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きぼうダイアリー  ~三つ目看板猫の平凡で優雅な日常~  作者: 矢立 まほろ
○第1話 三つ目看板猫とミステリー少女
10/30

 -10『過去と未来の境目で』

 ドアベルが弱々しく鳴り、カウンターで皿を洗っていたマスターがおもむろに顔を持ち上げた。


「ああ、おかえりなさい」


 優しい声色で迎え入れた彼の視線の先には、どこか気弱げに店に入ってきた少女の姿。泣いて赤く腫れた目尻を隠すように顔を俯かせているが、足元にいるソルテからは丸見えである。


 物静かな様子を不思議に感じたのか、マスターはそのままカウンターへ座るように促した。


 陽も落ちて、本来の閉店時間は過ぎてしまっている。


 店の照明は落とされ、カウンターに吊られたランランの灯りだけが店内を淡いオレンジ色に染め上げていた。客席の紙ナプキンを片付けられたりと閉店準備が始まっていたが、しかしマスターは構わず、洗って乾かしたばかりのサイフォンを取り出しヒーターに火をつけ始めた。


 お使いを頼んだ少女が、随分と時間が経ってから、どこか気が重たい様子で戻ってきた。それだけでどうかしたのかと気になるものだろうが、しかしマスターはただ表情を穏やかに、沸騰し始めるサイフォンを見つめている。


 カウンターの背の高い丸椅子に少女が腰掛ける。

 やがて数分もしないうちに珈琲が入り、マスターからそっと少女の前に差し出された。


 ソルテも軽快なジャンプでカウンターに登る。


「ありがとうございます」


 顔を伏せてずっと口を噤んでいた少女がやっと声を漏らす。

 それに安堵したのか、マスターはふっと表情を緩めて微笑んだ。


「あのメッセージの答えはわかったのかい」

「……はい。わかりました」

「そうかい」


「なんというか、拍子抜けするようなものでした。あんなやつのためにこれだけ考えてたのかって思ったら、なんだか虚しくなっちゃって。私、あいつのことが嫌いになっちゃったかもです。意気地なしで、自分勝手で。こっちの都合なんてまったく考えない馬鹿野郎で。もう、あんなやつ、どうでもいいです――」


 大きく息をつき、少女はカウンターに突っ伏す。

 腕を囲った温かい珈琲のカップの縁を指でなぞっていると、


「詳しい事情は私にはわからないけれど。どうでもいい相手にそんな涙なんて流せませんよ」

「えっ……」


 少女はマスターに言われ、咄嗟に自分の目許を触った。


 校庭でタイムカプセルを埋め返した時に一度は出し尽くしたはずの涙が、また瞳から零れ始めていた。それはさっきよりも多量で、せき止めたダムが決壊したかのような、そんな勢いの大涙だった。自分ではまったく気づいていなかったようで、潤んだ瞳を大きくして驚いていた。


 サイフォンのフラスコを洗いながら、マスターは穏やかな声調で続ける。


「好きの反対は無関心というでしょう。涙が出るのは、彼の遺志に心を動かされるだけの関心が自分の中にあったということです。溢れ出た涙の量が、彼へと注がれたあなたの想いの量。それがあまりにも多すぎて瞳から零れてしまうくらいだった。でも大丈夫。輪廻転生という言葉をご存知ですか。死んだ魂は生まれ変わり、この地のどこかで新しく生まれ変わるといいます。あなたが涙と一緒にこぼしたその想いが、この大地に染み渡り、いつか、同じこの大地が繋がった先のどこかで生まれ変わった彼の元へと届くかもしれません」


 ふふ、とマスターが不敵に笑う。


「あなたの流した涙もきっと、無駄ではないですよ」


 まるで詩人のように能弁に語るマスターに、ソルテはあまりの似合わなさから吐き気がする気分だった。ただのしがない脱サラした喫茶店の店主なだけのくせに、何かを語るなんて柄でもない。


 その不似合いさにマスターも、そして少女も、気がつくと、最初は小さく、やがて肩を弾ませるように大きな笑い声を上げていた。


「なんですかそれ。ポエマーですね。ポエマスターさん」

「ぽ、ポエマスター? なんだか変だなあ」

「えー、ぴったりですよ」


 お腹を抱えて笑い、目許を擦る少女。

 やがてその笑い声もゆっくりと収まり、ふう、と少女は息をついた。


「よし、もう十分。私を見くびったあいつなんかに流してやる涙はこれだけで十分です」


 そうして少女は天を仰ぐように顔を上げる。


 それは、気持ちが前に向いたということなのか、それともただこれ以上涙が零れないようにするためなのか。ただの猫でしかないソルテには人間の機微などわからないが、少女のその顔がこれ以上なく晴れやかであったということだけはわかった。


「マスターさん。この珈琲、苦いです」


 珈琲に口をつけた少女が口を尖らせる。


「珈琲とはそういうものだよ。これが大人の味さ」

「ええー。お砂糖くださーい」

「もう片付けちゃった」

「そんなー!」


「はははっ、嘘ですよ」

「ううわー、ひどいです!」


 すっかり調子を取り戻した少女の弾んだ声が、閉店後の薄暗い店内に響き渡る。


「ブラックで飲めるようになったら私も大人ですかね」

「さあ、どうだろうね」


「私はどんな大人になるんだろう」

「どんな大人になりたいんだい」


 うーん、と少女が考える。出た結論は、


「わかりません。でも……小学生の頃の私に言っても恥ずかしくないような、ちゃんとした大人になれてたらいいな、なんて」

「では、砂糖はいらないね」

「いりますー! ご勘弁をー!」


 他愛のない談笑を子守唄に、ソルテはゆったりと丸まって瞳を閉じる。二人の会話は難しく、昔も、未来も、そんなことはソルテにはわからない。


 今日は騒がしい一日ではあったが、終わってみればいつも通りの一日だ。


 ただ食べて、遊んで、眠って。

 これから楽しい夢を見てまた新しい一日を迎える。


 それだけで十分なのだ。


 今を生きているのだから今のことを考えて、他に何を考えよう。

 十年後どころか一年後、いや明日の自分すら考えたことがないのだから、ソルテの毎日は平凡で変わらない日々であっても、いつも予想外で特別なのである。


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