第三章 私はヒーローになれない
結局、落ち着いて眠れもしないまま朝を迎えてしまった。優梨の規則正しい寝息を聞きながら虚空をぼーっと見つめる。きっと帰ってきて起きてる、そう期待して意を決して起き上がる。寝室のドアを静かに開け、廊下に出る。誰の話し声も、料理をするような音も聞こえてこない。恐る恐る階下に降りていくと、香樹が机に伏せるような態勢で眠っていた。
「香樹、風邪ひくよ」
肩を叩き起こすと眠そうに目を擦る。私と目が合うと気まずそうに目を逸らした。
「遼、帰ってきてないの?」
「…あぁ」
「そう、なんだ…」
「食材減ってきただろ、レイラさんとこ行ってもらってこようぜ」
「うん。じゃあなんか作ってくる」
何があっても生きて行かないといけないことに変わりはない。今日は何を作ろうかと考えならキッチンへと向かう。材料を見る限りは肉じゃがが1番楽な手だろう。
「空良〜」
「あ、優梨おはよ」
「おはよ〜」
普段通りに振る舞ってはいるものの少しクマがある。優梨も寝付けなかったのだろう。ぼーっとヘラを動かしているとフライパンの縁にあたり、危うくひっくり返しかける。
「うわっ!」
「空良!?大丈夫?」
「あ、ごめんごめん」
「気をつけてね?」
「あはは…」
少し焦がしてしまったが一応食べられる程度には完成する。
「できたよ」
「…なんか焦げてね?」
「黙って食べろ」
「うまいから許す」
「会話噛み合ってないよ〜?」
ふふっ、と笑いをこぼす。少しは雰囲気も明るくなっただろうか。これ以上、誰かが欠ける訳にはいかない。食事をとり終わるとすぐにそれぞれ出かける準備を整える。夜中に雨が降ったのだろう。水たまりがちらほらとできていた。町まで行くのは慣れたもので、ほとんど通学路のような感じになってしまった。普段通り森を抜けると、町の入り口が見えてくる。変わった様子はない。しかし門番がいないのだ。門番どころか誰も入り口のそばにいない。
「なんか人いなくね?」
「そうだよね。門番の人とか立ってたはずなのに…」
「とりあえず行こう」
急ぎ足で町へ向かっていく。入り口まで近づいた時、町に見知らぬ人がいることに気がつく。甲冑に身を包み、見るからに物騒な武装をした集団。その一人の手に握られているこの町に似合わない紅の旗が風でたなびいていた。
「なんかやばそう…?」
「パッと通り抜けよ」
こちらをみていないであろうタイミングで堂々と入り、すぐに路地裏へ引っ込む。半ば走るようにレイラさんの店へ駆け込むとレイラさんは店番としてレジに立っていた。私たちの姿を目に留めると驚いた顔をし、慌てて家の中へと引き入れる。
「大丈夫!?あの人たちに見つからなかった!?」
「あ、おそらく」
レイラさんがかなり慌てている、ということは何かまずいことでもあるのだろうか。
「そう……。あの人たち、どうやら王都から派遣されてきた人たちでね。昨日からずっといるのよ」
「王都、ってことは見つかったらやばいですかね」
「そうね。タダでは済まないと思うわ。下手に出ていくのも危ないしあの人たちがいなくなるまで泊まって行きなさい」
「え、そんな申し訳ないです」
いくらなんでも食料をいただいてる人の家に3人も泊めてもらう訳にはいかない。
「背に腹は変えられない、ってことよ。ゆっくりしていきなさい。ところで遼くんは?」
気がつくのが早い。ただ聞く、ということはレイラさんのところには来ていないのだろう。
「実は昨日、喧嘩をしてしまって…どこかへ行ってからそれっきり」
そう伝えるとレイラさんの顔から血の気が引いていく。
「昨日の夜、であってるかしら」
「はい」
「あいつ、なんかあったんですか!?」
香樹が勢いよく立ち上がる。反動で椅子が勢いよく倒れる。
「香樹、落ち着いて」
「わ、悪い…」
その人はほぼ確実に遼だ。遼も馬鹿ではないから、行ったことのない場所へ行く、なんてことはしないはず。きっと遼が使っている何かの施設がその近くにあるのだろう。
「中央の通りで歩いていたみたいよ。たまたま腕のたつ人がいて、その場で見つかった、って聞いてるわ」
「レイラさん!軍の方が!」
どたばたと手伝いの女性が駆け込んでくる。それを聞きレイラさんは颯爽と外へ向かう。
「あなたたちはそこの階段から二階へ上がっておきなさい。いざという時は戸棚やクローゼットに入ってもらって構わないわ」
私たちもすぐに階段まで移動し、2階へ上がる。2階はそれなりに広く、一旦階段から1番離れた部屋に入る。誰かの寝室なのだろう。ベッドとクローゼットが置かれたシンプルな部屋だ。部屋の奥には窓がついている。取手がついていないところを見ると開ける目的はないのだろう。階下からかすかに怒鳴り声のような声が聞こえる。
「…が…こにいる、って吐…」
「な……いるわけ…」
途切れ途切れだが所々言葉が聞こえてくる。しばらく怒鳴り合った直後、足を踏み鳴らし誰かが階段を登ってくる気配がした。
「誰か…来てる、よね…?」
私の袖にしがみつく優梨。隣の部屋のドアが乱暴に開かれる。この部屋に来るのも時間の問題だろう。隠れられる場所はせいぜいクローゼットの中だろう。それに全員は隠れられない。
「優梨。クローゼット、入っときな」
「え、でも、空良はどうするの…?」
「大丈夫、隠れる場所見つけるから」
真っ直ぐに優梨を見つめる。優梨は視線を宙に迷わせる。再び怒鳴り声が聞こえる。
「分かった」
優梨はクローゼットを開け、その中に入る。その扉を閉めると同時に部屋の扉が開く。武器を構えて、甲冑に身を包んだ兵士と軽装の兵士達が入ってくる。
「お前ら、人間か?」
「違いますよ。住まわせてもらってる者です」
そう言うと、兵士達は一瞬目配せをした後、こちらに武器を向けてきた。
「なんですか?物騒ですね」
「お前らが人間であることは分かっている。大人しく捕まれ」
当然のことだろう。こんな路地裏に荒々しく踏み込んできた根拠がないわけがない。誰かしらの情報提供があったのだろうか。
「そんな簡単に捕まってたまるかよ」
ぼそり、と香樹が呟く。香樹の雰囲気がどことなく荒くなる。甲冑の兵士は軽く嘲笑いこう告げた。
「なんでもいい。捕らえろ」
甲冑を除き全員がこちらへ向かってくる。捕まる覚悟を決め、目を瞑ったその瞬間、がしゃん、と派手な金属音が響く。その場の空気が凍る。
「叩くべきなのはリーダーだろ」
ゆっくりと目を開けると、甲冑の兵士を踏みつけ、その手から剣を奪った香樹が凛と立っていた。
「リ、リーダー…?」
「リーダーがすぐにやれるなんて、こいつ…」
一部の兵士から始まった怯えは一気に伝染する。兵士達の動きが止まる。香樹と目が合う。表情を変えぬままあごを軽くしゃくり、目を逸らされる。言いたいことは伝わった。首は動かさず、周りに目を走らせる。良い位置にいる。私の間近に来ていた男のみぞおちへ向けて勢いよく膝蹴りをくらわす。
「うぐっ!?」
予期せぬ攻撃に男の体が傾く。その手から無理矢理剣をもぎ取る。鋭利な刃に窓から差し込む太陽の光が反射する。
「な、なんでだよ!こんな強いなんて聞いてなっ」
その言葉が言い切られることはなかった。静かに兵士がまた一人崩れ落ちる。香樹の剣に血は、ない。
「うわぁぁぁ!なんなんだ!」
怯えが混乱へと変わり、再び伝染していく。ついには逃げ出す者まで現れる。
「落ち着け!数の利はこちらにある!」
そんな中でもまとめようとするものが現れる。かろうじて残っていた者がそれに呼応し、剣を構える。反射的に後ろへ逃げる。その瞬間、目の前を剣がかすめる。手は出したくない。その迷いを断ち切れないまま動かない私を怪訝そうに兵士は見つめる。数秒後、再び兵士が剣を振りかざす。動き方が分からない。
「空良!迷うな!命だろ!」
香樹の怒鳴り声。絶対に入れないように、心の奥へ奥へと仕舞い込んでいたスイッチが音を立ててオンになる。頭上に振り下ろされようとする剣がゆっくりと見える。剣を握った右手をその剣に向かって勢いよく振る。キンッ、と鋭く音が響いた。剣をはじかれバランスを崩した目の前の兵士の顔から血の気が引いていく。今だけは、私の正義だけを信じていい。怯んで後退りしていく兵士との距離を一気に詰める。戦い方など知らない。直感に任せて剣を横に振る。経験したことのない不快な手応え。剣を振り切った瞬間、視界の左端で鮮血が散る。兵士が崩れ落ちていく。ぽた、と剣から血が滴った。
「ひっ、も、もういやだぁぁぁ!!」
そう叫び、一人また一人と逃げ出していく。どうにか踏みとどまった兵士は最後の一人になっても香樹に切り掛かっていく。それもあっけなく香樹の手によって気絶させられてしまった。気絶したその姿を見た瞬間、妙な感触に襲われる。許したくない。そんな憎悪が身体を支配する。ふらふらとその兵士に近づく。血濡れたその剣をゆっくりと振り上げる。振り下ろそうとした瞬間、その手が掴まれる。
「空良、落ち着け」
はっと我に帰る。香樹は振り上げられた私の手を掴み、動きを制していた。
「ご、ごめん」
安心したように香樹の顔が緩む。もう安全になったのだろうか。レイラさんがいつまで経ってもこちらへ来ないのが不安だった。ため息をつき窓の外をぼんやりと眺める。静かに階段を登る足音が聞こえる。レイラさんが顔を出す。
「無事でしたか、よかった」
香樹がレイラさんに近寄り話かける。しかし返答がない。何かいやな予感がした。
「レイラさん?」
距離を保ったまま話しかける。突然レイラさんの姿が闇に包まれる。その闇が眼前まで迫り、香樹の姿が闇に隠れる。すぐに闇は引いていき、香樹は顔を歪め座り込んでいた。私たちの目の前に立ったのはレイラさんですらない、眼光の鋭い屈強そうな男だった。
「この程度で騙されるとはな。人間も落ちたものだ」
男は背中から大剣を抜き、香樹に突きつける。唇を噛みながら香樹が剣を構える。
「さらば」
ゆっくりと男は剣を振り上げる。切れかけていたスイッチがまた入る。何も考えず、真っ直ぐ男の懐に潜り込む。男は虚をつかれたような顔をする。腕を引き、真っ直ぐに突き刺す。もらった。しかし剣の先は空を切る。剣の先から目線を動かす。背後でギィン、と派手に金属音がなる。振り向くと香樹が男の大剣を剣で受けている。男は香樹を勢いよく真横に吹っ飛ばす。香樹の体が壁にぶつかる。
「かはっ…」
ずるずると壁伝いに香樹が崩れ落ちていく。強すぎる。初心者の私達ではとても勝てない。全員は逃げられないだろう。香樹の元に向かって行こうとする男とまた距離を詰める。またか、とでもいいそうな顔をして大剣を振りかざしてくる。しかし私の目的は攻撃ではない。一気に身をかがめ窓に向けて剣を勢いよく投げる。窓に命中しガラスが割れる。それを横目に体勢を立て直し後ろに下がる。
「何がしたい」
振り下ろした大剣を持ちあげ男が問いかけてくる。その背後で香樹が立ち上がり男に近づいていく。
「それを相手に言うとでも?」
「ふっ、面白い」
完全にこちらに気を引かれていた男の背中に香樹が深々と剣をさす。
「ぐっ!?……やるじゃないか」
男は香樹の方を振り向く。その背中に刺さった剣を男は自ら抜き、香樹へ向けて投げる。すれすれで香樹が剣をかわす。
「まだ動くか。ただ勝ち目はないんじゃないか?」
香樹が踏み込むのに合わせて床を蹴る。香樹との距離が縮まった瞬間、私は香樹を突き飛ばした。窓の方へ。
「は!?空良!?」
頭上には大剣。横に避ける。髪が目の前で切られパラパラと地面へ散る。
「仲間割れか?愚かだな」
男の言葉を無視し、困惑している香樹に目をやる。
「命、でしょ」
香樹が目を見開く。もうこれで伝わっただろう。男に視線を戻すと香樹の方に向かおうと足を出していた。そこに体当たりをする。わずかに男の体がよろめく。そのまましりもちをつくような態勢で男が倒れる。
「くっ…このっ!」
首筋に強い衝撃が走る。視界が真っ白になる。
「優梨!」
遠のく意識の中、香樹のかすかな声が聞こえた。優梨も連れて行ってくれたことに感謝する。無事に逃げられていますように、という願いとともに視界がブラックアウトする。
ほおに水滴が当たる。ゆっくりと目を開く。意識がはっきりしない。なぜここにいるのだろうか。固い石でできた床、そして壁。目の前にはもちろん鉄格子。後ろを見れば手の届きそうにない位置にある鉄格子のはまった窓から雨がわずかに降り込んでいた。次第に記憶が蘇ってくる。突如現れた男に気絶させられた、と思い出すまでに実に5分はかかっただろうか。外は土砂降りの雨だった。牢屋、だというのにあまりにも静かだった。人の喋り声はもちろん、身動きする気配も感じられない。どこか特殊な牢なのかもしれない。なす術もなく目の前の鉄格子を呆然と見つめる。不意にギィィ、と気が軋むような音がして、誰かの影が目の前の壁に映った。コツ、コツ、と革靴の踵を鳴らすようにその誰かが歩いてくる。その姿に私は息を呑むことになる。その誰か、は紛れもない、私たちが探し続けていた張本人、桐ヶ谷遼だった。その安堵さえもあっけなく打ち砕かれる。
「起きたか」
そう私に問いかける彼の目に生気はない。私のことなど忘れてしまったかのように冷たく、無関心に言い放つ。
「愚かだな。わざわざ町に出かけてわざわざ反抗して、一人で捕まったのか?」
「な、何言ってるの?」
自分でもわかるほどに声が震える。遼が言っている言葉が理解できなかった。あれほどに不安になって、あれほど真剣に無事を祈って、本気で探そうと決めて、遼の失踪でこれほど固まった心意気さえも「愚か」の一言で張本人に片付けられてしまう。
「その感じなら『怯え』以外に状態異常はなさそうだな。それじゃあ、ごゆっくり」
わずかに彼の顔に浮かんだ微笑。それが遼の笑顔と重なる。視界が滲み始める。彼が持っているランタンの光が線になって滲む。遼はため息をつき立ちあがろうとする。
「待ってよ!遼!」
鉄格子を殴りつけ、そう叫ぶ。立ち上がりかけた遼がしゃがみ込みこめかみに指をあて顔を歪める。
「なんで、なんで?ずっと心配してたのに」
涙声になるのも構わないまま話し続ける。
「忘れた、とでも言うの?」
「黙れ!」
今まで聞いたこともない、鋭い声。
「遼?誰だよ、俺の知ってる人間じゃない」
荒い息をしながら乱暴に遼は立ち上がる。ランタンの光が不安定に揺れる。バランスを崩しかけながら、歩き去ってしまった。ギィィ、という軋む音、そしてパタン、と扉が閉ざされる。体から力が抜けていく。重力に従って床へと崩れ落ちる。目からこぼれた雫が床をぽつりぽつりと濡らしていった。
何時間か経っただろうか。涙も枯れ、動くこともなくただ呆然と虚空を見つめていた。遼のあの言葉と目つきは、あの時と同じだった。全員から見放され冷たい目を向けられたあの時に似た喪失感と不信感。あれは確かずっと昔、5年前、私が小学6年生だった頃の話。
あのクラスは最悪だった。一人のリーダー格の女子、名前は思い出したくもない。そのリーダーを中心に、毎月誰か一人を対象にいじめが起き続けていた。リーダーは何やら小学校の理事長の娘か何かで、いじめを受けた子が先生に相談してもその権力でもみ消されるがテンプレートだった。優梨と同じクラスだった私はそのリーダーとなるべく関わらないように、いじめにも関わらないように二人で静かに過ごしていた。それが崩れたのは11月下旬。その日はたまたま優梨が風邪をひいて休んでいた。一人で登校し、開けた下駄箱に上靴はなかった。いわゆるいじめの定番だ。まさかとは思いつつ靴下で教室へ向かうと、教室に入った瞬間、リーダーと目があった。靴下の私を見て軽く鼻で笑い、すぐに目を逸らしてきた。予想通り、ゴミ箱を覗くと体操服と上履きが捨てられていた。今まで、優梨が休みの時は話していた子にも話しかければ無視された。その翌日、寝坊してしまい慌てて集合場所へ向かった。角を曲がって優梨の姿を認めるとともに絶句した。リーダーが優梨に絡んでいたのだ。
「ねえ、優梨ちゃんはこっち側だよね?」
そう笑ってリーダーは取り巻きとともに優梨を脅していた。優梨は顔を引き攣らせながらも懸命に首を横に振っていた。
「ちょっ、何してんの!?」
リーダーを優梨から無理やり引き剥がし、優梨とリーダーの間に立つ。私の顔を見た瞬間、気怠そうにため息をつき舌打ちをして歩き去っていった。
「優梨、大丈夫?」
「う、うん。空良、大丈夫?」
いじめを勘づいたのか優梨は心配そうに私の顔を覗き込んだ。
「大丈夫だよ!大したことじゃないから」
どうせ長くは続かない。そう思っていたのもあり、私は笑顔を取り繕った。その日以降、しつこくいじめは続き、リーダーは執拗に優梨を脅し続けた。無論、優梨がリーダーの側に傾くことはなかったのだが。それでも私達は学校に通い続け、なんやかんやでいじめは終わらぬまま冬休みへと入ってしまった。とはいえやっと一安心し、年が変わって学校にいく頃にはいじめという文字など頭から抜け落ちていた。始業式の朝、通学路で執拗に絡んできたリーダーが絡んでくることはなく、その存在はなかったものになった。しかし数分後にたどり着く下駄箱で、私の心の奥底の何かが狂った。私の上靴は無事だった。しかし、優梨の上靴は無事、どころではなかった。マッキーで落書きされ、たくさんの箇所に穴が開けられている。挙句、大量の紙が丸めて入れてある。上靴には当然のごとく、ブス、クズ、しね、などと落書きされている。取り出した上履きの中に、紙が綺麗に折り畳まれて入っていた。その紙を広げた瞬間、私は怒りに歯止めをかけられなくなった。
「DV人間の娘のくせに一人じゃ何もできないくせに調子に乗るな」
私は優梨の手からその紙を奪いビリビリに破いてその場に捨てた。実際に優梨の父親は、ひどい人だった。気に入らないことがあれば躊躇なく暴力を振るう。今こそは離婚し、別居しているそうだが、威圧的な態度の人間は今でも怖いという。そんな父親が小学6年生の初め、酔った状態で優梨の授業参観に現れたのだ。そして全く発言をしない優梨に腹を立て、授業中にも関わらず優梨に殴りかかった。周りの保護者や先生が全力で止め、警察まで出動する大事態になったが、優梨に怪我はなかった。それをきっかけに、優梨の父親の話は広がっていき様々な憶測が飛び交った。しかし、下手に近づけば身が危ないとでも思ったのだろう。それで優梨がいじめられることはなかった。
その事件があった日に、私は初めて優梨の父親の実態を知った。
「酔っ払ったら手、つけられないんだ。なるべく機嫌を損ねないように、静かに、生きてないといけない、から」
悲しそうに優梨はそう笑った。別れ際、優梨がぽつりとつぶやいた言葉を私は今も鮮明に覚えている。
「あの人の血が入ってるのが、悔しい」
これほどに苦しんでいる優梨も知らず、躊躇なく禁忌に触れてきたリーダーへの怒りの赴くままに、私は教室へ向かって走り出した。途中、何人もとぶつかった。全て無視して教室の扉を勢いよく開けた瞬間、いじめが始まった日と同じようにリーダーは私を鼻で笑った。そして近づいてきて、こう言った。
「あんたは馬鹿じゃないから、こっちに来るよね」
「ふざけんな!!」
それをきっかけに「人は傷つけない」と決めていた信念と理性は崩れ落ちた。私はランドセルを下ろし、リーダー目がけて勢いよく投げつけた。あっけなくランドセルは当たり、リーダーはよろめいて泣き叫んだ。さらに追い討ちをかけようと拳を固め、振り上げたその瞬間誰かに手をつかまれた。
「空良、落ち着け」
視線を上げると、他クラスのはずの香樹がそこに立っていた。おそらく私の声を聞きつけてきたのだろう。腕に力を込めたままの私が力を抜くまで香樹が腕を離す事はなかった。きっとそれがなければ私はリーダーを殴り続けていただろう。諦めて力を抜くと、香樹は腕を離し、代わりに私を人のいない廊下に連れ出した。
「どうした?」
「優梨が…」
一言発しただけで、言葉は流れるように出てきた。許せない、という思いをひたすらに言葉で紡いだ。香樹は私の話を聞き終わった後、少し不思議そうな顔をした。きっと私の言っていることは正常ではないんだろうな、とその顔で確信した。だから、「人を傷つける」ことをしないように、そのスイッチをなるべく心の奥底に仕舞い込んできた。香樹は私がいつも通りの雰囲気に戻ってきたことを確認すると教室へ帰っていった。心の片隅で「夢宮空良はいじめの主犯を懲らしめたヒーロー」と思ってくれると期待し、教室へ戻った私へ向けられた視線は冷たかった。冷たく、無関心に視線は私の心に刺さっていった。遼の目もそれと同じ。蔑みの混ざった冷たく無関心な目だった。
いつの間にか雨は止んでいた。数日間、食事だけが届けられ、なんとなく手をつけ、なんとなく呆然と過ごした。「ヒーロー」らしくなれただろうし、死んでしまったらさらにそれらしくなる。そう思って過ごすほど、世界から生気がなくなるような気がした。しかし呆然と過ごしていた無色の時間は壁とともに派手に鮮やかに破壊され、彩りを再び持ち始める。
「空良!」
見慣れた笑顔の下には筋骨粒々の体つき。意味が分からない事象が同時に起きすぎて情報が大洪水を起こす。
「おい、何事だ……って、はぁぁぁぁ!?」
衛兵らしき男が駆けてきて絶句する。当然だろう。ここまで崩れた壁を見て驚かない方がおかしい。とりあえず逃げ道がある、ということだけは理解し立ち上がる。久々に動いてよろめいた体を優梨に支えられる。外へ出るとそびえ立つ壁にまた穴が見える。筋骨隆々な体の香樹についてその穴へ向かっていく。突如、その城壁から複数人軽装の敵が降りてくる。接地した瞬間に筋骨粒々人間に吹き飛ばされ、頭上からの鍋でさらに追い討ちがかかっていく。いつこんな戦闘技能を習得したというのだろう。もはや戦闘とも呼べない気がしてきた。数秒で弱小兵は倒され、一瞬で壁の穴までたどり着く。なかなか高い位置にあり、登れそうにない。
「空良!香樹!捕まって!」
そう叫んだ優梨の手からフックらしきものが現れ、穴のへりにかかる。フックショットに近いものに見える。
「いくよ!」
その瞬間、勢いよく体が宙に浮いた。頬を撫でる風が心地よい。穴に着地した瞬間、ここぞとばかりに大量の矢が飛んでくる。その矢は全てもろに香樹に当たった、ように見えた。いや、当たったは当たったのだ。しかし当たった矢が全て折れ曲がっている。けろっとした顔で振り向く香樹に押され、全力疾走しながら私は壁を後にした。かなりの距離を走り続け、壁が見えなくなったところでやっと二人が足を止める。そして香樹の体はみるみるうちに縮み完全の元の姿に戻る。そしてゆっくり横に並んで歩き始める。
「香樹…何をどうやったら体がそんな変形するのよ…」
呆れ半分、興味半分で訪ねる。もはや人外なのではないか、という気さえしてきた。
「あー、魔法の一種?めちゃくちゃ疲れるけど、壁壊すのとかは楽しい」
「はぁ…?」
「こうなんか、頭の中でわーっ、ってやるとなんかあんな体つきになる、みたいな?あと、相手見てると、こうなんか線が見える」
「ごめん、何言ってんのかさっぱり分かんない」
「なんか、頭の中であの体つきを想像して捻り出す?的な感じのことをするとああなるんだって」
「あぁ…なるほど」
「あとは、相手がどう動くのかが線で見える?とかいう話みたいで」
「は?最強じゃん」
「この情報理解するだけで1時間はかかったよ〜」
その絵面はすぐに想像できてしまった。おそらく、聞けば聞くほど擬音語が増えていく、という地獄のループを繰り返した末の結論なんだろう。
「ずっとどーん、とかばーん、としか言わないし、挙げ句の果て『ばっ、がっ、ぐっ』とか言い始めて大変だったよ」
「いやいやわかるだろ。遼なら理解してくれる」
「あ……」
今の騒ぎで仕舞い込まれ掛けた絶望が再び蘇ってくる。無意識のうちに表情が暗くなってしまったのだろう。心配そうに優梨が顔を覗き込む。
「空良?大丈夫?」
「あ、いや……」
「遼関連だろ」
「え?」
「俺の直感なめんな」
頭が悪い割に妙に人の感情に鋭い部分がある。私は一つ深呼吸をし、遼のことを話し始めた。静かに、相打ちを打ちながら二人は真剣に聞いてくれた。
「あの遼が?妙だな」
一通り話し終えると香樹がそう言った。
「あいつ、そんなすぐに感情的になるタイプじゃないだろ。なんかこうもっと理屈でぐわっ、っと」
「遼本人じゃない、とか…?」
「偽物、ってことはない気がする。仕草とか表情の作りが遼にそっくりだったし。なんなら一致してたと思う」
冷静に遼の行動を思い返す。何度思い返しても、彼の行動は遼でしかなかった。しかし、言葉の発し方は明らかに遼ではなかった。
「ふーん?じゃあ、あれじゃね?記憶喪失、とか」
「確かに辻褄は合うんだけどちょっと違うような…?」
彼自身の名前も忘れてしまっているのだろうか。「遼」という言葉に反応した理由にも説明がつく。
「この時点じゃなんも分かんねーな。あ、空良に一応伝えとくと」
「何?」
「お前がいたとこ。城」
「は?」
「えっと、つまり王都の王様が住んでるお城、ってこと」
「あそこが?王城の下に牢なんて随分物騒な構造じゃない?」
「あー、まぁ、適当に作ったんじゃねぇの?」
やっと見慣れた小道に辿り着く。やっと一息つけそうだ。
「あ、あと、今の私たち見たらわかると思うけどちゃんと無事に脱出できたよ!」
「でも、最終的に迷惑かけちゃってるし…」
あの時、あわよくばこいつを倒して後から脱出できないか、と思っていた。小6の冬、自分の身も顧みずに殴りかかったあの時と同じように、ちょっとした「ヒーロー」になれることを期待していたが、今回はそれですらない。苦笑いを浮かべ俯く。きっとまた冷たい目を向けられるのだろう。
「あのままだったら全員ご臨終だっただろ。空良の判断は良かったんだよ」
「でも次、あんなことしたら許さないからね」
その言葉に私は顔を上げた。優梨が抱きついてくる。
「ありがとう」
心の中でかけて欲しかった言葉。溢れかけた涙を指で拭い、やっとの思いで笑顔を浮かべる。
「私もありがと」
私もやっと「ヒーロー」になれたのかもしれない。