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 四月一日は朝から慌しかった。年度初めの理事長の挨拶もそこそこに様々な打ち合わせがすぐに始まる。学年ごと、担当教科ごと、担当行事ごと、担当部活ごと。たとえ一年半近いブランクがあっても、新任ではない透に甘えは許されない。全ての打ち合わせのどんな話し合いにおいても寸分たりとも気が抜けず、透は常に前屈みの気持ちで参加した。しかし事あるごとに「昨年度と同じように」という言葉が使われ、そこからは曖昧なイメージしか想像できず、透をまごつかせた。その度に申し訳なさと人前で喋る緊張に掌を汗でぐっしょりにしつつも、透は場の人間に細かな説明を求めて一つひとつ疑問を潰していった。

 打ち合わせが終わっても息つく暇などなかった。前年度中から新年度を迎えるにあたってある程度の作業は進めているが、八日の入学式までに片付けなければいけない業務はごまんとある。各種名簿の作成、名札や学生証等の配布物の整理、入学式当日のスケジュールの確認。細かいことではあるが少しでもスムーズに新年度を滑り出すには、どれもおざなりにはできないものだった。

 授業のイメージトレーニングも欠かすことはできない。実際に教壇に立ち三十人を超える生徒の目に自分をさらしたとき、頭が真っ白にならないとも限らない。数をこなしているうちに慣れてはくるだろうが、生徒の顔つきを確認しながら授業が進められるような余裕が持てるレベルに達するまではどれぐらい時間がかかるか。反復練習で身体に覚えこませておいて丸暗記でも棒読みでも何でも良いから、とにかく途中で立ち止まってしまうことだけはないようにしておきたかった。時間があれば教科書を睨みぶつぶつと口の中で模擬授業を進める透を好奇の目で見る同僚がいたが、とてもそんなことは気にしていられなかった。

 ドアがガラガラと開き「お先に」と同僚教師がまた一人帰っていく。時計に目をやると間もなく十一時になろうとしていた。気が付けば職員室内に残っているのは透を含めて三人になっている。机の上のコップに手を伸ばしコーヒーを啜る。先ほど淹れたつもりがすっかり冷めていて不味かった。

「あんまり根詰めちゃダメだよ」

 優しく透に声を掛け、また一人コートを小脇に抱えドアを出ていく。

 広い職員室に自分以外の人間が一人しかいない絵は寂しいものだった。ひんやりと隙間風が流れた気がして、透はスーツの前を掻き合わせた。昨日の雨の後に寒気は厳しくなり、今朝は霜の降りる寒さで一日中気温は上がらなかった。天気予報で、「明日はさらに寒さが強まり、霙が降る可能性もある」と言っていたのを思い出す。暖かくなったと思ったら急に寒くなり体調管理が難しい。季節の変わり目というのはこういうものとは思っても、知らず知らずため息が出てしまう。コーヒーを淹れ直そうと立ち上がろうとしたとき、机の一番下の引き出しに仕舞ってある鞄の中で携帯電話が振動している音が微かに聞こえた。千春からだろうか。透は引き出しから鞄を取り出した。

「神谷先生はまだ帰らないの?」

 最後まで残っていたベテラン教師もどうやら帰宅のようだ。

「もう少しだけ」

 透の返事に小さく手を挙げると、その教師もそそくさと職員室を出て行った。

 鞄の中を探り携帯を取り出すと既に電話は切れていた。気付いていなかったのだが着信を確認すると、立て続けに三度春美から電話が掛かってきていたことが分かる。和馬との話し合いの件だろうか。それとも犯罪者となってしまった夫のことだろうか。透は気分転換を兼ねて春美に電話を掛けた。

 春美は透からの連絡を待ちかねていたようにすぐに出た。

「何度も電話したんだけど。忙しい?」

「この時期はどうしてもね。まだ職場なんだ」

「大変ね。今日はそろそろ帰れそうなの?」

「いや、もうちょっとかな。何せブランクがあるから、いろいろと手間取っちゃって」

「そう」

 今日は酔っ払ってはいないようだが春美の声はトーンが低かった。形はどうあれ三年間夫婦として連れ添ってきた夫に放火という手段で命を狙われたという事実を春美はどう受け止めているのだろうか。犯罪者としての逮捕という事態によって夫から殴られることはなくなったのだが、だからと言って、これで伸び伸びと暮らせる、という心境になれるものでもないだろう。夫が犯罪に手を染めるきっかけの一つである和馬と屈託なく笑顔で向き合えるようになるまでには時間がかかるのかもしれない。

「実はね、千春ちゃんのことなんだけど……」

 春美は何か言いにくそうに間を開ける。

 その口ごもり方に透は胸の奥がざわめいた。千春のことで何度も電話を掛けてくるほどの差し迫った状況とは何なのか。

「千春がどうかしたの?」

「今朝から熱が出ちゃって。さっきも計ったんだけど三十九度もあって、とてもホテルから出られそうにないの。熱がひくまではこのホテルに留まろうかと思うんだけど」

 コンコンと乾咳を繰り返していた千春のことを思い出す。しかも昨日は長い間冷たい雨に全身を晒してしまっている。今朝からの底冷えも千春の身体には応えたのかもしれない。

「そんなにひどいの?」

「朝から薬を飲んで寝てるんだけどなかなか熱がひかないの。起きても頭がふらふらするんだって。三十九度も熱が出たら当然よね」

「病院には行った?」

「ええ。千春ちゃんは平気だからって嫌がったんだけど、ホテルの近くに内科の診療所があって夕方に強引に連れて行ったわ。先生はインフルエンザじゃないから安静にしていればすぐに熱は下がるだろうって言ってた。点滴打ってもらって帰ってきたの」

「そっか」

 取りあえず医者に診てもらったのなら安心だろう。ただの風邪ならば後は医者が言うように寝て養生するしかないに違いない。

「……ごめんね。本当にごめんなさい。私のせいでこんなことに。二人にはすごく迷惑掛けちゃって」

 春美は突然謝り出した。語尾を震わせ鼻を啜っている。

「そんなことないって。春美さんのせいじゃないよ」

「私のせいよ。私が千春ちゃんを巻き込んじゃったから。昨日だって私が一人で帰ればこんなことには」

「それを言うなら春美さんについてやってくれって千春に言ったのは俺なんだから俺のせいだよ。それに千春は春美さんに頼られて嬉しそうだった。春美さんは私の唯一の友達だって、お互いに助け合うんだって言ってた。だから、千春はきっと迷惑だなんて思っちゃいない。俺だって同じだよ」

「ありがとう」

 春美は噛締めるように言った。「今度は私が千春ちゃんを助ける番ね。しっかり看病するわ」

「ああ。千春を頼むよ」

「うん。任せといて。こんな電話しといておかしいけど、透君は安心して仕事して」

 春美は力強く言い切った。電話の向こうでは胸を張って示しているに違いない。今は春美に任せるしかない。春美も千春の看病をしていればあれこれ悩まずに済むのかもしれない。

 春美が「じゃあね」と電話を切ろうとする。そのとき春美の一つの仕事をやり終えたような息のつき方に透は何かが引っかかる気がした。何かは分からないが心に爪を立てるものがある。透は追いかけるように春美に声を掛けた。

「春美さん?」

「何?」

「千春は、本当にただの風邪なの?」

「ちょっと。私のことが信用できないの?診てもらったのは大きな病院じゃないけど、今時はインフルエンザかどうかくらい検査をすればすぐに分かるわよ」

 春美の言うことはもっともなことだった。透は自分を納得させるように電話を切った。


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