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 迫り来る猛獣に剣を突きつける。

 魔法を唱え味方の体力を回復する。

 精霊を呼び起こし一気に敵を駆逐させる。


 ここのところ何となくゲームの世界が味気なく思えてきた。

 敵と戦っているときも謎解きをしているときも「こんなことに何の意味があるのだろう」という疑問が頭から離れない。

 所詮、ゲーム会社の人間が考えプログラミングした架空の世界の中を限られた行動体系の選択を繰り返すことで物語を進めているだけだ。

 それをクリアできたところで取り立てて充足感があるわけではない。

 ただ腰や肩が凝り固まり、目が疲れ、時間が無為に過ぎていく。


 隣を横目で盗み見ると、やはり千春はスケッチブックに何か絵を描いている。

 モデルは頭の中に明確に出来上がっているのだろう。

 スケッチブックから顔を起こして何かを確認するというようなことは一切なく、一心不乱に白紙を睨みつけ色鉛筆を走らせている。

 一点を凝視する蒼い目が発する鬼気迫る力強さは、透を落ち着かない気分にさせる。

 あれだけ何かに没頭できるものが自分にもあればと羨み、そんなものには一生かかっても出会えないだろうと透は力なくコントローラーを床に放り投げた。


 一体自分はいつまでこんな生活を続けていくのだろうか。


 やがていつか学校からは退職を勧告され、流されるように辞表を書き、消しゴムのカス程度の退職金を押し戴く。

 金の蓄えはあっという間に底をつき、近い将来この部屋の家賃も払えなくなるだろう。

 住む場所もなく食べものを買う金も使い果たして、自分が行き着く先はどこなのか。

 来年の今頃はどこか鄙びた商店街の裏道で、ダンボールに包まり寒さに震えているのかもしれない。


 そんな人生は絶対に嫌だと思う。

 しかし、少しずつだが確実に減る預金残高を見ていると、それならそれで仕方ないかと諦めに似た思いが胸の奥底に点滅するのも否定できない。


 そうなったら千春はどうするのだろう。

 幾ら一緒にいたいと言われても彼女にそんな生活を送らせるわけにはいかない。

 できることならこれから先もずっと千春には好きな絵を描いて暮らしていけるようにしてやりたいと思うが、自分の居場所さえも確保できないのに千春の将来の面倒をみられるわけがない。


 透は考えることを放棄して、座椅子にもたれ、ぼんやりと天井を見上げた。

 カーテンの隙間から忍び入って天井の端を明るく照らしていた陽光もいつの間にか茜色に変わっている。

 もう夕方なのか。


 脳の深いところに痺れのような疲労を感じる。

 いわゆる眠気というものだ。

 そろそろ睡眠導入剤を喰らって光も闇もない何もない世界に堕ちていきたい。

 最近少しずつ薬の量を減らしてきていたが、今日はそれでは容易には眠れない気がしていた。

 どことなく神経が昂ぶっている。


「千春」


「何?」


 千春は色鉛筆を動かしながら返事をする。

 ただでさえ大きな瞳をさらに大きく見開いて、スケッチブックに集中している。


「千春は将来画家になりたいのか?」


「画家?」


 千春は手を止め、怪訝そうに何かを確認する顔で透を見ると、途端に吹き出した。


「真面目な顔して何言ってんのー。そんなの考えたこともないよ」


 千春は苦しそうに腹を抱えて笑う。

 足をドタバタし、手で床を叩いて哄笑する。

 呆気に取られている透を尻目にひとしきり笑い転げると、千春はおかしすぎて涙が出ると目尻を指で拭った。


「そんなにおかしいか?」


「そりゃおかしいよ。あー、おかし。お兄ちゃん、知り合いに画家さんっている?」


「そりゃ、いないけど」


「私もいないよ。画家さんってどうやってなるんだろうね。試験とかあるのかな」


 自分の言ったことが面白かったのかクックッと声を押し殺して笑う千春の様子が透には不思議だった。

 もちろん透は千春を笑わせるために冗談を言ったのではない。

 素人目にも千春の描き上げる絵がかなりレベルの高いものだということは分かる。

 千春のキャンパスブックの絵をそのまま街頭に並べたら、譲ってほしいと財布を開く人間だっているだろう。

 しかし、千春の口ぶりでは画家になることなど全く念頭にない様子だ。

 野球好きの少年はプロ野球選手になりたいと願い、歌が上手な少女は歌手になりたいと一度は憧れるものだろう。

 それなのにこれだけ絵が好きで才能もある千春は画家になることなど考えてもみなかったと言う。

 千春にとって絵とは一体何なのだろうか。


 そのとき呼び鈴が鳴った。


 心臓がぎゅっと痛いぐらいに萎んで透は反射的に時計に目を走らせる。


 時刻は四時を数分過ぎたところだった。


 ピンポンともう一度呼び鈴が鳴る。

 間違いない。

 この部屋を誰かが訪れている。

 しかもこの尋常な鳴らし方は和馬ではない。

 まっとうな人間がこの部屋に用があると言っている。

 誰だ。


 鼓動が透の耳のそばで大きく響く。


「お兄ちゃん、誰かお客さんだよ」


「黙れっ」


 透は猛禽類が敵を威嚇するような厳しい目で千春を制して、ゆっくりと玄関を振り返った。

 鉄の扉の向こうにいる何者かの気配に透は息を殺す。

 飛び交う銃弾から身を守るように身体を小さく低く保ってそのまま動かない。


「神谷先生。私です。教頭の景山です。いらっしゃるんでしょ?開けて下さいよ」


 来た。


 とうとう死神が透を摑まえにやってきたのだ。

 いるのは分かっているんだ、と標的を追い詰める。

 透は必死に自分の両肩を抱き締めた。

 脳裏には巨大に膨れ上がった炎が天を焦がすように立ちのぼる様子が浮かんだ。

 身体の内側から広がる堪えようのない寒さに全身が小刻みに震える。


「教頭先生だよ。出なくていいの?」


 千春が小声で透に耳打ちする。


 透は忌々しげに舌打ちをした。


「黙ってろって」


「でも、心配してきてくれてるんじゃ……」


「ヤなんだよ。学校の人間と会うのは」


「でも、お兄ちゃんだって今のままでいいと思ってるわけじゃないんでしょ?教頭先生と話してみたら、何かいい解決法が見つかるかもよ」


「黙ってろって言ってるだろっ!」


 透は思わず声を荒げていた。


 千春は目を見開き息を飲むようにして一つ頷くと黙りこくった。


 透の声はおそらくドアの向こうにまで届いてしまっただろう。

 居心地の悪い沈黙が部屋の内外にはびこった。


 景山教頭は透が居留守を使っていることを確信したに違いない。

 どうやって透をおびき出すか、次の一手を考えながら耳を澄ましてこちらの様子を窺っているのだろう。

 少し長めのロマンスグレーの髪をオールバックに撫で付け、身体は小さいが頭のてっぺんから踵に鉄の棒を差しているかのように背筋のビシッと伸びた初老の紳士が、穴が開くほどドアを睨みつけている様子が手に取るように分かる。


 我慢比べだった。

 透は部屋にいることがばれても出て行くつもりはなかった。

 教頭がドアを離れるまでは絶対に身動ぎ一つしない覚悟だった。


「神谷先生。今日はどうしても会ってお話したいんです。お身体の調子はいかがですか?病院の方でうかがいましたが症状が緩和してきているみたいですね。私と話すことが現場復帰の第一歩だと思ってドアを開けてもらえませんか」


 景山教頭は生徒をなだめるような声で話しかけてきた。


 長年問題児の生徒指導を任されてきた、酸いも甘いも噛み分け飴と鞭を使いこなす海千山千のベテラン教師だ。

 こちらの気持ちの整理ができていない今の状況で面と向かって言葉を交わしてしまえば、知らず知らずのうちにこちらの意図していない結論を掴まされてしまいかねない。


 クリニックには透の病状について景山教頭には伝えて良いと言ってある。

 それが学校側が透に休職を認める条件だったからだ。

 透が少し回復してきていると知って景山教頭はどう思ったのだろう。

 もう少しで透が復職してくると喜んだろうか。

 それともメンタルの弱い落ちこぼれ教師が復職できるほど回復する前に、何とか退職させてしまわなければという焦りを感じたのか。


「私が助言、指導を行ってきたのは生徒だけではないことは神谷先生もよくご存知でしょう。神谷先生のように精神的な疾患で職場から遠ざかっている教師も私は今まで何人も見てきました。一人で抱え込むのは良くありませんよ。安心して私に話してみてください」


 入り江の穏やかな波のように寄せてくる言葉の連なりが、透を息苦しくさせる。

 透は両手で耳を強く圧迫した。

 壁に向かって倒れこみ額を床に押し付ける。

 透の頭の中で当時自分が犯した失態の様子が駆け巡る。

 怯え、我を失い、逃げまどい、すがりつき、泣き喚いた。

 あの現場には二度と戻りたくない。


「あの事故は不運でした。幼いころの出来事も少し聞きました。神谷先生のご事情を知らず、我々は先生を責めるような態度を取ってしまったかもしれない。申し訳ないと思っています。神谷先生。一歩足を踏み出してみませんか。そうすれば意外に何でもないことだったりするもんです。人間は一人では生きていけない。時には力を抜いて誰かに支えてもらうことも必要なんですよ。さあ、ドアを開けて私に……」


「病院だとか、復帰だとか、精神的な疾患だとか。ドアの前で大きな声で詰るように言うのはやめてください!」


 不意に頭の中に割り込んできた千春の声に、透は驚いて顔を起こした。

 透の横にいたはずの千春がいない。

 振り返ってみれば、千春は締められたドアのこちら側に立って肩を震わせている。


「詰るなどとは……」


 教頭が虚を突かれたような呆けた声を出す。


「教頭先生にそのつもりがなくても、そう聞こえてしまうものなんです。本人は体調が悪くて寝ております。申し訳ありませんが今日のところはお引き取りください」


 千春の低く抑えてはいるが意思の強さを滲ませる凛とした声がドアの向こうに吸い込まれていく。


「しかし」


「職場の方と会うのは精神的にすごく負担なんです。教頭先生がおっしゃるとおり人間は誰かに支えられて生きています。そして今は私がその役目を担っています。今後は前もって電話をしていただいて、本人に心の準備をさせてからお越しになってください」


「……失礼ですが、あなたは神谷先生とはどういったご関係で?」


「私は、……神谷の妹です」


「妹さん?」


 景山教頭は千春の言葉を明らかに疑っている。


 透はがっくり項垂れた。

 採用時に提出した身上書を見れば、透に妹がいないことなど一目瞭然だ。


 しかし千春は堂々と胸を張っていた。


「そうです。妹です。兄が病気なので看に来てるんです」


「では、妹さん。ほんの少しでも……」


「とにかく、今日はお引き取りください!」


 どうあっても退かないという千春の鋭い気概が辺りの空気を引き締める。

 千春の華奢な背中がやたらと大きく見える。


「分かりました。今日のところは帰ります。次は神谷先生の携帯に電話を入れてからうかがいますので、電話に出てくださるようにお伝えください」


 景山教頭の一段と大きな声は、千春にではなく後ろで聞いている自分に向けてのものだと透は理解した。


 コツコツと乾いた革靴の響きが遠ざかっていく。

 その音が小さくなっていくにつれドアの前に立っている千春の肩が萎んでいくようだった。


 景山教頭の気配が完全に消えると、糸の切れた操り人形のようにぐにゃっと千春は蹲った。


「千春?」


 透は這い蹲りながらドタバタと千春の元に駆け寄った。「千春。大丈夫か」


 千春の背中に手をやりその顔を覗き込む。


 すると千春は声を出しながら大きく吐息を漏らした。


「あー、やっちったぁ」


 泣き出しそうな湿り気を含んだ声だった。

 むっくりと起こした千春の横顔は生気なく青ざめていた。

 ちらりと透の方を盗み見たかと思うと、透に向き直るや土下座をするように再び床に崩れ落ちた。


「ごめんなさぁい」


「どうした?何を謝ってる?」


「私、また勝手なことをしちゃった。お兄ちゃんを困らせちゃった」


「……困ってなんかないよ。千春には助けてもらったと思ってる」


 正直な気持ちだった。

 千春が言ったことは全て的を射ている。


 透もこのままで良いと思っているわけではない。

 しかし何とかしなくてはいけないと思ってはいても、そこから先へは身体も心も一歩も前に踏み出せないでいたのだ。

 仕事を続けるにも辞めるにも、いつかは景山教頭と話をしなくてはならない。

 それは分かってはいるのだが、景山教頭のことを頭に思い描くと、どうしてもあの出来事が眼前にまざまざと蘇り足が竦んでしまうのだ。


 透は休職前から景山教頭と向かい合って話すのは苦手だった。

 その意識は単純に上司と部下という上下関係から来たすものではない。

 他の教師の中には景山教頭を牧師のような包容力だと評して慕っている者も少なくないのだが、透にはどうしても彼の人間としてのその器の大きさのようなものに尻込みしてしまうような感覚があるのだった。

 しかし、先ほどの景山教頭と千春のやり取りを聞いていて、その苦手意識が少し払拭されたような手応えが透の心に芽生えていた。


 千春は景山教頭に対して物怖じせず自分の考えを開陳していた。

 景山教頭の言動に真っ向から対峙し、自分の主張を受け入れさせ、一時的にではあるが透の前から追い払った。


 今、透の胸に兆しているのは爽やかな解放感だった。

 景山教頭と千春のやりとりに、景山教頭の言うことはいつも正しい、景山教頭の考えには無条件に囚われなければならない、という心の中に出来上がっていた思い込みが、絶対のものではないということに気付かされたのだ。


 千春はいつまでも顔を起こさず、透は千春の背中をさすり続けた。

 千春の体温を感じながらその背中のカーブを手でなぞる。

 その柔らかな感触は不思議と透を穏やかな気持ちにさせる。


 ふと気がつけば千春は静かに寝息を立てていた。

 泣いていたのか、目尻を微かに濡らしたその寝顔を眺めながら、透はいつまでもその背中をさすり続けた。


 お兄ちゃん。

 

 千春が寝言で透を呼ぶ。

 微かに笑ったような横顔は驚くほどあどけない。


 透の手の下で無防備に蹲る千春を見ていると作り物ではない自然な眠気が兆してくる。

 透はゆっくりと千春を抱えるようにしてその傍らに横たわった。

 キッチンの堅い床は頬に冷たかったが、透はいつまでもこうしていたいと思った。


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