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 あたりにはまだ火事の影響による鼻を刺すような刺激臭が残っている。黒く焼け焦げたドアの前に立って初めて、透は火に対する恐ろしさを思い出して身体を竦ませた。

 不思議なことに黒煙を見つけたときは火事に対する恐怖心はなかった。直接燃え盛る炎を見ていなかったからだろうか。ただひたすら和馬と春美のことを心配して走り出していた。野次馬の間を潜り抜け、マンションに目と鼻の先というところまで辿りついても、火の赤さを目にすることはなかった。透と千春の行く手を制止した警察官が道を通してくれたときには消防車からの放水で鎮火された後だった。しかし、今焼け跡の残る現場に立ってみると、見てもいないのにまるで実際に目の当たりにした光景のように、猛り狂って逆巻く炎のイメージが脳裏に浮かんで消し去ることができないでいる。

 震える手で鍵を回しドアノブに触れる。指の腹にざらついた感触があり、思わず手を引っ込めた。黒い煤が微かに付着しているのを見つけ、透はこみ上げてくる吐き気に身を屈めた。このドアの向こう側にあるはずのない巨大な炎の揺らぎを想像してしまい、自分の顔から血の気が引いて行くのが分かる。しかし顔以外の身体の表面は今まさに業火に炙られているかのようにじりじりと熱く、全身から噴き出す汗が止まらない。透は一旦ドアから目を離し、真っ黒な夜空から降り注ぐ雨を見つめた。

 雨は午後九時を回った今でもいつ降り止むとも知れず一定の強さで降っていた。朝春美がやってきたときも、火事騒ぎで人だかりになったときも、警察署でぼんやりと窓の外を眺めていたときも、そして今も同じ調子で雨は降り続いていた。事件関係者ということで和馬と春美だけでなく透と千春も部屋に入ることを許されないまま警察署に同行を求められ、延々と何度も同じ説明をさせられて漸く先ほど帰宅を認められたのだった。

 火事は灯油を撒いた上での放火で、犯人は透の想像した通り春美の夫だった。彼は最近探偵を雇って春美を監視していたらしい。春美が透の部屋に入っていったことを探偵から聞かされた彼は職場から車で駆けつけ、そこで和馬が部屋に入っていくのを目の当たりにした。逆上した彼は近くのガソリンスタンドで灯油を購入し、マンションに戻ってきて部屋の周囲に撒き散らしたうえで、火を放ったということらしい。はじめから灯油を持ち運ぶためのポリタンクを用意していたらしく、衝動的ではなく計画的な放火だということで警察は殺人未遂としての立件も視野に入れているようだ。

 事件当時ドアの外の異常に気付いた和馬と春美はすぐにベランダに避難しており、そのまま消防車に救出されたので幸運にも二人とも火傷一つすることはなかった。ドアの周辺に撒かれた灯油は勢い良く燃えたが、朝から降っていた雨と手際の良い消防活動のおかげで延焼範囲は小さくて済んだようだ。

 千春は今そばにはいない。

 和馬と春美は結局透の部屋ではほとんど会話らしい会話をできず仕舞いだったが、さすがに事情聴取を終えたばかりの今から話し合いをすることは春美の疲れ具合からも不可能で、ひとまず別の日に仕切り直しということになった。春美が夫と過ごした部屋に帰る気にはなれず、「どこかホテルに部屋を取る」と言い出したので、透は千春に春美に付き添ってやるように言った。

 千春は透の提案に一度は顔を曇らせた。透一人で火事の起きた部屋に帰ることをどうしても不安に思ったのだろう。

 しかし、透は自分よりも春美の方が今は千春の力を必要としていると感じていた。透の提案に春美は内心ほっとしている様子が見て取れたのだ。「千春ちゃんが春美に付き添ってくれるなら、俺がお前と一緒に帰ってやろうか」と和馬が言い出したので、透は即刻却下した。

「お兄ちゃんはもう大丈夫だよ」

 千春は透の両手を握り締め、いつになく思いつめたような表情で透を見つめた。「離れてても、いつでもそばで応援してるからね」

「あ、ああ」

 千春の目の力強さに透は気圧された。千春の全身から悲壮感のようなものが立ち上っている気がしてならない。

「私も大丈夫だから」

「何言ってんだよ」

 まるで死地に赴く兵士を見送るような様子の千春を、「大げさだよ」と笑い、和馬に冷やかされる前に透は手を振って帰途についたのだった。

 透は外に向かって手を伸ばし雨で指についた煤を洗った。ポケットからハンカチを取り出し手を拭く。意を決してドアに向き直り、手にしたハンカチでドアノブを拭ってから、ゆっくりとドアを開いた。

 暗闇の向こうに手を伸ばしスイッチで灯りをつける。浮かび上がった部屋の内部は拍子抜けするほどいつもどおりだった。しんと静まり返った部屋に佇んでいると、数時間前に火事騒ぎがあったことが嘘みたいに思える。拍子抜けしたような感じでぼんやり突っ立っていると、透の首筋を冷たい風が通り抜けて行った。次の瞬間背後でドアが叩きつけられたように閉まる音がした。風の流れた先を見ると、カーテンが揺らめいている。春美と和馬がこの部屋から脱した時からそのままだったのだろう。ベランダに出るサッシ窓が開いていた。

 不意に元日の目覚めを思い出す。あの窓を思い切り良く開き、太陽の光を真正面に堂々と浴びていた千春。まるで内側から輝いているかのように透には眩しく見えた。あのとき透は千春の美しさに圧倒され見惚れていた。目を逸らすこともできず、言葉を発することもあたわず、今思えば我ながら情けないほどに眼前の光景に目を奪われてしまっていたのだ。あんなに美しいものを透は目にしたことがなかった。二度と彼女を超える存在には出会わないだろう、とあの時に直感していた。

 透はベッドの横に屈み、その下を覗き込んだ。

 千春が言ったとおり、そこにはスーツカバーらしきものが赤いリボンを施された格好で寝ていた。ベッドの下から引っ張り出し、カバーのファスナーを開けて新調のスーツを取り出す。うっすらと縦にストライプが走った黒のスーツだった。おそらく千春は透の知らないうちに透が持っているスーツの寸法を調べておいたのだろう。背広を羽織ってみると大きさはぴったりだった。スラックスのウエストや丈の長さも透に合っている。

 胸のポケットから白いものが飛び出していた。メッセージカードだった。


 離れてても、いつもそばで応援してる。

 

 このスーツには千春の心が宿っているから着ているときはいつでも一緒に居るよ、という意味だろう。偶然なのだろうか。このメッセージは先ほど警察署の前で千春が透に告げた言葉と同じだった。

 透は一抹の不安を覚えた。先ほどから千春がどこか遠くへ行ってしまうような気がしてならない。このカードを見てその思いは一層強くなった。透はスーツを着たまま、スーツを抱き締めるように腕を抱いた。


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