じいさん家で待つ
さっきから、ばあさんは妙にそわそわしている。あれはあったかしら、これは用意したかしら、いややっぱりこっちのほうがいいんじゃないかしらと、別にワシに話し掛けているわけでもなく、完全なる独り言を漏らしながらドタバタと歩き回っている。全く、先日まで腰が痛い肩が痛いと散々言って接骨院の先生を困らせていたと言うのに。病は気から、まさしくその通りだ。
こう言うときはでんと構えているのが一番なのだ、全くばあさんときたら。ワシはそう思いながら目の前の湯呑みに手を伸ばす。湯呑みの中はとっくの昔にもう空だ。いつもならそうなる前にばあさんが茶を汲んでくれる。自慢ではないがそういう二人の間の呼吸というやつは、長い長い夫婦生活の中で培ってきたはずだ。だが、今日ばかりはそういうわけにもいかないらしい。多分今日のばあさんの目には、ワシなんて部屋のど真ん中に置いてある邪魔なオブジェくらいにしか見えていないのだろう。
「おい、茶。茶をくれ。」
久しぶりに発したワシのお願いはばあさんには届かなかったのだろう、相変わらず忙しそうにしている。
まぁいい。ワシだって別段特別に茶が飲みたかったわけではないのだ。あればあったで飲むだけだし、なければなければで別段恋しいわけでもない、その程度の『茶をくれ。』だったのだ。そうだそうだ、ワシはテレビが観たかったのだ、そう思いながらリモコンに手を伸ばす。
そう思い、番組をカチャカチャと変えてはみたものの、どうにも面白い番組はやっていなかった。音楽番組もワシには知らない歌ばっかりであったし、野球を観るには時間がなさすぎる。だからといって流れているワイドショーは朝から流れている時事の焼き直しばかり。
まぁいい、テレビはもういい。別に観たいわけではない。そうだ、観たいわけではないのだ。ただの暇つぶしだったのだ。それに、暇つぶしで暗いニュースは観たくない。朝からのワイドショーでは有名女優とミュージシャンの離婚会見ばかりを放映している。こんな日にそんな会見など観たくはない。よりによってこんな日に。
「おじいちゃん、来たよ。」
その時、玄関の扉を開けるガラガラとした音が聞こえ、馴染みの声が聞こえた。
「あらあら、おじいさん来ましたよ。」
そういうや否や、ばあさんは玄関に小走りに向かっていった。
慌てるなばあさん、あんたも腰が悪いのだから。そう声をかけようと思ったが、そんな声など届かないスピードで、ばあさんは既に、ワシの視界から消えてしまっていた。
全く、とんだ慌てん坊なのだから。こういう時はでんとしてだな、こうどっしりとだな、毅然とした態度でだな、相手の目を観てだな。と、ひとりつぶやいていたワシであったが、いつの間にか歩いていたようで、そしていつのまにか駆け出していたようで、終いにはいつのまにか玄関に到着してしまっていた。
目の前にははにかんだ笑顔を見せている孫の健太郎と、同じようにはにかんだ笑顔の、しかしながら少し恥ずかしそうに俯き加減の可愛らしい女の子が立っていた。
「約束通り挨拶に来たよ。」
健太郎はニコニコと笑いながらそういう言うと、隣の女の子のお尻をポンと叩く。叩かれた女の子は尚恥ずかしそうに少し前に出ると、恥ずかしそうな割にはしっかりと我々の目を見て話し始めた。
「はじめまして。この度健太郎さんと結婚させていただく美希といいます。今後ともよろしくお願いします。」
そう言うと美希さんはしっかりと我々に頭を下げてくれた。
「まぁまぁ、あらあら、おじいさん、健ちゃんが、まぁまぁ。こんな可愛いお嫁さんをねぇ。あらあら。」
ばあさんはそう言いながらワシの肩をバシバシと叩く。わかっとる、ワシだって一緒に見てたのだ。そんな状況説明は無用なのだ。
ワシはもう一度健太郎と美希に目をやった。二人ともいい顔をしている。なんとも幸せそうだ。そう思うと胸がなんだか熱くなった。
「た、煙草を買ってくる。」
ワシはそう言うと、玄関のサンダルに足を入れた。
「えっ、今!?」
健太郎は驚いたようにそう呟く。驚くのは無理はない。ワシ自身も驚いている。
「あらあら、ちょうど切らしてたものね。」
ばあさんがワシにそう話しかけた。そうなのか、ワシは煙草を切らしていたのか?ズボンのポケットをまさぐる。いや、煙草もライターも入っている。
真意を尋ねるようにばあさんを見つめた。するとばあさんはいたずらっこのように舌を出して笑っている。さすがばあさんだ。長い長い夫婦生活は伊達ではない。
「うむ、行ってくる。」
「えっ、本当に行くの!?」
「はいはい、いってらっしゃい。気をつけて。」
健太郎のワシに対する発言は、ばあさんのコロコロとした声にかき消された。
玄関を出て外に出る。5月の連休前ということもあり、木々は新緑の装いだ。
木々を眺めながら娘の千春の言葉をふと思い出す。
『健やかに優しい男の子になってほしいの。まぁ月並みな考えだけど。』
月並みでも、いいじゃないか。言葉通りのいい子に育ったじゃないか。
いてもたってもいらず、ポケットに入れてある携帯電話を開く。もちろんメールの相手は千春だ。
本当は電話をしたかった。でも、声は出せん。出したら千春に気づかれてしまう。だって、携帯電話のメール画面も新緑の木々も先ほどからずっと潤んで揺れているのだ。
まぁいい。別にいい。メールはゆっくり打てばいい。なにせワシは今駅前のコンビニに煙草を買いに出掛けているのだから。
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