8 古典作品
ファウスト的衝動に陥ったかれは人目には平時とさして変わらないように映った。
というのもかれ、ヒューマーはその精神状態によって生み出される探究心のそのほとんどをおもしろおかしいことに費やすことにしたからだ。金や名誉や知的な研究ではなく、自分の欲求の限界を体感しようとしていた。創作家が快楽ではなく興味とその先の美へのために、たった一度のドラッグに嫌々手を出すようなものとは違い、『どこまでが次の試行段階へのリミットか』の一点のみで狂ったように自身の体を痛めていった。……脳ミソが麻痺しすぎないように、経験を重ねつつ喪失しない程度に。
もともとは単なるマゾヒストだったにすぎない。別にサディストでも構わなかったろう。ただ前者の方が興奮し、冷静なまでの分析ののち周囲との関係性を整えやすいという結論にヒューマーは至った。
「ゲーテの有名な著書『ファウスト』だが恋愛下手なこの感じをのぞいてすばらしいね」
「私は読んだことないけど、そんなに面白いの?」
ヘビースモーカーの一人である女友達がヒューマーに尋ねる。性癖をひた隠しにすればかれほど・・・・・・陳腐な言葉だが面白い人間はいないだろう。ヒューマーは必死に我慢して煙草をここ数年間吸っていない。今も彼女の副流煙から逃げ回っている。次に吸う時のエクスタシーのために。
「ああ、隣でいじわるばっかいう神様が何でも願いをかなえてくれることとかね。それもファウスト先生が一心に勉強して、その真面目さを評価されたからなんだ。神様は先生の近くを死ぬまでうろちょろするし、僕だったら耐えられないね。嬉しすぎて身悶えそうだ」
「それ、思いっきり歪曲しているよ」と通りすがりの青年は笑った。
「いんや。先生の主観はぜったいそうだよ。まちがいない」
「いいじゃない。私だったら神様にさせてって言うわ」
「灰の雪を降らせる神様か、引きこもるしかないなあ、そりゃ」
「外に出させてあげようか?」
女友達は煙草を思いきり吸い込んだ後、ヒューマーにキスをした。
「・・・・・・ひどいや、ひどいや。せっかく何年も我慢してきたのに。あー嬉しい。いや、悲しいねえ。絶望的でそれさえが官能的だねえ。解放された喜びともったいないって気持ちがいっぺんに織り交ざってやってくるよ。どう? 気分いい?」
げらげら笑いながらヒューマーは女友達を抱きしめた。
「ふつー」
「そっか。もうただの友達だしね。・・・・・・例えばだけどね、僕の脳ミソはとっくに動かなくなっていてさ、呼吸と共に吐き出す息のせいで喉が震えちゃって、こうして意味のある言葉に聞こえているだけかもしれないんだ。じっさい何も考えていないんだよ、君も、今の僕も、つまり」
「ただのあほね」女友達は言った。
「悲劇を喜劇と間違えてタイプしてしまった猿みたいなものさ」
ヒューマーは女友達から腕を放し、何事もなかったかのように歩き始めた。
女友達もそれに続いた。