2-1 『喫茶店の少女と猫』
「ほんとにアルバイト雇い始めたんだ」
カウンターで頬杖をつきながら沙織が言った。
彼女の視線は後ろでテーブル席を掃除している新人バイトへと向けられている。
――赤穂美咲。
つい先日まで客としてやってきていた彼女だが、どういうわけか今週からアルバイトとして働いているのである。
「お店の雰囲気が気に入っちゃって。あと珈琲の香りも好きなんです」とは面接の時の彼女の志望理由である。
二つ返事で契約をしてしまったマスターを、ソルテは恨むような気持ちで見つめていたものだ。おかげで休日や放課後の時間になると毎日のように彼女がやって来て、穏やかだったソルテの平穏は脅かされている。
カップのソーサーを割った回数二回。
椅子の足に蹴躓いて大きな物音を立てた回数四回。
昼寝中のソルテを無理やり起こしてきた回数五回。
無駄な雑音私語、ほぼ常にである。
そんな美咲の落ち着きのなさを、マスターは孫を見るような優しい目つきで眺めていた。
「華があると賑やかになっていいでしょう」
「個人の喫茶店じゃあそんなにお金を落としてくれる上客もいないでしょ。儲かってるの?」
「まあ、おかげさまで」
微笑を浮かべたマスターが、沙織の手元に並んでいるお皿を見る。
生クリームの乗ったパンケーキに半枚のフレンチトースト。砂糖控え目のミルクティーが香り立ち、店内に甘ったるい匂いが充満している。おまけに食後のアメリカンをマスターが用意している最中だ。
「なるほど、私か」
自問自答のように沙織は勝手に納得して頷いた。
「沙織さん以外にもけっこう注文してくださるお客様もいるんですよ」
「だから言ったでしょ、住宅街の喫茶店にスイーツは必須だって。開店してすぐ来た時に全然メニューがなかったからビックリしたわよ。珈琲とトーストだけでやってくつもりなのかと思ったわ」
「いやはや。ここを開く前までは洋菓子どころか料理すらあまりしなかったくらいですから。アドバイスを頂いてメニューに追加してみてよかったです。練習した甲斐がありました」
「こういう休憩できる喫茶店ってけっこうお年を召したおば様方がランチやティータイムで集まったりするのよ。そういう話を職場でもよく耳にしてね。あそこのケーキが美味しいだなんだって、聞いてもないのに楽しそうに話してくるの。あ、ここも話に出てたわよ。星四つだって。何個が満点か知らないけど」
「話題に出してもらえただけでも嬉しいことです」
「星百点満点かもね」
「それはちょっと、凹みますねえ――あ、そろそろかな」
マスターがチェック柄のミトンを手にはめて足元のオーブンの扉を開ける。
ふっくらと膨らんだスポンジケーキが、甘い香りと共に湯気を立ち上らせながら現れた。
「うわー。マスター、いま私より女子力高いんじゃないの」
「そうですかね」
乾いた笑みをこぼす沙織に、マスターはつやつやした明るい顔で微笑んでいた。
髭面の老人にミトンとエプロン、そしてケーキ。
――うむ、奇妙である。
「マスターさん、机拭き終わりましたよ!」
白いダスターを片手に、子どものような威勢の良い声で美咲がカウンターへ駆け寄っていく。
「ありがとう。じゃあ次は、明日使う用のダスターを洗って漂白剤に浸けておいてもらおうかな。そのままだと手が荒れるから、水道の横にある使い捨ての手袋を使ってくれていいよ」
「はい、かしこまりました!」
少女は快活に頷くと、不恰好な敬礼をしてからあっという間に店のバックヤードへと駆けていった。
「もの凄く無駄に元気ね」
やや呆れ気味に沙織が呟く。
それに関してはソルテもまったくの同意だ。
赤穂美咲という少女が来てからというもの、いつもは静かであった客足の少ない時間帯も落ち着くことができなくなっていた。
静かにしておくことができないのかと思うほどに騒がしい。
せっかく戻ってきたと思ったソルテの静かなお昼寝タイムも、たった一人の喧騒によって台無しである。
昼の三時過ぎになると美咲はほぼ毎日やって来る。おそらく学校が近いのだろう。その時間になるとソルテは彼女のことで頭が一杯だ。
今日はどれだけ騒がしくなるのだろうか。
どれだけソルテの邪魔をしてくるだろうか。
考える度に憂鬱である。
しかしこの喫茶店はソルテの居城。
女の子一人のために外に逃げるなど家主のプライドとしても不本意だ。
「あれ、ソルテ。お昼寝するの?」
テーブルの上に丸まって寝転んでいると美咲が声をかけてきた。近くの窓を拭きに来たらしい。
ソルテのお気に入りの天窓の前は陽が差せば温かいのだが、あいにく今日は雲が多く隙間風ばかりで寒い。そのため暖房の風が当たるテーブル席でくつろいでいたのだが、そのせいで美咲に必要以上に絡まれてしまっていた。
「寝るんだったら私が子守唄を歌ってあげようか」
いらないお世話である。
が、ソルテのそんな気持ちも関係なく、美咲は小さく鼻歌を歌い始める。
「えへへ。上手でしょ。これ、この前学校のコンサートで学年二位だったんだ」
だからどうした。
ソルテにとってはやかましい雑音でしかない。
ソルテは静かな場所が好きなのだ。
サイフォンの湯が沸騰する泡の音。天窓から聞こえてくる鳥のさえずり。コツコツと、木を叩くような革靴の足音。マスターの鼻息。そんなささやかな環境音の方が、ソルテには至上の子守唄なのである。
とりわけ猫は耳が良い。
雑音を滅法嫌う性質なのだ。
上手いかどうかもわからない人間の鼻歌ぐらいで安々と眠る赤子ではない。
しつこく鼻歌を歌い続ける彼女から目を背けるように、ソルテはぐっと身を丸め、お腹に顔を埋めた。
このまま眠れず不眠症にでもなればどうしてくれよう。
いっそマスターに駄々をこね、迷惑料としておやつ増量でもねだってやろうか。
――ああ、それがいい。
しめしめと内心でほくそ笑みながら、ソルテはゆっくりと瞳を閉じたのだった。




