領主ガイアス
今日もはじまり、はじまり
高級宿の部屋で一人、部下からの報告書を読むことに集中していたアザレア博士は、ドアをノックする音で我に返った。
もう窓の外は闇が広がり街の灯もほとんどが消え果た真夜中にあって、彼女は正装にドレスアップして化粧を薄く引き、長い髪をやわらかく曲げている。
およそ宿でくつろぐ格好とは程遠いものだったが眼鏡の奥の切れ長の眼は普段の彼女の通り、自信と知性に満ちて輝いていた。
つるりとした特徴のない美人顔は化粧によって派手にも地味にも変わる彼女の武器であったが、今宵の顔はやや幼く柔和な印象を与えるような、睫毛を際立たせ垂れ目に見せる形。
交渉事に臨む相手に親近感と油断を与え、彼女を若輩と侮った者達にことごとく苦渋を舐めさせた必勝の構えにして定石のスタイルであった。
「失礼します。 先にお使いのありましたお客様がお見えでございます」
宿の部屋付きのメイドが扉越しに、他の部屋に響かない絶妙な音域の声をかける。
「時間通りね、入ってもらいなさい。あと、この階の人払いを宜しくね。お茶もいいわ」
応接テーブルの上の書類を脇に片付け小さな鏡を手に取って、髪に乱れがないか確認するアザレア。
程なくして先ほどのメイドが肩幅の広い初老の男を連れだって戻って来た。
道化のような羽根飾りのついたついたつばの広い帽子に目元を隠す仮面、黒の外套に手袋と、いかにも不審者然とした格好に見事な口髭を生やした男はまるで夜が人型になった様な姿。
男は一言も発さぬまま部屋の中へのしのしと進み、博士の座る応接ソファーの反対側へどっかと腰を下ろして座る。
一礼して去ってゆく侍女が扉を閉めて出てゆくまで、アザレア博士と男は黙ってテーブルをはさみ対峙していたが、絨毯の敷かれた廊下を音もなく去ってゆく気配が感じられなくなると、仮面の男が低くガラガラとした声を出した。
「この我を探っておるネズミがいると聞いて出張って来てみれば、こんな小娘とはな。この宿の払いに困らん所を見ると多少の金は持っておるようだが」
「今宵はご足労頂きまして恐縮です。この宿の事でしたらどうかご心配なく、今年から私の商会の傘下になっておりますから。お気に召されましたらいつでもご用命を。特別価格でサービスさせて頂きますわ」
瀟洒な間接照明放つ柔らかな光の中で始まった対談は、この宿のオーナーだったアザレア博士の優勢で始まった。
「流石は敏腕経営者、領主とわかって金を取るか!!」
「お友達をご紹介いただけましたらお得なクーポンもお付けしてございますので、よろしければ是非ご検討下さいませ」
すまし顔を維持したまま口元だけを三日月のように曲げて笑みを作るアザレア博士。
正面に座る男は仮面の下でくつくつと笑いを堪えていたが、遂に帽子を放り投げて仮面をむしり取ると豪快に笑い出した。
「ぐあっはっはっは!! そうか、間違い無い!!貴様か神童アザレア!! 地下に潜ったと聞いていたがまさかこのような人物に育っていようとは!! ……育っておらん所もあるようだが、王都で見たはずの顔を忘れてしまう程には驚いたぞ!!」
立派な髭のある口を大きく開き、傷跡だらけの顔をさらした領主がアザレアの凹凸の少ない躰を指さして笑い続ける。
白髪の混じった短髪と同じ色の太い眉毛をハの字に曲げて、分厚い胸板が空気を震動させた。
「恐れいります。侯爵様におかれましてはご壮健のご様子お喜び申し上げますわ。今この時は30年前の亡霊様と言った方が宜しかったでしょうか」
「世辞は要らんぞ、どちらでも構わぬからさっさと本題に入れ。これでも忙しい身なのだ。 魔獣の森の開拓と街道の整備は慢性的な人員不足と資金難が続いておるし、冬越しの食料は今から手配せねばならぬ所にあのドラゴン騒ぎだ。王家の直轄領からの支援が期待できぬ以上幾つかの開拓村は離散を余儀なくされるであろう。その上で悪の総帥までやっておっては躰がいくつ会っても足りぬ」
外套の下から出した懐中時計をちらりと見て、椅子に座り直した領主がアザレアを急かす。
「では早速、今宵ご足労願ったのは協力体制の構築の提案をさせていただくためです。既にご存知かと思いますが私の商会と関連会社でそちらの領地の4割に相当する額を納税させていただいておりますが、こちらの提示する条件をご承諾いただけるならば先ほどの侯爵様の懸念材料に、我が商会が追加で融資する事もやぶさかではありません」
自ら交渉のカードをチラ見せしてきた男に内心ほくそ笑みながら、アザレア博士は用意していた手札の一枚を切った。
「呑まなければ引き払うか。却下だ」
しかしながら、領主の返答は彼女の予想通りではなかった。
「へ?」
「却下だと言った。融資は回収するのが原則だろう、貴様が儲けるために我の領民を食い物にする事は許さん。商会を引き上げたいなら勝手にいたせ。実の所困っているだけで我の懐は温かいのでな、必要のない借金はする意味が無い」
「あ、あの……」
「どうした?随分呆けた顔をしおって。商人が言葉に詰まるようではまだまだだ修行が足りんぞ。貴様の交渉相手は我が領民ではあるまい、亡霊たるこの我であろうが。仮にもここまで呼び出しておいて、今のが用件の全てならばとんだ無駄足であったな」
大きな歯を並べた口でアザレアの魂まで飲み込もうとするかの如く、大声を放つ領主。
その様は彼女を追い立てる事を楽しんでいるような、度胸を試すような愉悦の時間。
「さあ続きはどうした?我が身を乗り出し心弾ませよだれを流して財布を開くような話をしに来たのでは無かったのか!! 実でも利でも夢でも嘘でも構わん!!我を楽しませ笛の音に狂い踊らせよ!!その貧相な躰の内に秘めた貴様の情熱を持って、このガイアス・ドライスタの魂を震わせて見せてみるがいい!!」
「ッツ!!」
「そうだ、その顔だ!!その凶相こそが貴様の真の顔!!王都で見た顔だ!! 先ほどのつまらんすまし顔より随分イイぞ!!ぐあっははっははっはは!!」
豪快に笑いながら王国の怪物ガイアス候は、その油断ない目でアザレア博士をとらえたまま、次に来るのが失望かどうか出方を計っていた。
今日はここまで
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