16
道路から部屋を見上げると窓から漏れているはずの灯りが見えなかった。千春はどこかに行っているのだろうか。クリニックに寄ってから帰るから少し遅くなる、と今朝伝えたときは「ご飯作って待ってる」と言っていたのだが。
階段を上がりドアの前に立って耳を澄ませてみる。しかし、部屋の中からは物音一つ聞こえてこない。鍵を差し込んでドアを開ける。そこは真っ暗な世界で懐かしくも寂しい感じがした。誰も待っていない部屋の物静かで冷たい雰囲気がそこにはあった。
千春はどこに行ったのだろう。
買い忘れを思い出して慌ててスーパーに走ったのだろうか。それとも急な用事で誰かに呼び出されたのだろうか。しかし、千春は携帯を持っていないし、この部屋に固定電話はないのだから呼び出しようがない。だとすれば千春はどこへ。まさか、事故に?
透は何かに急き立てられるように慌てて靴を脱ぎ、部屋に上がって電気を点けた。部屋の中を見渡す。
寝ぼけたような唸り声がして、もぞもぞとベッドの上で何かが動いている。千春が眩しそうに顔を顰めながら目をこすっている。
「なんだ、寝てたのか」
驚かすなよ、と透はコートを着込んだまま床に座り込んだ。
「んんー。ごめん。寝ちゃってた」
千春は大きく欠伸をしたかと思うと寝返りを打ち、蛍光灯に背を向けて再び動かなくなった。
「どうしたんだよ、こんな時間に寝てるなんて。風邪でもひいたのか?」
透は立ち上がってクローゼットを開いた。ハンガーにコートを掛け、薬箱を取り出して処方された薬を補充する。そのとき透は何となく違和感を覚えた。箱の中の薬の量が減っているような気がしたのだ。ここのところ服薬する量を減らしているので、もう少し残っていても良いように感じた。気のせいだろうか。
「千春」
「……ふぁい。今起きまふぅ」
ワンテンポ遅れてぼんやりした返事が返ってくる。そのとき鞄の中で透の携帯が振動し始めた。慌てて鞄を手繰り寄せ中から電話を取り出す。画面に表示された電話番号は登録されていないものだった。直感的に春美の顔が脳裏に浮かんだ。
「春美さん?」
「あらぁ、千春ちゃんの愛しのお兄さま。千春ちゃんは今いるぅ?」
春美までもが舌が回らない感じで喋っている。こちらは寝ぼけているのではなく、酔っ払っているようだった。酔いの深さが息の荒さで電話越しにも分かる。
千春が漸く身体を起こした。もぞもぞとベッドから降り、そのままキッチンに向かう。喉が渇くのかコップに水を注いでぐいぐい飲みだした。
「千春は今、お取り込み中。千春に何か用ですか?」
透は電話を耳に当てながら、ネクタイを片手で強引に抜き取る。
「千春ちゃんと一緒に飲みたいなぁって思って。丁度いいや。あんたも一緒に飲まない?」
「もう飲んでるんでしょ。いつから飲んでるの?今日は御主人はいないの?」
「うるさいわねぇ。頼んでもないのに夫の話なんかしないでくれるぅ?やっぱりあんたは来なくていいわ。千春ちゃんだけうちに来るように伝えて」
「うちに来るようにって言ったって、場所分かんないでしょ」
「お生憎様。あんたは知らないかもしんないけど、千春ちゃんと私は飲み友達なんですからねー。二人っきりで差しつ差されつ飲んだことあるんだから」
勝ち誇ったように春美が言う。
通話口を抑えて透が確認すると千春はこくりと小さく頷き、まるで浮気を白状するように「一度だけ」と人差し指を一本立てた。
いつの間に、と思ったが取りあえず電話に戻る。
「そんなことより、兄貴が連絡欲しいってさ。実際に連絡するのは春美さんの勝手だけど俺は今間違いなく伝えたからね」
「聞こえませーん。あー、聞こえない聞こえない。伝えたいことがあるならこ……」
「ん?伝えたいことがあるなら何だって?……春美さん?どうかした?」
呼びかけても応答がない。電話はつながったままだ。
「何?何?春美さん何だって?」
眠気覚ましに洗ったのか水に濡れた顔をタオルで拭きながら、千春が怪訝な表情を見せる。
「なんだか春美さんが突然喋らなくなっちまったんだ。電話は切れてないんだけど」
そう言って透は再び春美に呼びかけた。すると電話口に春美が戻ってきた気配がした。
「……すっごく気持ち悪い。お願い。とにかく来て」
「ちょっと待ってよ。おい、春美さん。おい」
電話に出たかと思うと春美は一方的に切っていた。ツーツーと不通を示す音が空しく耳に響く。
「なんだよ、あいつ」
思わず舌打ちをする。和馬と春美は似た者同士だ。
「春美さん、どうしたの?」
「気持ち悪いから来てくれってさ。ったく、飲みすぎなんだよ」
透は付き合っていられないという顔で携帯電話をこたつの上に置き、先ほどまで千春が眠っていたベッドにスーツ姿のまま倒れこんだ。千春の温もりが頬に優しい。目を閉じると急に睡魔が押し寄せてくる。だらけ切った身体を急に社会生活に放り込んだためか、ここのところ部屋に戻ると眠たくて仕方がない。身体が深くベッドに沈みこみ鉛のように重く感じる。気を抜けばこのままスーッと意識を失ってしまいそうだった。
ふと目の前が暗くなった感じがした。
「行こうよ」
目を開けると、千春が目の前に立っていて透を見下ろしていた。逆光になってその表情はよく分からないが、冗談を言っているような様子ではなかった。
「行くってどこに?」
「もちろん春美さんの部屋よ」
「何でだよ。あんな酔っ払い、相手にする必要ないって」
「この前春美さん、すごくまいってた。きっと誰かそばにいて欲しいんだよ」
「そんなの俺たちの役目じゃねぇだろ。それよりメシにしてくれよ。腹減った」
透は寝返りを打って千春に背を向けた。その拍子にきゅるきゅると腹が鳴る。口に出すまでは意識していなかったが、気がつくと空腹感は耐え難いレベルに達していた。そう言えば忙しさにかまけて昼もろくすっぽ食べていない。何でも良いから胃に詰めなければ、この部屋からは一歩も外に出られそうにない。
諦めたのか千春は透から遠ざかっていった。きっと千春はてきぱきと素早く料理をこしらえてくれるだろう。千春の料理はなかなかのものだ。彼女の手料理が毎日の透の疲れを癒してくれている。
ご飯ができるまでは起きてないとな。そうは思ったが眠気の方もなかなかのものだった。ベッドに横たわっていると目を開けていられなくなる。
「はい。早くこれ食べて。食べ終わったら春美さんのところに行くから」
予想外の早さだった。千春が台所に行ってからまだ一、二分だ。驚きと共に振り返ってみて透は納得した。千春が手にしていたのは蓋の隙間から湯気が立ち上るカップ麺だった。
千春は透に有無を言わせずカップ麺をこたつの上に置くと、矢庭に着替え始めた。
これ以上何を言っても無駄だと透は悟った。笑顔を絶やさない千春ではあるが、言い出したら聞かない頑固さを持っていることを透は知っていた。透はカップ麺の蓋を剥ぎ取り、まだ硬さの残る麺に箸を突き刺し、ほぐすようにして掻き混ぜた。
「千春は食べないのか?」
「私はいい」
千春に遠慮することなくスープを一口吸うともう止められなかった。透は息をするのも惜しんで麺を次から次へと啜り上げた。
「ほういへば。春美さんの部屋の場所って分かるの?」
「一度だけだけど行ったことあるし、そのときのメモも残ってるから大丈夫だと思う。大通りに出てタクシーつかまえよ」
着替えを済ませた千春は化粧ポーチを引き寄せると眉毛を描き、口紅を引いた。千春の化粧は普段からこの程度のシンプルなもので、ごたごたと塗りたくるようなことはしない。気がつけば千春は髪を梳き終わって苛立たしげにこちらを睨みつけていた。トントントンと足の爪先で床を叩くと「追いかけてきて」と千春は玄関に向かった。
「ちょっと、待てよ」
ラーメンを啜りながら千春の背を追うと、千春は靴を履き透を振り返ることなくドアを開けた。新芽がほころび出したとは言え風が吹けば時折肌を刺すような冷たさを感じる三月の夜に、千春は躊躇なく飛び出していく。透は慌てて遮二無二ラーメンを掻きこみ、戸締りもそこそこに千春の姿を追った。
大通りに出ると千春はタクシーに乗り込むところだった。物を食べた後に急に走ったので横腹が痛い。しかし千春はお構いなしに運転手に行き先を告げている。透はやっとの思いでタクシーのドアに手をかけ、すがりつくように千春の横に腰を滑らせた。
「何もそんなに急ぐことないだろ」
タクシーが動き出しほっと息を撫で下ろしてみると、今度はふつふつと怒りらしきものがこみ上げてきて、透は千春の横顔を睨むように見た。前を走る車のテールライトで赤く浮かび上がる千春は、前のめりの姿勢で真剣な眼差しを真っ直ぐ前に向け下唇を噛んでいる。顎に押し当てた両拳がまるで祈りを捧げているようだった。
「約束したのよ」
「何を」
「お互い助け合おうって」
「そんな大げさな」
春美は単に退屈しのぎに呼んだに違いない、と透は思っていた。約束だの助け合うだのというような高尚な問題ではないように思う。
「私にとって春美さんは唯一の友達なのよ」
今にも泣き出しそうな潤んだ声で千春は言った。
透は何も言えなかった。千春にとって春美がどういう存在なのか想像がつかなかった。二人がお互いにどういう心の繋がりを構築しているのか。どうやら透には知る術もない女同士の深い関係がそこにはあるらしい。
千春は何か不吉なことを予知してしまったのだろうか。その思いつめたような横顔に透は自分の傲慢さを知った。右胸の傷を目にし自分の腕に組み敷いて何度も交わったことで、目の前の女の全てを知っているような気になっていたが、それは全くの誤りだった。まだ千春という人間の薄皮一枚程度の上っ面しか見えていないのだ、と透は自分の浅はかさに打ちのめされたような気分でシートにぐったりと身を委ねる。ここは千春の思う通りにさせてやるのが一番だと口を出すのを控えた。
辿り着いたのは閑静で高級感の漂う住宅街だった。タクシーのエンジン音が遠ざかると、あたりは千春に話しかけるのも気を遣うほどの深い静寂に包まれる。千春が指差したのは振り仰ぐと首がつらいほどの高層マンションだった。その豪奢な造りに圧倒されている透の傍らを、千春は堂々とエントランスに向かって歩いていく。
重厚感のある自動ドアの向こうに消えていく千春を慌てて追いかける。二人が足を踏み入れたエントランスホールは「何のために?」と問いかけたくなるほど広い。中央に幾つかのボタンの付いた台座がポツンと立っている。左右の壁には監視用カメラがその台座に向けて設置されていた。ホール右奥にはいかにも排他的な重々しいガラス扉が二人の行く手を遮っている。
千春は臆することなく台座に向かいボタンを押し始めた。やがてピンポーンとチャイム音が響いた。春美の部屋を呼び出しているらしい。しかし向こうからは何の反応もない。
「どうした?」
「呼び出しても出ないわ」
千春はもう一度ボタンを操作し春美の部屋に呼びかけた。しかしチャイムが空しくこだまするだけで、相変わらず何の応答もない。
そのとき背後の自動ドアが開き、いかにも高級そうな黒いコートに身を包み淡い色のサングラスをした男がホールに入ってきた。こちらを威嚇するようにコツコツと革靴の踵で床を鳴らしてやってくる。年齢は透と十歳と離れていないように見えるが、全身に帯びている周囲を圧倒する雰囲気はすでに風格と呼べる代物だった。
透と千春は気圧されるように脇に退いた。男はサングラス越しに胡乱な不審者を蔑み忌避するように鋭い視線を投げかけてきた。
透は思わず息を詰めた。
彼はフンと鼻を鳴らすとズボンのポケットから金色に輝く鍵を取り出し、鍵穴に差し込んでボタンをいくつか操作した。するとホール右奥のガラス扉から鍵が開く音が聞こえた。男はもう透と千春には何の興味も示すことなく、その扉を開いて奥へと消えていった。すぐに鍵が閉まる音がして透は金縛りから解き放たれたように呼吸を取り戻した。
「どうすんだよ、千春。中から開けてくれないと夜が明けてもここに突っ立ってることになるぞ」
苛立ち紛れに透は台座をドンドンと叩いた。千春はやれやれという顔でダッフルコートのポケットに手を突っ込み、先ほどの男が持っていたのと同じ金色の鍵を取り出した。ゆっくりとした動作で鍵穴に差し込みボタンを操作する。すると、いとも簡単にガラス扉の鍵が開いた。
「なんだよ千春。鍵持ってたのかよ」
「まあね」
そう言って千春はいたずらっぽくニッと笑い、からかわれたのだと透は漸く気付いた。
「お前よくも……」
拳を振り上げると千春は小さく悲鳴を上げてガラス扉を押し開けた。透もそれに続き、近くに見つけたエレベーターに乗って階を上がった。
十五階でエレベーターを降り、一番奥の部屋の前で千春は立ち止まった。
「ここか?」
千春は真剣な表情でこくりと頷き、ドア横のボタンを押した。チャイムが響くがやはり反応はない。もう一度呼んでみて部屋からの反応がないことを確かめると、千春は先ほどの鍵を使ってドアを開けた。
「春美さん?千春だよ。入るね」
部屋の奥に向かって声を掛ける。しかし中からは何の物音もしない。透と千春は玄関で靴を脱ぎ、フローリングの廊下を足を滑らせるようにして静かに歩いていった。突き当りの部屋から灯りが漏れている。
ドアを開けるとそこはリビングだった。甘ったるいにおいが立ち込めている。菓子の袋、コンビニのおでんの容器やピザの箱などゴミが散乱して座る場所がないぐらいだ。キッチンのシンクには様々なアルコールの壜が何本もひっくり返っている。甘いにおいはその辺りから漂ってくるようだ。
「ひどいな」
「お兄ちゃんの部屋も、私が来る前はこんな感じだったけど?」
そう言われると返す言葉がない。透はゴミの間をすり抜けて窓を開けた。キッチンの換気扇のスイッチを入れる。十五階の冷たい空気が流れ込み部屋の中が少しずつ清められていく。振り返ると千春はリビングの隣の部屋を開けていた。
「春美さん、いないわ」
「困った人だな。どこに行ったんだろ」
二人は手分けをして春美を探した。
すぐに透はトイレの中で便器にもたれかかるようにして眠ってしまっている春美の背中を見つけた。顔を覗き込むと周囲には吐いた跡があった。口の周りや髪の毛にも吐瀉物がこびりついている。饐えたにおいが鼻についた。
「春美さん、春美さん」
肩を揺り動かし頬を叩いてみても春美は目を開かない。
透はとりあえずの処置としてトイレットペーパーで春美の顔の汚れを拭い取り彼女を抱きかかえた。近くで見る春美の顔は病人のそれだった。肌は粉を吹いたようにかさかさと荒れ、顔全体が血色悪くむくんでいる。たった二ヶ月程でこうも変わってしまうものかと透は驚いた。しかもよく見ると何かにぶつけたのか左の頬や口角の辺りが青黒く変色している。
千春にトイレ掃除を任せて春美を寝室に運ぶ。台所に戻りタオルを濡らして持ってくると再度顔と髪を拭いた。
春美の口からアルコールのにおいが立ちのぼってくる。シンクの大量の酒瓶。むくんだ顔。酒臭い口。アルコール中毒の罹患者を見たことはないが、春美はほぼそれに近い状態と言えるのではないか。病院の世話になる日も遠くないことは明らかだった。春美のこの状態を知っていれば千春の行動も頷ける。誰かが支えてやらなくては春美一人の力ではもう立ち直れないところまできているのかもしれない。
リビングに戻ると千春はゴミを片付けていた。
透も参加して手当たり次第ゴミを袋にまとめていく。ゴミ箱の周り、ソファの上、テーブルの下。部屋が少しずつ本来あるべき姿を取り戻していく様子は意外にも爽快だった。本来自分は掃除好きなのかもしれないと透は思った。
何とか格好のつくところまで片づけが終わり、L字型のソファにどっかりと腰を下ろすと、千春が紅茶を淹れて持ってきてくれた。不浄なゴミの臭気にいつの間にか慣れてしまっていた嗅覚に紅茶の自然で優しい芳香が心地良い。口に含むと程好い甘みと渋みが口の中に広がって、身体全体の力が抜けていくようだった。
「春美さんの旦那さんは仕事が忙しくって、この部屋に帰ってくるのは一月のうち二日ほどなんだって」
千春はティーカップを両手で包み込むようにして持ち、紅茶に話しかけるようにぼそぼそと語り出した。
大手証券会社に勤務していた春美の夫は結婚当初から多忙だったが、いくら遅くても毎日春美のところに帰ってきていた。しかし、結婚二年目に会社を辞めネット系の証券会社を起業したあたりから次第に彼は外泊するようになった。スケジュールは多忙を極め、講演等で泊りがけで出張することが増えた。家に帰る時間がもったいないから、という理由で職場に寝泊りすることも多くなった。
頑張っているのだから仕方ない、と春美は愚痴を言うことなく毎日広い部屋で一人寂しく食事を済ませ風呂に入り就寝した。しかしあるときひょんなことから夫の浮気を見つけてしまい、そのとき何かが春美の中で音を立てて崩れた。悔しかった。空しかった。何が本当でどこまでが真実なのか、夫の言うことがさっぱり信用できなくなった。目には目をという思いを抑えられなかった。何でも良いからとにかく自分を壊してしまいたくなった。携帯電話の出会い系サイトを駆使し次から次へと男を漁り、かつて結婚当初「誰にも触らせたくない」と夫に言われた身体を大勢の男たちの前に晒してみせた。和馬もその男たちのうちの一人だったらしい。
「春美さんは和馬のことをどう思ってるんだろう。やっぱり自分に群がる大勢の男たちの一人でしかないのかな」
「……そうじゃないみたい」
「じゃあ、一応特別な存在なんだ」
「うん。なんて言うかその……」
千春は言いにくそうに俯いた。見る見る首筋が赤くなっていく。「気持ちいいんだって。すごく」
「気持ちいいって……あれ、のこと?」
「そう。あれ」
「そんなに違うのか?」
「知らないわよ、そんなこと」
透は思わず唸った。透にはまだ理解できない領域だった。和馬が他の男たちと何が違うのか。確かに経験は豊富なのだろうが、あの勝気な春美がそこまで言うのだから、おそらくそれだけでは説明できない何かがあるのだろう。
「じゃあ、身体だけの関係なんだけど、特別な存在ってことなのかな」
「んー。身体が特別だからこそ身体だけじゃないみたい。春美さんが言うには、かずちゃんが他の人と何か違うことをしてくれるわけじゃないらしいの。同じことをするんだけど、かずちゃんの持ってるにおいとか重ねたときの肌の感じとか唇の厚さとかが春美さんにはびっくりするぐらい気持ちいいんだって。旦那さんともこんなにしっくりくることはなくて、で、こんなにしっくりくる人はこれから先の人生でももう二度と現れないだろうし、常にどこか身体を触れ合っていたいと思うらしいの。いつもそばにいたくて大切に思うんだって。春美さんはかずちゃんとの出会いは奇跡なのかもしれないって言ってた」
少しずつ口調が熱を帯びてくる千春の顔を見つめながら、透は千春の身体を想った。まだ自分の身体との相性のようなものを推し量る余裕などなかったが、自分たちの関係が春美の言う奇跡の出会いなのかどうかは自信がなかった。そうであって欲しいと思うし千春と身体を合わせることは病み付きになるような快感なのだが、そうであっても平凡な男と女の性交渉の域は超えられないのではないか、と寂しいような切なさを覚える。
「あんたたちここで何してんの?」
振り返ると部屋の灯りに眩しそうに目を瞬きながら春美がリビングに入ってきた。幽界から迷い込んだ死人のような顔色で、眼下には見事にくまができている。唇はプールから上がったばかりのような黒っぽい紫色で、髪も油気を失いぼさぼさに広がっている。
「春美さんが呼んだから来てやったんだろ」
透の言葉に春美は考え込むような顔をしたかと思うと、急に眉を顰め「イタタ」とこめかみの辺りに手をやりその場にしゃがみこんだ。
「春美さん、大丈夫?」
千春が慌てて駆け寄る。
春美は「大丈夫、大丈夫」と手で千春を制するが、一度しゃがみこむと一人ではなかなか立ち上がることができないようだった。
「春美さん、ちゃんと食べてるの?」
こんなことをぽろっと口にしている自分に透は驚いた。しかし、今の春美の不健康そうな様子がつい先日までの自分と重なって見えて、それだけに透は黙ってはいられなかった。
千春が抱きかかえるようにして春美を立ち上がらせソファに腰掛けさせる。
「春美さん、お腹空いたでしょ?今、おかゆ作るから待ってて」
「ありがと」
ぼそぼそと声にならない声で春美が礼を言う。顔にかかる髪の隙間からあの青痣が垣間見える。
「それ、殴られたの?」
透の指摘にキッチンに向かった千春の足が止まる。春美は慌てたように髪を掻き寄せて左頬を隠したが、今さらと思ったのか諦めたようにため息をついた。
「離婚してって言ったらね……」
春美の言葉に千春は悔しさと悲しさが入り混じったような表情を浮かべたが何も言わなかった。
透には千春の気持ちが理解できた。春美の行動から考えれば彼女には同情する気にもなれない。しかし、そもそも春美の夫が浮気をしなければこんなことにはならなかったはずなのだか。それなのに一方的に殴るという法はない。妻を殴るだけ殴って結局ほったらかしという態度も何か違う気がする。
突然春美の顎から手の甲へぽたぽたと滴が落ちていった。夏の夕立を思わせる粒の大きな涙が次から次へとこぼれていく。
透は「春美さん」と呼びかけたが何もできなかった。
「おっかしいなぁ。泣けてきちゃう。へへへ。ごめんね」
春美は指で何度も何度も頬を拭うが、伝い落ちる涙は止めどなかった。
泣いている春美は驚くほど小さく見えた。頬は窪んだようにやせこけ、首筋や腕の細さは栄養失調の子供を連想させた。何とかしなければ春美は近いうち死んでしまうのではないか。身体の衰弱もさることながら精神面での消耗度合いも著しいように感じる。その生気を失いつつある顔はまるで死神に魅入られたようだ。
「和馬に連絡してみたら?」
無責任な発言だということは透も十分理解していた。和馬と会うことで春美は余計につらい思いをすることになるかもしれない。しかし、春美は既に自分のことを自分で処理できる体力を失っている。本当は今すぐにでも病院に連れていった方が良いのかもしれない。春美が最悪な結果を免れるには、和馬に抱き締められてほんの僅かな時間でも安息を得るしかないのではないか。それ以外に助かる道はないように透には思えた。「和馬も連絡待ってるよ」
透の言葉に千春が小さく頷いたのが視界の端に確認できた。千春も透と同じことを考えていたようだ。
「そりゃ、会いたいよ。でも……、怖いの。見つかったらまた殴られるわ。もう殴られるの嫌なの。怖いのよ。どうしようもなく怖いの。もう私……いったいどうしたらいいの?」
春美は両手を顔に押し当てて大きな声をあげて泣き出した。
反射的なスピードで千春が春美のそばに駆け寄る。千春に抱き締められて春美は幼子のように泣きじゃくった。水難者のように助けを求めすがり付いてくる春美を優しく包みながら、千春は自分の力の無さを悔やむように下唇を噛締めていた。