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 部屋に戻ると、相変わらず千春は部屋の壁に凭れスケッチブックに絵を描いていた。

 透に気付いているのかいないのか、例のごとく眼球が零れ落ちそうなほど目を真ん丸に開いて、せっせと鉛筆を動かしている。


 透はダウンジャケットも脱がずに倒れこむようにしてベッドに横たわった。

 着膨れした身体がベッドになじまない。

 身体を起こして強引にダウンジャケットを毟り取ると、適当に床に放り投げて再びベッドに寝転んだ。

 枕に埋めた顔を少しずらして千春の姿を確認する。


 やはり千春は一心不乱に絵を描いていた。


 透は千春に聞こえるように盛大にため息をついた。


 それでも千春の手は止まらない。


 あれだけ打ち込めるものがあるというのは羨ましいことだ、とぼんやり千春を眺める。

 身体全体でキャンパスブックに挑みかかるような千春の鬼気迫る姿勢は、得体の知れない妖怪にでもとりつかれているのではなかと疑いたくなるぐらいだ。

 絵を取り上げられたら死んでしまう。

 あるいは目前に迫った死を前に一枚でも多く描きあげたい。

 そう考えているのではないか、と思わせるほど、千春の絵への専心ぶりは激しい。

 自らの命を鉛筆の芯に宿すようにして一枚の絵を描き上げたときに得る達成感といったら相当のものだろう。

 何か一つの物事に深くのめりこんでしまうことにより、たくさんの何かを犠牲にしてしまっているということはあるのかもしれない。

 しかしそのマイナス面など全く目に留まらないほどの充実感がきっとそこにはあるに違いない。


 千春にとっての絵のように自分にも一切の雑念を捨てて集中できる何かがあれば、と透はよく思う。

 それさえあれば今の不安定な精神状態などすぐに治癒するはずだと。

 しかし、だからと言ってその何かを探そうという気にはなれなかった。

 なぜならそれは探そうとして見つかる類のものではなく、運命というものがこの世にあるとするならば、見つかる見つからないはまさしく運命そのもののように思うからだ。

 その何かに出会えるのはごく限られた、出会うための能力を持った人間だけであり、大多数の人間同様自分にもその能力は備わっていないらしい、と透は千春と暮らすようになって思うようになっていた。

 透は自分について考えてみた。

 教師という職業は自分の口に糊するための手段でしかなく、天職という自覚は全くない。

 今後幸運にもトラウマが払拭でき復職できたとしても、教育という仕事に寝食を忘れてのめり込むようなことには決してなれない気がする。

 株や競馬、テレビゲームなども頭のどこかで他所事を考えながらやっているところがある。

 そして他の物事にも特に興味など持っていない。

 つまるところは透と千春は身体のつくり、持って生まれたものが違うということなのだろう。

 ダイヤモンドの原石のような荒々しいまでの輝きを見せる千春が、吹き溜まりの隅で腐敗しかけている濡れ落ち葉のような自分のことを「好きだ」と言っていることが、透にはやはり信じられない思いがする。

 同じ部屋のすぐそこにいる千春が果てしなく遠いところにいるような感覚に陥る。

 近い将来千春は自分を置き去りにしてこの部屋を出て行くだろう。

 透はその予感に襲われ、心のどこかが凍えたような気がした。


「何描いてるの?」


 胸に迫る寂しさに思わず声を出していた。

 呼びかけるというよりも手元に手繰り寄せるように。

 しかしすぐには返事が返ってこなかった。

 予想していたとは言え落胆がないということにはならない。

 八畳の部屋が透には無限の広野に見えて透は壁に向かって寝返りを打ち、千春に背を向けた。

 目の前に動かない広い壁があるとどこかほっとできた。


「寝てるお兄ちゃん」


 千春の楽しげな声が背後に聞こえる。


「寝てちゃ悪いかよ」


「違うよ。これ見て」


 身体は壁に向けたまま顔だけで千春を振り返る。


 千春はスケッチブックを透に向かって広げていた。

 そこに描かれているのはベッドに眠る透だった。

 うつ伏せで顔半分を枕に埋めて眠るのは透の癖だった。


 透は目を凝らした。

 布団から出ている上半身は何も身につけていない。

 あるはずのケロイドに爛れた火傷の跡がそこには描かれていない。

 気を遣ったのではないだろう。

 千春はまだ俺の背中を、俺の正体を見たことがないのだ、と透は思った。


「教頭先生とお話できた?」


 千春は急に透の目から隠すようにスケッチブックを仕舞い、話の方向を転換した。


 不意にアドゥマンでの景山教頭の言葉が耳に響く。


 いつまでもこのままの状態を続けることができないということはお分かりでしょう。

 確かに制度のことを言えば、まだあと一年以上はお休みいただけます。

 しかも神谷先生の場合は勤務時間中の事故がきっかけであり本当に同情を禁じえない。

 しかし、学校経営も楽ではないのですよ。

 理事長には顔を合わすたびに人件費が高い、教師の数をもっと減らせないのかと注文をつけられている。

 酷なことを言いますが神谷先生のことについて理事長は昨年末から、復帰のめどが立たないのなら退職金に若干色をつけてでも辞めさせるべきではないか、とおっしゃっています。

 現場を預かる私としても他の先生に業務量のしわ寄せが続いている現状をいつまでも放っておくわけにはいかない。

 神谷先生に戻ってきていただけるのが一番なんですが、それが叶わないということなら次善策ということも、やはり考えざるを得ない。


 景山教頭は見事に渋面を崩さず、いかにも言いにくいことをやむを得ず口にしているという空気感をまといながら、淀みなく言いたいことは全て言ってのけた。


「このままだと年度末、三月いっぱいでクビだとさ」


 透はベッドに横たわったまま眠そうな振りをして軽い口調で報告した。


 辞めるのなら早く辞めてもらわないと次を雇えない。

 景山教頭の言いたいことはつまりそういうことだった。

 改めて現実を突きつけられてみると、どことなく吹っ切れた感じはある。

 半ば想像していたことでもあり、思っていたほどの衝撃もなかった。


「だとさって……。他人事みたい。お兄ちゃん、いいの?ほんとにこのまま辞めちゃっていいの?」


「仕方ないだろ」


 便利な言葉だ。

 しかし世の中には「仕方ない」で片をつけなくてはならないことが意外と多い。


「でも、このまま仕事を失ったら、お兄ちゃんきっと……生きていけないわ。お兄ちゃんは真面目な人だもん。こんな暮らし続けてたら、近い将来身体壊して死んじゃうよ」


 熱い口調で透の人生を心配する千春に透は温度差を感じる。

 当の本人が諦めようとしているのにどうして横から茶々を入れるのか。

 人生はなるようにしかならないのだ。

 行きつくところまで行けばゲームオーバーになるだけだ。


「もういいんだよ。死んでも」


 思えばあの二十年前の火事で自分は死んだようなものなのだ。

 母を見殺しにし、自分もその母の道連れにあのまま業火に巻かれて死ぬはずだった。

 それがどこかでボタンを掛け違えて敢えなく死に損なってしまった。

 そう思うとあのとき死に切れず、苦しみぬいて生にしがみついてきた今までの自分は何と無駄なことをしていたのかと感じられてならない。


「馬鹿なこと言わないでっ!」


 目に溢れんばかりの涙を溜めて、突如千春が怒り出した。


「千春?」


 透はベッドの上に身を起こした。


「ねぇ、お兄ちゃん。お兄ちゃんは何のために生まれてきたの?」


 鉛筆を操っていたときとはまた異質の、それこそ髪が逆立ちそうなほどの圧倒的なオーラを身体全体から発して千春が睨みつけてくる。


「何のためって……」


 予想外の千春の攻勢に思わず腰砕けになりそうになるところを透は何とか堪えた。「そんなこと知るかよ。お袋にでも訊いてくれ。まぁ、俺のお袋は二十年前に火事で死んぢまったから、訊くにはあの世に行くしかないけどな」


「違う。違うよ、お兄ちゃん」


 自嘲気味に笑う透の笑っていない目を覗き込みながら千春は諭すように話しかけてきた。「生まれてきたのはお兄ちゃん自身でしょ?お母さんがお兄ちゃんを産むっていう行為と、お兄ちゃんがお母さんから生まれてくるって行為は同じようで全く違うことだわ。確かにお母さんはお兄ちゃんを産んだ。そしてお亡くなりになるまでお兄ちゃんを育てた。それはお母さんにとって偉大な体験で、その体験をするためにお兄ちゃんを産んだのよ。でもお兄ちゃんはお母さんにその体験をさせるためだけに生まれて来たんじゃないわ。お兄ちゃんにはお兄ちゃん自身の大切な何かのために、この世に生を享けたのよ。その何かって何?」


 透は混乱した。

 千春が言っていることの意味は分からなくはない。

 しかし、突然千春が命や生まれてきた理由について問いかけてくるとは思いもよらなかった。


「何言ってんだよ。分っかんねえよ、そんなこと」


「分かんなくないっ!ねぇ、お兄ちゃん。答えは一つしかないんだよ」


 千春の視線が熱すぎて透は正視できない。


「俺が何のために生まれてきたか?そりゃ、結局死ぬためだろ。人間誰しも死ぬんだ。人間だけじゃない。この世に生きとし生けるものは必ず死ぬんだよ」


「それは違う。生まれてきたのは死ぬためだなんて本気で、……本気でそう思ってるのなら今ここで死んで見せてよ!」


「無茶言うなよ」


 千春を突き放すように透は鼻で笑って見せた。


 しかし、千春は透の意図に反してさらに透に食いついてくる。

 唾を飛ばし頬を朱に染めて千春は生と死を語った。


「無茶言ってるのはお兄ちゃんよ。生きているのは死ぬためなんかじゃない。死ぬためだとしたら、どうして死ぬのが怖いのよ。私は死ぬのが怖いわ。自分が死ぬことを考えたら怖くて怖くて泣けてくるし震えてくる。お兄ちゃんだって死にたいはずがない。したくないことをするなんて自分の人生に素直じゃないわ。人生に逆らうようなことが、どうして生きるっていうことになるのよ」


「それは……」


「生きるってことは体験するってことだよ。お兄ちゃんが生まれてきたのはお兄ちゃん自身がこの世界でいろんなことを体験したいからなの。体験って、何かを経験してそして自分の心の動きを感じることよ。経験を通じて何かを感じる。それが喜怒哀楽のどれだろうと構わない。その抱いた感情こそが生きている証なのよ。お母さんはお兄ちゃんを産んで育てて、それでものすごく多くの喜怒哀楽を感じたのよ。お母さんにとってそれが生きた証。お兄ちゃんこそがお母さんにとって生きるってことだったのよ。じゃあ、お兄ちゃんにとって生きてる証って何?この狭い部屋に居続けることで何を体験できるの?」


「そりゃ、ゲームだとかインターネットだとかで何だって体験できるさ」


 空しいことを言っている、と透は思った。

 我ながら貧しい発想だ。

 この程度のことしか言えない今の自分に透は大きく失望せざるを得なかった。

 それは先ほど景山教頭に退職を示唆されて受けたショックよりもはるかに大きかった。


「確かにそれも体験よ。でもね、ゲームなんて所詮誰かが考えたプログラムをなぞらされているだけのことじゃない。あらかじめ用意された体験コースを歩いているに過ぎないわ。そんなコースで得られるものなんて高が知れてる。ネットで為替や株の取引をしてお兄ちゃんは何か感じてるの?たとえ感じてるとしてもちょっとした後悔や失望でしょ。いつまでもそれじゃもったいないわ。この世に生きている人たちと交流してこそ本当の体験ができるのよ。この世がお兄ちゃん一人の世界だったとしたら、たとえどんなにすごいことを、例えば宝くじで一億円当たっただとか、フルマラソンを完走しただとか、そういうことを経験しても意味ないと思わない?その経験を誰かと共にしたり、その経験で感じたことを誰かに伝えたりする。それでこそ感情が大きいものになるのよ。本当の喜怒哀楽を感じることができるの。お兄ちゃんにとっての身近な社会ってやっぱり職場である学校なのよ。それが一番自然だと思うの」


 透は言葉を詰まらせた。

 千春の正論に崖まで追い込まれて逃げ道を必死に探した。

 逃げることは楽なことだ。

 透はこの一年余りの引きこもり生活の中で目先の楽だけを選択して生きてきた。


「じゃ、じゃあ、千春にとっての社会ってなんだよ」


「今はお兄ちゃんよ」


「そんなの支離滅裂じゃねぇか。千春の言う社会ってもっと大勢の人間がいるところなんだろ?言ってることが矛盾してるよ」


「矛盾なんかしてないわ。問題は人の数じゃない。私にとってはお兄ちゃんと一緒にいることが最も生きてるって感じられるのよ。お兄ちゃんと同じ空気を吸っていることが私にとっての生きる証なの。だから、死んでもいいだなんて馬鹿なこと言わないで。私にとってお兄ちゃんはかけがえのない存在なの。それに、お兄ちゃんなら絶対にやり直せるから」


 お願い、と千春は大きく蒼い瞳を潤ませる。


 透は吸い込まれそうになるその瞳から懸命に目を逸らした。


「馬鹿なことじぇねえよ!俺にはもう無理なんだ。もう自分の人生に見切りつけたからどうでもいいんだよ。もう諦め切ったんだ。俺は毎日毎日、明日が来なければいいのにって思いながら暮らしてるんだ。未来を見るのが怖くて怖くて仕方ないんだよ。俺のことを何も知らないで、無責任に『絶対』だなんて言うな!」


 吐き捨てるように言った透の前に千春はゆっくりと立った。

 黙って透を見下ろしている。


「何だよ」


 見上げると千春の顔からは表情と言えるものが消えていた。

 瞳から光が消え能面のように色の無い凍りついた相貌で置物のように動かない。


「俺があまりに哀れで、掛ける言葉が見当たらないんだろ?」


 鼻を鳴らすようにして自らを嘲る透の手首を不意に千春が掴む。

 予想外の強さで千春は透の手を引き寄せ自分の右胸に宛がった。

 透は千春の突然の意味不明の行動に抗うことができず、されるがままとなり、そしてその右手の感触に驚いた。

 右手からは柔らかさも弾力も全く感じられない。


「私の気持ちも知らないで、軽々しく諦めたなんて言わないで」


 投げ捨てるようにして透の腕を突き放すと、千春は自分の上着に手を掛けた。


「千春?おい、何すんだよ」


 ジャージの上着を脱ぎ、その下に着ていたロングTシャツを引きちぎるように脱ぎ去ると、呆気に取られる透の前で瞬く間に千春の上半身はブラジャーだけになった。

 決して暖かいとは言えないこの部屋の中で、千春の頬は見る見る上気して赤らんでくる。


「これが、私の身体よっ!」


 叫ぶように言うと躊躇なく千春はブラジャーを剥ぎ取った。


 そこに現れた乳房は一つだけだった。

 左の胸にその小振りだが形の良い女性の象徴とも言える膨らみがある。

 それに対して右側はあるべきはずの実りがなく、脇の下から鳩尾の近くまで長くて太い百足のような傷痕が走っていた。

 眩いばかりの白く肌理の細かい肌をグロテスクに這う赤黒い傷痕はあまりにも異質で際立って見えた。


 透は思わず目を伏せた。

 羞恥で目のやり場に困ったのではなく、その傷の痛々しさに正視できなかったのだ。


「見て!」


 千春は透の顔を両手で挟み自分の胸に向けさせた。「これがこの世にたった一つの私の身体なのよ。私、この胸でも生きてるわ。おっぱいがなくったって、こうしてここで息をしてるの。お兄ちゃんと生きていたいの。お兄ちゃんといろんなことを体験したいのよ。だから……だからお兄ちゃんも生きて」


 千春の肩は震えていた。

 それが寒さのためなのか、興奮しているからなのかは分からないが、透には痛ましいばかりの風景だった。


 透はベッドから降りて千春を抱き締めた。


「分かった。分かったからもう服着ろよ」


「嫌っ!お兄ちゃんも服脱いで。脱いでその身体を、そこにあるものを私に見せて!」


 言うが早いか千春は透の着ているトレーナーを捲り上げた。

 透に全体重を預け押し倒すようにしてベッドに転がる。

 透の腹部が露わになり皮膚が引き攣られた火傷の痕が露わになった。


 透は観念したように目を閉じて、自分の上に馬乗りになった千春のなすがままにした。

 千春は背中から脇腹にかけての火傷に気付いているのだろう。

 全てをさらけ出している千春の前でこれ以上何かを隠すことなどできなかった。

 トレーナーとTシャツを同時に剥ぎ取られて透は千春と同じ格好になった。

 目を開かなくても千春が脇腹から背中にかけてのケロイド化した皮膚を見下ろしているのがわかる。

 しかし透の心はいつになく平穏だった。

 二十年近く前のあの火事のとき以来忘れていた心の平穏を味わっていた。

 千春には何のためらいもなく火傷の痕を見せることができていた。


 求めていたのだ、と透は悟った。

 火傷を負った身体を見せられる誰かを探して今まで生きてきたのだ。

 そしてそれを今果たして漸く背負っていた重荷から解き放たれた。


 ふと透は脇腹に柔らかい感触を覚えた。

 指ではない。

 腹部に顔を埋めた千春の唇が這っているのだ。

 その周囲を千春の長く冷たい髪が撫でるように滑っていく。

 こそばゆいような甘い感触が糜爛した火傷の痕から電流が走るように全身に伝わる。

 少しざらざらとするその肌触りは千春の舌のようだ。

 千春の唾で濡れた辺りがひんやりと冷たい。


「怖くないのか?」


「お兄ちゃんこそ」



・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・



「駄目だぁ。俺、全然駄目だった」


「私も全然駄目だったよ。すぐいっちゃったもん」


 千春は少し恥かしそうに付け加えた「でも、すっごく気持ち良かったよ」


 俺も、と透は頷きゆっくり目を閉じた。


「ちょっと息が上がって疲れたなぁ。身体が揺れてるような感じがする」


「私も。何だかまだ胸のドキドキが治まらないし」


 そう言って千春は透の裸の肩に額を寄せた。

 千春の柔らかな息遣いが透の二の腕に当たる。


 透は黙って左側から伝わる千春の温度の心地良さに神経を集中させた。

 その心地良さがいつの間にか透の口を、心を自然と開かせていた。


「小学生のときに家が火事になったんだ」


「うん」


「俺の母親は元々身体が弱かったんだけど、今思えば更年期障害も重なってたのかな。時々ふらっと目まいがして立っていられないときがあったんだ。それがある日料理中に出ちゃって。そのとき油のボトルも倒れて台所が一気に火の海になった。居間でテレビを見ていた俺が気がついたときには家中に火の手が回ってて、逃げようにも巨大な炎の熱さ、怖さに腰が抜けちまって逃げられなかった。そのとき目の前で母親が焼け死ぬところを目の当たりにして、俺も火傷を負った」


 背中から脇腹にかけてあのときの皮膚を焦がす熱さが蘇ってくる。


「うん」


「それからは火を見ることがすごく怖くなっちまったんだ。汗が噴き出て、喉が渇いて、息苦しくなって、ぶるぶると震えが止まらなくて。だから極力火を遠ざけて生活してきた。煙草は一度も吸ったことはないし、花火もやったことないし、料理にはガスコンロじゃなく電気プレートを使う。そういう生活を送っていて十年、十五年と経ってもやっぱりあの火事のことは忘れることができないんだ。身体の火傷の痕を見る度に火の海に残された母親の顔だとか、生きているように近づいてくる炎の塊だとか、自分の身体が焦げていく音だとかが鮮明に頭の中に蘇ってくる。それに常に頭のどこかであの日起きたことが繰り返し繰り返し映像として流れてるんだ。時々身体が燃えて爛れる夢を見るし。一日たりとも心が休まったことがなかった」


「うん」


「職場の学校で文化祭があったんだ。最後にキャンプファイヤーをした。そのときの炎が俺の背中に飛んできた。実際は火が爆ぜて燃えた小さな布切れが飛んできただけだったんだけど、肩口に燃える火を見て、俺は完全にパニックになった。逃げ惑い生徒にすがりついて怪我を負わせ、最終的には気を失って救急車で運ばれた。それからは誰にも合わす顔がなくて……。この部屋に引きこもっちゃった。そのときから職場には一度も顔を出したことがない。それが今までの俺の暗い人生なんだ」


「うん」


 千春は透を遮ることなく最後まで一言も口を挟むことはなかった。

 驚きも怯えも見せず静かに隣に横たわっていた。

 時折小さく頷くことで眠っているわけではないことは伝わってきた。

 和馬から凡そのことは聞かされていたのかもしれない。

 そうでなければ透自身でさえも目を背けたくなるほど醜く爛れた皮膚に進んで手を伸ばし、あまつさえ唇で触れ舌で舐めるような真似はできなかったはずだ。

 千春は自分の胸の傷痕を見せ、心に抱えている暗部の大きさを示すことで透に心を開かせた。


 身体に傷を負った千春に対してでなければ透は自分というものをさらけ出すことはできなかっただろう。

 今度は俺の番だと透は思った。

 底なしの明るさを装っていても、あれだけの傷を持っているのなら千春も心のどこかに癒しきれない痛みを抱えているに違いない。


 透は千春の告白を待った。


 千春は先ほどから変わらず透の腕に額を押し付けて黙ったままだ。

 熱く湿った大きな呼吸をずっと繰り返している。


 彼女は今戦っている。


 それは、やり遂げた透には分かる。

 傷痕が大きければ大きいほど、深ければ深いほど、そのことについて全てを思い出し口にすることは勇気が必要となる。

 彼女なりのタイミングで話し出すのを待つしかない。

 透はそっと千春の手を握った。


「乳癌だったの」


 ぼそっと千春は言った。そして小さく息を漏らした。


「いつ?」


「分かったのは十五のとき。高一の夏」


「……そっか」


 千春が一年生のとき二歳違いの透は三年生だ。

 千春は友達に誘われてバスケットボールの試合を観戦したと言っていた。

 透の高校最後の試合を観ていた彼女の右胸にはすでに病巣を宿していたことになる。


「若いと進行も早いって。すぐに手術しないとリンパ管から全身に転移する可能性が高いって。……おっぱい取っちゃって、私の人生終わったと思った。お医者さんは胸の再生手術を勧めてきたけど、偽物のおっぱいつけることに何の興味も持てなかった」


 透は軽く顔を起こし口を開いたが掛ける言葉が見当たらずに、ゆっくりと枕に頭を戻した。

 千春にとっては神からかけられても慰めの言葉は白々しく聞こえてしまうだろう。


 乳房を失った十五歳の少女の眼前にはどんな人生が横たわっていたのだろうか。

 どこまでも広がっているように見えていた無数の道は、近づいてみれば足の竦む断崖絶壁の向こう側だった。

 あると信じていた花盛りの季節は造られた演劇のセットのように瞬時に跡形も無く取り払われ、彼女は誰もいない明かりもない舞台に一人ぽつんと取り残されたのだ。

 まるでドラマのようだと思っただろう。

 ひどい脚本もあったものだと嗤っただろう。

 自分を取り巻く客の顔は見えず、自分がどんな顔で立っているのかも分からず、しかもそのステージから降りることも叶わない。

 千春は次々と襲ってくる絶望感に身を震わせた違いない。


 透はただ千春の手を握り締めるだけだった。


「お兄ちゃんの絵、何枚も何枚も描いたわ」


 千春の声は涙に潤み始めた。

 隠し切れない嗚咽が痛々しい。


 透は千春が最初に見せてくれた絵を思い出していた。

 夏の県大会の準決勝。

 顎から汗を滴らせ、チームメイトに向かって指示を出す一人の選手。

 千春は何を考えながらコートを駆け巡る透の姿を描いていたのだろう。


「えへへ。泣くつもりなんかなかったのに。ごめんね」


 千春は両手の指で濡れた頬を拭った。「私、手術が終わって退院しても学校には行けなかったんだ。どんな顔して友達とか先生とかに会えばいいのか分かんなくて。それにみんなに慰められたら、それこそ頭の線がプチンって切れて、他人のあんた達に何が分かるのって自分で自分を抑えられそうになくて」


「その気持ち、少しは理解できる気がする」


「そうだね。お兄ちゃんはきっと分かってくれてると思う」


 千春は上半身を起こして透の顔を見つめた。「私たち身体に傷を持つ者同士だもんね」


 にんまりと笑う千春はもういつもの表情だった。


 その笑顔を見ると透もつられて笑ってしまう。

 しかし今日は千春の柔和な表情の裏側に、広く深く暗い河の流れを感じないではいられない。

 彼女はいつ氾濫するか分からない河の堤防で毎日毎日一人で少しずつ高く堅く土嚢を積み上げてきた。

 今まで千春の能天気さをあるときは蔑み、あるときは羨んでいたことを透は恥じ入る想いで胸が詰まった。

 先ほど生きることについて語った千春の力強さは、実際に死というものに顔をつき合わせて病魔と戦い抜いた彼女だからこそのものだったのだと思い至る。


「この間、強引にお兄ちゃんについてクリニックに行ったとき、私、結局中に入らなかったでしょ?あの時病院のにおいを思い出して動けなくなっちゃったんだ。あの時は本当にご迷惑を掛けました」


 ぺこりと頭を下げる千春の髪に手を伸ばす。

 優しく撫でると千春は気持ち良さそうに目を閉じた。


「癌は完治したのか?」


「うん。今のところはね」


「何だよ、今のところはって。そんなあやふやな」


「あやふやなものなのよ。いつ再発したって言われるか分かんないんだもん。だから、今のうちかもよ、私の本物のおっぱいを楽しめるのは」


 そう言って千春は左胸をぐいぐい透のひじに押し付けて笑う。


「ふざけんな」


 透は千春を抱き締めて押し倒した。


 透の腕に包まれて千春は一瞬弱気な表情を浮かべた。


「再発って言葉本当に怖いの。こう見えて私、毎日毎日びくびくしながら生きてるのよ」


「千春」


「なんちゃって。私、今幸せよ。心からそう言える。だって、今までお医者さん以外に裸見せたことなかったんだもん。好きな人と裸で抱き合っていられるってこんな気持ちいいことだったんだね」


「それ、同感」


 昨日までは自分の裸を他人に見せるどころか、自分で見ることさえ避けていた。

 浴室では目を閉じて身体を洗い流していた。

 毎日鏡に自分の身体が映らないように生活していた。

 しかし、こんな醜い肌でも千春と触れ合うとその温もりが伝わり心地良さを感じる。

 そのことに透は驚いていた。

 このぼろぼろの肌でも千春ともっと触れ合っていたいと心から思う。


「ね。もう一回」


 透の耳元で千春が甘い声を出し、その腕を透の首に回す。


 透は勢い良く千春の身体に覆いかぶさっていった。



 透の携帯電話が床で振動している。

 透は微かにそれを耳で感じ取った。

 誰かが自分の身体を乗り越えていき、電話の振動が遠ざかっていく。

 それと同時に再び意識が遠のいていく。


 はい。……あ、はい、千春です。今、お兄ちゃんは寝てるんです。……え?私?今夜ですか?……もう、飲んでますよね?……分かりますよ。何かあったんですか?……そうですか。分かりました。私もお話したいことがあったので。……はい。今から用意して出ますので待ち合わせ場所を指定してください。……迎え?車でですか?冗談は辞めてください。……はい。……はい。それじゃ。



 目を覚ますと隣に千春はいなかった。


 じんわりと重い頭を持ち上げる。

 外はすっかり夜の帳に包まれ、部屋の中も息苦しいほどの完全なる闇に支配されている。

 手探りでベッドの上の千春の形跡を追ってみても何も残っていない。

 掌に伝わるのは冷たいシーツの感触だけだった。

 胸の奥がすぅっと冷えていく感覚がある。

 根拠の無い悪い予感に透は慌ててベッドから降りた。


 確かこの辺りにと両手で携帯電話を探るが、どの指もそれらしき物体にたどり着かない。

 痺れを切らして透は立ち上がり壁に手を伸ばして電気のスイッチを入れる。


 天井の灯りが瞬き、一瞬目の前が真っ白になる。

 慣れない明るさに目の奥にずしりと圧迫感を感じて思わず目を閉じる。

 すぐに痛みは消えゆっくり目を開くとベッド脇の時計は十時を示している。

 眠っていたのは四、五時間ほどだ。


 記憶が確かなら千春と立て続けに三度交わった。

 千春は初めてだったが、快楽に対して貪欲だった。

 その後のことが何も思い出せないのは、そのまま眠りに落ちたからだろう。


 自分を見下ろせば一糸纏わぬ素っ裸だった。

 だらんと力なく垂れた性器の周りにこびりついているでんぷん糊の乾いた跡のような白いカスが雄弁に数時間前の情事を物語る。


 この醜い皮膚を晒して誰かと抱き合えるなんて想像もしなかったことだ。


 しかしあれだけ抱いた千春が目の前から跡形も無く消え去っている。

 言い知れぬ満足感と不安感が風通しの良い股間から湧き上ってくる。

 千春は一体どこへ行ったのだろうか。


 そのとき透はドアの外からマンションの階段を昇ってくる足音を聞いた。

 間違いなく千春のものだ。

 買い物をしてきたのだろうか、足音に合わせてスーパーの袋が揺れる音がする。

 透は慌てて浴室に飛び込んだ。

 こんな格好で千春を迎えるわけにはいかないし、あれだけ激しく交わった後にどんな顔をして千春と向き合えば良いのか俄かには分からなかった。


 玄関のドアが開くと同時に蛇口を捻る。

 勢い良く降り注ぐ驚くほど冷たい水に鳥肌を立てながら、透は眠っている間に千春が誰かと話しているのを聞いたような気がして、その内容がどんなものだったかを必死に思い出そうとした。



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