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 電話を切るやいなや透は立ち上がり壁に手をついて背筋を伸ばした。

 背中の筋肉がつっていたのだ。


「イタタタタ」


 筋肉の異変は電話のコール音のときに始まっていた。

 つまり今電話を終えるまで終始背中に関節技を極められているような痛みを感じながら会話をしていたことになる。

 電話は五分も掛からなかったが、その長かったこと。

 やはり過度の緊張のせいだろう。

 意図しないところに予期しない強さの力を加えてしまったのか。

 日ごろの運動不足が筋肉のバランスを失わせていたのかもしれない。


 背中の痛みが和らぐとともに胃袋が弛緩していくのが分かる。

 雑巾のように絞りあげられてせり上がっていた胃の腑が、みぞおちのあたりで柔らかく広がっていくような感覚がある。

 気がつけば脇も背中も掌も汗でぐっしょりとしていた。

 着ている服がやけに重く湿り気を含み、身体にまとわりついている。

 透は大股で部屋を横切りカーテンを、そして窓を思い切り開けた。


 透の身体を包んだ風は想像していたほど凍てついたものではなかった。

 内側からカッカと火照った身体を持て余し、清冽な真冬の冷気で鎮めたいと期待したのだが、透を待っていたのは穏やかな春の陽光だった。

 そういえばと透はカレンダーの掛かっている壁に視線を向けた。

 昨日から三月になっている。


「ひゃあ。さっぶい」


 千春が大げさに泣き言を言って透を非難する。


 しかし、透は聞く耳を持たず、さらに窓から身を乗り出すようにして外気に我が身を晒した。

 窓から見える家々の屋根が日差しを照り返し光が波を打っているように見える。

 数日前まで空を覆っていた分厚い雪雲は跡形も無く消え、飛び交う鳥の鳴き声も威勢が良い。

 大きく息を吸い込むと土の香りや草木の芽吹きを感じさせるような青々とした爽快さがあった。

 長かったようで短かったような今年の冬が確実に終わりに近づいている。


「もう、いい加減に閉めてよ」


 透はもう少し冷たい方が気持ち良いぐらいに思っているのだが、振り返れば千春がヤドカリのように肩までこたつの中に入り込んで、しかめっ面をこちらに向けている。

 先ほどまで色鉛筆を走らせていたスケッチブックも閉じてしまっていた。


「外は春みたいな陽気だぞ」


「寒いものは寒いの」


「風邪でもひいたんじゃないのか?」


 ここのところ千春の顔色が冴えないような気がする。

 真冬の寒さの厳しい時期よりも、今日のように少し春めいた穏やかな日の方が心身ともに緩みがちで、意外と体調を壊しやすいということもある。

 透は窓を閉め、千春の傍らに腰を下ろして掌を彼女の額に当ててみた。


 千春はされるままに大人しく目を閉じた。


 伝わってくる千春の体温は心持ち高いようだった。

 しかし、この部屋には体温計というものがない。


「ちょっと熱があるみたいだけど?」


「そんなことないよ。私の心配するよりも自分の心配したら?」


 千春の言うとおりだった。


 先ほどの電話の相手は景山教頭だった。

 今回連絡を取ったのは透の方だ。

 職場復帰をしたいというのがその内容だった。

 やれるだけのことはやってみようと思ったのだ。

 とりあえずもう一度教壇に立つ。

 立った結果としてやっぱりだめだ、自分には無理だと分かったときには気持ち良く教師を辞めることができるのではないか。

 もちろん自信があるわけではない。

 透のような心の病の場合、今どのぐらいの病状にあるのかは誰にも分からず、元の生活に戻ってみてその結果から初めて身体の本当の調子を判断できるということがある。

 職場復帰は賭けだった。

 しかし残された時間はもうなかった。

 ここで復帰しなければ教師としての自分に戻る道には二度と爪先を向けることはできなくなる。

 たとえ万に一つでも可能性がある限りは勝負したい、と透は考えられるようになっていた。

 こんな風に考えられるようになったのは隣でこたつに寝そべっている千春のおかげだった。

 千春の生きる姿をまざまざと目の当たりにして透の考え方も変わったのだ。


 景山教頭には断られるかもしれないと半分覚悟はしていた。

 駄目だったら辞める、という申し出は自分勝手な言い分だということは透にも分かっていた。

 学校側としては透の賭けに付き合う必要はない。

 透が失敗すれば学校側は新しい教師探しをそこから始めなくてはならず、新学期にいきなり教師の駒が足りなくなる事態に陥る。


 しかし、景山教頭は透の申し出を快く了承してくれた。


「いきなり授業を持つのは精神的に負担が大きすぎるでしょう。とりあえずはテストの採点や成績付け、新年度を迎えるこまごまとした準備など、他の先生の手伝い的なことから始めてください」


 そう言ってくれた。

 それだけでも神谷先生がやってくれるなら全然違うから、と。


「見る?」


 千春は寝転んだままスケッチブックに手を伸ばし、描きかけの絵を開いて見せた。

 そこには悲愴な顔で携帯電話を耳に当てている透がいた。

 自分でも想像していなかった険しい顔だ。


「お兄ちゃん、戦ってた。あのときみたいだったよ」


 言われて思い出したのは千春が最初に見せてくれたバスケットボールの試合中の透を描いた絵だった。

 汗を振り撒き前を見据え周りに何事かを指示しながらゴールに向かって駆け上がる。

 あの時と同じ真剣な眼差しがそこに描かれていた。


「道理で疲れるはずだよ」


 そう言って千春と同じようにこたつに足を伸ばし寝転がろうとするところで電話が鳴った。


「春美から連絡ないか?」


 透が電話に出るや否や和馬が急き込んだ様子で訊ねてきた。


「春美さんから?」


 何となくチラッと千春の顔を確認する。

 千春は先ほどと変わらずこたつに埋もれたまま目を閉じていた。


「ないけど。どうした?」


「俺も知らなかったんだが、あいつ、実は結婚してたんだ。それで、この前旦那がホテルに乗り込んできてよ。そんとき春美を連れて帰っちまってから、あいつと連絡が取れねぇんだ。住所は知らねぇし携帯に電話しても『現在使われておりません』で困ってんだよ」


 何を困っているのだろうか。

 和馬の焦りように透は違和感を覚えた。

 透の胸中に蘇るのは大晦日に飲みに連れ出されたときのことだ。

 あのとき透は和馬に頼まれて、彼の女性関係を二件解消した。

 しかも一人は春美と同じ人妻であり、彼女と別れることができて和馬は天にも昇らんばかりの喜びようだった。

 「女って生物はどうしてこうもしつけぇのか」と嘆いていた和馬はどこに行ってしまったのか。

 いつもの和馬なら夫に乗り込まれるような醜態を晒す前に春美との関係を清算していただろう。


「諦めて次を探せば?」


 和馬は今まで次から次へと女性をつまみ食いしてきた男だ。

 こっちの羊に逃げられたら、あっちのシマウマを襲うのが肉食動物の発想ではないのか。


「馬鹿言え。このまま引き下がれるか」


 執着という言葉の対極に存在するような和馬が妙なところで意地を張る。「あいつ、やけに千春ちゃんのこと気に入ってたから、絶対に連絡があると思うんだ。電話が掛かってきたら連絡先を聞き出して、それが無理でも俺が連絡欲しがってたって伝えてくれ」


 和馬は何度も「頼むぞ」としつこく繰り返した。

 この強引さには勝てたことがない。


「分かったよ。伝えりゃいいんだろ。伝えた後で春美さんが実際に連絡を取るかどうかは俺の知ったこっちゃないからな」


 突き放すように言い捨てると、和馬は「分かってるよ」と元気なく呟いた。

 その元気のなさに透は一つのことに思い至った。

 和馬は本気だ。

 本気で春美のことを愛してしまったのだ。

 そして春美と連絡を取る策が手詰まりで全く見当たらないのだろう。

 困惑している和馬の顔が目に浮かぶ。

 透は和馬に同情している自分に驚いていた。

 今まで和馬が何かに失敗したことがあったとき、自業自得だと蔑み嘲ることはあっても、和馬の気持ちになって考えたことなど一度もなかった。

 ところが今は何とか和馬の力になってやれないかと思っている。

 それは今、自分が精神的に満ち足りているからなのだ、と思った。

 千春との出会いをきっかけに透の中で明らかに何かが変わり始めている。


「なあ、透」


「何?」


「人妻と結婚するのって難しいのか?」


 透は返す言葉に詰まった。

 和馬は春美と連絡を取れない状況に疲弊しきっている、と思った。


「結婚したいのか?」


「悪いかよ」


 そう吐き捨てるように言って、和馬は一方的に会話を終わらせた。


 相変わらず勝手な奴だ、と思ったが今日ばかりは透も怒る気になれなかった。


 気付けば千春は壁にもたれて再びスケッチブックの上で鉛筆を踊らせている。

 強く握り締めた色鉛筆を武器として、まるで何かと戦っているかのように紙に挑んでいる。


「どうしてそんなに絵ばっかり描いてるんだ?」 


 透は「絵が好きだからよ」というような千春らしい単純明快な答えを予想していたが、意外にも千春は鉛筆を止め、ゆっくりと一つひとつの言葉を紡ぎ出すように口にした。


「描いておきたいからかな。見たこと感じたこと思ったことを全部絵として残しておきたいの。私、馬鹿だからどんなに感動したことでも少しずつ忘れちゃう。だから、いつでも絵を見たらそれがどんな風景だったか、その風景を見てどんな感動をもらったか、どんなことを思ったかをほんの小さなことまで細大漏らさずパッと思い出せるように自分の手で描いておきたいの」


 口を閉ざした千春は、自分が喋った言葉が文字となって目の前に見えているかのように中空を見据え、やがて満足そうに頷くと再びスケッチブックの世界に戻っていった。


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