図式が成り立っているのだろう。

 間違っているとは言わないが、これでは注文を取ってくれた女性店員を「俺たち今から風俗に行くとこなんだよね」とからかっているようなものだ。


 仕方なくジョッキを箸に持ち替え皿に伸ばすと、椅子に引っ掛けてあった和馬のダウンジャケットから突然若いアイドルの歌が聞こえてきた。

 連れとして恥かしくなるほど大音量が辺りにこだまするが、店内の客でこちらに視線を送ってくる人はいない。

 それだけ誰もが自分たちの世界に浸りきっているのだろう。

 和馬も周囲に気兼ねする様子など微塵も見せず鷹揚に携帯電話を取り出した。

 着信音に負けず劣らず液晶画面が七色にやかましく光っている。

 携帯電話に目をやった途端口をへの字に曲げ眉を曇らせて面倒臭そうに耳に当てる和馬の仕草がどことなく胡散臭い。


 透は電話する和馬に気を遣って視線を落とし、少しも減らない肴を箸で突っついた。


 もしもし、あぁ俺、……わりーわりー、……そうそう、だけどしょうがねぇだろ、は?ああ、悪かったって、田舎から弟が出てきててさ、……そうそう、その弟が飯食わせてくれってしつけぇからさ、……いや、ホントだって、マジなんだって、……あ?今か?しょうがねぇな、ちょっと待てよ。


 和馬が透の目の前に携帯電話を突き出してきた。通話口を指で押さえている。


 透は意味が分からず箸を銜えたまま怪訝な顔で和馬を見返した。


「ほらよ」


「……何?」


「こいつが代わってくれってさ」


「こいつって?」


「……二、三回ヤッた人妻だよ」


 透は返す言葉が見当たらず無視してジョッキに手を伸ばした。

 ただでさえ他人と話すのが苦手だというのに、訳ありの女とどんな会話をしろと言うのか。

 しかも揉め事に巻き込まれそうなきな臭い予感がしてならない。


「おいおい。頼むって。こいつ、俺が本当に弟と飯食ってるか疑ってんだよ。もともと付き合うつもりなんかねぇのに付きまとわれてて困ってんだけどさ、痛くない腹を探られるのは割にあわねぇだろ?だからさ、お前からうまく説明してやってくれよ。な?」


 思わぬ大役に心臓が縮み上がる。

 そんなことはとてもできそうにない。

 弟が人見知りの性格と知っていながら何という兄だ。


「ヤだよ。無理」


「そう言うなって。頼むよ。な?」


 付き合うつもりがないのなら電話になんか出なければ良い。

 そもそも電話番号を教えなければこんなことにはならないのだ。

 身から出た錆だ。


「ほら。早く出ないと怪しまれるだろ。な?ほら、ほらほら」


 怪しまれているのは今に始まったことではないだろうに。


 しかし、こんな風に急かされると、待たせている電話の向こうの相手に悪い気がして、透はしぶしぶ電話を受け取り耳に当てた。

 この場合のうまい説明とは何なのか咄嗟には思いつかないが。


「はい」


「あ、……和馬くんの弟さん?」


 透や和馬よりも五歳ほど年配に思える女性の声だった。

 その響きは分別のある落ち着いた女を装ってはいるが何となく上ずっているように聞こえなくもない。


「そう、ですけど」


「そう。あの、あなたって本当に弟さんなの?あの……疑ってるわけじゃないの。でも、何て言うか、その……。そう、そこ、どこ?今どこにいるの?」


 ちらっと兄の様子を窺う。


 和馬は横を向いて足を組み煙草をふかしていた。

 こちらの成り行きに落ち着かない風で、左手の指でコツコツとテーブルを叩いている。


「どこって……」


 透の言葉に和馬が慌てて顔を激しく横に振る。「普通の居酒屋ですけど」


 和馬が大げさに胸に手を当て安堵の表情で息をつく。

 さすがに場所を教えるのがまずいということぐらいは分かる。

 それでこちらに累が及ばないとも限らない。


「和馬くんに、……お兄さんに、ごちそうになってるの?」


「まあ、……そうです」


 半ば無理やり連れてこられたのだが嘘ではない。


「他に誰と一緒にいるの?」


「誰もいませんけど」


 二、三秒の沈黙の後、何が面白いのか突然女は、フフフと笑い出した。

 笑うしかないということか。


「もういいわ。ありがとう。優しいお兄さんによろしく伝えて。……もう、会わないからって」


 女は何かに吹っ切れたような柔らかい声で突然さよならを告げた。

 しかし、それもどこか芝居臭く、割り切ることができたと自分に思い込ませようとしているようで、透には痛々しく聞こえた。


 電話を切ると待ちかねたように和馬が透の顔を覗き込んでくる。


「あいつ、何て?」


「もう、会わないって」


「マジで?何だよ、それ。お前すげぇな!」


 何を誉められたのかさっぱり分からなかった。

 だが、和馬は身を乗り出して透の肩を二度三度と叩くと、欧米人のようにオーバーアクションで天に向かって両手を開き神に感謝した。

 雑草のような髪が和馬の額に張り付いている。


 全身にどっと疲れを感じる。

 和馬の前に携帯電話を置くと初めて透は咽喉がからからになっていることに気付いた。

 ジョッキを口につけると、意志を持ったかのようにビールが咽喉の奥に流れこんでくる。

 テーブルに叩きつけるようにジョッキを置いた拍子に、ぐらっと世界が揺れたような気がした。


 いつ注文したのか抜群のタイミングで店員が新しいジョッキと交換していく。


 上機嫌の和馬が「どんどん飲めよ」とにんまりしている。


 その顔がどことなくぼんやりしていて遠くに見えるような気がする。


 そこへまた和馬の携帯が鳴り出した。

 一瞬兄弟は携帯電話を挟んで互いの顔を見つめあい硬直した。

 着信音が透の頭蓋に響く。

 七色の発光が透の網膜に不快な残像を残す。


 もしもし?どうした?……あれ、そうだったっけ?……イヤイヤ、マジマジ。そんな約束したっけ?……あー、思い出した。確かそんなこと言ってたな、お前。……今から?今からはちょっとまずいな。……イヤ、そうじゃないって。……だから、違うんだって。お、と、う、と。……そう、弟が田舎から出てきててさ。飯食わせてくれってしつけぇんだって。だから仕方なく……イヤ、マジにホントだって。……あ、今か?……そりゃ、いるけど。わかった、ちょっと待てよ。


 透の前に数分前と同じ光景が現れた。

 その光景が先ほどよりも色あせて見える。

 こめかみや首筋の辺りが大きく脈を打っていた。

 透はさらにビールを飲んだ。


「透、悪い。もう一回だけ出てくれよ。さっきと同じ調子でいいからさ。こいつもしつけぇんだよ。女って生物はどうしてこうもしつけぇんだろうな」


 すまなさそうにしながらも口の端が笑っている和馬の顔を見て、透は漸く自分が女から逃げるための口実に使われていることに気付いた。

 透はテーブルに箸を叩きつけて立ち上がった。


「今日誘ったのは最初からこのつもりだったのか」


「何言ってんだよ。変な勘ぐりはやめろって。偶然だ、偶然。な?な?」


 舞台俳優の端くれだろうに下手な芝居を打ちやがって。

 アルコールのせいか自棄気味に透は眼前に突き出された携帯電話を奪うように掴んだ。

 一度げっぷを吐き出してから耳に当てる。

 妙にまぶたが重くて目を閉じた。

 ストンと落ちるように椅子に尻を下ろす。


「もしもし?」


 思っているよりもぶっきらぼうな自分の声に透の脳の一部は驚きを示した。

 しかし他の大部分はあらゆることを大儀に感じていた。

 携帯電話を押し当てている耳が焼けるように熱い。


「もっしー。かず君の弟さん?」


 今度は先ほどと一転して若い女性だった。

 声がピンポン玉のようにキンキンカンカンと硬く弾んで聞こえる。


「そうだけど」


「あのさぁあ。えみは今日かず君とデートする約束してたんだけどぉ」


「……で?」


「で?じゃないの。今からかず君返してくんない?今日はかず君と一緒にあけおめって決めてたのぉ」


 透は一旦携帯電話を耳から外し、通話口を押さえた。


「かず君とあけおめしたいんだってさ」


「うまく断っといてくれよ。ガキは疲れる」


 だから、うまくって何だ。

 透はジョッキを呷り再び電話に戻った。


「あのさ、かずくんは君と会うと疲れるんだってさ。キャンキャン耳障りだし、語尾の伸ばし方が鬱陶しいんだって。だからさ、もう電話してこないでくれる?」


 目の前で和馬がビールを噴き出した。

 驚き戦慄いている彼の様子が滑稽だった。

 こんなに慌てる兄の姿は見たことがない。


「はぁ?なにそれ?ムカつくー。高校生だからってなめてんじゃねぇぞ。あんたさいてー。マジ、うざいんだけど。もういいわ。無理やり淫行されたって警察にちくってやるから。本気だかんね。かず君ムショ行きだ。あー、かわいそ。じゃね、バイバーイ」


 一方的に電話が切れ、ツーツー音が空しく響く。

 その寂しい響きに取り返しの付かないことをしてしまったという思いが、水に落とした絵具のようにサッと胸に広がった。


「ごめん。……警察にちくってやるって」


 怒ると思ったが和馬は透の意に反して豪快に笑い飛ばした。


「俺のポリシーにそぐわねぇ別れ方だけど、まあいいや。警察にちくられたって条例で保護されてるのは十八歳未満だから大丈夫だ。あいつはもう十八歳だからな。残念ながら立派な大人なんだよ。それぐらいの計算がなけりゃ危なっかしくて出会い系なんか使えねぇって」


 全く意に介さない様子の和馬にほっとしたのか、透は肩の力が抜け、忘れていた瞼の重さを思い出した。

 急激に眠くなってくる。

 テーブルに頬杖をつくともう二度と立ち上がれないような身体の重さを感じた。


「それよりよ、お前って相変わらず付き合ってる女はいねぇのか?たまには自分の素の部分ってのを誰かに見せるってことも、なぁ、おい……」


 和馬の声が周囲の喧騒に紛れて聞こえる。

 ドアの入り口から流れてくる寒風。

 鍋がふきこぼれる音。

 胃からせり上がってくる気泡。

 頬杖の掌から顎が滑り落ち、慌てて載せなおす。


 遠くで和馬が誰かと喋っている。

 また電話だろうか。

 壊れたレコードプレーヤーの針のように意識が少しずつ飛んでいる。

 眠い。

 透はテーブルに腕を載せ、その上に額を置いた。

 風邪をひくかもしれないと思ったが、熱が出て寝込んでいる方が何も考えなくて済むとすぐに開き直った。


「おい、透。起きろ。帰るぞ」


 肩を揺すられ脇に手を差し込まれて無理やり立たされる。

 意識を集中して何とか目を開くと、和馬の横顔が目の前にぼんやり見えた。


「おら。少しは自分で歩けよ」


 そう言われても身体のどこにも力が入らない。

 踏み出した足が上手に床を捉えられない。

 和馬に寄りかかりながら引きずられるようにして歩いていると、急に寒気が全身を襲ってきた。驚いて目を開くと辺りは夜の闇だった。


「ありがとうございましたっ」


 背後から威勢の良い声がする。


 また来るよ、と振り返って手を挙げようとして、身体のバランスを大きく崩す。

 支えていた和馬が慌てたような声を出したのが聞こえたときには、臀部と肘に硬く冷たいものを感じていた。

 痛いと思ったのは一瞬だった。


「んなとこに寝るなよ」


 その言葉に透は自分が地面に寝転がっていることに気付いたが、起き上がろうとする力がどうにも重力に勝てない。

 自分の身体の重みを持て余す。

 身体を全て地面に委ね、透はそのままコトリと意識を失った。


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