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きぼうダイアリー  ~三つ目看板猫の平凡で優雅な日常~  作者: 矢立 まほろ
○第1話 三つ目看板猫とミステリー少女
2/30

 -2 『あんごう』

前虎後狼ぜんここうろう


 マスターが紙に書かれている文字を声に出して読む。


「これだけですか」


 文面を読んだマスターまでも、息をつきたくなるような複雑な顔を浮かべていた。


 ソルテからすれば人間の難しい言葉などちゃんと理解できないし興味もないが、自分の足元で騒がれていては気になって仕方がない。


 無視して昼寝をしようにも、わんわんと首を回して喚く少女の声に眠気も霧散させられていた。寝るのは諦め、香箱座りで頭を前に寝かせ、二人の様子を眺めながら暇つぶしに尻尾をぶらぶらさせた。


「前虎後狼というのは『前門の虎、後門の狼』という言葉を四字熟語にしたものですね」


 マスターが顎鬚をさすりながら言う。


「あ、それは私も聞いたことありますよ」

「意味としては、困難が降りかかった矢先にまた困難が訪れる。一難去ってまた一難、と同じ意味のことわざだったはずです」

「ふむふむ、なるほどです」


 湯気を立たせるコーヒーカップに角砂糖を二つ入れながら、少女は鼻息を荒くして頷いた。しかしいまひとつ合点がいっていないという風に小首を傾げる。


「ただそういう意味ではないのですか」

「うーん。でも、それだけじゃあない気がするんですよね……」


 少女の返答はとてもふわふわと宙に浮いているかのように曖昧だ。明確な根拠があるというわけでもない様子だが、すんなり飲み込むにもどこか引っかかってしまう所があるのだろう。。


「このメッセージをくれた男の子、私がまだ中学二年だった頃――だからえっと、もう二年も前に死んじゃってるんですよ」

「ええっ。そうだったんですか」


「それが一昨日、急にその子のお母さんが家にやって来て。たまたま部屋を掃除してたら遺品の中に私宛てのメッセージが残ってたって、この紙を渡されたんです」


 少女の溜め息で、カップから漂う湯気が霧散する。


「もう自分なりに気持ちの整理もつけたのになあ。二年前の私だったら、あいつの死もすごくショックで自分も死にたくなるほど落ち込んだけど。いま、こうして時間が経って落ち着いて、そんな時にこんなメッセージだけを渡されちゃって……正直どうすればいいのか反応に困ってるんです」


 少女の顔に苦笑が浮かぶ。ふう、とまた息を吹くと、まるで彼女の心情を表しているかのようにコーヒーカップの水面が波打って揺らいだ。


「でもきっと何か意味があるんだろうなって思うんですよね。じゃないと、わざわざ私に宛てた意味がわからないですし。そう思ったらなんか、放っておくこともできなくて」

「彼の遺した言葉をちゃんと理解してあげたいんですね」


「そんな高尚な考えってわけでもないですけど。ただ、その子とはずっと幼馴染だったんです。ずっと腐れ縁で仲が良くて、そのせいかちょっと好きだったんですよ。少なくとも他の男子なんかよりかは。でも結局お互いに気持ちを伝えられないでお仕舞いでしたけど。だからこのメッセージの意味がわかれば、これがあいつとの本当の折り合いになるかなって。それで考えてみてるんですけど……」


 力強く言うが、しかしすぐにその言葉尻も弱々しく萎んでいく。


「でもわっかんないんですよー」とまた少女が泣きっ面を浮かべて机に突っ伏した。


 それとほぼ同時に、ソルテは梁の上から机の上に飛び降りる。


「うわあ」と少女が短い悲鳴を上げた。

 突然猫が降ってきて目を丸くして驚いていた。


 そんな少女の反応を余所に、ソルテはすたすたと目の前を通り過ぎてマスターへと向かう。


 彼女がどんな悩み事をしていようが、たとえ話の腰を折ろうが、ソルテにすれば知ったことではない。時刻はおおよそ午後四時。ソルテにとってなにより大事なおやつの時間である。ソルテの体内時計は正確で、ぐうと短くお腹が鳴ればだいたいその時間なのだ。


 机上からマスターの体に擦り寄っておやつをねだる。

 壁にかけられた大きな柱時計を見てマスターも時間に気づいたのか、口許を緩めながらソルテの頭を撫でた。


「ああ、わかったわかった。ちょっと待っていなさい」

「す、すごい。猫さんですか」


 少女が目を輝かせながら言った。

 さっきまでのアンニュイな気分をすっかり忘れ去ったかのように言葉が弾んでいる。


「ええ。あ、アレルギーなどは大丈夫ですか。看板に猫がいるという注意書きは書いていたのですが」

「えへへ、すみません。気づきませんでした」


 少女がソルテの顔を覗き込んでくる。


 近い。ソルテはむっと眉をひそめた。


「へえー変わった顔ですね。普通の黒猫……ですよね。でも、なんだか額の真ん中が少し白く剥げて、てもう一つの目みたい」

「僕が初めてこの子と出会った時からある傷ですよ。野良猫だった頃にどこかにぶつかっちゃったのかな」


「ありゃりゃ。触ってもいいですか」

「ええ、どうぞ」


 ソルテの意を問わず、気安くマスターが頷いてしまった。


 しかしソルテには、そんじょそこらの飼い猫のように、そう安々と気を許す生易しい猫ではないという自負がある。無遠慮に撫でられるのは気に障るし、できれば放っておいてほしい一匹狼なのだ。猫ではあるが。


「ほーれほれ」


 微笑みながら少女が手を伸ばし、指先でソルテの喉元をそっと摩ってくる。


 優しく、毛を逆立てるように、さらり。


「うにゃあ」とついつい甘い声を漏らしてしまった。


 この少女、思いのほか撫でるのが上手い。


「かわいいー。もふもふするー」


 顎の裏、首筋、耳の付け根。

 こそばゆく、程よい心地よさを感じさせる刺激に、ソルテは思わず目を細める。


 巧みな指さばきに、踊らされるように首を振ってしまっていた。しばらくしてはっと正気に戻り、邪念を振り払ってもう一度マスターの元に逃げ――駆け寄った。


 危うく気を許すところだったが、問題ない。


 改めておやつを急かすソルテに、はいはい、とマスターがおやつを取りにカウンターへと去っていった。


「ねえ、きみ。きみにもわからない?」

 少女がソルテに紙を見せてくる。だが人間の文字などわかるはずもなく、なにより興味すらなかった。ふわあっ、と大きく欠伸で返してみせると、それを見て少女は苦笑を浮かべた。


「そうだよね。わからないよねー」と。


 それから少女は死体のように気だるげに突っ伏したまま、ひたすら紙を眺め続けていた。


 何をそれほど悩もうものか、ソルテには少しもわからない。


 今日のおやつは綿毛のようにふわふわなけずりマグロのおやつだった。

 マスターが持ってきた器の中身を一目散に平らげて、けふりと一息ついてしまえば、ソルテの頭の中はあっという間に至福の喜びに満たされる。


 うーん、と悩み続ける少女の小言も、ソルテからすれば些細な雑音にすぎない。棚を伝ってもう一度天井の梁の上に飛び上がると、陽の差す天窓の前で身を丸めて、もう一度お昼寝をしようと瞼を閉じたのだった。


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