第六章 さようなら、異世界
黒色の種を囲むように立つ。右側に立つ時雨、そして左側には遼が立っている。反対側に立つ香樹と優梨と目が合い、軽く笑い返す。昨日まで部屋を彩っていた紫色の蝶はどこかへ消え、どこか大事なものが欠けてしまったような空間になっていた。
「行くよ。やばいと思ったら絶対にやめてね」
全員が息を呑む。目を閉じ種へ向けた指先だけに意識を集中させる。時雨が深く息を吸った。
「せーの!」
その合図と同時に魔法をかけるように力を込める。その瞬間、手をかざしてる方へ強く引っ張られるような感覚がし、前へよろめく。一歩足が出たところでかろうじて踏みとどまる。引き込まれそうな感覚に耐えながらひたすら力を込め続けた。早く終われ、早く終われ。息が荒くなっていく。突然、引かれる力が弱まり尻もちをつく。起こったことを理解するよりも前にばちんっ、と電気が走るような音が響いた。音は反響してその場に残りながら少しずつ弱まっていく。全員の息遣いを除いて静寂が訪れる。ふわっと花の香りが漂った気がした。目を開けた目の前に飛び込んでくる鮮やかな室内。灰色で囲まれていたはずの部屋は混ざった色一つない白色の空間へと変わり、床に色とりどりの咲き誇っていた。どこからともなくそよそよとした風が吹いてくる。そして種があったはずの場所には、既に咲きかけている紫色の花の蕾があった。腰くらいの高さまであるその花はゆっくりと花びらを開いていく。開ききった花は、色を失わないまま紫色の花びらを床に落とした。そして花びらが強く光り出す。一際強い光が放たれ、一瞬目がくらむ。役目を終えたように光が消え床に星空を移したかのような奥の見えない空間が生まれた。
「すっご…」
反射的にそんな言葉がこぼれる。すごい、という言葉で表せるような美しさでないことは分かっている。しかしそれを形容する術が分からないのだ。
「これ…ほんとにすごいね…」
優梨がゆっくりと立ち上がって中央の空間に近づいていく。
「待て待て待て、入るなよ?」
猫の首でも掴むかのように香樹が優梨の服をつまみ後ろへ引っ張る。
「うまく、いったよね…よかった…」
隣から声が聞こえちらりと振り向くと安堵したような時雨の顔が目に入る。しかし突然、頭をおさえてうずくまった。
「時雨!?」
慌てて駆け寄ると時雨はゆっくりと顔を上げる。
「大丈夫。ちょっと疲れただけだから…」
安心させようと浮かべた笑みは痛みからか歪んでいた。何かを隠していたような時雨の表情が脳裏をよぎる。
「それより、そこの空間。現世への門だから」
「それどころじゃねぇだろ!休むぞ!」
香樹がそう言って手を伸ばすと時雨は即座にそれを振り払った。軽く咳き込み慌てたように話し出す。
「ほら閉じちゃったら困るし。私はここでやらないといけないことがまだまだあるから。先に行ってて」
「時雨、俺らは行く分にはいつでもいける。何か隠してるか?」
遼が問いかける側から時雨の息が荒くなっていく。もしかしたら、時雨は。
「いいから!」
時雨がそう強く叫んだ瞬間、衝撃波のようなものに飛ばされる。抗うこともできないまま門に体が沈む。最後に視界に映った時雨は柔らかい笑顔を浮かべていた。何かを話したように見えたがそれは耳に届くこともなく、視界が切れた。時雨と会える最後の機会だったかもしれない。それなのにまた、昔と同じように終わってしまった。星空の中を落ちていくような感覚の中、ゆっくりと意識が遠のいていく。目からこぼれた涙は頬を伝わず空中へと投げ出されていった。
目を開く。知らない、真っ白な天井。ピーッ、ピーッ、というような機械音が響く。頬は冷たく濡れていた。
「夢宮空良さん目を覚ましました!」
どたばたと足音が聞こえる。すぐに医者らしき人が現れた。
「夢宮さん、見えてるかい?」
「…はい」
「何があったか覚えてるかな?」
「…あんまり」
医者が放つ言葉をすぐに脳が理解できていなかった。何が起きていたのか。ついさっきまでの出来事は全て夢だったのか。何も分からないまま呆然と医者の質問に答え続ける。
「なぜここにいるか、というのはあまり分からないかな?」
「そう、ですね」
「ショッピングモールにいたと思うんだが、そのショッピングモールが突然崩落してね。巻き込まれてしまって、しばらく意識がなかったわけだ」
「崩、落…?」
「原因はわかっていないそうだ。分からないことも多いだろう。とりあえずゆっくり休んでくれ」
医者はそのまま出て行き、看護師さんも「何かあったら呼んでくださいね」と言い残して出ていった。ゆっくりと体を起こし虚空を見つめる。考えがまとまることもなく、ただ呆然としているとお母さんが病室に来た。
「空良?大丈夫?」
「あ、お母さん」
「心配したんだから」
そう言いながら抱きしめられる。
「暇でしょう?色々と持ってきたから好きに使いなさい。この後仕事があるから長くはいられないんだけど…」
「大丈夫だよ。きてくれてありがとう」
「そう?気をつけなさいね」
そう言ってどたばたと病室を出ていく。ベッドの横の棚に置かれた新聞の一面に目が行く。『変死体大量発見 一家心中か』という見出しだった。なんとなく本文に目を走らせる。「犠牲者は」。その続きを読んだ瞬間、私はその先を読み進められなくなった。時雨の名前が、そこに書かれていた。恐る恐る新聞を手に取り意を決して読み始める。「行方不明となっていた花宮時雨(当時6)も変死体となって発見された」「毒の類による心中とみて捜査を進めている」そんな文が書かれていた。もしかしたら現世でももう一度会える、という期待はあっけなく砕かれた。夢かもしれなくても時雨との別れはずっと昔と同じようなものだった。ひいたはずの涙が再び頬を伝う。
「なんでっ…」
涙で視界が滲む。滲む視界の中にふわりと、見慣れた蝶が、紫色の光で彩られた蝶が舞い込んだ。その蝶はふわふわと私の方へと向かってくる。ゆっくりと手を伸ばすと蝶は手に折り畳まれた紙を乗せ、すっと消えた。手に乗せられた紙を開いていく。ふわっと蝶が現れ、またどこかへと消えていった。
「混乱させちゃったかな。多分、異世界にいたってことも夢な気がしてるんじゃないかな。どう思ってるかは分かんないけど、ショッピングモールの崩落は現世から人を連れてくるために私が引き起こしたの。異世界にいたのは現実、と言うのであれば現実になる。なぜなら肉体はずっと現世にあったんだけど、精神の方は異世界に来て実体を持った、って感じになるから。多分、私が死んじゃったことも知ってるよね。理由は、言わないでおく。せっかく会えたのにあんな最後にしちゃってごめんね。私のわがままに付き合ってくれてありがとう」
ぽた、と紙に涙が落ちた。ぽた、ぽた、と紙に涙が広がっていく。そしてその涙に溶けるかのように手紙はふわりと手から離れ、紫色の花びらになって散った。花びらをがむしゃらに手に集めて握りしめる。なんで死んだの。そう聞いて帰ってくるはずもないのに、花びらに向かって囁いた。本当は理由も察しがついてるくせに涙をこぼした。時雨が言っていた『契約』。時雨は契約に違反した時の話はしなかった。それが全てを物語っているのかもしれない。今となっては憶測にすらもならないことだが。
夢か、現実か。夢と信じるには美しすぎて、現実と信じるには残酷すぎる数日間。私達を救ってくれた彼女も、私達も、異世界で孤独に舞うしかない蝶でしかなかったのかもしれない。どれほどに鮮明に、正しく覚えていたいと願っても月日というのは残酷で記憶を美化してしまう、劣化させてしまう。だから進むしかないのだ。しがない一匹の蝶として。もう一匹の気配を少しばかり背負いながら。