-8 『奇縁』
「そういえばさっき、あのおばあさんに会ったんですよ」
珈琲を飲んで大人しくなった沙織をお店のカウンターに残し、バックヤードで備品整理をしていた美咲がマスターに言った。
バックヤードと言っても暖簾で仕切られただけで、カウンターからすぐ見える位置だ。そのため声も簡単にソルテまで漏れ聞こえてくる。
「二回も出会ったんです。時間も少し開いているのに一日で二回。すごい確率ですよね」
「そうだね」と、暖簾を挟んだカウンターの奥でマスターがカップを拭きながら答える。
「何かご縁があるのかもね」
「あ、おばあさんもそれを言ってました」
「何気ないように見えて、意味のないことなんて実は少ないからね。ちょっとした出来事が素晴らしい縁になったりするもんだよ」
「じゃあ、もしかしておばあさんの宝くじが当たってるとか……えへへ。それで少し分けてもらえちゃったりなんて。結局、買ったのかはわからないまま別れちゃいましたけど」
「欲を出すのは良くないなあ」
「あ、マスタさんー。いまの駄洒落ですか?」
「ち、違うよ」
ほんとですかー、と笑う美咲の勢いに気圧されるように、マスターは苦々しく笑みを浮かべた。
アルバイトを始めてまだ一週間と少しなのにすっかり馴染んでいるあたり、美咲の明るさにはほとほと驚かされる。
彼女が客として店に来てからというもの、見違えて店内の賑やかさが変わったように思える。これまでも近隣の主婦の井の端会議場になっていたことはあるが、それとはまた違う元気な華やかさのようなものがある。
店が明るくなってマスターは上機嫌のようだが、ソルテからすればやはりいい迷惑である。
「宝くじが当たってたらって想像するのって楽しそうですよね。おばあさん、いままでずっと買い続けてきたらしいんですよ。だから今年も買えば、もしかすると今年こそは当たっちゃうかもですね。でも、もし本当に当たっちゃってたら私もちょうだいとは言えないなー。おばあさんの旦那さん、宝くじを当てて叶えたい大きな夢があったらしいんです。結局いままで全然当たらなかったみたいですけど」
「へえ、面白そうだね」
楽しそうに話す美咲の口調に、マスターも頬を緩めた顔で受け答える。
「いいなー。私も宝くじ当てたいなー」と沙織がコーヒーカップの縁をなぞりながら呟いた。
「そのおばあさんたちの夢ってどんなものだったんだい、美咲ちゃん」
「それはですね――」
珍しく数瞬ほど美咲の声の勢いがそがれた。言っていいものか迷っているのだろうか。
「その宝くじで当たったお金で、世界中の街を夫婦で見て回るつもりだったらしいですよ」
「それは凄い」と感嘆の息を漏らすマスターの前で、ふと沙織が顔を持ち上げた。
「あーそれよ。あの人もそんなこと言ってたわ」
沙織の言葉を聞いて、美咲がひょこりとバックヤードから顔を出す。
「あの人?」
「そう。さっきつい口にしちゃった、三ヶ月くらい前に来てたお爺さん。世界中の街の絵を描けるようになりたいって急にやって来たの」
「そんな人が」
「でも絵描きのノウハウもまったく知らない素人さんでさ。まあ市民センターの無料教室に来るような人だからみんな初心者なんだけど、人一倍にこだわりが強くて。どうしても描きたいって頑固にそればかり描こうとしてたの。世界中にある街の風景を描かせろ、書かせろーて。普段は仏頂面で無口なのに、口を開けばそれの一点張りで。困った人だったわ。絵画教室は週末の午後だけだから、週に二回会う程度だったけど、すごく印象に残ってるわね」
「週末、だけ……」
「でも最近は長いこと来ていないけれどね。置き場もないし、かといって勝手に捨てるわけにもいかないし。残された絵をどうしたものか困ってるのよ」
「……その人って」
沙織の言葉に、覗かせた美咲の瞳が大きく見開いていく。かと思った瞬間、美咲はバックヤードから飛び出し、、食いつくように沙織へと掛け寄っていた。
「沙織さん。その絵、もしこれからもそのままになっていたらどうなるんですか」
「え、そうね。まああと一月ぐらいは様子を見るかもだけど、来なかったら処分することになるわね。他の生徒さんだっているから教室に置ける数も限られてるし」
「……っ!」
美咲が呆けたように目を丸くする。
やがてぱっと顔を持ち上げると一瞬にして険しい表情を浮かべた。
「店長すみません」
「な、なんだい」
「すぐに戻りますんで、もう一度出かけてきてもいいですか」
美咲の声調は、先ほどまでの弾んだような明るさを潜めた真面目なものだった。その仰々しさに気圧されたのか、マスターも勢いでついつい頷いてしまう。
「あ、ああ」
「ありがとうございます。お給料は引いてもらって大丈夫なので。沙織さん。市民センターまだ開いてますよね」
「え、ええ。閉館まであと三時間くらいはあるけど」
「ありがとうございます」
そうして美咲は二人にぺこりと頭を下げ、並々ならぬ機敏さで店を飛び出してしまった。荒々しくドアベルが響く。その異常さに、咄嗟にソルテは立ち上がり、冬の寒風が吹き込んでくるドアの隙間から彼女の後を追うように出ていった。
勝手なサボタージュはあの喫茶店の家主であるソルテがしっかりと監視せねばなるまい。なんていう口実でもなく、逃げるように慌てて店を出る美咲の姿に、つい狩猟本能がくすぐられて追いかけてしまっただけである。
夕飯が遅くなるが仕方がない。
目の前のことが気になったら無我夢中にも追いかける。そこに人間も猫も大差はないものだ。
仕方のない本能であり、抗いようのない欲求なのだ。
やりたいことがあればすぐにやる。
誰だって、命ある限りいつ死ぬかわからない。
明日にはできなくなっているかもしれないのだ。
短い生涯、後悔している暇もない。
ならば今を精一杯生き、生涯を余すとこなく使い切ろう。
そのためには、今の自分に最も正直たれ。
一時の感情の起伏のせいであっても、ふと湧き出た欲求に素直であるのは決して悪い事ではないのである。と、ソルテは常々思うのだった。




