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なぁ、千春。
今でもよく思うんだ。
俺たちにはこんな結末しかありえなかったのかなって。
竹笛のような高く鋭い音を撒き散らして、風が冬の夜を吹き荒れている。先ほどまでボツボツと窓が音を立てていたのは、水分を多く含んだ霙のような雨が降っていたからだろう。
それがいつの間にか止み、代わりに今は星々が散りばめられた澄み渡った夜空からの凍てつく北風が、この部屋の窓に激しくぶつかっている。
この風は当分吹き続けるだろう。やがて風が収まった後には、再び雨と雪の合いの子のようなものが降ってくる。
そしてその後にはまた冷たい風。今年の冬はずっとその繰り返しだ。
ピンポーン。
突然背中から斬りかかるように響いた呼び鈴の音に神谷透は反射的にビクッと全身を縮めた。
急激に心拍が早まり、全身から呼び集められた血液の奔流が心臓の壁を内側から突き破らんばかりに圧するのが、息が詰まるような痛みとともに実感できる。
ドクンドクンと透の肩を揺するほど強く大きく心臓が拍動している。透は胸の痛みを堪えながら物音を立てないようにそっと首に掛けていたヘッドホンを外し、ゆっくりと顔だけで玄関を振り返った。
ドアの向こうに誰かがいる。その場で足踏みをしているのだろうか。微かに小刻みな靴音が聞こえてくる。
よくあるのは布教活動の類だ。新聞の勧誘も少なくない。
どちらにせよ透には迷惑千万だった。頼みもしないのにどうして世間は俺にちょっかいをかけてくるのか。
透はできる限り一人きりでいたかった。
自分だけの限られた空間の中で、誰の目にも触れることなく誰とも関わることなく、何も考えずにただ過ぎていく時間に流されていたい。
透は視線を戻して壁時計に目を凝らした。
六時十分。
おそらく朝ではないだろう。この季節では午前でも午後でも、この時刻にカーテンの隙間から陽が差し込むことはない。
従って先ほど眠りから覚めたばかりの透には、これから一日が始まるのか、それとも終わるのか、すぐには判断がつかなかったが、午前六時過ぎにアポなしの訪問者はふさわしくない。
そもそもこの部屋には何時でも訪問者などふさわしくないのだが。
透は居留守を決め込むつもりだった。
いつものように身動き一つせず己の存在を消し、ただひたすら相手が諦めるのを待つ。
頼むから俺を放っておいてくれ。誰とも関わりあいたくない。
喋りたくもない。
息が苦しい。
自然と手に力が入る。
気が付けばこたつ一つの寒々しい室内で額にじわじわと汗が浮かんできていた。
ピンポーン。
ピーン・・・ポーン。
ピンポンピンポンピンポンピンポンピンポン。
呼び鈴が狂い鳴る。
間を空けたり連打したりと鳴らし方がどこか子供じみている。
それだけに透には恐怖だった。
知り合いでこんな他人迷惑な鳴らし方をする輩を透は知らない。
だとすれば性質の悪い酔っ払いが部屋を間違えたのか。だとしても、無遠慮な客人に優しく言って聞かせることも、逆に近所迷惑だと叱りつけることも、透には思いもよらなかった。
雪起こしの雷のようなものだ。
ただただ身を潜めてさえいれば、そのうち遠ざかっていく。
尻を滑らせて少しずつ身体を壁に寄せる。
ドアが閉まっている以上、こちらの様子が相手から見えるはずはないのだが、自分の姿を玄関から死角に位置させなくてはどうにも落ち着かない。
「おーい、と、お、るぅ。いるんだろ?開けろよ」
その声で透は風船の結び目を外したように一気に息を吐き身体の強張りを弛緩させた。
声の主は新聞の営業マンでも新興宗教の信者でもない。
兄の和馬だった。
しかし、そうと分かっても透は腰を上げることを躊躇った。
実の兄であっても会うのが億劫であることは変わりない。
たとえ誰であっても透にとって自分が支配できる唯一の砦であるこの1Kが自分以外の人間に侵されることに抵抗があった。
「おい。外は寒いんだよ。さっさと開けろや!」
部屋の中に透が息を殺して潜伏していることに微塵の疑いも持っていないのか、和馬は急に苛立ちを露わにしてドンドンと大きな音を立ててドアを叩き始めた。
ノックなどという生易しいものではない。
それこそ雷鳴のように辺りに響いている。
和馬の性格からして放っておくと本当にドアを突き破りかねない。
このままでは何事かと人が寄ってくるだろう。
透は観念したようにのっそりと玄関に向かいドアの鍵を外した。
途端にすごい勢いでドアが外側へ引っ張られた。
同時に流れ込んできた寒風が透の頬に突き刺さる。
「うっす。暖冬暖冬っつっても、やっぱ冬は寒いな」
和馬は挨拶代わりに片手を挙げると、透の許しを得ようという素振りも見せず、面倒くさそうに靴を脱いでそそくさと部屋に上がっていった。
呆然と見送る透を尻目に和馬はこの部屋の主人のような堂々とした仕草でこたつに足を伸ばしている。
「何で豆電球しか点けてないんだ?」
和馬は不思議そうに天井の灯りを見上げた。
明るいのが嫌いだから。
弟がそう言ったら和馬はどんな顔をするだろうか。
だが、透は何も言わず壁のスイッチを押して天井の灯りを明るくした。
「どうして明るいのが嫌いなのか」という質問をされたときに理由を説明するのが面倒だったからだ。
蛍光灯の灯りに部屋中が照らされてハッと息を飲んだのは、この部屋に数ヶ月ぶりにやってきた和馬ではなく、この空間の主である透の方だった。
前回会ったときには明るめの茶色だった和馬の髪が今は鮮やかな黄緑色になっている。
長さも色も丁度競馬場の芝を思い起こさせる。
その到底人間的ではない髪の色に開いた口が塞がらず透は何度も目を瞬いた。
昔から目立ちたがり屋で突飛なことをしては周囲を驚かせる和馬だったが、この色の選択も透には全く理解が及ばない。
透の豆鉄砲を食ったような顔つきを確認して、和馬は得意げに頬を緩めた。
「ちょっと役作りでな。似合うか?」
和馬は劇団に所属している、らしい。
舞台を見に行って真偽を確認したわけではないが、和馬の言葉を信じれば彼は舞台俳優なのだそうだ。
しかし、緑色の髪とは一体どんな役なのだろうか。芝の役だと言うのなら納得もできるが。
してやったりという表情でこちらを見る和馬に嫌気が差す。
和馬が満足するようなリアクションをとってしまった自分にも腹立たしい。
透は黙ってトイレに向かった。
用を足して戻ってくると、無視されたのが気に入らなかったのか和馬は不機嫌そうに声を荒げた。
「しっかし、きったねぇ部屋だな。少しは掃除しろよ。これじゃ急にお客さんが来たときに困るだろ」
明るく照らされた部屋の中を見回して和馬は大げさに顔を歪める。
大きなお世話だ。
来て早々、人の世界に文句をつけるよそ者にムッとするが透は出かかった言葉をぐっと飲み込んだ。
確かに和馬の言うことにも一理あるのだ。
部屋には所構わずペットボトルや菓子袋などが散乱しており、無事なのは透の定位置である座椅子の上ぐらいのものだった。
その座椅子もよく見ればジュースの染みや菓子の欠片などで清潔と呼ぶには程遠い。
しかし、分かっていても掃除機をかける気など起こらない。
どうせ掃除などしなくても人間は死にはしない。
和馬以外にこの部屋を訪れる客など世界中を探しても見つかりはしない。
「またゲームしてたのか。ったく、よく飽きないな」
テレビの画面を指差して和馬がまた余計なことを言う。
「ほっとけよ」
両手両足をこたつに突っ込み暖を取っている和馬のダウンジャケットの背中に、透はぼそっと今日最初の言葉を発した。
「まぁまぁ、座れや」
何となく居心地の悪さを感じて手持ち無沙汰に突っ立っていた透に向かって和馬が手招きして家主のような口をきく。
透はしぶしぶ腰を下ろすとコントローラーに手を伸ばしゲームの続きを始めた。
何か足りないと辺りを見回し、床に落ちていたヘッドホンを耳に装着する。
聞き慣れた戦闘シーンの音楽が少しずつ透に平常心を取り戻させる。
「この前出たファイファンか?」
ヘッドホン越しに聞こえていたが透は無視した。こちらの興味のありそうな事柄を餌に会話のきっかけを掴もうとしてくる魂胆が見え見えの隣人が煩わしかった。
和馬が舌打ちするのが視界の隅に映る。
頼みもしないのに無理やり部屋に上がりこんできて、こちらが会話の成立に協力しないとあからさまに不機嫌な表情を見せる。
何と理不尽な話だろう。
やっぱりてこでもドアを開けなければ良かった、と後悔して、透はその腹いせに雑魚モンスターに高度な魔法を仕掛けた。
あえなく雑魚キャラは死滅し、弱い者いじめをしたときのような後味の悪さだけが残る。
胃がキリキリし始めた。
げっぷとともに咽喉元まで胃酸が逆流してきて食道に酸っぱいような痛みが走る。
「今日は大晦日だぞ。部屋ん中に燻ってないで、どこか行けよ」
どうして大晦日だと外出しなくてはならないのか、透には理解できなかった。
部屋に燻っていることがいけないことだという感覚も持ち合わせていない。
ついでに言えば今日が大晦日だということさえ透は失念していた。
「何時間も一人でゲームなんかしてたらホント頭腐っちまうぞ。大掃除するとか、正月の買い物するとか。他に色々することがあるだろうよ」
自分こそこんなところに来て油を売ってないで、そうすれば良いじゃないか。いつも物臭な兄からの恐ろしく不釣合いな提案は噴飯ものだった。
「なんだよ」
気づかないうちに顔が笑っていたようだ。
不気味だと思ったのだろう。
和馬はうろたえながらも、兄の威厳を守ろうとするように厳めしい声を出した。
透は即座に顔から表情を消し、ゲームに意識を戻した。
和馬のことは無視をするのが一番だ。
ゲームは佳境に差し掛かっている。集中してやらないと痛い目を見ることになる。
「そうだ。そうそう」
軽い調子で和馬が切り出す。「お前、実家に帰ったらどうだ」
それこそ和馬に勧められるとは思っていなかった。
鳩尾の辺りに不快感の塊のようなものが蠢き、全身がカッと熱くなる。
透は指を止めて目を閉じた。
こらえようとしてこらえきれず気が付いたときには言葉が口からこぼれていた。
「あんたに言われたくない」
透の返事に和馬は軽く目を見開いた。
何かを言いかけたのか、それとも言おうとしたことを忘れたのか。
和馬は音として完成しなかった腑抜けた空気を咽喉から漏らした。
兄弟の間に尻の落ち着かない妙な空気がはびこる。どうにもゲームに集中できない。
コントローラーを床に叩き付けたい衝動に駆られる。
血の繋がっていない他人だったら和馬のような自分勝手な人間とは絶対に口なんかきかないのに、と今まで何度となく考えたことがまた頭を過ぎった。
「そりゃ、そうだわな。こりゃ傑作。ハハハ」
和馬の白々しい作り笑いが余計に二人の間に距離を作るのだが、透は無視してコントローラーを握り続けた。
今さら、和馬との仲を取り繕ったところで良いことなんかあるはずがない。
兄弟愛など遥か昔に冷め切っている。
そもそもそんなものがあったのかどうかも疑わしい。
和馬と透の親は寂れた田舎町で小さな工場を経営していた。
一刻者の父と日参して返済を懇願する信用金庫の社員。
むっとする潤滑油の臭いと吹き抜ける青い風。
機械が回るかしましい音と大空に羽ばたく鳥の鳴き声。
貧しさと諦観。
退屈と閉塞。
早すぎる母の死。
何とかして早くこの町を出たい。
兄弟は互いに口にしなくても相手がそう思っているのはよく分かっていた。
何故なら自分が強くそう願っているからだ。
年子であっても上は上。
先に達成したのはやはり兄の和馬だった。
上京して俳優になる。
振り返って考えれば和馬にとって理由は何でも良かったのではないか、と透は思う。
何を言っても父に反対されることは分かっていたのだから。
和馬は高校に入学するや一年間バイトに明け暮れ、半ば家出するように町を離れていった。
出て行く前に父親と取っ組み合いの大喧嘩をしたのは、家を出て行くための挨拶のつもりだったのだろう。
残された透は石を噛むような思いで一層機嫌の悪くなった父親の厳しい監視の下、さらに青春の日々を浪費する破目になったのだった。
結局その三年後、透は父親に知らせず遠方の大学を受験し、合格を勝ち取って逃げ出すように故郷を去った。
それからはろくに家に帰ることなく今に至っている。
「よーし、飯食いに行くぞ。飯だ」
プロレタリアの示威行動のように右手を突き上げ突如和馬が立ち上がった。
透はそれをちらっと目の端に捉えたが再び画面に意識を戻した。
「いい」
「いいって、お前、飯食ったのか?」
「まだだけど、……いい」
透はぼそっとだが明確に拒絶した。先ほど起きてからはまだ何も食べていない。寝る前もいつ食物を口にしたか、さっぱり記憶にない。
しかし、空腹感はさほどなかった。二、三日食べなくても人間は死にはしない。
それに、前もって覚悟をしておかなければ、急に外に出ようと言われても心がついてこない。
「いいって言ったってどうせ菓子ばっかり食ってるんだろ。ダメだダメだ。ほらっ。おごってやるから早く支度しろよ。たまには栄養価の高いもん食わなきゃ、そのうち本当に死んじまうぞ。それこそ孤独死ってやつだ。……ん?ちょっと待てよ」
怪訝な表情で和馬が透の首筋に顔を近づけてくる。
透はさらに無視を重ね和馬のなすがままにしていた。
和馬の奇妙な行動には慣れている。
ちょっとしたその場での思いつきで行動する和馬の思考回路は血の繋がった兄弟でも透には理解できたためしがない。
一々取り合っていてはこちらの身が持たない。
透はテレビの画面を睨みつけコントローラーのボタンを操作し続けた。
「やっぱりそうだ」
和馬は眉を顰めると、透のヘッドホンを勝手に外し、耳打ちした。「臭うぞ、お前。肩のところにふけも溜まってる」
何を言い出すかと思えば……。
しかし、その指摘には反論の余地がなく、恥かしさで思わず顔が熱くなる。
もともと風呂が嫌いで、しかもここのところの寒さもあって浴室に足が向かない。
当然髪も洗っていなかった。
そろそろまずいかな、と思ってはいたが、自分しかいない生活の中では必要に迫られず先送りにしていたのだ。
「この前風呂に入ったのはいつだ?」
いつだろうか。おそらく五日は入っていない。
「ほら、今からシャワーだけでも浴びてこいよ。我慢してでも身体を洗わなきゃダメだ。飯はそれまで待っててやるからさ。早くしろよ、ほら」
外出するしないは別として、さすがにシャワーについては兄の言うことに従った方が良さそうだった。
透はゲームをセーブして電源を切った。
テレビを消してのっそりと立ち上がり浴室に向かう。
「髭剃るのも忘れんなよ」
背中越しに聞こえた兄の声に透は小さく頷いて浴室に入った。
服を脱いでいると部屋の方から物音が聞こえてくる。
浴室からそっと顔を出して覗くと、和馬が部屋の片づけをしているのが見えた。
そんなことしなくてもいいよ、と兄を止めようか迷ったが透はそのまま浴室に戻った。
一体全体あいつは何をしに来たのだろうか。