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 昨晩から降り始めた雨は今日になっても止む気配を見せない。激しくなる様子も収まりそうな気配もなく、ただ一定の強さでしとしとと降り続けていた。彼岸後の一週間で張り詰めていた寒さもあっという間に緩み、一気に世界が彩り豊かに春めいてきたのだが、今日は再び冬に逆戻りのような寒気が上空を支配していた。外に出れば手足の先に鈍痛をもたらすかじかむ寒さが全身に重くのしかかってくる。雪になるかもしれない。不意打ちのような天候の変化に芽吹き出した道々の草花も勇み足を反省するかのごとくみな頭を垂れているように見える。

「冷えるなぁ」

 吐く息が白く濁り雨に逆らうように中空に昇っていく。傘を差して歩き出すと雨音が耳にうるさく響いた。背後でコンコンと千春が乾いた咳をする。昨日までの好天が嘘のような寒さに風邪をひいてしまったのだろうか。咳は今朝起きたときから断続的に続いているようだ。

「大丈夫かよ?」

「ん?何が?」

「何がって……。風邪ひいたんじゃないのか?」

「大丈夫だよ。平気、平気」

 千春は傘の角度を上げて透に微笑んで見せた。その笑顔にいつもの張りがないように見えるのは傘の影のせいだろうか。

「もうすぐだね」

「ん?何が?」

 今度は透が訊ねる番だった。湿気を多く含んだ冷たい風が吹きぬけ、思わず首を竦める。

 千春は首に巻いたマフラーを口元まで引き上げた。

 二人は雨が刺さるアスファルトを見ながらとぼとぼと歩いた。

「もちろん、新学期よ」

 透の胸に俄かに緊張が走る。背筋を這い上がる寒気に思わず身体を震わせた。

「そうだな」

 新学期が始まれば透は本格的に復帰する。復職してから今までの間はリハビリみたいなもので、他の教師たちの裏方として動いているだけで生徒の前に出ることはほとんどなかった。しかし、始業式が終われば他の教師たちと同じように毎日授業を持つことになるし、担任としてクラスをまとめていかなくてはならない。昨日景山教頭から正式に新入生のクラス担任を任せるという言葉があった。明日から新年度が始まるという三月三十一日の今日に至ってもまだ一年間やり通せる自信はなかった。ややもすると不安の虫に心を蝕まれて逃げ出したくなるのを、何とか首の皮一枚のところで堪えているといった感じだった。

 やってダメだったらしょうがないじゃん。

 千春がそう励ましてくれると透は黙って頷いてはいたが、正直言ってそんな開き直った考えは持てていなかった。言うは易しという言葉がどうしても頭に浮かぶ。負担を軽くしようとしてくれているのは分かる。ありがたいとも思う。しかし、定職に就いたことのない千春の言葉には少し無責任さが垣間見えるようにも感じていた。

「春美さん、少し元気になったね」

 二人は今出てきた透の部屋を振り返った。

 あそこに今春美がいる。間もなく和馬もやってくることになっている。透の部屋でほぼ一ヶ月ぶりに二人は密やかに再会するのだ。お互いの部屋でもなく、よく使っていたラブホテルでもなく、そして誰にも邪魔されない場所。大事な再会の場所として春美が透の部屋を選んだのはそういうことのようだった。そこで二人がどういう会話をし、どのような結論を見出すかは分からない。このまま二人で駆け落ちするかもしれないし、話し合った結果二人が出会う前の生活にそれぞれ戻ることになるかもしれない。しかし、千春が言うように今日の春美は少し気力を取り戻しているように見えた。少なくとも死を連想させるような顔色からは脱していた。和馬に会えるという約束。ただそれだけで彼女の裡に僅かながら残っていた生きる力は息を吹き返したのだろう。

 一台のタクシーが近づいてきて透たちの前で止まった。傘と一緒に中から出てきたのは予想通り和馬だった。

 しかし、和馬の姿を見て透と千春は驚きの声を上げた。和馬の芝のように緑色だった髪は黒く染められ、しかも柔道の選手のように短く刈りそろえられていたのだ。全く、いつも和馬には驚かされる。

「おっす。今日はありがとうな」

 二人の前に現れた和馬は柄にもなく少し緊張しているように見えた。表情は強張っているように見えるし、何と言っても会って早々礼を口にするところが和馬らしくない。

「かずちゃん、初恋の人と会うみたいな顔してる。髪のせいかな。少し幼くなったみたい」

 千春が和馬の脇腹を突付くような素振りで冷やかすと、漸く和馬も表情を緩めた。恥かしそうに短く刈った自分の頭を撫でている。

「自分でもびっくりするよ。女と会うことがこんなに緊張するなんてな。少しは晩生の透の気持ちも分かる気がする」

「相変わらず、一言多いんだよ」

 透は和馬に向かって拳を握って殴る振りをした。「で、どうするつもりなんだ?」

 春美と結婚したいという気持ちは変わっていないのだろうか。今日ここに来たということは春美を迎えにきたということなのだろうが、相手が和馬だけに最後の最後のところで信用できないでいた。今日の話し合いの結果和馬と春美がどういう答えを出すかは別にして、和馬は春美と結婚したいと思っている。それぐらい愛しているということを春美が知れば、もう一度春美の心に生き続けるための自信が備わってくると透は信じている。

「俺は、春美を幸せにするよ。そのためにここに来たんだ」

 和馬は力強く言ってのけた。

 今日ほど真剣な眼差しをしている和馬を透は見たことがなかった。和馬の言葉をこんなにすんなりと信用できたのは初めてのことだった。今の和馬ならきっと春美を幸せにする。無条件にそう思わせる逞しさが和馬の全身から滲み出ていた。これなら春美も安心して和馬の胸に飛び込んでいけるだろう。

「格好良すぎるぞ」

 聞き慣れない愛の言葉にこちらが恥かしくなってしまう。「俺たち、この道を真っすぐ行ったところの喫茶店で待ってるから、ごゆっくり。結論が出たら教えてくれ」

 立ち去ろうとする透に向かって和馬が右手を差し出した。

「今回は本当に感謝してる。俺たちうまくいったらお前と千春ちゃんのおかげだ」

「気持ち悪いこと言うなよ」

 透は照れながら和馬の右手に応じた。冷雨に濡れた兄の手は想像した以上に太く熱いものだった。この手ならどんなときも春美を離さないでいられるだろう。

 透と握手を終えた和馬は千春にも同様に握手を求めた。千春もにっこりと笑って手を握り返す。

「千春ちゃんも幸せになってな。ちょっと痩せたみたいだけど無理しちゃだめだぞ」

 和馬と千春が一瞬黙って見詰め合う。千春がこくりと頷くと和馬は「じゃあな」と透に別れを告げ透の部屋に向かった。

 雨が和馬の傘に降り注ぐ。今の春美と和馬には春めいた陽気よりも今日のような雨の方が似合っている。二人は静かな部屋の中で焦らずゆっくりと結論に辿り着くだろう。

「かずちゃん、泣かせるね」

 千春は感極まったように目を潤ませた。

 その千春を見ていると透の胸にも熱くこみ上げてくるものがある。鼻を啜りながら歩き出すと背後から和馬がマンションの階段を駆け上がる音が聞こえてきた。やがてドアが開き、静かに閉まる。その音がどことなく平和な温もりを感じさせるようで、透と千春はにっこり微笑み合いながらアドゥマンに向かった。

 アドゥマンは相変わらず空いていた。いるのはカウンター席に先日もいた白髪の男性だけ。彼は前回と同じにこやかな表情で、透と千春に会釈をしてくれた。千春がにっこりと笑って会釈し返すと、彼はもう一度同じようにお辞儀した。

 マスターは相変わらず愛想なしで、ただ一言「いらっしゃい」と呟いたきり、こちらに目も合わせようとはしない。

 透はいつもの奥の席に千春を導いて腰掛けた。

 マスターが注文を取りにくる。差し出してくれたおしぼりの熱さに生き返る心地がした。

「俺はホットコーヒー。千春は?」

「んー、何にしようかな。今日は温かいのがいいな」

 千春は決めかねるという顔つきでメニューを上から下へ何往復も眺めた。「温かいのだと何がおいしいですか?」

 困惑顔で千春がマスターに問いかけるのを見て透はハッと顔を起こした。強面で愛想無しのマスターが「いらっしゃい」以外に口を動かしたところを見たことがない。マスターがどう受け答えるか興味もあるが、それ以上に何か空恐ろしい感じがした。

「何でも」

 マスターは表情一つ変えず、目の前をうろつく羽虫を追い払うように一言呟いただけだった。

「何でも?」

 千春はさらに困った顔になってメニューとマスターの顔を交互に見た。

しかしマスターもそれ以上は何も言うつもりはないらしい。ひたすら銅像のように突っ立ち、口を真一文字につぐんで千春の注文を待っている。

 気が気でなくなり「ホットコーヒーにしておけよ」と透が口を開こうとしたとき、カウンターの方から救いの声が届いた。

「シナモンティーがお勧めですよ、お嬢さん。香りがすごくいいし、身体が温まる」

 白髪の男性ににこやかに礼を言って千春はシナモンティーを注文した。

 マスターは相変わらずの仏頂面でカウンターに戻っていった。

 何とか注文が無事済んだところで、透はずっと気にかかっていたことを千春に訊ねることにした。何となく今日の雰囲気なら口に出せる。透は声を潜めた。

「蒸し返すようだけどさ」

 千春が怪訝そうに透に顔を近づける。

「何?」

「本当のところは、あの夜、俺たち何もなかったんだろ?」

 二人にとって「あの夜」とは昨年の大晦日の晩のことしかない。千春は、あの日二人はセックスをした、と言うが、透はどうしてもそれが信じられないでいる。酔った勢いがあったとしても自分が他人の目に火傷の痕だらけの裸を晒すことなど考えられなかった。

「ワタシ、ニホンゴ、ワカリーマセン」

 千春は欧米人のように手を広げ首を竦めて見せる。

「おいおい」

「何もないはずないじゃない。若い男と女が酒に酔って一つのベッドに入ったのよ。それだけでも十分『何か』よ」

 千春は澄ました顔で突き放すように言う。

「そういうことじゃなくてさ。俺が言ってるのは、つまり……」

「お兄ちゃんに何されたかなんて言えないわ。恥かしい」

「そういう言い方するなよ」

 透が窘めるように言うと、千春は目を大きく見開いて抗議の表情をつくり、すぐにくすくすと笑い出した。

 青みがかった大きな瞳。栗毛色の長いストレートヘアー。肌理の細かい白い肌。西洋人の大人っぽさと東洋人の幼さが同居している愛らしくて艶っぽい顔。

 千春を正面に見つめながら透は三ヶ月前を振り返った。今思えばあの日あの時自分は一目惚れしていたのかもしれない。最近透はよくそう思うのだった。そうでなければやはり無理やりにでも部屋から叩き出していたはずだ。そうしなかったのはつまるところただ単に好きになった千春にそばにいてほしかっただけということになるのか。

 千春は黙ったままただじっと見つめてくる透に「何よ」と訝しげな様子だったが、それでも逸らさない透の目に逆に挑みかかるように前傾して真っ直ぐな視線を送ってきた。

 視線が絡み合うと透は千春への愛しさがさらに胸に迫るようで、ずっとこうしていられたらと思わずにはいられなかった。

「おやぁ、火事ですかね」

 白髪の男性が窓の外を指差している。火事とは似つかわしくない、まるで鶯でも見つけたような長閑な声だった。

 釣られて外に目をやる。水墨画のようなモノトーンの冬の景色の中に、もうもうと禍々しい黒煙が立ち上っている。煙の方角に向かって窓の外を人が走っていく。野次馬の一人が何が嬉しいのか「火事だ、火事だ」と跳びはねている。すぐにサイレンの音が聞こえてきた。

「お兄ちゃん!あそこって」

 透は一瞬千春と見つめあうとすぐさま駆け出していた。千春を置き去りにして、マスターに詫びる暇もなく、透は分厚い扉を弾き飛ばすように押し開け傘も差さずに道路に飛び出した。

 雨が顔に降りかかる。しかしその冷たさを感じる余裕は透にはなかった。

 走りながら透には確信めいた予感があった。火事が起きているのは自分のマンションではないか。しかも自分の部屋ではないだろうか。透の脳裏を「無理心中」という文字が占拠して離れない。和馬と春美の顔が交互に透の脳裏に浮かんでは消えていく。

 火事現場の付近には既に十重二十重の人垣ができているのが見える。透を追い越した二台のパトカーがクラクションを鳴らして人と傘の波を押し分けて行った。

 人垣に取り付き僅かな隙間から出火場所を確認する。家々の影に隠れてはいるが、やはり思ったとおり透のマンションから煙が立ち昇っているようだった。透は足元から力が抜けるのを感じた。和馬と春美が煙と共に空へ消えていってしまうイメージがそこに見えた。

 透はその場に座り込みたくなるのをこらえて人を押し分けて進んだ。「すいません、通してください」と強引に人混みをすり抜ける。最前列には白いカッパに身を包んだ二人の警察官がいて、テープを張り巡らせて野次馬を現場から遠ざけていた。

 透のマンションが出火元であることは疑いなかった。手前の家に隠れてはっきりとは分からないが、透の部屋のあたりから黒煙が上がっている。あの不吉な煙の下で今まさに和馬と春美が燃え盛る炎に巻かれているのかもしれない。

「通してください。僕の部屋なんです。燃えてるのは僕の部屋なんです」

 透の言葉にぎょっとした顔で二人の警察官が顔を見合わせる。そのとき野次馬の一人が素っ頓狂な声で指を差した。

「あ、あいつ、犯人なんじゃねぇか」

 警察官の間から先を見ると、黒い煤に顔を汚したスーツ姿の男性が両脇を警察官に抱え上げられて、パトカーに押し込まれるところだった。知らない顔だったが透はそれが誰だか分かったような気がした。春美の夫に違いなかった。となると無理心中ではなく放火だったのか。

 道路の反対側から消防車が二台現場に進入してきた。すぐさま放水が始まり雨の中をマンションから逃げ出してくる人の姿も確認できた。

「お兄ちゃん!」

 振り返ると雨に濡れそぼった千春が人垣を分けて姿を現した。「やっぱり、うち?」

「多分」

 透が頷くと眉間を曇らせて千春は寒そうに身体を縮めた。コンコンと肩を揺らして咳をする。このままでは千春が本格的に風邪をひいてしまいそうだ。

 透はもう一度警察官に向かって叫んだ。

「通してください!僕の部屋が燃えてるんだ。中に兄がいるんです!」

 それでも警察官は「危険ですから」と道を空けてはくれなかった。透が強引に身を乗り出すと、警察官は二人がかりで執拗に透の前に立ちはだかった。

 その警察官の脇を小走りに千春がすり抜けて行く。

「千春!」

 追いかけようと駆け出す透の身体を二人の警察官が押し留める。

「危険ですから!」

「千春!千春っ!」

 透の目の前でマンションの敷地に走りこもうとした千春がパトカーから降りてきた警察官に捕まった。

「君っ!危ないだろ。離れなさい!」

 さらにもう一人の警察官がパトカーから駆け出してきて千春を背後から抱きすくめる。

「離して!離してっ!燃えちゃうの!」

 警察官の腕の中でもがき狂ったように泣き叫ぶ千春が透に救いを求めるように振り返った。「お兄ちゃん!燃えちゃう!燃えちゃうのよ!」

「千春っ!」

「ベッドの下にプレゼントのスーツがあるんだから!お兄ちゃんはあれを着てもう一度教壇に立つんだからっ!」

 千春は髪を振り乱しあらん限りの声を振り絞って泣き叫んでいた。

「千春……」

 透の顔に冷たい雨が降り注ぐ。しかし透の頬を濡らすのは雨だけではなかった。


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