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夕方六時を過ぎてもクリニックは混雑していた。受付終了時刻の三十分前になっても客足は鈍らない。透と同じように会社帰りと思しきスーツの男性が多く、自分と同じような境遇の人が他にもいるということに少し救われるような気持ちになる。それぞれ雑誌を眺めたり携帯電話をいじったりしながら順番を待っている彼らは皆、特に顔色が悪いわけでもびくびくと挙動不審なわけでもない。外見的にはビル街を颯爽と歩いているサラリーマンと何ら変わらない。しかし、ここにこうして座っているということは精神的な不調を自覚して、それを治療したいがために医師の診察を待っているということだ。彼らは努めて平然そうに見えるように振舞っているのだろうか。いや、彼らの居住まいには何かを装っているような不自然さは見当たらない。きっと今の姿が平生の形なのだ。つまり現代のビル街に勤務している普通のサラリーマンにとって精神疾患は珍しいものではなく、メンタルクリニックは世間一般に特別な場所ではなくなってきているのかもしれない。
「神谷さん。診察室にお入りください」
受付で名前を呼ばれ、立ち上がると近くに座っていたサラリーマン風の男性と目が合った。彼も雑誌に目を落としながらも透のことを観察していたのだろう。彼の目には自分はどう映っていたのだろうか。また一人、特徴のない普通のサラリーマンが風邪のような心の病を少しこじらせて今から診察を受けるのだと思われているのだろうか。
自分は特別な存在ではないのかもしれない。他人に言えない過去を持ち他人に見せられない傷を背負っていると思っていたが、世間から見れば黒っぽい色のスーツに身を包んだ大勢の現代人の一人でしかないということなのか。そんなことを考えながら透は診察室のドアを開いた。
椅子に座ると、相変わらず医師はカルテに何かを書き込みながら顔を起こさずに診察を始めた。
「どうですか?」
「……どう、って?」
医師はいつものように曖昧な質問を放り投げてくる。
「先週から仕事に復帰したんだよね?出勤できてる?」
医師はちらりとこちらを見て、すぐに手元に視線を落とした。
「そうですね。まあ、なんとか」
そう答えると医師はさらになにやら書き込んでいく。そこに何が書いてあるのかはさっぱり分からない。
「やっぱり緊張した?それとも意外にすんなり?」
「緊張しましたね。みんなの目には自分がどう映ってるのか気になりましたし」
「周囲の人の接し方はどういう感じ?受け入れてくれてるような雰囲気はある?」
「冷たい感じはないですね。長期で休んでた僕をどう迎えたらいいか、少しずつ探りながら距離を詰めていくみたいな」
「なるほど。一週間でその距離は縮まったかな?」
「そうですね。縮まってきてると思います」
「サポートもしてくれる?」
「それなりには。でも、年度末の忙しい時期なんで、みんな自分の仕事で精一杯っていうか」
「そうか。でもまあ、あんまり頑張り過ぎないように。ここが一番大事な時期だから」
言葉は優しいが目はカルテに落としたままでは響きも軽い。見つめ合って励まされるよりも圧迫感がなくて楽なのは確かだが。
「食欲は?」
「まあまあ、あります」
「疲労感や倦怠感は?」
「仕事から帰るとどっと疲れますが、倦怠感はありません」
「眠れてる?」
「寝つきがいいわけじゃないですけど、まあ、なんとか」
「薬飲んでる?」
「飲んでますけど量は減らしてます」
「そう。それで悪化した感じはない?」
「今のところは」
「最近、自分の中でこれは変わったなって思うことはない?」
「変わったこと……。そうだなぁ……。そうだ。部屋のカーテンを、窓を毎朝開けるようになりました」
透がそう言うと医師は驚いたように顔を上げた。眼鏡の縁を押さえて透の顔を覗き込む。
「そう。それはいい。最近、すっかり春めいてきたからね」
医師は笑って満足げに頷いた。透は初めてこの医師から人間らしい表情を見たと思った。
思わず釣られて透も微笑み返す。しかし、そのときにはすでに医師の視線はカルテに落ちていた。肩透かしを食らったような気分だった。
「薬、とりあえず同じ量出しとくね。飲み方は任せるよ。飲まなくて済むのならその方がいいけど、まだ飲んでおいた方が無難かな」
「分かりました」
「他に何か言っておきたいことはある?」
医師はカルテの上でペンを動かしながら口ではそう言った。しかし、顔も起こさないではこちらも何かを話そうという気にはなれない。
「特には」
「じゃあ、今日はこれでいいですよ」
医師の視線はもうこちらに戻ってくることはなかった。
透は少し憮然とした表情で腰を上げた。今後この医師との会話でこれ以上何かが良化するようには思えなかった。医師もそう思っているから素っ気無い態度を示すのだろうか。どちらにせよこの医師を必要としなくなる時期が近い将来やって来る。そう考えたとき透は背筋に決して不快ではない緊張感が走り、全身の皮膚が粟立った。この予感は自信と呼べるものだと思った。回復への手応えというものを確固たるものとして体感した瞬間だった。