ピカピカの家とザラザラな廊下
いつも帰る家なのに今日はなんだか少し違う気がする。
玄関の鍵を開け重い扉を開けて、グレンを中に入れる。手探りでスイッチを探し電気をつけると、犬相手なのに気に入ってくれるかなと緊張した。
「ただいま」なんて言葉を何年かぶりに言つつ靴を脱いで廊下を進むも、グレンは家に上がらずにお座りをしている。
「どうしたの?こっちだよ」
そう言って何度も呼ぶと、ようやくおずおずと上がってきて足を玄関マットに擦り付けた。淡い色のペルシア織りのマットが土や落ち葉の欠片みたいな物で汚れていく。
「あ~あ、そんな事したら長谷川さんに怒られるんだ」
責めるように言うと、グレンは困ったような顔で首を傾げた。私がまるで意地悪しているようではないか。
「ウソウソ。ちゃんとバレないように私が後で洗って置くから大丈夫だって」
分かるはず無いのに、バツが悪くて犬相手に言い訳などいってみる。
リビングに入りセキュリティーシステムを在宅モードに切り替えると、機械的なアナウンスが流れ少し苛つく。
この家の玄関も廊下もリビングもどこも長谷川さんの手によってピカピカに磨かれているが、少しぐらい汚れている方が人の温もりを感じられるんじゃないかと私は思う。
「今日は唐揚げ定食か。太りそうだな」
そんな文句を言いつつも、彼女のご飯はいつも美味しいので抗うことなど不可能だ。一人には広すぎるダイニングテーブルには二人分の夕食にラップがかけられていた。
父親がもう数年帰ってきていない事を長谷川さんは知らない。父にとってだけではなく、私にとってもその事が公になることは好ましくないのだ。
もし高校生が一軒家で一人暮らしをしているという事を知られ、区や児童相談所の人とかに訪ねて来られると私だって面倒な事この上ない。もう16歳になったから平気かなとも思うけど、ネットで調べると一応規定では18歳になっているので用心に越したことはないと思う。
余っている父親分の副菜のきんぴらゴボウとほうれん草のお浸しはそのまま冷蔵庫に入れ、唐揚げはレンジで温めてから深皿に移してグレンの前に置く。
「今日はドックフードが無いから、それで我慢して」
するとフンフンと鼻を鳴らし匂いを嗅いでから、はぐはぐ言いながら勢いよく食べ始めた。
「ふっふー美味しいでしょ? 」
満足気に言って、自分の料理も温めてから食卓に着いた。
やっぱり美味しいね、コンビニのとは比べ物にならない。
あれで説教臭い事さえ言わなければ完璧なのに。そんな事を一人でブチブチ言いながら食べていると、視線を感じて足下を見るとグレンが行儀良くお座りをしている。
「なによー自分のもう食べちゃったからおねだり?しょうがないなーグレンは」
私は唐揚げの最後の一個を手に乗せグレンの鼻先に近づけた。しかし、グレンは全然食べようとしない。唐揚げを乗せた手をもっと近づけてみるとグレンは腰を上げて後退ってしまった。
「もう、お姉ちゃんがせっかくあげるって言ってるのに!もうあげな~い」
膨れっ面で手に乗せた唐揚げを自分の口へ運び、他の料理も平らげていく。食べ終わって箸を置くと、だんだん自分が言ったことがおかしくて笑いがこみ上げてくる。
「誰が誰のお姉ちゃんなのよ~?ふふっふ自分バカ過ぎっ! 」
ツボにはまってしばらく一人で笑っていると、「ワォ」と吠える声がしてその姿を探すと玄関へ続く扉の前でお座りをしているのが見えて、わざとらしく困った表情を作る。
「もう、どうしたの?お姉ちゃん忙しいんだよ? 」
ごめんグレン、お姉ちゃん本当は全然忙しくない。
お姉さんごっこを楽しみつつもドアを開けてあげると、グレンはそのまま玄関に向かった。仕方がないのでその後を追うと、今度は玄関マットの前でお座りをしている。どうやら汚したのを気にしていたらしい。
「もう面倒臭いなー」
と呟いて玄関へ続く廊下を歩くと、スリッパを通して足元がザシザシした。それを長谷川さんにバレないように蹴散らしながら歩いて玄関マットを摘み上げ、仕方がないのでバスルームへ持って行った。それでとりあえず洗剤置き場が分からなかったので、シャンプーで洗ってみる。
「これじゃあ、バレちゃうかな? 」
シャンプーを注ぎ落として広げてみと、洗った部分だけペタンと凹んでしまていた。バスルームの入り口前ではグレンが心配そうにこちらの様子を伺っている。
「大丈夫大丈夫! だってコレうちのマットなんだから。ってことは、汚そうと凹まそうと私の勝手だよ・・・たぶん」
言ってて私まで不安になる。
そうだ、ドライヤーを掛けてみよう。
ブォーと大きい音を出すドライヤーに警戒しているらしいグレンを横目に毛を立てるようにして乾かしてみると先程よりはかなりマシになった。
「イイ感じだよ! 」
ちょっとボサついてるけどまぁまぁ上手く仕上がったマットを元の位置に戻し、時計を見るともう9時を過ぎていた。もうこんな時間になってたなんて。
「グレンはここでテレビでも見てて」
そう言ってテレビをつけると、グレンをリビングに置いて自分の部屋に着替えを取りに行った。
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シャワーを浴びてリビングへ戻ると、グレンは冷たいフローリングの上でテレビを真剣に見ていた。
もう風邪ひいちゃうじゃん。
革張りのソファーは傷付いちゃうから、せめてふわふわのラグの上に乗せようとぐいぐいお尻を押してみるが言う事を聞いてくれず頑固に踏ん張っている。
諦めようかと思った時、先程汚した玄関マットをやたらと気にするグレンの様子を思い出し、足を拭いてみようと思いつく。新しいタオルをお湯で濡らし、まず顔と体を拭き最後に足の裏を拭いてやると、グレンは満足したようにラグへ上がりストンと横たわった。
「ふっふー、私って天才! 」
その場に使ったタオルをポイしようと思ったが、長谷川さんが犬を飼うことに反対し出したら困るな。ここは彼女のご機嫌を取っておいた方が利口というものである。
洗面台でこれまたシャンプーを使いタオルを洗い、バスルームに干しておく。
すると、今度はダイニングに乗せたままの夕食に使った食器が気になり、大サービスで食器を洗い水切りカゴへ並べた。
綺麗になったダイニングテーブルを見て自己満足タイムに入ろうとすると、床に置かれた深皿が気になる。それも洗ったは良いが、これを又私が使うのはさすがに躊躇する。
しばらく考えて、結局水を入れてグレンの給水器として使う事にした。
そういえば、廊下が砂みたいなのでザラザラしていたな。
ええい、もうついでだ。
色々と動いているうちに時間はどんどん過ぎて行き、気付くともう十一時を過ぎていた。いつも家にいる時間なんて全然進むの遅いのに。
「もう寝なきゃ、明日起きられないじゃん」
誰も起こしてくれないので、ウッカリすると拙いことになるのだ。
結局、今日は犬の飼い方を調べる時間はなさそうだ。
「グレ~ン、もう寝るよ」
テレビを消してリビングの照明を落とし、2階にある自分の部屋へ向かう。
はぁ、今日は全然勉強やってないなと思いつつも寒いのでさっさとベッドへ直行する。お布団の片端を持ち上げてグレンを呼んでみるが全然こちらへ来る気配がない。
も~、また頑固モードか。
私は起き上がり悪代官よろしく「良いではないか、良いではないか」グレンのお尻を押すが全然動いてくれない。テレビのCMで見る犬はよく一緒に寝てくれるのにと不満に思いつつも、そんなに嫌なら仕方がない。
「じゃあ、せめてこの上で寝て」
机の足下にあったラグを引っ張り出し、その上に予備の毛布を敷いてポンポンと叩くと、やっと素直に腰を上げた。
そしてグレンが横たわるのを確認してから、部屋のダウンライトを弱めた。
ベッドでグレンの毛並みを楽しもうと思っていたのにと悔しく思いつつも、睡魔には勝てず眠りの中へゆっくりと沈んでいった。
キンコーン
朝までぐっすりタイプの私を無理やり起こしたのはチャイムの無機質な音だった。いつもは何とも感じないが、真夜中に聞くその音は酷く不気味に響く。
キンコーン
また呼び鈴が鳴る。時計を見ると、夜中の2時過ぎだった。
こんな突然、深夜の訪問など私みたいな小娘が応じる訳がない。当然無視を決め込む。
キンコーンキンコーンキンコーン
執拗になるチャイム。怖いな、そう思った時、薄暗い部屋の中で大きな影が動く。ビクリと身を竦めながらも、影の主を追うと部屋の扉の先を睨み付けるようにグレンが立っていた。
「グレン、大丈夫だよ。この家はセキュリティーが掛かっているから、何かあったら警備員が来てくれるし」
そう言って背中を撫でて安心させてやりながら、寝床へと促す。
最後に頭を一撫でしてから、「おやすみ」と言って自分はベッドに戻った。
チャイムの音はようやく止んだが、心臓がバクバク鳴っていてしばらく眠むれる気がしない。リビングに行ってホットミルクでも飲んだらリラックスできるのかもしれないが、今は怖くて一階へ行く気がしない。
どうしよう。
ゴロンと寝返りを打って、布団をかぶる。
もう、今日は眠れないかもしれないなと半ば諦めかけた時、ベッドマットが何かの重さにキシリと軽く歪んだ。
私が被っていた布団をソロリと避けて見えたのは、ベッドに前脚をかけたグレンの姿だった。
「もう、しょうがないな。グレンも怖かったんでしょ? 」
強がりを言って掛け布団の片端を持ち上げる。
すると、グレンは身軽にベッドへ乗り、布団の中へ入ってきて私の隣にゴロンと横になった。
顔を寄せるとグレンの心臓の音が聞こえて、不思議と安心した。
「ふふ、あったかいね。……さっき言ったの嘘だから。傍で寝てくれてありがとね。ドンキーから助けてくれたのもありがとう」
私はこっそり言うと、今度こそ深い眠りに落ちていった。
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「どうなってるの? なんで狼?狼なんかで彼女を守れるの?狼が街を歩いてたら、普通に狩られるんじゃないの? 」
「あれは犬ではないのですか? 」
エレンは今見た思いもよらぬ映像に混乱して興奮気味にツッコんだ。クライブも動揺を隠せないようでどうでもよい事を聞いている。
するとエレンは表情をキリリと変え、自信満々に答える。
「あれは狼なの。私の管理対象アブサンティーンでは銀紫狼って呼ばれているわ。小型の狼だけど、大型のより賢くて強い狼なの」
「そうですか。でも地球にはあのような狼はいないので狩られる心配はないでしょうね」
「そう。なら安心ね~」
「ね~って、違うでしょう。なぜ騎士が狼になってしまったんですか?しかも、一度我々の前に呼び、任務の説明をするはずがなぜこちらに現れなかったのでしょう? 」
「フムフム、数多の失敗を乗り越えた劣等生たるエレン様の勘から言わせてもらえば、あの時クライヴが吹いたお茶辺りが怪しいですぜ、旦那?」
立ち直りの早いエレンがそう言うと、クライヴは顔を青くして本棚に向かった。壁際にずらりと並ぶ本棚から目途を付けた本を数冊ピックアップして机で調べ物を始めるクライヴを見ていると、しばらくかまって貰えないような嫌な予感を感じた。
「もう、いいじゃない。明日一緒に長老に謝ろう?もう仕方ないじゃない。人間なんてすぐ死んじゃうんですもの」
するとクライヴは記帳にペンを走らせながらこちらを見ずに答えた。
「ダメですよ、エレン。もちろん報告と謝罪はしますが、私たちが人にできるのは事後の罪への罰であって、悪戯に彼らの運命を変える事じゃない」
エレンの嫌な予感は当たってしまった。普段ミスをしないクライヴはこの件であの少女を救おうと必死になるだろう。しかし、あと一週間は別の誰かを召喚できない。やれる事なんてそんなに無いのだ。
そうだとしても、真面目な性格ゆえに失敗の責任を感じ自室で自主謹慎してしまうかもしれない。そう考えると自然と焦りを思えた。
「クライヴの生真面目!良いじゃない、人間なんて一人ぐらい死んでも。私なんて年に3人は、間違って殺しちゃってるよ! 」
つい出た言葉は完全な真実ではなかった。エレンだってミスをすれば2,3日はへこむし、ミスする回数だって年々減っては来ているのだ。ただ、クライヴにそんなに落ち込んで欲しくなかっただけなのだ。
「帰っていただけますか」
顔を上げたクライヴは今まで見た事が無いほど冷たい眼差しをしていた。席を立ち、近寄って来たかと思うと背中を押され廊下へと追いやられる。
「違うの」
そう言い訳する暇もなく、エレンの目前で扉は固く閉ざされてしまった。
愛犬家の皆さますみません。
そうです、犬に人間の食べ物を与えてはいけません。