雨中、待ち人来たり
昔から何か漠然と、自分には思い出さなければならないものがあったはずということは、常に頭のどこかにあり続けていた。特に、雨の日になると、どうにも無性にじっとしていられなくなり、家を飛び出しては叱られた。
科学の支配する現代日本にあって、僕の奇行は大層疎まれた。
何か曖昧な感覚を説明することは難しく、直感、第六感的な話をすれば、人はいぶかしがり、根拠がない、頭がおかしいと僕を非難した。
もっと単純な話、嵐の晩に外に出て行きたがる癖なんて、危険で仕方ない。
同輩にはいじめられ、心配した親には、ついに近所のお寺にお祓いに連れて行かれた。
――この、連れいかれた先の経験がまた、不思議なものだった。彼は本当に力のある人だったのか、それとも子どもにも真剣に耳を傾けてくれるような、優しく賢い人だったのか。
目尻を下げたつるつる頭の好々爺は、二人きりになると、僕の主張することを一通り聞いて、静かに尋ねてきた。
その気持ち、大切にしたいですか。苦しいからもう、思い出したくはないですか。忘れてしまいたいのなら、微力ながら拙僧がお力をお貸しいたしましょう。
僕は少しだけ考えてから、忘れたくないと答えた。周りに奇妙なことだと言われようと、自分が皆の揶揄するような嘘つきだとは思えなかったのだ。
僕にとっては、たとえば氷を身体が冷たいと感じるように、雨が降れば足が落ち着かなくなるのは、当たり前の衝動だった。
老爺は頑なな僕に、他の大人と違って嫌そうな顔をするでもなく、心得たように、うん、うんとうなずいた。
もっともなことでございます。ですが、現世の縁もまた縁であることは確か。二つとも大事になさるがよろしいでしょう。
つまり、簡単に拙僧の考えを申し上げますと、今少しだけ、待つことはできませんか。
あなたの身体がもう少し大きくなり、知恵をつけ、あるいは、あなたが自分で責任が取れる年になり――もう大丈夫だと思える頃まで育てば、多少の勝手をしても、周りも納得してくれるのではないでしょうか。
下手に焦ることはございません。大切なご縁ならば、必ず最後にはたどり着きましょうとも。
誰も信じてくれなかった戯言を、彼だけは否定しなかったからだろうか。大人たちに不信感を募らせていた僕にも、その言葉はするすると入ってきた。
僕の「悪癖」はそれ以来なりを潜めた。
雨の呼ぶ声を聞かなくなったわけではない。
ただ、僧侶の言う通り、僕は待つことにしたのだ。
今までのように、むやみに人に理解されにくいことを口にせず、じっと目を閉じて雨音の誘惑をこらえることを覚えた。
そのうちに、人並みに健康な大人の身体を得て、危ない場所に近寄らない知恵を持ち、年を重ねて大学生にもなると――雨の日にその辺りを出歩きたくなる癖を話しても、変わった奴だと思われるぐらいで、誰にも止められなくなっていた。
二年生の夏休み、僕は二十歳になり、無事に責任の一端も手に入れた。
その年、八月はダムの干上がりが心配されるぐらい快晴の日が多かったのに、九月になると今度は梅雨が戻ってきたように、しとしとと長雨が全国的に続いた。
大きくなった僕は久方ぶりにやってきた大きな衝動に逆らうことなく、雨に誘われるまま、いつもより少し遠くまで放浪してみることにした。
気ままな日帰りの古都探索だ。この時期なら繁忙期の間、のんびりした一人旅にもちょうどいいだろう、とやや安直に考えた。
これまた軽率に、水に深い縁のある神社というものを知ったので、そこに行ってみることにした。
なんとなく、なんとなく、ふらふらと、そうふらふらと、雨に誘われるまま、傘を差し、山の中をぼんやりとさまよう。
そのうちに、水占みくじ――おみくじの紙を水にさらして文字が浮かび上がる、そういうものがあると言うので、やってみることにした。
占いを信奉しているわけではないが、毛嫌いもしない。これも縁だ、と過去の老僧の体験が僕にそう考えさせるようになっていた。
冷たい水に浮かんだ文字、なるほどと思ったり、それは違うと感じたり、楽しく目を滑らせている中で、ふと一つの言葉に目が留まり、吸い込まれるように引き寄せられる。
待ち人 あり
その瞬間、ああそうだ、これだ、自分には待ち人があったのだ、と、すとんと身体の中に落ちてくる。ずっと探していた疑問の答えが、ようやく輪郭を持ち始めた。
雨の日に、傘を差して、約束をした。
また逢いましょう、あなた様。
必ず、必ず、逢いに来るよ。
……それなのに、逢わねば、待たせている場所に着かねばという思いは強固にわき上がるのに、誰に、いつ、どこで、どうして待ち合わせたのか。肝心なところは何一つ浮かばない。
焦燥感に駆られるまま、スマートフォンを取り出して、地図と時間を確認する。
……今日中には帰れなくなるかもしれない。幸いにも、帰ってすぐに何か用事があるわけではないし、実家を出ているから、宿と帰りの新幹線の心配だけすればいい。
水占みくじの方角へ、バスに乗り、電車に乗り、もう少し市街地へとやってくる。
オフシーズンとは言え日本有数の観光地の中心街は、夕方だと雨中でも町は明るかった。それも、何時間もふらふらとさまよっていると、だんだん店が閉まり人が減り、暗く寂しくなってくる。いや、僕が人のいない方に向かって、足を進めているだけなのか。
雨脚は夜にかけてますます強くなっていく。折りたたみでは追いつかず、途中で和傘を買った。それでも足下が冷えるのは避けられない。
ずっと、ずっと、探し回って。どのぐらい歩いただろう? すっかりもうへとへとになって、舗装された道路のちょっとした段差につまずきそうになり、危うくよろけて立ち止まる。
自分は何をしているのだろう、と自嘲に口元をゆがめ、うつむこうとした僕の視界に、ふと薄暗い道の一つが入ってくる。
人が一人通るのがやっとと言うような、地元の人間しか使わなそうな、そんな、家と家の間の細く狭い道。
ごくり、と生唾を飲み込んだ。雨が傘を叩いている。それよりも強い声が、僕を手招いて急かしている。
小走りにたどり着いた先に、小さな小さな鳥居がある。地元の名前もないような神社、だろうか。鳥居の向こうのこぢんまりした社に目を移して、僕ははっと息を飲んだ。
夜目。遠目。傘の内。輪郭が曖昧に溶けて、ぼやけて、すべてが判然としない。
けれど彼女のシルエットは不思議なことに、薄暗い夜の闇の中でぼんやり光を帯び浮かび上がっている。
濡れ羽色のつややかな髪、緋色の着物に白い帯。
――その足下は、明らかに透けている。
ばさり、と音を立てて、僕の手から傘が落ちた。彼女が振り返り、大きな黒い目を見開く。
「おちさ」
僕の唇が勝手に動き、一つの名前を震えてつぶやく。
足は透けていても、夜雨の闇の中でも、うすぼんやりと浮かぶ血の気のない白い顔には、はっきりと見覚えがあった。
* * *
あの頃はまだ、人は着物を着て髷を結い、身分差の中に生きていた。
下級の貧乏武家に生まれた彼は、母が早くに死んで孤独だった。
一方、長屋の大兄弟の長女だった彼女は、そのせいだろうか、人の世話には慣れていた。
少しずつ、言葉を交わし、共に寺子屋に通い、互いの家を行き来し、いつの間にか、二人はまるで、兄弟のように。背を比べ合って、いつでも彼女が上だった。
奉公に出る年になると、どちらからともなく、これでもう縁もなくなるかと、自然と別れがやってきたのだと納得して足が遠のいた。二人とも、それなりに苦労をして世の中を見てきた子どもだ。聞き分けよく、駄々はこねなかった。
それが、まさか武家屋敷の屋根の下で再会する日が来ようとは。
彼はその家の娘の婿として期待されて招かれ、彼女は奉公人として出入りしていた。
以前に増して、二人には明確な差ができて、越えられない線が引かれていた。
けして実らぬ縁と知りつつも、心細さのせいだろうか、互いに昔の淡い気持ちにほんのり灯が灯った。
「人に見られぬように」
「目立たぬように」
雨が降った日の夜が、待ち合わせの合図だ。夜道は危険だが、顔を見られにくい。
こっそりと寂れた神社で待ち合わせ、並んで神に手を合わせた。
駆け落ちなんて大それたことはできなかったし、願えなかった。その癖、逢いたい気持ちを抑えることもできず、雨夜に紛れて逢瀬を重ねた。
「でも、あたしたち、ご縁があるなら、きっと来世でも出会えますよ」
「私がどんな姿になっても、見つけてくれるか?」
「ええ。ただ、あなたはあたしを、見分けられるでしょうか? 人の顔を覚えるのが、とても苦手なみたいだから」
「自信がないな。ここで最初に会った時、おちさとはわからなかった。昔とすっかり、見違えたから」
「もう。だったらあたし、同じ姿のまま、ここで待っています。それなら簡単に探し出せるでしょう」
傘の下でとりとめもないことを、下らないことを、時には少し危ないことを、冗談のように囁き交わし合っては、次の雨の日にまた、と別れた。
嘘のような、些細な本気。
――けれど最後の日、約束は果たされなかった。
彼が途中で辻斬りに、ばっさりとやられてしまったから、たどり着けなかったのだ。必死に抵抗し、なんとか一矢は報いてやったものの、倒れた身体は二度と起き上がってはくれなかった。
泥の中に伏し、背中に走る激痛と、冷たくなっていく身体を感じながら――おちさは待ち続けているだろうか、とふとぼんやり思ったのだ。ちゃんと、帰れたのか。それとも、私が行ってやるまでずっと、あれは雨の中にいるのだろうか。
かわいそうに。かわいそうにな、おちさ……。
それが未練であり、心の中に引っかかり続けていたなんともしがたいものの正体だった。
* * *
「来て、くれたんですね」
おちさの顔に生気がなければ、言葉には覇気がない。わかりやすく幽霊の見た目なのに、構えていたよりは恨み節の調子が含まれていないので、僕は思わずほっと息を吐いた。
「ごめん――すまない。遅くなってしまった」
「……ううん。ちっとも待ってなんかいないわ」
どちらからともなく、ふっと苦笑に表情がゆがむ。
おちさの口癖だった。男より先に待ち合わせ場所に来るのに、どんなに着物の袖が、濡れて冷え切っていようとも、必ずそう言っていた。
「冷えてしまいますよ」
何を話せばいいのか、探して立ち尽くしていた僕に、彼女がそっと声をかけた。
慌てて落とした傘を拾い上げ、頭や肩に降りかかった水滴を払ってから近づくと、彼女はくすりと声を上げて僕を見上げてきた。
「そういうところは、変わっていませんね。でも、随分と大きくなられた。あの頃は、大人になってもあたしと同じぐらいだったのに」
「……君は、何一つ変わっていない」
おちさは僕のへたくそな言葉に、ただ声もなくゆるりと笑んだ。
「どなたかが、姿が違ったらわからない、とおっしゃっていたようですから」
「……私のせい、なのか」
重たい言葉を漏らすと、彼女ははっと僕を見てから、ゆるゆる力なく首を振った。
「あなた様こそ、無念でございました。後ろから背中を深々斬られたと……なんと惨い。さぞ、お苦しかったことでしょう。けれど、あなたがつけた傷によって、下手人は明らかになり、浅田様が――」
「ああ。浅田様にもさぞ、ご迷惑をおかけしてしまったことだろう。夜歩きなんてするから、罰が当たったのだな」
今度は僕だけが笑い、彼女は痛ましそうにそっと目を伏せた。
彼女のことをどこまで聞いていいのか迷っていると、おちさはふっと青ざめた唇を開ける。
「あたし……あなたを待って、一晩中立っていて。きっと何かあって来られないのだと、すぐにわかったのですけど、遅れていらっしゃるかもしれないって、そうしたら、あなたはがっかりなさるだろうって思ったら、帰るに帰れなくて。きっと何にも言わないけれど、寂しい思いをなさるだろうなあって。それは、いやだなあって……」
「……うん」
僕は目を閉じて、苦いものがせりあがってくるのをこらえた。僕はそういう男だったし、彼女はこういう女だった。
「それで……身体を、冷やしてしまったんでしょうね。風邪を、拗らせまして。健康だけが取り柄だったのに、馬鹿ですよね。呆気ないものでした」
「おちさ、やっぱり」
「あなたのせいじゃありません。ただ、お互い……運がなかったんです」
雨が地面を叩いている。立ち尽くす間、傘から水滴がしたたり落ちては染みて広がり溶けていく。
しばらくは二人とも、足下に視線を落とし、うつむいていた。
雨脚が少しだけ弱くなる、まるでそれを合図にするように、ふっと傘の下でまた視線が絡み合う。
「でも、もう一度、逢えましたから。やっぱり、あなた様は、約束を守ってくださる方でしたから。……これで現世は十分、いいえ、身に余る至福でございます」
おちさはもはや、足だけではなく腰の辺りまで透けていた。
思えばここは立派な神域だ、神がこのような存在を許してくれたのは、生前信心深かったおかげか、それともやはり最初から、神などどこにもいないのか。
けれど、切ることのできない縁ならば、昔、今、そしておそらく未来も、こうして在り続ける。
歩み寄ると、互いの距離がなくなる。重ねた手はただただひんやりと冷たく、感触はなかった。
「来世も探しに来てくれますか」
「こんなに待たせたのに、まだ待ってくれるのか?」
僕の問いかけに、おちさはくしゃりと顔をゆがめ、唇を動かした。
けれど輪郭が消えていく方が早く、言葉は間に合わない。
彼女の姿は夜の雨に溶けていき、暗闇と雨音のみが残される。
僕は大きく息を吐き、しばらくそのまま雨に身を任せていた。
もう少しだけ、あと少しだけ、余韻の中で涙を落とすのを許してほしい。
これが終わったらまた、雨中の待ち人を探しに行くから。