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きぼうダイアリー  ~三つ目看板猫の平凡で優雅な日常~  作者: 矢立 まほろ
○第2話 三つ目看板猫となかよし夫婦
20/30

 -10『夢の旅行券』

 おばあさんの手を引いて、美咲は市民センターの入り口の自動ドアをくぐった。


 ソルテもこっそりと続く。本来はおそらく動物は入館不可なのだろうが、まあ、バレなければ問題ない。バレたらすぐ出て行けばいいだけのはなしだ。


 猫には人間でいう法律もないのだから、気にするだけ無駄である。


 入ってすぐの受付の窓口を美咲が訪れると、事務所の奥から沙織が顔を出した。


 休憩から戻っていたらしい。

 窓口のガラス越しに寄ってきた沙織は「どうしたの」と不思議そうに眉をひそめていた。


「お願いがあるんです。実は――」


 美咲が話している間、後ろで待たされているおばあさんは所在なげに待ち呆けていた。いったい何事なのかとまだ少しも理解できていない様子だ。


 彼女の後ろには今もおじいさんの姿がある。借りてきた猫のようにしおらしいおばあさんに比べ、おじいさんは困り果てたようにあたふたと表情を歪ませていた。


 やがて美咲たちの話が終わると、事務所から沙織が出てきた。手には鍵が握られている。


「こっちです」と彼女が美咲とおばあさんに言う。


 事情がわからないおばあさんは、ただ促されるがままに一階の廊下の奥へと足を進めた。


 もちろんソルテも何食わぬ顔で一緒に向かう。

 ふと沙織の隣を堂々と通り過ぎた時、彼女が「うげっ」と汚い声を漏らした。


「ネコスケも一緒なの。それはちょっとなあ……」


 顔をしかめる沙織だが、気にせず進んでいくソルテに、


「まあいっか。私は気付いてないってことで。誰も見てませんように」と適当に納得していた。


 人間ならば職員としてそれでいいのかとは思うのだろう。だがソルテからすれば当然の待遇である。


 周囲をキョロキョロと見回した沙織は、泥棒のような忍び足でおばあさんたちを案内していった。


 沙織に案内されたのは、市民センターの一階にある部屋だった。


 多目的室と書かれたそこは、中に入ると土のような匂いに包まれていて、ソルテは鼻を塞ぎたいほどに顔をしかめた。一体何のせいなのかと部屋を見回すと、そこにはいくつもの絵が描かれたカンバスが並んでいた。


 充満しているのは油性絵の具の臭いだ。

 他にも水彩画、人物デッサンや写生、多種多様な絵が並んでいた。


 カーテンが締め切られているせいかまだ日が落ちていないのに薄暗い。


「絵画教室が開かれている部屋です」と電気をつけた沙織が美咲たちに言う。しかしそれでもおばあさんはいまひとつ合点がいっていない様子で部屋中をきょろきょろと見回している。


「少し前に終わったばかりなんでまだ散らかってますから、足元とかご注意ください。絵の具で汚れるかもしれないので」

「あの。どうしてこちらに?」


「それよりも先に。奥さん、お名前をお聞きしてもよろしいですか」

「え? 遠山千代子ですけど」

「遠山さん、ですね」


 何か確かめるように沙織は頷くと、部屋の奥の方へと進んでいった。そして放置されたように部屋の隅でぽつり離れていた、布のかかった一枚の大きなカンバスを持ってきた。


「これを、貴女に」と沙織がおもむろに布をめくる。


「…………まあ」


 短い溜め息がおばあさんから零れた。

 下唇が震え、見開いた目が潤んでいくがわかった。


 そこに描かれていたのは、一枚の真っ白なカンバスに水彩で小さく彩られたいろいろな建物などの風景だった。


 アメリカの自由の女神、フランスのエッフェル塔や凱旋門、オーストラリアのオペラハウスなど、いくつかの世界の観光名所の絵が、画板いっぱいに敷き詰めるように描かれていた。


 お世辞にも上手くはない。モザイクがかかったような大雑把なタッチだ。だが色味や形状で何かを把握できる程度には仕上がっている。大き目のカンバスはまだ上半分くらいしか埋まっておらず、下半分は白地のままだった。


「これは、いったい……」


 口許に手を当てながらおばあさんがカンバスへと歩み寄る。そのカンバスの隅に書かれた名前に気付き、口にした。


「遠山、信二郎……あの人の名前」


 途端に、おばあさんの瞳から大粒の涙が溢れ出ていた。それは頬を伝い、口を押さえた手から滴り落ち、真っ白なカンバスの上に灰色の水玉を描いた。


「おじいさん、なくなられる前に週末だけ出かけてたって言ってましたよね」


 後ろで見守っていた美咲が言う。


「ええ」

「パチンコなんかじゃなくて、この教室でこれを描いていたみたいです。どうしても描かせてくれって、意地になって頼んでいたらしくて」

「――ええ」


 言葉にならないといった風におばあさんは頷く。

 声の代わりに、目一杯の涙が零れていく。しわだらけの乾燥した肌が水浸しだ。


「おじいさんはきっと、おばあさんを世界旅行に連れて行ってあげたかったんだと思います。でも最後までその約束を果たせずに、せめて絵の中でだけでも、おばあさんに世界中の景色を見せてあげようとしたんじゃないでしょうか」


 美咲が言うと、おばあさんのすぐ後ろにいたおじいさんは気恥ずかしそうに顔を赤らめた。


 実際そのとおりなのだろう。

 五ヶ月前に亡くなったおじいさんは、死ぬ間際にこの教室へ通っていた。


 もしかすると自分の死期を悟っていたのかもしれない。しかしおばあさんとの世界旅行の約束も果たせていないままでは死んでも死にきれず、形は違えどもこうして絵にすることで約束を果たそうとしたのだ。


 あまりに無鉄砲で突拍子のないアイデアだが、それでもおばあさんが少しでも喜んでくれるならと、人生の最期をこの一枚に残そうとしたのだった。


 それが痛いほどに伝わってきて、おばあさんは今にも崩れ落ちそうなほどに泣きじゃくっていた。


「馬鹿ね……本当に……」


 嗚咽の混じったおばあさんの声が小さく零れる。


「私はあなたと一緒に行きたいって言ったのを忘れたのかしら。もう、ボケちゃってるんだから」


 弱々しく震えていて、しかし優しく笑うような声。


「こんなことで私が喜ぶと思っているのかしら」

『思っているさ』


 ソルテに耳に、おばあさんとは違うもう一つの声が届いた。美咲でも沙織でもない男の声だ。それがおばあさんの隣に今もずっと寄り添っていたおじいさんのものだとすぐにわかった。


「私も安く見られたものね。何よ、この絵。形もぐちゃぐちゃ。まるで子どものラクガキみたい」

『仕方がないだろう。絵を描くことなんて経験がなかったんだ』


「でも、意外とわかるものね。これは……オペラハウスかしら」

『お前が昔、オペラが好きだと言っていたからな』


「これはイースター島のモアイ像」

『あの変な石像が可愛くて見に行ってみたいって言っていただろう』


「これは、スフィンクス? まるでただの猫みたい。どうしてピラミッドじゃないのかしら」

『べ、別に構わんだろう。変な仮面をつけてるだけでこれも猫とそう変わらんじゃないか』


 絵を順番に指でなぞりながら、一つ一つ、おばあさんは噛み締めるように絵を見ていく。


 おじいさんの姿が見えてないのだからきっと声も届いてはいないはずだ。それなのに二人の様子は、まるで本当に会話をしながら世界の各地を一緒に見て回っているかのようだった。観光地を一つ、また一つと、想い出を語るように話していく。


 本当に、二人で世界一周をしているような光景がそこにあった。


 涙を浮かべていたおばあさんの顔はいつの間にか笑顔に変わっていて、おじいさんと二人で眺める眼前の景色にとても楽しそうに目を輝かせていた。おじいさんも、仏頂面をほんの僅かに崩して口角を持ち上げていた。


 果たせなかった二人の夢を、いま、少しだけ果たしている。


「旅はまだここまでなのね……」


 描かれた最後の絵に行き着き、なぞっていたおばあさんの指が止まった。


 表情が寂しげに陰る。


 おじいさんも顔を俯かせた。

 そこまでしか行けなかったという後悔に苦しむかのように顔をしかめていた。


 夢はまだ半ばまでしかいけていない。立った数箇所を回っただけでは世界一周とは言えないだろう。その口惜しさに、おばあさんも、おじいさんも同じように残念そうな表情を浮かべていた。


「ありがとう、職員さん」


 おばあさんが優しく笑んで沙織に言った。


「ごめんなさいね。あの人、かなりの口下手だから。これを描く時も、きっとあなた方に散々迷惑をかけてしまったんじゃないかしら」

「ああ……それは」


 沙織の言いよどんだ様子からしてバレバレだ。

 やっぱり、と言った風におばあさんは苦笑した。


「きっとそうでしょうと思ったわ。人見知りで無口で、でも人一倍に意地っ張りで負けず嫌い。そんな人だったから。でもきっと、主人はあなたにとても感謝していると思います。私との約束のためにこれを描かせていただいて。あの人の相手は本当に大変だったでしょう。でも、おかげでこんな素敵な絵を見ることができました。本当にありがとう」


「い、いえ。私は何も」

「ううん。主人も、やっぱりそういう気持ちだったみたい」

「え?」


 言ったおばあさんが、カンバスの縁に手をかける。おじいさんの名前が書かれていたそのすぐ傍に、小さなメモ書きのような何かが書かれていた。


『わがままをありがとう』と。


 ただ、それだけ。


 それがどういう意味なのか。

 誰に宛てられた言葉なのか。

 それだけではまったくわからない。


 だがソルテには、自然とその言葉が沙織へと向けらているような気がした。


「ありがとう。あなたたち職員さんのおかげで、私はこうして素敵な夢を叶えることができました。ちょっと不思議な形だけれど、それでもとっても嬉しかった。本当に、本当にありがとう。この場を提供してくれて。これを、私に遺してくれて」


 おばあさんの言葉は心から気持ちのこもったものだと、ソルテですら感じた。


 それを一身に受け取った沙織は、瞬く間に目元を潤ませて今にも泣き出しそうなほど顔を赤くしていた。先ほどまでまるで他人事のように眺めていただけだったというのに。おばあさんの涙に釣られでもしたのだろうか。


「い、いえそんな。これが私たちの仕事ですから」

「ふふっ、ありがとう」


 改まった沙織におばあさんは丁寧にお辞儀をした。沙織は気恥ずかしそうにしていたが、まんざらでもないように頬を赤くしていた。


 あれだけ喫茶店で愚痴っていた彼女だけに、夫婦の感謝の言葉は深く染み入ったようだ。瞳が潤んでいる。


「よかったですね」と小さな声で囁いた美咲に、沙織さんは「馬鹿、からかわないで」と笑顔を含ませて呟き返した。


 それからしばらくの間、おばあさんはおじいさんが遺した絵を眺め続けていた。沙織も、後ろに控えている美咲も、ただ静かにその様子を見守っていた。


 だがソルテは退屈である。

 静寂の中、ふわあと呑気に欠伸を漏らす。


 その場違いさにくすりと美咲が笑みをこぼした。沙織も口角が上がるのを抑えている。


 感傷に浸るという感覚も静間の余韻もソルテの知ったことではない。


「職員さん」

「なんですか」


 おばあさんが言い、沙織は抑えていた表情筋を緩ませて砕けた顔で答える。その物腰に、先ほど喫茶店で嘆いた時にぼやいていた仕事への重たい気だるさはない。


「ひとつ、私もわがままを言わせて頂いていいかしら」

「……わがまま?」


 怪訝に小首を傾げた沙織に、おばあさんは目尻を垂らして優しくうなずく。


「ええ。わがままを、ひとつ――」


 涙を潜めたおばあさんの表情は、とても晴れやかにきらめいてた。


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