3-1 『級友』
ソルテは悠々自適に町を歩く。
その姿は凛として、誰にも負けないほどに優雅である。
細身の手足をひたひたと交互に差し出し、細い塀の上すらもバランス一つ乱さず通り抜ける。騒がしく吠える家々の番犬たちに一瞥をくれてやることもなく、誰にも邪魔されることない。
自由気ままなお散歩だ。
かちゃかちゃとランドセルの音を立てて走っていく小学生を横目に、ソルテは滑らかに四肢を動かして住宅街を歩いていた。
クリスマスを来週に控えた十二月の中旬。
北風が冷たく、朝の空は真っ青なほど晴れやかだったのに、いつの間にか曇天に埋め尽くされて夜のように暗くなっていた。
まだ真昼の頃なのに底冷えするような寒さだ。
空気はしんしんと冷え切っていて、今にも雪が降ってきそうだった。
ソルテの吐き出す息すらも白くなっていた。
一陣の強風が吹き込み、寒さに身が震えて短い黒毛を逆立たせる。
散歩は好きだが、こんな日は早めに帰ってしまうのが一番だろう。
暖房のかかった喫茶店で、珈琲の香りに包まれながら眠るのも悪くない。
そうと決まればすぐ決行だ、とばかりにソルテが喫茶店へと踵を返した時だった。
「……あ」
振り返ると、目の前にいた少女と目が合った。
美咲だった。
学校の帰りなのかコートを羽織ったブレザー姿で、四角い通学鞄をリュックサックのように背負っていた。
――しまった。とソルテはついたじろぐ。
まだ時刻は一時ごろ。
今日は平日だから間違っても遭遇しないだろうと思っていたのに、予想外の事態である。今日は学校が早かったのだろうか。
このまま無視して歩を進めるべきか迷い、前脚を不自然に浮かせたままの格好で美咲を見やる。
「おーい、ソルテー」
にこにこと嬉しそうに美咲が歩み寄ってきた。
このままでは捕まってしまう。どちらに逃げたものか。
開けた道路が広がっている前、それとも狭い路地がある後ろ。いや、背後にある塀の上の飛び越えて民家の敷地に入るという選択肢もあるか。しかしそれでも根気強く追いかけてきた前例がある手前、どうしたものかと悩んでしまう。
と、そんな思案をしていると、
「ソルテ。昨日、美味しそうな猫のおやつが安売りしてたんだー。あとであげるねー」
動き出そうとしていたソルテの体は、美咲のその言葉によって一瞬にして逃走の出鼻をくじかれてしまっていた。
おやつ。
その一言にソルテは弱い。
逃げることを思い出した頃には手遅れで、ソルテの体はあっさりと美咲に抱きかかえられてしまったのだった。
そうなってしまえば反抗の牙を削がれるのも早い。ひとたび彼女の懐に収まってしまえば、その暖かさに全身の筋肉が弛緩したように腑抜けてしまう。
好物を餌に釣るとは卑怯である。
とソルテはよだれを我慢しながら不満を募らせた。
「よしよしー」と美咲が気安く頭を撫でてくる。耳の根元の筋を撫でられるのがまた絶妙にこそばゆく、かつ気持ちよくて、首を振りながら悶えてしまった。
怒りが一瞬で霧散していく。ああ、心地よい。
まるで人間の赤子のようにあしらわれているのはソルテの尊厳に関わる大変不服なことなのだが、気持ちいいのだから仕方がない。
「あれ。その子、この前公園で一緒にいた子じゃん」
ソルテを抱きかかえた美咲の傍に、女の子がもう二人いることに今更気付いた。
美咲と同じ学校の制服を着ていて、片方は背の低い気弱そうな眼鏡の子、もう一人は以前に散歩中の公園で見かけたやや色黒で髪が短いボーイッシュな少女だった。
「なになに。美咲のとこで飼ってる子なの?」
「ああ、いや。そうじゃないんだけど……」
ボーイッシュ少女に尋ねられて、美咲がなにやら言葉に詰まる。頬を引きつらせて困った風な顔つきだ。
「実は、バイト先のお店の子なんだ」と美咲が言うと、
「バイトしてたの?」と友達二人が声をそろえて驚いた。
ボーイッシュ少女は何故か楽しそうに目を輝かせ、眼鏡少女は驚いてずれた眼鏡をくいっと押し上げる。
「えっと、うん。最近からちょっとね」
「ちょっとちょっと。聞いてないんだけど。どこで働いてるの。教えてよ。行くからさ」
「ほら、そうなるでしょ。だから言わなかったんだよ」
「だって面白そうじゃん。友達の働いてるとこを見るのって。ねえ、理沙」
振られ、隣の眼鏡少女が頷く。
「私も秋奈と同じ意見」
「ええー、理沙まで」
友人二人に詰め寄られて困り顔を浮かべる美咲は、普段の飛びぬけた明るい印象と違って新鮮だ。彼女が押し黙るほどの友人たちの勢いに、ソルテは内心とてつもない賞賛を送っていた。
このまま一生美咲が静かになれば平和なのに、などと不穏なことまで思ってしまいそうだ。
「片山のこと、すっかり振り切れたんだね。元気になってよかったよ」
ボーイッシュ少女に言われ、美咲は少しぎこちなくはにかんだ。
「ええー。そんなに引きずってるように見えたかな」
「少なくとも最近、また落ち込んでるように見えたからさ。あの片山からの手紙についても折り合いがついたの?」
「うん。一応、ね」
美咲は明るい笑顔を作って頷く。
「結局何も状況は変わらなかったけど。でも、けじめはつけれたかな。というか私のことはいいって。それよりも秋奈はどうなの。最近、彼氏作ろうとけっこういろいろ頑張ってるらしいじゃん」
「まあねー。声かけたり、連絡先交換したり、いろいろやってるんだけどいまひとつなんだよねー。なんか背が高いから男みたいってよく言われちゃうし。私には恋愛むいてないのかなー」
「そんなことないって。言ってくれたらあたしも応援するよ」
「そうだよね。よーし。私の目標は今年中に彼氏つくるぞー」
おー。とボーイッシュ少女が拳を天に突き上げて意気込む。その様子を美咲は微笑んで眺めていた。
だがぼそりと小さく、
「……目標、か」と美咲は呟いた。
ボーイッシュ少女もそれに気づいたようだ。
「美咲はそういうのないの? 夢とか、目標とか」
「私は……」
美咲は答えようと口を開いたが、言いよどんでしまい、顔を俯かせた。
懐で抱きかかえられているソルテと目が合う。
その表情は物憂げで、彼女らしくない気弱な顔だった。
だが、それをすぐに明るく取り繕って顔を上げる。
「私はないかな」
そう言って浮かべた美咲の笑顔は、どこかいつもと違和感があった。
「へえ、美咲はそうなんだ。でも目標とかないともったいないよ。私はさ、何か目標が無いと、生きてる意味がないって思っちゃうんだよね。なんのために生きてるのって言われて、答えられるほうが格好いいじゃん」
「そう、かな」
「そうだよ。だから私は、人並み以上に青春を送って、甘酸っぱい日々を送ることが目標なわけ。将来、今のことを思い返したときに、自信を持って振り返れるようにね」
「将来、か」
「そうそう、将来。んで話は戻すけど、美咲はどこで働いてるの?」
「うわあ、今の流れで忘れてなかったか」
「ばっちり覚えてるよ。ねえどこどこ。ちゃんと聞かせてよ」
目を光らせるボーイッシュ少女に、隣の物静かな眼鏡少女も視線だけで圧をかけてくる。結局、二人に押し切られて美咲はバイト先の喫茶店『スリーアイ』について話をした。
「知ってる、そこ」と眼鏡少女が言った。ボーイッシュ少女も続いて頷いた。
「私も知ってるよ。なんかオシャレな感じのとこだよねー。古いというか、ぼろくさいというか、なんか年季が入ってそうな雰囲気で」
オシャレと言いつつまったく褒め言葉になっていないではないか。
ソルテにとって我が家同然の店に随分な言い様である。先ほどの彼女への賞賛は取り止めだ。
「マスターさんのご両親の趣味が骨董品集めだったんだって。だからその名残でいろんな古い骨董品があるんだよ。でも、お店自体はそんなに古くないんだ」
「へー、そうなんだ」
せっかく美咲が説明したが、ボーイッシュ少女はよくわかっていないといった様子で呆けて頷いていた。
やはりどこか鼻につく子である。
ソルテの脳内ヒエラルキーでは低めに位置づけておくとしよう。
ちなみに頂点はマスターで、ほぼ同率にソルテ、遥か下の最底辺あたりに美咲がいる。
「あ、そうだ」とボーイッシュ少女が急に手を叩いた。
弾けるような音に、ソルテは咄嗟に体を震わせて警戒してしまった。
「ねえねえ美咲。提案があるんだけど」
「なあに?」
「そのお店で、クリスマス会、しよ!」
屈託のない笑顔で言った少女の言葉に、ソルテも、美咲もしばらく理解が追いついていなかった。やがて美咲が目を見開き、
「ええー!」と劈くような声で叫んだ。
「いやあ。それは無理だと思うよ」
「絶対?」
「いや、絶対かはわからないけど」
「じゃあそこの店長さんに頼んでみるだけでもいいからさ。やってみてよ」
「ええ……なんでそんなにそこでやりたいの」
「だって趣のある喫茶店でクリスマスを過ごすって、なんだか雰囲気良くてかっこいいじゃん」
迷いがない潔さには、さすがの美咲も気圧されてしまって困り果てているようだった。スリーアイは小規模の喫茶店だしクリスマスともなれば客だって多くなるかもしれない。現実的に考えれば難しい話だ。
なにより、ただでさえ美咲だけでも騒がしいというのにその友達まで店に来られると、本当にソルテの安眠が阻害されてしまいかねない。
なんとしても美咲には断って欲しいものだ。最悪、殴っても良い。
いざとなればソルテも加勢して引っ掻こう。平穏を脅かす者は敵である。
さあ、全力で拒否をするのだ。
そんなソルテの願いなど露も知らないだろう美咲は、
「じゃあ、とりあえず頼んでみるよ。頼むだけね。無理だと思うけど」
苦い顔をしながらも、そうあっさりと折れてしまったのだった。




