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きぼうダイアリー  ~三つ目看板猫の平凡で優雅な日常~  作者: 矢立 まほろ
○第1話 三つ目看板猫とミステリー少女
7/30

 -7 『いぬ』

 その日からというもの、少女はほぼ毎日のように喫茶店「スリーアイズ」へと通い詰めるようになっていた。


 お決まりの天窓の真下の席で、図書館から借りてきた本を積み上げながら「うーん、わからん」と繰り返し喚いている。


 漢字字典やことわざ辞典。

 動物図鑑まで持ってきている。


 前虎後狼。

 虎や狼についても調べているのだろう。メッセージと関係ありそうなそれっぽいものを借りてきては、一冊読むだびに嘆息を吐いていた。


 おかげでソルテからすれば昼寝タイムの邪魔で仕方がなかった。


「マスターさーん。わっかんないですよー」


 次の本を開くが、結局また弱音を吐き捨てながら机に突っ伏してしまうまでが恒例である。


 マスターもその都度に慰めの声をかけるが、ほとほとに持て余しているように苦笑いを浮かべていた。それでも少女は諦めようとせずに次の本を手にして悩み始めるのだから、その絶えない根性には驚きだ。


 そもそもなにをそこまで頭を悩ませる必要があるのか、ソルテからすればそれこそ甚だ疑問ではあるが。


 と、ソルテの耳がぴくりと動く。

 店の扉が開いてドアベルがけたたましく鳴った。


「いらっしゃいませ」


 マスターの挨拶とともに入ってきたのは、綺麗に着飾った洋服を着た六十代ほどの女性だった。


 つばの広い帽子をかぶっており、レースのフリルがついた日傘を折り畳んで腕に提げている。白髪のふんわりしたパーマが印象的な老婆だ。この店に一年以上前から通っている常連である。


 彼女が店に入ってきたのを見て、ソルテは目を大きく見開き、牙を剥き出しにして身構えた。


「ん、どーしたの?」と頭上のソルテの様子に気づいた少女が不思議そうに見上げてくる。しかしソルテは来店した老婆へと視線を絶えず向けていた。


 いや、正確には彼女が胸に抱いている一匹の白い子犬に向けているのである。


 老婆が少女の隣の席に座る。


 やや厚着の上着と小太りな体格のせいで二人掛けの椅子がほとんど埋まり、その残った僅かなスペースに子犬がぴょこりと飛び降りた。


「わあ、可愛い。なんていうお名前なんですか」


 一瞬にして悩み事を頭から吹き飛ばした少女が、食いつくように子犬へと駆け寄る。我が子を褒められて喜ぶ親のように、飼い主の女性は上機嫌に微笑んだ。


「マルチーズのファムちゃんっていうの」

「へー、ファムちゃんですかー。触ってもいいですか」

「ええ、どうぞ」


 頷いて答える老婆に、少女も表情を和らげる。


 少女が椅子に座るファムに手を伸ばすともこもこの体を摩り上げた。

 耳を持ち上げたり、尻尾を優しく弾いたり。前脚を持ち上げて肉球を触ったり。しかしそれでも、当のファムは大人しくされるがままである。


 それほど好き放題されて黙っているなど、動物としての野生をなくしたまさしく家犬らしい浅はかな行為ではなかろうか。


 ソルテは決して人間に好き勝手させないし、媚びへつらったりはしない。言語道断である。


 少女の席の背もたれに飛び降り、細い足を交差してゆっくりと隣席のファムへと歩み寄る。


 余所者の犬が素知らぬ顔でこの店にいることが非常に不愉快である。この店はソルテの縄張りであり、その主を差し置いて子犬風情がちやほやされるなど良い気分ではない。この店のボスであるソルテには、飼い犬のチビスケに立場と言うものを示してやる義務があるのだ。


「フシャー。フシャー」


 研ぎ澄ました鋭い牙をむき出しにし、ソルテはファムへと威嚇の顔を向けた。目を見開いて敵意をむき出しにする。


 だがつぶらな瞳で見返してきたファムは、こくりこくりと左右に首を振ったり早い調子で口呼吸をするばかりだった。この犬、まるで何も考えていないのではないか思うほどに能天気に見える。


 それでもソルテが威嚇を続けていると、ただ一声、


「きゃんっ!」


 甲高く響いた吠声に、ソルテは大慌てで椅子から飛び跳ねて床に落ちた。


 決して驚いたわけではない。怖がったわけでもない。あの子犬が獰猛にも噛み付いてくる可能性を予期して回避しただけである。何事も慎重にこなすのが毅然とした猫の模範である。


 突然ジャンプしたソルテに驚いているのは傍で見ていた少女だけで、ファムの飼い主は穏やかに微笑を浮かべている。マスターにいたっては肩を落としたすかした表情で息をついていた。


「うわあ。ビックリしましたよ」

「いつもこうなんですよ」


 ファム用のおやつを銀皿に入れて持ってきたマスターが呆れ口調に言った。


「変に突っかかる癖に、びっくりしてすぐに逃げる。どうにも自分以外の動物がいるのが気に入らないようで、ファムちゃんがくると毎度のようにこの調子なんです。それでいて毎回こうやって一蹴されているのだから、肝っ玉が大きいのか小さいのか、よくわからないね」


「へえー。さっき私と外を歩いてたときは近所の犬にも喧嘩を売ったりなんてことなかったのに」

「この店は自分の縄張りだからって意地になるんだろうね。きっとそれで追い出したいんだよ。追い出せる度胸もないのだけれど」


 マスターから散々な言われようだが、それでもソルテは、心は負けずに威嚇の表情をファムへと注ぎ続ける。


「こら。そんなに怒ってばかりいるとおやつをあげないよ」


 言われてソルテはぴくりと動きを止めた。


 よく見るとマスターはファムのおやつだけではなく、もう一皿持ってきているようだった。なんとどうしてそれに早く気づけなかったのか。


「せっかく一緒におやつを用意してあげようと思ったのに。わがままな子は没収だねえ」


 踵を返して帰ってしまうマスターを見て、ソルテは危機を察してズボンの裾に必死にしがみつく。引きずられながらも、ただ食欲にそそのかされる一心に顔を擦りつけながら猫撫で声を上げて引き止めた。


 食べさせてください。お願いします。


 執着して食い下がるソルテに苦笑したマスターは、いい子にするんだよ、と銀皿を床に差し出してくれた。


 ソルテは何の言葉も待たずに真っ先に顔を突っ込んだ。

 魚肉を潰したチューブのおやつだ。魚の風味が残っていて食欲をそそられる。


「そんなに食べたかったんだ。ソルテくん食いしん坊だねー」


 少女が机に頬づきながら笑うが、断じてソルテは甘え媚びへつらったわけではない。出されたものは食べる。いつ飢餓状態に陥ってもいいように、食べれるものは食べれる時に食べておく。生物として当然の選択を取ったまでだ。


 そのため、ソルテの尊厳は保たれているままである。


 ――ああ、美味い。


 勢いよくがっついたせいでつい軽いげっぷが出てしまう。


 口の中に残っているおやつの味をもう一度、いや何度も味わおうと、もしゃもしゃと咀嚼しては目尻を垂れさせ至福に表情を緩ませた。


 食べることは、ソルテにおいて何よりも重要な事のひとつである。


「そういえば――」


 ふと少女が、椅子に大人しく腰掛けるファムを見て言った。


「狼と犬っておんなじなんでしたっけ」

「あら、そうなの?」


 ファムの飼い主の女性が驚きの声を上げる。その隣でマスターが頷いた。


「そうだね。僕もテレビか何かで知った程度の知識だけれど、犬のご先祖様は大昔に人間に飼いならされた狼だという話だったかな。遺伝子もほとんど同じで、中でも一番その遺伝子が似ていると言われているのが柴犬だ、というのは最近よく耳にする話だね」


「へえー。じゃあやっぱり犬と狼って同じなんですね」


 何の話かと思えばよりにもよって犬の話題である。

 あまりの興味のなさにソルテはまた天窓の前の梁の上に跳び登った。


「でも不思議。狼って肉食で獰猛ってイメージですし。ほら、三匹の子豚とか赤頭巾ちゃんとか。でもファムちゃんを見てたらおんなじだとは思えないくらい可愛いですよねー」


 だらしなく顔を綻ばせた少女がファムの頭を撫でる。

 されるがままなファムの大人しさには、誰にでも好かれて味方につけようという狡賢すら持ち合わせているのではないのだろうか。ソルテからすれば気のいいものではない。


 今にもあの子犬を追い出してやりたいが、またマスターに怒られては一大事である。今度は夕食抜きという恐ろしい罰すら有り得るからだ。ソルテはもちろん賢いので、そんな愚行をするはずがない。以前に一度経験してもう懲りている。


「ああ、なるほど」


 話の腰を折るように、唐突にマスターがそう言って平手を打った。


「なんですか?」

「もしかするとあのメッセージ、干支が関係していたりしないかな」

「……えと?」


 マスターに言われ、しかし少女は呆けたように首をかしげる。


「それってどういう――」と少女が尋ねようとした時、喫茶店のドアベルが鳴り響いた。


「ごめん、マスター。ちょっとお邪魔してもいい?」


 この声はよくお独り様でやってくる常連のお姉さん――沙織だ。

 しかし今日は、彼女を先頭に数人のお年寄りが後に続いている。


「センターの方でちょっと催しをやっててさっき終わったんだけど、参加してた老人会の人たちが近くで休める場所がないか探しててさ。ちょっとお世話になってもいいかな?」


「ええ、いいですよ。ひい、ふう、みい……席が足りるかな」

「私を除いて八人だから」

「それじゃあ奥のテーブル席に分かれて座ってもらいましょうか」

「おっけー。ありがとうマスター」


 沙織の誘導で、お年寄りの男女がぞろぞろと店の奥に入ってくる。


 店内は瞬く間に腰の曲がった老体たちに埋め尽くされ、店の半分ほどを占拠されてしまった。人口密度が上がって室内の気温が上がるのは喜ばしいことだが、それ以上に騒がしい。


 どうして老人たちの会話は声が大きく耳に響くものなのだろうか。

 落ち着いたシックな喫茶店も、一瞬でせり市場のような活気に早変わりである。


「店主さん。注文いいかい」

「こっちも頼むよ。こっちはホット四つで」

「ああ、はい。ちょっと待ってくださいね」


 マスターが大慌てで店内を走る。

 これほどの繁盛は珍しい光景である。


 注文をとり、珈琲などを準備しているが明らかに手が足りておらず、汗水流して駆け回るマスターを、カウンターに腰掛けた常連のお姉さんは申し訳なさそうに苦笑を漏らしていた。


 夕暮れが窓から差し込み始めた頃、やっと団体客が帰っていった。再びの静けさが喫茶店に戻ってくる。


 ファムと飼い主の女性も騒がしさから逃げるようにいなくなっている。店内にはマスターと少女、そして入れ替わりでやって来た客の主婦二人組だけだ。


 ようやく落ち着けた雰囲気にマスターは胸を撫で下ろすように息をついた。


「大変ですね」


 団体客がいたテーブルの布巾で拭きにやってきたマスターに声をかける。


「こういう客商売は、予想はできても急な来客には応対しづらいからね。仕方ないですよ」

「マスターさん一人でやってるんですもんね」

「そうだね。本当、猫の手も借りたいくらいだよ」


 皮肉を込めてか、梁の上でのんびりと寝転がっているソルテを見上げてマスターは言う。


「そうだ。マスターさん、さっき言ってた干支って――」

「あ、これは」


 先ほど聞きそびれた話題をもう一度少女が口にした時、マスターが急に渋声を上げた。少女も、そしてソルテも気になってふと目をやってしまう。


「お客様の忘れ物だね」と、彼は団体客のいた席の椅子から小さなポーチを拾い上げた。紺地の花柄で、おそらく女性のものだろう。財布などの小物入れに使えそうな手のひらサイズのがま口ポーチだった。


「貴重品が入っていたら大変だ。急いで届けてあげないと……でもお客様もいるし、店をそのまま開けるわけには」


 老人グループが店を出てからまだ十分と経っていない。


 おそらく今から急げばどこかで追いつけるだろうが、店主が留守にするのは無用心極まりない。それに方向だってわからず、すぐに見つかる保障だってない。カウンターではやってきたばかりの客のためにサイフォンの湯を沸かし始めたばかりでもあった。


「……仕方ない。お客さんには申し訳ないけど、後で沙織さんに渡しておこうか。彼女ならきっと連絡先もわかるだろうし」

「あ、あの」


 顔をしかめるマスターに、少女がぴんと力強く手を挙げる。

 そしてずっと手に持って悩んでいた図書館の本をひとまずテーブルに置いて立ち上がると、力強くこう言った、


「私が行きます!」と。


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