-4 『好きだったもの』
公園を出てからもソルテはずっと少女に抱かれたままだった。
猫に慣れているのか天性の素質なのか、どうして彼女の抱擁は雲海のベッドのように心地よいのである。抗おうと四肢をもがけば、柔らかな胸やマフラー、分厚く着込んで枕のようにふくらんだ制服の袖に当てられて、温かさと気持ちよさで押しつぶされそうになる。
飛び出すこともできず、生き恥を曝されたように無防備に運ばれるほかない状況だった。
「かわいいなあ、きみ」
少女がソルテの顔を覗き込み、指先で突いてくる。鼻先をこすられ、ソルテはむず痒くなってくしゃみをした。
それを見て少女の表情がより柔らかく崩れていく。
少女に運ばれるまま喫茶店へと向かう幹線道路沿いをしばらく歩いていると、幾人かの子どもの掛け声が聞こえてきた。
声は高いがおそらく男の子だろう。その声は、前方に見え始めた『わいわいスポーツ広場』と呼ばれている大きな球場から届いていた。
敷地を囲うように背の高いネットが張られた、整備された砂地のグラウンドだ。ここではよく球技の試合や練習が行われている。ソルテからすれば叫ぶような掛け声が非常にうるさくて仕方がないので、普段はあまり近寄らない場所である。
「あれ、美咲ちゃんじゃん」
グラうンド横の道を通り過ぎていると、不意に中から声をかけられた。
少女に向けられたものだ。その声に、少女は曖昧に微笑を浮かべてグラウンドへ顔を向ける。
彼女を呼び止めたのは体格のいい男性だった。
おそらく三十代はいっているだろう角刈りの筋肉男で、角ばった頬骨といつも笑っているように見える大きな笑窪が特徴的だ。冬なのに季節感をまったく感じさせない薄地のトレーニングシャツ一枚だけという格好は、見ている方が寒気に襲われそうになる。
網目のネット越しに声をかけてきたその男性は、少女のいる歩道の傍へと一目散に駆け寄ってきていた。
「こんにちは。お久しぶりです監督」と少女が頭を下げる。
「本当に久しぶりだよ。もう二年も前だからねえ。元気にやってるかい」
「はい。おかげさまで」
「あははっ。それはなによりだ」と監督と呼ばれた男性が快活に笑う。笑い方があまりにも豪快で、唾が飛んできそうな勢いだ。ソルテはあまり好ましくないタイプである。
「監督こそ、サッカークラブの調子はどうですか」
「そうだな。まあ、まずまずといったところかな」
男性はそう言って背後の練習風景を眺めた。
地元の小さなサッカークラブのようだ。
ほとんどが小学生ばかりで、一心不乱にグラウンドを駆け回りながら必死にボールを追いかけている。彼らはみんな目も当てられないくらいに下手だ。
サッカーなんていう洒落た物ではなく、ただボールをがむしゃらに蹴って追いかけているだけのお遊びのよう。ソルテがよくする毛玉を突いては追いかけまた突く遊びと似ている。
この程度の子どもたちなら、きっとソルテのほうが上手くボールを手玉に取れることだろう。家でマスターに鍛え上げられたボール捌きには自信がある。
それでも楽しそうに駆け回る子どもたちを、男性は微笑ましそうに眺めていた。
「ワールドカップがある度にサッカー人気もどんどん高まってるし、うちのサッカークラブもしばらくは安泰ってくらいには人が来てくれてるよ。最近は小学校低学年の子も多いね」
男性が自慢げに胸を張る。
「ほんとだ。小さい子もいっぱいいます。すごいですね。小さな頃からの英才教育ってやつですか」
「みたいだね。子どもが思うだけじゃなくて、将来はスポーツ選手にさせたいって親もけっこう多いみたいだよ。こうやって小さい頃からそれに熱中させて、お金と期待をかけるんだ」
「うわあ、すごいですね。私だったらプレッシャーでイヤがってるだろうなー」
あはは、と少女が浅く苦笑する。
「そりゃあ親からの期待を一身に注がれているからね。子どもってそういうものにはけっこう敏感で気付くものだし。でも親御さんたちがそうまでして子どもをプロ選手にしたがるのは、テレビなんかでよく取り上げられるサクセスストーリーに影響されてることが意外と多いんだ。そういったドキュメントは大抵、小さい頃から英才教育を受けていたり、昔からずっと努力を続けていたりして、その成果がプロ選手としての成功に繋がっているっていう綺麗な話さ」
もちろん親がスポーツ選手だったからという理由も少なくないけどね、と男性は申し訳程度に付け加える。
「私もそういう番組見たことありますよ。オリンピック選手とか、野球選手とか」
「でもね、そういうのってごく僅かな成功例を取り上げているだけなんだ。生存バイアスっていうのかな。同じように小さな頃から努力していても、失敗してる子たちだって数えきれないくらいいるんだよ。それはもう、成功してる子の比ではないくらい。でも数少ない成功例ばかりを取り上げて、あたかも模範であるべき、道標であるべきと夢を見させるんだ。けれどね、誰だって努力しているのなんて当たり前。毎日欠かさず練習してる子なんて世の中には五万といる。それでも必ず成功するとは限らないのが現実さ。それがサッカーや野球のプロ……いや、きっとどんなスポーツや業種だってそうなんだと思う」
男性の言葉に、胸元にいるソルテだけが、少女が人知れずかすかに視線を伏せさせたことに気付いた。下唇の片方を犬歯で噛んでいる。ひっそりと曲がった眉はどこか哀しげに見えた。
「子どもたちは、みんながみんな、サッカーだけが人生ってわけじゃないですもんね」
「そうだな。だから、このクラブ経営をしている俺が言うのもなんだけど、ここに来てくれる子たちには、せめて親御さんやその子自身の気持ちをしっかりと持ってから来て欲しいって思ってるよ。期待っていうのは一種の足枷だからね」
「そうですね」
「俺みたいに、中学の頃から目指してたプロにもなれずにこうして地方のサッカークラブでコーチをやってる失敗例だってあるしな」
男性がわざとらしく、大袈裟に自嘲を浮かべた。
話の陰鬱さを全て吹き飛ばすような気持ちのいい笑いだった。
「ただ理由はともあれ繁盛するのはうちとしては大歓迎だよ。本気で来てくれる子にはこっちも全力で、それこそ本当にプロになる成功例にするつもりで指導をしてる。おかげでスタッフの人手が足りないくらいだ。あくまでうちは小さいクラブだから週に二回しかないし、スタッフたちもみんな本業の後に副業として手伝ってくれてる人ばかりだからね。条件にあった人がなかなか集まらなくて困ってるよ」
「あらら。それは大変ですね」
「美咲ちゃんが女子マネージャー引き受けてくれてれば、子どもの相手とか掃除とかもう少しは楽だっただろうになあ」
男性がにやりとほくそ笑む。
「ここのクラブにそんな役割なかったじゃないですか。それにそれってただの雑用係ってことですよね。お断りですよ」
「そりゃ残念。みんな、急に美咲ちゃんが来なくなってからずっと顔も見てなくて寂しがってるよ」
「またまたご冗談を」
少女も男性に負けじと笑顔を作る。
「そういえば――」
ふと男性が頭を掻いて遠くを見つめながら言った。
「あいつは元気なのか?」
「え……?」
「ほら、片山のことだよ。美咲ちゃんもあいつを見にここに来てたんだろ。それこそあいつ、サッカー命みたいな熱血人間だったくせに、急に本人からの挨拶もなしに辞めやがって。ちゃんと元気にしてるのか?」
少女の口角が僅かに下がったのがソルテには見えた。
だがそんな機微も気付かせないようにまた少女が表情をこっそり笑顔に戻す。
「どうでしょう。私ももう長いこと会ってないので」
「なんだ。美咲ちゃんもそうなのか」
肩透かしを食らっとばかりに男性が残念そうに息をつく。
そんな彼に、少女は複雑そうに浮ついた様子で愛想笑いを浮かべ続けていた。