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 景山教頭から透の携帯電話に連絡があったのは五日後だった。

 「今からうかがいますが、よろしいですか」という彼の苛立ちも優しさも感じさせない抑揚のない言葉は、疑問形でありながら聞き手にはイエス以外の答えはあり得ない凄味があった。


 透にもこの五日間で景山教頭と会うことを避けることはできないという覚悟はできていた。

 しかし、会って何を語れば良いのかという自分への問いかけには、その時が来ても解答が見出せてはいなかった。


 透は待ち合わせ場所の喫茶店アドゥマンのガラスのはまった木製の扉を躊躇いなく開いた。

 一瞬でも動きを止めてしまえば二度とそこから先へは進めない気がして、透は半ば自棄気味に目を閉じながら自分をドアの奥へ送り込んだ。


 すでに約束の時間からは十分過ぎている。

 わざと遅れてきたのだ。


 景山教頭はその性格からして遅刻してくることは考えられない。

 従って予定時刻にアドゥマンに向かえば、店の前で鉢合わせする可能性がある。

 心の準備ができていない段階で昼日中の道端に不意に景山教頭と顔を合わせることは避けたかった。

 だからと言って時間よりも前に来て待つという選択肢は、透にとってさらに苦痛なことだった。

 アドゥマンの椅子に腰掛け、今か今かとドアと手元との間を視線を行き来させている自分を想像するだけで透は窒息死しそうになる。

 景山教頭にしてみれば透が姿を現すかどうかもまだ半信半疑のところがあるはずだった。

 あの事故から今日ここに至るまでの一年半近くの間、透は景山教頭の誘いを何度となく無視し続け、結局一度も顔を合わせたことがない。

 そんな人間との約束なのだ。

 十分ほどの遅刻で機嫌を損ねるようなことはないだろう、というのが失礼とは知りつつも透が選んだ方策だった。


 ゆっくり目を開くと一番奥の席に見覚えのある灰色の後頭部が浮かんでいる。

 透は心臓に一気に大量の血が流れ込んだような痛みを感じて眉を顰めた。

 このまま踵を返して外に出て、元来た道を帰りたいという思いに駆られる。


 脳裏にまたあの日の情景が痛いほど鮮やかに浮かび上がる。


 一昨年の文化祭の夜、透は全体の後始末を任されていた。

 各教室の後片付けはそれぞれの担任教師が受け持つことになっていたが、それ以外の校門、廊下、体育館、グラウンド等の共有的なスペースは下っ端の男性教師が面倒を見るのが通例だった。

 透はもう一人の同僚教師と手分けして校内を見て廻り、文化祭関係のもので燃やせるものは近くにいる生徒を動員しつつ全てグラウンドに集めていった。


 やがて大きなゴミの山がグラウンドに出来上がると同僚教師がサラダ油を撒いて点火した。

 暮れかけた群青色の空を赤い炎が突き上げ、火の粉が流れ星のように飛び交い乾いた音を立ててぱちぱちと爆ぜる。

 生徒たちは思い思いのグループに分かれて火の周りに集まり、自分の背丈以上に巨大化した炎を檻の中の猛獣を見るように歓声をあげる。


 予想していたことではあるが、やはり透はその舞い上がる巨大な火柱に怯えたじろいだ。

 二十年前の嗜虐性に満ちた紅蓮の色や、特有の不吉な揺らぎや、凶暴で排他的な熱風のありさまをまざまざと思い出してしまったのだ。

 目の前で母の皮膚がただれ、炭化し、血がどす黒く蒸発していく様が如実に瞼に浮かぶ。


 透は膝から力が抜けその場にへたり込んでしまいそうになるのを何とかこらえ、赤い悪魔に背を向けた。

 火の管理はもう一人の教師に任せて、毎年問題になる生徒間の破廉恥な行動に目を光らせるふりをしよう。

 とても正面に自分の身体を焦がした犯人を見つめ続けることはできない。

 本当ならここから逃げ出して頭から冷たい水を被りたいところだった。

 奥歯をぎりぎりと音が鳴るほど噛締め、全身に宿った震えをこらえる。

 いつまでも眼前から消え去らない悪夢のような思い出から逃れるために、目をぎゅっと閉じて口の中で「消えろ消えろ」と呟き続けた。


 そのときだった。

 それまでの歓声とは全く異質の、悲鳴のような女子生徒の叫び声があたりを切り裂くように響いた。

 その金切り声を合図に透の周囲にいた生徒が、一斉に驚きと恐怖で息を詰まらせるのが分かる。

 誰もがこちらを見ている。

 その視線の異様さに気付いたときには、透の背中は炎に包まれていた。

 何かの拍子に火が爆ぜ、透が着ていたジャージに引火したのだ。


 冷静に考えればジャージを脱げば済むことだった。

 ファスナーを締めていたわけではなく羽織っていただけなので袖から腕を抜けばそれで事足りたのだ。

 しかし自分の背中に死神のように炎がとり付いているのを見て、透は完全に自分を見失っていた。

 「死ぬ!死ぬ!」と連呼してあたりの生徒にしがみつき、倒れこんでそのまま意識を失ってしまった。


 目撃した生徒によれば、大きく爆ぜて燃え上がった布切れが透の肩の辺りに落ち、その周囲を焦がしたということだった。

 あのとき透の目には巨大な炎の塊に見えたが、実際には握り拳もないぐらいの、炎とも呼べないほどの火だったようだ。

 透が心にトラウマを抱えているからそう見えたのだろう。

 事実、そのときの騒動で透自身は擦り傷と肩に軽い火傷を負っただけだった。

 しかし、透が抱きついた生徒は無理な体勢で倒れこむことになり、左腕を骨折し左肩を脱臼する大怪我を負ったと後で景山教頭から教えられた。


 それ以降透は一度も学校の門をくぐっていない。


 ハッと気付くと暑くもないのに顎から汗が一滴、二滴と伝って落ちている。

 熱風を吸い込んだように咽喉の奥が乾き、ひりひりと痛んだ身体が鉛を背負い込んだように重い。

 自分はきっと青ざめたひどい顔をしていることだろうと透は思った。


 額に手を当ててみる。

 べっとりとした感触が指先に伝わる。

 見てみれば油分を含んだ汗で指がてらてらと光っている。

 背中が熱いようで寒い。

 鼻からの呼吸では空気の取り込みがままならず、喘ぐように口を開く。


 景山教頭はまだ透に気が付いていないようだ。

 今ならまだ引き返せる。


 カウンターにはこの店でよく見かける白髪の男性が座っていて、こちらを振り返るとにこやかに小さく頭を垂れ、すぐに向き直った。

 カウンター越しにマスターの視線とぶつかる。

 寡黙で照れ屋のマスターはいつも通り、すぐに視線をグラスを磨いている手元に落としてしまう。

 それはまるで、帰っても良いんだよ、と透に言ってくれているようだった。


 透は部屋で待っている千春を思った。

 教頭に会わずに部屋に戻れば千春はどのような顔をするだろうか。

 おそらくは透の不甲斐なさを責めるようなことはせず、いつも通りのあの優しい笑顔で迎えてくれるだろう。

 そして薬を飲まなくては眠れない日々を今までと同じようにこれからも続けていくことになる。


 不意に千春の声が透の耳に届いたような気がした。


 お兄ちゃんだって、今のままで良いと思ってるわけじゃないんでしょ。


 確かにその通りだった。

 千春の言うことは痛いほど正しい。


 一歩、透は足を前に進めた。

 一歩。

 また一歩。

 顎から汗が落ちていく。

 透は服の袖で顔を拭った。

 できることならば景山教頭には振り返って欲しくない。

 途中で目が合ってしまえば、そこから先に足が進んでいかない気がしていた。

 一歩。

 また一歩。

 喉がヒリヒリと痛み胃が絞られるような圧迫感を覚える。

 景山教頭の横に立つとプルプルと足が竦んだ。

 人生で一番緊張した「達磨さんが転んだ」だった。


「ご無沙汰してます」


 声が上ずり語尾が震える。

 頭がのぼせているのか平衡感覚がはっきりとせず全身に力が入らない。


 景山教頭は透の店内での様子を一部始終見ていたような泰然とした顔つきで、ゆっくりと透を見上げた。


「なかなか雰囲気の良い店をご存知ですね」


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