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きぼうダイアリー  ~三つ目看板猫の平凡で優雅な日常~  作者: 矢立 まほろ
○第1話 三つ目看板猫とミステリー少女
6/30

 -6 『天真爛漫』

 結局、少女に抱きかかえられたまま喫茶店「スリーアイズ」へと戻ってきてしまった。少女の腕に腰がすっぽりとはまってしまって抜けなかったのだから仕方がない。


 人間と猫では筋力も違う。体格差という理不尽には抗えないものだ。たとえソルテのような気丈な猫といえど、どうしようもない時だってある。


 決して、少女に抱えられていると歩くたびに揺り籠のように揺れて心地よかっただとか、彼女の高めの体温が冬場の冷えた体には気持ちよかっただとか、そんなみっともない誘惑に負けたというわけではない。


 そう、決して。


「いらっしゃい。おや、ソルテも一緒ですか」


 店に入るとマスターが笑顔で出迎えてくれた。

 少女に抱きかかえられるソルテに気付いたマスターは、さも珍妙な光景を見るかのように目を丸くしていた。


「外で偶然一緒になったんです」


 うにゃあ、と反対の抗議の声を上げる。無理やりついて来たくせに。

 だが少女にすかさず「ねー」と肯定的な声を被せられてしまった。遺憾である。


「探し物は見つかったかな」

「いいえ。全然ですー」


 肩をうなだらせ、少女は深く息をつく。喜怒哀楽の激しい子だ。


「マスターさん。ホットコーヒーをください」

「ブレンドですね。かしこまりました」


 少女が以前と同じ天窓の真下の席に座る。

 マフラーを取ろうとして腕の拘束が緩んだ隙にソルテは床へと跳び逃げた。マスターの元へと走り、カウンターの上に飛び乗る。


「もう、逃げなくてもいいのにー」


 頬を膨らませてぶうたれる少女を余所に、マスターが淹れているサイフォンの近くで身を丸めた。コーヒーを淹れ始める最中のサイフォンは、水を沸騰させるための足元のヒーターのおかげで微かに温かい。


「なんだ、ソルテ。今日は随分と脚が汚れてるじゃないか。外から帰ったら入り口で足を拭かないとダメだろう」


 ソルテの手足が土で汚れていることに気付いたマスターが、濡れタオルでソルテの足を拭く。いつもは扉の傍に置かれたタオルで自分で拭くのだが、今日は少女に抱えられていたせいで忘れてしまっていた。


「あ、すみません。その子さっき土遊びをしちゃったんですよ」

「ほう、珍しい。気になる何かがあったのかな」

「子どもたちが埋めてたタイムカプセルみたいなのを掘り返しちゃったんです」

「それはそれは。なんとも意地の悪い事を」


 嘆息を漏らして「またこの子は」と言わんばかりにマスターがソルテを見下げてくる。


 そのような目で見られても、気になってしまったのだから仕方がない。本能がソルテを動かしたのだ。自分は悪くない。


 ソルテは微塵も悪びれることなく、ふてぶてしい顔つきで欠伸を浮かべた。


「タイムカプセルかあ。懐かしいわね。私も二十歳のときに小学校の同窓会で開けたわ」


 ふと会話に割って入ったのは、マスターの正面のカウンター席に腰掛けている茶髪の女だ。レディーススーツの上にベージュのステンカラーコートを羽織っている。歳は三十手前くらいだろうか。太い眉と広く分けた前髪から見えるおでこが特徴的だ。


 彼女もこの喫茶店の常連で、たまにやって来ては、決まって一人でカウンター席にいる。いわゆるお独り様である。


「また太ったんじゃないの、ネコスケ」


 したり顔を浮かべて客席側から小突いてくる女性に、ソルテはせっかく落ち着いた腰を持ち上げて逃げた。


 このスレンダーな体を肥満呼ばわりとは失敬な。


「沙織さん。またソルテに噛まれますよ」

「違うわよ。前のは甘噛みだって。じゃれてるだけじゃれてるだけ」


 品もなくけらけらと女性――沙織が笑う。今度は本気で噛み付いてやればよかったかと後悔したが、また近づくのも厄介そうで、仕方なくいつもの天井の梁の上に行くことにした。


 珈琲を待つ少女の後ろから戸棚を伝い、器用に体を飛び跳ねさせる。お気に入りである天窓の前はまだ西日が差し込んでいて温かかく、ぬくもった柱から木の香りがした。


 沙織はそんなソルテをずっと目で追っていたが、やがて彼女の興味の視線はソルテの真下へと移された。


「可愛らしい子ね。新しい常連さん?」

「二回目です。この前初めて来て気に入っちゃいました。なんかクラシックな感じというか、古風で。珈琲の香りもいいですし落ち着きます」


 答えた少女が頭上のソルテを見てウインクをする。


「それに猫ちゃんも」と。


 それは嬉しい限りだね、と素直に喜ぶマスターとは正反対に、ソルテは一瞥もせずに欠伸を浮かべた。


「彼女は何か調べ物をしているそうだよ」

「へえ。調べ物ねえ」

「沙織さんなら何か力になれるんじゃないかな」

「えー、私?」


 マスターに言われ、しかし沙織は訝しげに首をかしげる。

 そうだなあと呟くと、少しの間逡巡した様子で口を開いた。


「ウチの職場の二階に行けばいろいろ知りたいこともわかるんじゃないかな」


「二階ですか?」と少女が尋ねる。


「そう。ここのすぐ近くに市民センターがあるのって知ってるかな」

「ああー。コンビニの後ろにある小さいとこですか」


「あーうん。それ。その小さいの。あそこの一階は多目的の会議室とかなんだけど、二階は市が管理してる図書館になってるの。あまり数が多いわけでもないけれど、腐っても図書館だし。何か調べるくらいなら行ってみる価値はあるんじゃない」

「なるほど! 名案です!」


 少女が目を輝かせて立ち上がる。


「私、ちょっと行ってきます!」


 ええっ、とマスターと沙織の驚く声が重なった。

「珈琲はちゃんと飲むので置いておいてください」とだけ言うと、少女は鞄すら持たずにあっという間に店の外へ飛び出したのだった。その勢いを物語るように、扉についたドアベルが荒々しく鳴り響く。


「げ、元気な子ね……」


 さすがの沙織も、少女のあまりの勢いのよさに気圧されているようだった。それに関してはソルテもまったくの同意である。


 鈴の音が鳴り止んで静寂が訪れるよりも先に、また激しく扉が開かれる。そして息を切らせた少女が顔を出し、たった一言こう言った。


「そこは無料ですか」と。


「え、ええ。市民なら貸し出し無料よ」

「やった」


 少女は両手でガッツポーズをしてまた店を出て行った。


 かと思えばまた数秒も経たずに戻ってくる。


「すみません。先にコーヒーのお金だけ払っておきます」


 忙しなくちょこまかと動き回る少女を見て、沙織は呆れるように声を漏らす。


「本当に元気ね」

「ええ、まったく」


 マスターも、ちょうど淹れ終わってしまったばかりの少女の珈琲を片手に、苦笑まじりに頷いていた。


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