表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

人外奇譚――東寺堂処方録――

作者: 山田まる



 冬の風は冷たいが、水はもっと冷たい。

 時間が草木も眠る丑三つ時というのならなおさらだ。

 街燈の灯りも届かぬ闇の中、ひ、ひ、と啜り泣く少女の声だけが響く。


「ひどい、ひどい、ひどい」


 恨み言を繰り返しながら、彼女はじゃぷじゃぷと水の中へと歩を進める。

 下校時、履き替えようと思ったスニーカーが水浸しにされていた時も冷たくて気持ち悪かったけれど、これはもっと冷たくて、痛い。

 肌の下を走る神経を、直接刺激されるような痛みに、彼女は唇をへの字にしながらも川辺に上がろうとはしない。


「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい」


 すすり泣きながら、呪いながら、川の流れに足を浸し続ける。

 白い素足が赤く染まっていく。

 冷たい風が、冷たい水の流れが、容赦なく彼女の体温を奪っていく。


「ひどい、ひどい、ひどい」


 彼女は動かない。

 ただ、そこに立ち続ける。

 ぎゅっと自分の腕を抱くようにして、ただただ川辺で足をその流れに浸して、立ち続ける。


「ひどい、ひどい、ひどい、ひどい」


 誰の目にも止まらない、少女の奇行。

 だから、誰も気づかない。

 彼女が「ひどい」と呪詛を繰り返す度に、その周囲の闇がより深くなっていることに。

 

 どろり、どろり。


 粘度を増して滴るような闇が、泣きながら震える少女を包み込んでいく。

 美しい羽虫を捕えた蜘蛛のよう、闇が小さく歓喜に震えたようだった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姫子がいじめられるようになったのはいつからだったか。

 姫子本人は、もう明確なきっかけを思い出せない。

 多分、クラスメイトの話を聞いて居なかったとか、走るのが人一倍遅いとか、話しかけられた時に上手く返事が出来なかったからだとか、そう言った些細な理由だったように思う。

 けれど、そんな些細なことが積み重なった結果、少しずつ姫子に話しかけるクラスメイトは減っていった。

 きっと、そこで姫子がクラスメイトに媚びていたならば、いじめにまでは至らなかったのだろう。

 

 姫子は、一人が平気な子供だった。

 

 淡々と授業を受けて、一人でトイレに行って、黙々と給食を食べる学校生活をそれほど辛いとは思わなかった。あまり上手に話が出来るわけでもないので、話しかけてくる相手が減ったことを内心喜んですらいた。

 声をかけられるまでは良いのだが、皆どうしてか姫子が上手く返事を出来ないと機嫌を損ねてしまうのだ。姫子と話しているうちに、つまらなそうに顏を顰め、「もういいよ」と早口に会話を切りあげて去って行ってしまう。

 話しかけられるのは嬉しかったけれど、そうやって去る人の背を見送るのは、自分が上手くやれないことを突きつけられるようで話しかけられないことよりも痛かったのだ。


 一人で過ごすことが多くなった姫子を、周囲は興味深く観察しているようだった。それはじわじわと獲物が弱る姿を眺めるハンターのような冷えた好奇心を感じさせる眼差しだった。

 そして彼らは、姫子が弱ってないことに気付くと、まるで姫子がどこまで耐えられるかを試すように、少しずついわゆる「いじめ」と呼ばれるような嫌がらせを行うようになっていった。

 

 それでも、姫子はあまり辛いとか、悲しいとは思わなかった。

 

 それは少しずつ温度を上げていくお湯のようで。

 何かの実験であるらしいのだけれど、カエルを入れた鍋を火にかけて、少しずつ熱していくと、カエルは茹であがって死ぬまで湯の温度に気付かないのだと言う。

 姫子にとって、少しずつエスカレートしていく些細な嫌がらせの数々は、まるでそのお湯と同じだった。姫子も、火をくべるクラスメイトも、どこで姫子が限界を迎えるのかなんて知らないまま温度を上げ続けている。

 

 下校しようとした時、あるべきはずの靴が見当たらなかった時も姫子は「今度はこう来たか」としか思わなかった。しばらくずっと靴をびしょびしょに濡らしておく、という嫌がらせが続いていたが、それでも姫子が堪えた様子を見せなかったので、今度は靴自体を消してしまうことにしたのだろう。

 

 靴下のまま、ぺたぺたと靴箱の周囲を見て回る。

 一体彼らは姫子の靴をどこに隠してしまったのだろう。

 さすがに靴下で歩いて帰るのは嫌だな、と姫子は思う。

 

「あれ、お前何してんの?」


 そう声をかけられたのは、姫子がそろそろ諦めて靴下で帰ろうかと思い始めた時だった。振り返った先、不思議そうに靴下姿の姫子を見ていたのは、隣のクラスの男子だった。


 名前は知らないけれど、廊下で友達に囲まれて楽しそうに笑っている姿を見かけたことがある。違う小学校出身で、中学にあがっても同じクラスになったことがなかったため、姫子は彼と話すのはこれが初めてだ。少し、緊張する。


「靴が、なくて」

「え、マジ?」


 姫子の答えに、彼は嫌そうな顔はしなかった。

 どうやら姫子は今回は言葉を間違えずに済んだようだった。

 良かった。

 靴を探す姫子に声をかけてくれるような親切な男の子にまで、嫌そうな顏で背を向けられてしまうのは流石に辛すぎる。


「誰か間違って履いていっちまったのかもな」

「……違うと、思う。靴、他の残ってないし」


 姫子は放課後を図書館で過ごす。

 下校時間ぎりぎりまで本を読んで、読み切れなかった分を借りて帰るのがいつもの日課だ。その姫子が図書館に行っている時間を狙って、クラスメイトは嫌がらせを行うのだ。


「あー……」


 姫子の靴がないことが、誰かの悪意によるものだと察したのか、彼は困ったように声をあげた。彼にそんな声をあげさせてしまったことに心が痛んで、姫子は視線を伏せてぎゅっと制服のスカートを握る。

 

 きっと、彼もそんな姫子に呆れて背を向ける。

 

 そう思って、彼が立ち去るのを待っていた姫子にかけられたのは意外な一言だった。


「探すの、俺も手伝うよ」

「え、悪いよ」

「いいよ、これぐらい。放って帰る方が、嫌な気になる」

「……ありが、とう」

「お前、2組の影山だろ?」

「うん」

「俺は1組の橘。橘洋介」

「橘、くん」

「おう」


 彼の名前を聞いたとたん、姫子の胸がとくんと音をたてる。

 ぎしぎしと錆びつき、止まっていた胸の鼓動が、彼の言葉をきっかけに再び脈打ち始めたような、そんな不思議な感覚があった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 結局彼は、靴が見つかるまで姫子に付き合ってくれた。

 校舎裏のゴミ箱の後ろに隠されていた姫子の靴を見つけてくれたのも、彼だ。


「ったく、誰か知らねえけどガキみたいなことしやがって」


 そう言った彼は、姫子に向かって言葉を続けた。


「影山、お前も何か嫌なことされたら黙ってねえで、先生とかにちゃんと相談しろよ」

「……うん」


 それが姫子と彼の出会い。

 姫子が彼を好きになる切っ掛け。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 ■

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 姫子の毎日は、恋を知ってからもそれほど変化はなかった。

 相変わらずクラスでは孤立していたし、姫子は一人ぼっちだった。

 変わったことと言えば、廊下ですれ違う時などに、彼が姫子に小さく挨拶をしてくれるようになったことだった。

 

 それは「よ」だったり、「じゃあな」だったり短い言葉だったけれど。

 彼が声をかけてくれる度に、姫子の胸に暖かな想いが溢れた。

 彼を見ているだけで、幸せな気持ちになれた。

 だから、姫子はいつしか目で彼の姿を探すようになった。

 彼のことを知りたいと思うようになった。

 

 彼は隣のクラスだから、姫子は直接彼の日常を知ることは出来ない。

 けれど、廊下側の端っこの席で、休み時間本を読むふりをしながら、窓の外から聞こえてくる彼の賑やかな声を聞くのが好きだった。


 別に、告白しようだとか、そんなことは考えていなかった。

 彼は、ただ初めての人。

 中学に入って、上手くやることが出来なかった姫子のことをそのまま受け入れて、嫌な顏をせずに話をしてくれた初めての男の子なのだ。

 姫子の、特別だった。

 

 そんなある日。

 いつもと同じように、姫子は席に座って廊下から聞こえる彼の声を聞いていた。

 明るく、楽しそうな彼の声。

 それに混じって、可愛らしい女の子の声が聞こえた。


「洋介~、後で数学の宿題写させて~」

「お前なー、ちゃんと自分でやれよ」

「今回だけ、今回だけだからっ」

「そう言って何度目だよ」


 気になって、ちらりと廊下の外へと視線を向けて――…姫子はずきりと胸に走った痛みと共に小さく息を呑んだ。


 廊下に立つ彼の傍らには、一人の少女が立っていた。

 姫子と同じ制服を着ているはずなのに、どこか垢ぬけて見えるのは明るく色を抜いた栗色の髪のせいだろうか。スカートはウエストで折っているのか、姫子の着ているものに比べて随分と短い。

 

 同じ学校。

 同じ制服。

 同じ年齢。

 同じ性別。

 

 同じはずなのにどうしてこんなにも違うのか。

 

 ずきり。ずきずき。

 今まで何をされても痛まなかった胸が、急に軋んだ痛みを訴え出す。

 急に、湯の温度を思い知ってしまったような気がした。

 彼女はあんなにも明るく笑って、友達に囲まれているのに。

 姫子はクラスメイトに虐められていて、姫子の傍には誰もいない。

 唯一親切にしてくれた彼だって、その隣で楽しそうに笑っているのは姫子ではなく彼女だ。

 

 ああ、痛い。

 ああ、熱い。

 

 お湯の温度を知らなければ、カエルはいつまでだって生きていられたかもしれないのに。

 自分が浸かっているのが耐えがたい熱湯であることに気付いてしまえば。

 

 

 

 

 

 

 

 

 後は無残に、無様に、煮えて死ぬしかないのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ぎり、と姫子は手を握り締める。

 爪が手のひらに食い込んで、じりじりと痛む。

 けれど、そんな痛みがむしろ心地良かった。

 心が砕けて足元から虚ろに飲まれてしまいそうな中、その痛みだけが姫子を現実に留めてくれていた。

 

 みじめだ。

 みじめだ。

 

 それに気づかせてしまった彼女が憎い。

 自分にはないもの全てを持っている彼女が憎い。

 羨ましい。妬ましい。どうして彼女にはあって自分にはないのか。彼女と自分の違いはなんだったのか。どこで自分は選択肢を間違えてしまったのか。そこで間違えなければ彼女の場所に自分がいられたのか。いや、今からだって遅くない。そうだ。きっと。きっと。彼女がいなければ。彼女のいる場所が明けば。そうだ。彼女はきっとズルをしたに違いない。何か厭らしいズルをして、早い者勝ちでその場所を奪ってしまったのだ。いや、違う。きっとそこは本来姫子の場所で。それならば彼女がいなくなれば世界は正しくなる。彼女がいる場所に、本来の持ち主である姫子が戻るのだ。そしたら彼の隣にいるのは姫子になる。姫子は友達に囲まれる。姫子は過ちを正す必要がある。そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。

 

 彼女を、消そう。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 かくして物語は冒頭に繋がる。

 

 最初姫子がすがろうとしたのは、クラスの女子がひそやかに賑やかに噂していた一つの怪談だった。

 学校から少し離れた山間にある小さな神社。

 真夜中にその神社の裏で誰にも気づかれずにこっくりさんをやると、なんでも願いを叶えてくれるモノを呼びだすことが出来る、というものだ。

 きっと、そんな怪異ならば姫子の願いをかなえてくれるだろう。

 この間違った世界を正してくれるだろう。

 だから、深夜二時過ぎ、草木も眠る丑三つ時に姫子は家を脱け出し、一人で神社を訪れた。

 きんきんと冷えた夜の外気も、暗く闇にぼやけた世界も、何も怖くなかった。

 身体がぐらぐらと熱く煮えて、今すぐにでも何かしなければ衝動的に死んでしまいそうだった。

 

 辿りついた神社の裏で、姫子は持参した紙を広げた。

 そこにはすでに、こっくりさんを呼ぶための文字が書き連ねられている。

 几帳面に真四角に並べられた文字。

 その上に、十円玉を乗せる。


「こっくりさん、こっくりさんお出で下さい。こっくりさんこっくりさん、お出でくささい。こっくりさんこっくりさん……」


 夜の神社で姫子はひそやかに狐を呼ぶ。

 姫子の世界を正してくれる救い手を求めて狐を呼ぶ。


 けれど十円玉は動かない。

 ピクリとも動かない。


「こっくりさんこっくりさんお願いですからお出でください、辛いんです、本当に辛いんです、苦しいんです……っ」


 啜り泣きながら、本当はそんな都合の良いことなんて何も起きないことなんて知っていながら、姫子は狐を呼ぶ。

 あるはずもない救いを求めて、姫子は泣きながら狐を呼ぶ。


「こっくりさん……ッ」


 は、と嗚咽と共に吐き出した吐息が白く闇夜にぼやけて。

 姫子がこのままここで冷えて冷たくなってしまいたいとぼんやり思い始めたその時、声が響いた。






「やあ、可愛いお嬢さん。僕が本物の呪詛を教えてあげる」






 姫子は。

 狐よりも、もッと。もッと。

 性質の悪いものを、喚んでしまッた。

 

 

 

 

 

 

 現れた男は、にこやかに姫子に本物の呪詛を教えてくれた。

 姫子の世界を正すための、本物の呪詛を。

 憎くて、妬ましくて、羨ましくてたまらないあの女を殺す術を。

 

 

 

 

 

 

 

 

 ちゃぷり、ちゃぷり。

 冷たい水音が闇に響く。

 闇よりもなお昏く、澱んだ水の底に足を浸して、身体を苛む痛みに姫子は啜り泣きながら堪える。


「ひ、ひ……」


 紫色に青ざめた唇から零れる啜り泣きは、いつしか歪み果てた笑いのように響き――……その声は誰にも届かぬ呪詛として、こんこんと湧き続けた。

 世界を蝕み、全てを変えてしまうために。

 

 たった一人の少女の、命がけの呪詛。

 

 水はおろか湯ですらない何かに身を浸していることにすら気づかず。

 否、気づいても姫子にとって、もはやそれは些細な問題だったのかもしれない。

 湯だろうが呪であろうが、姫子がそのままでは死んでしまうことには違いはないのだから。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 □

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 きっかけは、ほんの些細なことだった。

 幼馴染の、花房海は困ったように眉尻を下げつつ、何でもないことのように笑いながら言ったのだ。

 

「なんかさ、最近寒いからかな~、変に身体が痒いんだよね」


 ぽりぽり、と手の甲を掻きながら呟かれた、そんなさり気ない言葉。


「保湿するといいらしいぜ。うちの母さんが言ってた」


 だから、洋平もなんとなく、母親の受け売りを口にした。

 冬になり空気が乾燥すると、人間の肌の水分量も減り、そうするとどうしてか痒くなりやすくなる、と母親が言っていたのだ。

 長袖から露出した海の白い手の、指で掻いた手の甲の赤みがなんとなく印象に残る。

 

「うん、そうするわ」


 やっぱり何でもない風にそう言って頷いた幼馴染は、その数日後学校で倒れた。

 そのまま病院に運ばれた海に医者が下した診断は、「貧血」なんていう極々平凡な病名だった。

 家で休んでいるところに、学校に置いたままになっていた荷物を洋平が届けたときには、海は照れたように、困ったように笑っていた。


「お前、ちゃんと飯食ってんのか? 妙なダイエットとかしてんじゃねえだろうな」

「うーん、別に身に覚えはないんだけどな」


 明るい栗色の頭を傾げて、ベッドに身体を起こした海が答える。

 それはいつものやりとりだった。

 海は、やっぱり痒そうに、話している間もかりかりと手の甲を掻いていた。

 白い手の甲は、ひっかき傷が幾重にも重なり、じくじくと熱をもって赤く膿んでしまっている。


「なあ、それ掻かない方がいいんじゃねえ?」

「……うん。わかってるんだけど、痒いんだよね」

「いや、それでも」


 傷になっちまってるじゃねえか、と洋平が言葉を続けるよりも先に、海が口を開く。


「痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて痒くて」


 ぶつぶつと呪文のように続けられる言葉は、機械の発する合成音声のように感情が抜け落ちた声音だった。


「お、おい……?」


 痒いと繰り返す海の目は虚ろで、目の前にいるはずの洋平を見ていない。

 ただブツブツと呟く声に交じって、がりがりと肉を削る音だけが響く。

 白い肌に染みるように溢れた血液が、どろりとベッドに滴る。

 洋平は目の前の異様な光景に飲まれたように立ちつくしていたものの、はっと我にかえると同時に無理やり海の手を捕まえた。


「やめろよ、お前大丈夫か!?」

「え……?」


 腕を捕まれて、ぼんやりと海が瞬く。

 そして、今さら洋平の存在に気付いたというように、その眼の焦点が洋平に合された。


「あれ、洋平……? 私……」

「ちょっと待ってろ、すぐおばさん呼んでくるから」

「うん……」


 海は小さな子供のように、こくりと頷く。

 普段なら口うるさく、洋平相手にも軽口が絶えない海のそんな様子にどうしようもなく不安が掻き立てられる。

 何か、嫌なことが起きているような気がした。

 洋平は、海に言った通り海の母親を呼びに行こうと海へと背を向ける。

 







「イナクナッチャエバイインダ」







「――え?」


 何か聞こえたような気がして後ろを振り返る。

 それは、決して海の声ではなかった。

 金属が軋むような、黒板を爪で引っ掻くような、不快な音だった。

 ぞわぞわと洋平の全身の毛が逆立つ。


「海、お前今何か言ったか?」

「え? 何も言ってないけど」

「……だよ、な」


 洋平は、首を左右にふりながら、部屋を後にする。

 そして。

 その日以来、海は学校に来なくなった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海の母親が言うには、海は悪い風邪を拗らせてしまったのだそうだ。

 

 けれど、きっとそれだけじゃないことをそう話す母親の目の下に出来た濃い隈だったり、真夜中に壁の向こうから聞こえる悲鳴のような声から洋平は知っていた。


 あれは、海の声だ。

 

 何かに追い詰められたような、今にも殺されそうな声で助けを求めて叫ぶ声。

 幼馴染のそんな声に、洋平は布団の中で身体を丸くして手を強く握りしめる。

 助けてやりたくても、海を追い詰めているものが何なのかを洋平は知らない。

 どうしたら助けられるのか、洋平にはわからない。

 だからただただ布団の中で身体を硬くして、明日になれば全てが良くなっていることを祈ることしか出来ないのだ。


 明日の朝、いつものように制服に着替えて、朝ごはんを食べて、玄関を出たらちょうど同じタイミングで出てきた海と会って、「お前もういいのか?」なんて聞いて、そしたら海は少し恥ずかしそうに笑って、「うん、もう大丈夫だよ」と言うのだ。

 

 そして、下らないいつものやりとりをしながら、学校に向かう。

 いつもは、中学生にもなって女子と登校とか恥ずいだろ、と早足に海を突き離して登校することが多い洋平だけれども、明日だけは久しぶりに一緒に登校してやってもいい。

 

 だから、良くなれ。

 

 そう願いながら、壁の向こうから微かに聞こえる悲鳴に耳を塞いで、洋平は無理矢理目を閉じる。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 海が学校を休むようになってから、三日が過ぎた。

 夜になれば聞こえる声は、どんどんか細くなっていった。

 最初は早く聞こえなくなれば良いと思っていたはずなのに、今度はその声が聞こえなくなることが洋平は不安で不安で仕方なくなっていった。

 あの声が聞こえなくなることが、すなわち海の回復ではなく、真逆の意味を持つような気がしてならないのだ。

 だから、暗やみの中で耳を澄ます。

 そして、聞こえる悲鳴に、ようやく安心して洋平は目を閉じる。

 

――それがどれほど歪んだ行為なのかに気付かぬまま。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それは、そろそろ海が学校を休み始めて一週間が過ぎようとしている頃のことだった。

 学校帰りの交差点、大勢の人が行きかう中を洋平はぼんやりと歩いていて――……ふと、奇妙なモノに気付いた。

 

 それは小さなイキモノだった。

 

 全長は20㎝ほどだろうか。

 やたらともふもふとした黒猫のようにも見えた。

 が、猫にしては首回りの毛並がやたらに豊かすぎる。

 まるでライオンの鬣のようにふっさりとした毛並を誇らしげに風に靡かせて、その小さな生き物は堂々と交差点を歩いている。

 普通こんな街中であれば、ただの野良猫がいるだけで通り過ぎる人々は物珍しげに視線を投げかけるものだ。

 それだと言うのに、まるで洋平以外の人々はそのイキモノの存在に気づきすらしていないかのようにすたすたと早足に交差点を過ぎていく。

 そんな人々の足元を、そのイキモノはてってって、と軽やかな足取りで歩いている。悠々と、危なげなく、ふっさりとした尻尾を揺らして。


 何故か、気づいたら洋平の足は勝手にそのイキモノの後を追いかけていた。

 

 何かに惹かれるように、人ごみの中で見失わないように必死にそのイキモノの後を追い掛ける。

 相手は小さなイキモノだ。

 追いかける洋平に気付いて、逃げられでもしたらきっとすぐに見失ってしまうだろうと思ったのに、そのイキモノはふいふいと楽しげに鬣を揺らして歩いていく。


 交差点を超えて、雑踏を超えて、いくつかの裏路地をくぐりぬけて。

 

 ふと気づいたら、洋平は見知らぬ路地に迷い混んでいた。

 茜色の夕焼けの下、古い町並みが続く。

 古ぼけた看板が並ぶ隘路には、様々な、洋平には何を商っているのか想像すらつかないような店が軒を並べている。

 見知らぬ異境のような場所でありながら、どこか懐かしいような匂いがした。

 

 

 まあ。

 

 

 謎のイキモノが、鳴き声をあげる。

 それほど大きくもないはずのその声が、ぴぃんと洋平の鼓膜を震わせた。

 はっとする。

 街並みから、謎のイキモノへと視線を戻す。

 もふもふとした毛玉は、洋平が己を見ていることを確認するようにちらりと振り返ってから、それからするりと路地の奥に店を構える薬局の中へと入りこんでいった。


「…………」


 ごくり、と唾を飲みこむ。

 薬局になど、用はないはずだった。

 それなのに、何故か洋平は誘われるようにその店に向かって歩を進めた。

 薬局の入口には外からでも買い物が出来るような小さなカウンターが置かれており、そこには何故か「トカゲあります」なんて書かれた張り紙が貼られている。

 その上から吊るされた燻製のようなものが、もしかしたらその「トカゲ」なのかもしれないが、その「トカゲ」に蝙蝠のような飛膜がついているように見えるのは洋平の気のせいだろうか。

 気のせいに違いない、とふるふると小さく頭を左右に振って、洋平はカウンター脇にある扉へと手をかけた。

 ぐっと押すと、からんからん、とぼやけた鐘の音が響く。


「お?」

「…………」


 店内にいた人間の視線が、一気に洋平へと集中した。

 様々なよくわからないものが雑多に、しかし何等かの規則性に乗っ取って並べられた店内の片隅に設置された小さなテーブル。

 そこに、二人の男が座っていた。

 テーブルの奥、店内を見渡せる位置に座っているのは、四十に差し掛かった頃かと思われる厳めしい顔をした中年の男だ。オールバックに撫でつけた前髪と、不機嫌そうに眉間に浅く寄った皺からは底知れぬ威圧感を感じる。きっちりと着込んだシャツの上から、ぱりっと糊の効いた白衣を羽織る様子などは、どこか立派な病院の医師といっても通りそうなようにも見えるが、三つ編みにまとめられた長い黒髪と無造作にかけられた片眼鏡(モノクル)がどこか只者ではない雰囲気を加味していた。

 その向かい、洋平に背を向ける形で座っていたのは、二十代半ばだと思われる細身のスーツ姿の青年だった。がたりと椅子を鳴らして、興味津々といった風に洋平を見つめている。外人だろうか。灰がかった蒼の瞳に、その肌は青ざめて見えるほどに白い。背中に流された長い黒髪が、やはり一般人のようには見えなかった。膝の上に、洋平をここまで導いた謎のイキモノを乗せている。男が擽るように喉を撫でると、謎のイキモノは気持ち良さそうにくるくると喉を鳴らした。

 

「トージ、珍しいな、客だぞ客」

「俺は人間を客にする気はない。人外に進化してから出直してきてくれたまえ。第一」


 フン、と言葉の途中に匂いを嗅ぐような動作を交えて、トージと呼ばれた店主らしき男は、厭そうに顔をしかめた。


「呪われた人間ならなおさらだ。出ていけ。ここはお前のような者が来るところではない」


 怒鳴られたわけでもないのに、洋平は背筋がびりびりと震えるような拒絶を感じてたじろぎそうになった。その鋭い眼光に晒されると、今すぐにでも踵を返して逃げ出したくなってしまう。けれど、その店主の口にした「呪われた人間」なんていう言葉に後ろ髪を引かれて、洋平は踏みとどまる。

 

 呪い。

 

 その言葉からすぐに連想したのは、病みついた幼馴染の少女のことだった。

 毎夜、隣の家から壁ごしに聞こえる声。

 がりがりと掻きむしられる肌。

 呪いとはまさに、あのことではないのか。


「この少年からは汚らしい死者の匂いがプンプンとしている。俺の領域に穢れを持ちこむな」


 吐き捨てるように言った店主が、しっしと野良犬でも追い払うように手を振る。

 それをとりなしたのは、長髪の男だった。


「でも見ろよ、この子、放っておいたらたぶん……」


 すっと灰蒼の双眸が洋平を値踏みするように眺める。

 いや、それは事実値踏みだったのだろう。

 男は、至極なんでもないことのように、洋平に残された時間を口にした。


「長くて後三日、ってところだ。呪が成されたら、死ぬだろうね」

「ああ、死ぬだろうな。だがそれがどうした。俺には関係にない話だ」

「――え?」

 

 まるでそれが誰にでも見ればわかる『事実』であるかのように、男の言葉に店主はあっさりと頷いた。

 一方それについていけないのは洋平だ。


 死ぬ?

 誰が?

 俺が?


 思ってもいなかった言葉に、洋平は呆然と瞬く。

 もしかしたら海は助からないかもしれない、というのは漠然と抱いていた予感だった。だが、今この男が測ったのは、洋平に残された時間だ。

 

「俺も――……死ぬ?」

「死ぬだろうね」


 あっさりと男は頷いて、すっと片手で持ち上げたコーヒーカップに口をつける。

 

「呪いの”目標”は君だからね。今はちょっと”寄り道”してるみたいだけど」

「な、なんでそんなことがわかるんだよっ!?」


 信じたくない一心で、洋平はきっと男を睨んで怒鳴る。

 が、男は堪えた様子もなく、にこやかに愉しげな笑みを浮かべて言葉を続けた。


「それは僕が魔法使いだからだよ」

「……は? 魔法、使い……?

「そう、僕は魔法使いなんだ」


 そう言って男はにんまりと口角を釣り上げて笑った。

 人懐こい笑みなのに、どこか人を不安にさせる、そんな笑みだ。


「同じ世界に属してはいるが、君たちとは異なる理を操り、不思議と可能とする――…なんて言ったら格好良すぎかな」

「貴様なんぞ外道の一言で済むだろうが」

「はっはっは、トージは酷いな」


 魔法使いを名乗った男は、店主の辛辣な言葉を明るく笑い飛ばす。

 それから、やはり同じあっけらかんと明るい笑みを向けて、洋平へと告げた。


「まあ、そんなわけで、君はそのままだと後三日のうちに死ぬよ。ああ、もしかしたら君の家族も死ぬかもしれないな」

「家族、も……?」

「もしかしたらもっと大勢が死ぬことになるかもしれないね。”呪い”は随分と大きく成長してしまっているようだから」


 ほっそりと灰蒼の双眸を愉しげに眇めて、魔法使いは語る。


「”呪い”というのはね、病によく似ているんだよ。一人感染者が出たら、そこからどんどんと広がっていく。だから”呪い”は難しい。君たちは呪いで手軽に憎い相手を殺せたらいいのに、みたいなことを言うけど――…僕から言わせれば、それは素人の考えだよ。呪いは、”的を絞る”のが一番難しいんだ。人を呪わば穴二つ、なんて言葉があるだろう。呪いは”広がる”んだ。一度”広がった”呪いは術者にすら牙を剥く。都合よく人を一人殺して終わる”呪い”なんてわけのわからないものを創ろうとするよりは、手っ取り早く物理で殺した方がよっぽど簡単だ」


 そんな物騒な呪い事情を語って、魔法使いはひょいと肩をすくめた。

 かちり、と手にしたコーヒーカップを、テーブルの上のソーサーへと戻す。

 どうしてか、洋平は魔法使いを名乗る男の言葉を戯言だと切って捨てることが出来なかった。

 毎夜隣から聞こえる声が、あの日見た手を掻きむしる幼馴染の異様な行動が、”呪い”という言葉に現実感を、実感を与えてしまうのだ。


「どうしようも、ないのかよ」


 洋平はぽつりと呟く。

 魔法使いを名乗る男は、”呪い”の目的は洋平だと語った。

 今は”寄り道”をしているだけなのだと。

 つまり、海はただ巻き込まれただけだということになる。

 本当ならば、洋平を殺すはずだった呪いの的が拡散して、周囲の人間を巻き込んでしまっていることになってしまう。


「俺が、何をしたって言うんだよ」


 絞り出すような声で洋平は呻く。

 悪いことなんかしたことない、とは流石に言えなくても、殺されなければいけないようなことをした覚えはない。

 あまりの理不尽さに、目頭が熱くなる。

 ぽたり、と俯いた先の床に、水滴が落ちた。


「――僕が、助けてあげようか」

「おい」


 魔法使いの声に、苦々しく応じたのは店主だった。

 視線だけで人を殺せそうな眼力で、魔法使いを睨めつける。


余計なこと(・・・・・)をするな」

「いいじゃないか、暇つぶしだよ」


 そんな店主の視線を、正面から受け止めて魔法使いはにこやかに笑う。

 店主は苦虫を噛み潰したような顰め面でぎりぎりと魔法使いを睨んだ後、ふっと興味が反れたように視線をそらした。


「俺は知らないからな。俺に後始末を持ち込んだら殺すぞ」

「わかってるよ、君に迷惑をかけるつもりはないから安心して隠居しててくれ」

「なら今すぐ死ね」

「酷いな!」


 店主の容赦のない言葉に晒されても、魔法使いは風に靡く柳のようにやんわりと受け流して楽しそうに笑って――…改めて立ち上がると、洋平へとすっと手を差し出した。




「さあ、僕と契約しようじゃないか。

 君は願いの対価に何を差し出す?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 長い黒髪の上に、小さな謎のイキモノを乗せて、魔法使いは楽しそうに雑踏を歩く。

 

 結局あの後、洋平が魔法使いの手を取るよりも先に店主の堪忍袋の緒が切れたのか、二人して薬局を追いだされてしまったのだ。

 魔法使いは、「お守り代わりに(ぽんで)を借りてくよ」なんて言って膝の上で丸くなっていた黒い毛玉も道連れにした。

 今、二人は路地を出て、洋平もよく知る街の座頭を連れだって歩いていた。

 こうして馴染のある日常を歩いていると、先ほどまでの話が嘘のように感じてしまう。タチの悪い冗談に惑わされただけのような気がしてくる。


「…………」


 洋平は、溜息をついて足元を見つめた。

 先ほどは雰囲気にのまれて魔法使いを名乗る男の言葉を信じかけてしまったが、やはりその話は荒唐無稽だ。


 海はきっと何か良くない病気で。

 きっとすぐに良くなる。

 

 そう、信じたいのに。

 ぐっと洋平は手を握った。

 心のどこかで、洋平は魔法使いの語った言葉を信じてしまっている。

 このまま魔法使いを騙る男に背を向けて、日常に戻ってしまいたいとは思っているのに、このままでは終りが近いことを洋平はわかってしまっている。

 そんな洋平の葛藤を察したように、魔法使いがくるりと洋平へと振り返った。


「さて、契約はどうしようか?」

「……っ」


 促されて、洋平の息が撥ねる。


「まあ、いきなりじゃ信じられないだろうし、対価は後払いで結構だよ」

「……幾ら、欲しいんだよ」

「君が、願いに釣りあうと思った値をつけると良い」

「…………」


 洋平の願いに釣りあう額。

 それは魔法使いの語った言葉が本当だとしたならば、洋平やその家族、海の命の値段に等しい。

 だが、洋平はしがない中学生である。

 複数の命に釣りあう額など、用意できるはずもなかった。

 だから、逆に聞いてみることにした。


「あんたは、何が欲しいんだ?」

「僕?」


 聞き返されて、魔法使いは不思議そうに瞬いた。


「俺は、こういう時の相場とか知らないし」

「まあ、普通はそうだよね」


 くつくつ、と魔法使いが楽しそうに喉を鳴らして笑う。

 それから「んー」と考えるように唸ると、ぴ、と指をたてて魔法使いは洋平へと提案を口にした。


「君の血を1リットルほどくれないか?」

「……ッ!?」


 ぎょっとして息を呑む。

 思わず足を止めた洋平に、魔法使いはにこりと表情を和らげると安心させるように言葉を続けた。


「安心していいよ。一度に全部貰うわけじゃないから。そうだな……5~6回、君の身体に影響が出ない程度に小分けにして、合計1リットルも貰えればそれで十分かな。それでどう?」

「…………」


 対価に血を1リットル。

 それは、どう考えても不気味な契約だった。

 道徳概念的に、気持ちが悪い。

 有りえない、異端の契約だ。

 

 けれど、本当に洋平の回りで起きている出来事が”呪い”によるものなら。

 これぐらいぶッとんだ方法でなければ対抗できないのかもしれない。


「……わかった」


 洋平は魔法使いの提案を受け入れる。


「ただし、成功報酬だ」


 キッと魔法使いを睨み据えて洋平は言い切る。

 ぎゅっと手を握り締め、お前など怖くはない、と見栄を張って足を踏ん張った。

 この男がただの頭のおかしい変質者だったりした場合のことを考えると、対価の前払いなんてことはとても認められなかった。

 もしかしたらごねられるかと思った洋平の付けた条件に、魔法使いはやはり楽しそうに笑った。


「いいね、賢い子どもは好きだよ」


 無造作に伸ばされた手が、くしゃくしゃと洋平の頭を撫でる。

 白く、冷たい指先が地肌を掠めて、洋平は身震いに身体を竦める。


「それじゃあ契約だ。

 僕は”呪い”を止める。君は対価に君の血液を1リットル僕にくれる」

「…………」


 黙ったまま洋平は頷く。


「では契約の証に君の名を僕にくれるかい?」

「くれるって……」

「教えてくれればいいよ」

「……俺の名前は、橘洋平」

「橘洋平くんか。よし。それじゃあ僕の名前も教えておくよ」


 いいかい、とまるでとっておきの内緒話をするように、魔法使いは瞳を細めて声を落とした。


「僕の名前は――…セイレムだ」


 そして、洋平は魔法使いの契約主(マスター)となった。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 魔法使いの作戦はシンプルだった。

 ”呪い”は、”返す”。

 魔法使いは灰蒼の瞳をつまらなそうに細めて語った。


「”呪い”が広がるのはね、”呪い”に飲まれた術者が”終り”を見失うからなんだよ。最初は殺したい相手は一人だったはずなのに、邪魔者をあっさり消してしまえる”力”に酔うんだろうね。あいつも、こいつも、ああもう面倒だから全部殺してしまえ、ってな具合に。どんどん、対象が増えていく。そうなると、”殺したい相手がいるから呪う”のか、”呪いたいから相手を探す”のかもう境界はわからなくなる。目的が手段に飲まれるんだ。だから、”呪い”を止めたいのならば、無理矢理にでも終わらせてやればいい」


 ”呪い”を無理やり終らせる。

 そう言葉にされた具体的な内容を、洋平はどうにもイメージすることが出来なかったが、魔法使いはのんびりと笑うだけだった。


 そして、その日の深夜。

 いつもなら、隣の部屋から声が聞こえる頃。

 洋平はそっと家族に気付かれぬよう家を脱け出した。

 家の前には、不吉な影のように佇む黒衣の魔法使いの姿があった。

 その肩の上には、眠たげに目を閉じた黒い毛玉が乗っている。

 洋平をあの薬屋まで導いた不思議なイキモノだ。

 魔法使いの使い魔か何かなのだろうか。


「やあ、今晩は。良い夜だ」

「…………」


 これから起こることを思うと、余計な口を利く気力もなくて、洋平はただ無言でうなずく。


「緊張しているのかい?」

「……ああ」

「まあ大船に乗ったつもりでいると良い、なるようになるさ」


 魔法使いは、気負いなく明るく呟く。


「後は、待つしかないのか?」

「そうだね、基本的には待つだけだ。ああ、寒いな。カイロを持ってくるんだった。(ぽんで)、ちょっとカイロになってくれ」


 魔法使いは、肩に乗っていた毛玉をべりっと引っぺがすと、謎イキモノをもちもちと手の中で揉みしだく。さすがにその扱いには不満があったのか、謎イキモノは嫌そうに身を捩って、魔法使いの手をてしてしと柔らかそうな肉球で叩いた。

 今更のように気になって、洋平は魔法使いに聞いてみることにした。


「……それ、何なんだ?」

「それ、っていうのは(ぽんで)のことか?」

「うん」

「僕専用生体ホッカイロだ」


 がぶり。

 

 そう断言した魔法使いの手に、生体ホッカイロが咬み付いた。

 その名称はお気に召さなかったらしい。


「いててて」


 呻きながらも、魔法使いはどこか楽しそうだ。

 というか、魔法使いは基本的にいつでも楽しそうにしている。

 そんな魔法使いが、手に謎イキモノを咬み付かせたままふと顔をあげた。


「――来たみたいだな」

「え?」


 魔法使いの言葉につられたように、洋平も顏をあげる。

 草木も眠る丑三つ時、人っ子一人いない住宅街の通りに、ゆらりと奇妙な影が差した。

 

 それは、どうも女のようだった。

 ざんばらにふり乱した長い髪、ぐしょぐしょに濡れそぼった制服。

 それが自分の学校のものだということに気付いて、洋平は息を呑む。

 

 予想は、していた。

 洋平を呪うような相手だ。

 呪いをかけてやりたいと思うほど関わるような相手は、同じ学校の誰かぐらいしか思いつかなかった。

 だが、改めてこうして実際にその事実を突きつけられると、ぎゅっと胸が苦しくなった。同じ学校で肩を並べ、もしかしたら言葉を交わしたこともあるかもしれない相手が、洋平を呪い殺そうとしているという事実が、とてつもなく苦い。


 異様なほどに肩を落として、その影はぺたりぺたりと洋平たちに向かって歩を進めてくる。

 顏は、見えない。

 最初は俯いて影になっているせいで顏が見えないのかと思った。

 けれど近づいてくるにつれて、洋平はその女の顏にのっぺりとした面が貼りついていることに気付いた。


 無貌。


 まるで出来損ないの人形のようだ。

 ゆらり、ゆらり、異形の女が左右に揺れながら通りをやってくる。

 これが、”呪い”なのか。

 ごくりと洋平は喉を鳴らす。

 寒さだけではない理由で、手足の先が冷えていく。


 ここは、異界だ。


 洋平のよく見知った場所でありながら、洋平の常識が通じない。

 ここでは何が起きても、おかしくない。

 女は、海の家の前でぴたりと足を止めた。

 その光景に、洋平は理解する。

 あの女が、毎夜洋平が聞いていた悲鳴の原因だ。

 女は、ずるりと家の敷地に入りこもうとして――…そのとたん、ばちりと静電気のような音を立てて弾かれた。

 はっとして振り返ると、魔法使いは愉しげな笑みを口元に浮かべたまま頷く。


「この時間まで、僕が何もしないでいたと思うのかい?」


 ぱちりと魔法使いが指を鳴らしたとたん、海と洋平の家の前に刻まれた複雑な文様が一瞬だけ浮かび上がった。


「結界を張ってある。お前は、中には入れない」


 挑発するようににたりと笑った魔法使いへと、女の形をした怪異が向きなおる。

 魔法使いを、排除しなければならない敵として認識したのだろう。

 ゆら、ゆら、と距離を詰める女の形がぐずぐずと崩れる。

 人の形が崩れて、より異形らしい姿へと変わっていく。

 細い女の肢体がめきめきと軋む音をたてて人非ざるものへと成り変わる。

 爪がぎちぎちとナイフほどの長さに伸びて、ずぶりとその下半身が影に沈むように地面に溶ける。




あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”ッ!!




 呪詛じみた声をあげて、女の身体がうねる。

 ずるりと再び影から吐き出された女の下半身は、もう人の足の形をしていなかった。びっちりと闇色の鱗に覆われた蛇腹が、厭らしく地面の上をのたうつ。


真蛇(しんじゃ)か」


 何が嬉しいのか、魔法使いは楽しそうに呟くとぺろりと唇を舐めた。

 おぞましい怪異を目の前にして、御馳走を前にした舌なめずりのような仕草だ。


「し、しんじゃ……?」

「真の蛇と書いてしんじゃ、だ。嫉妬に狂った女の最終形態だよ」


 うぞろうぞろと女が這いずり、二人への距離を削り、鋭い爪を振りかぶる。

 あの爪にかかれば、人の肌など簡単に裂けてしまうことだろう。

 ずたずたに引き裂かれて、中身をぶちまけて死ぬ。

 そんな末路が簡単に想像できてしまって、洋平は震えた声で魔法使いを呼んだ。

 

「おい、セイレム……っ」

「わかってる」


 洋平の声に頷いて、魔法使いの口角がにぃと笑みの形に持ち上がる。

 そして、魔法使いは、豪快に振りかぶった。

 その手には、未だ咬み付いたままの黒毛玉。

 それを。

 そのまま。

 

「必殺☆ぽんでくらーっしゅ!!!」


 能天気なほどに明るい声で叫んで、全力で女に向けて 投 げ つ け た 。


「はぁ!?」

「ンまぁあああああ!?」


 洋平のあげた素っ頓狂な声と、尾を引く悲痛な鳴き声が重なって響く。

 もふもふとした黒い毛玉は、魔法使いが投げたままの軌道でかっとんでいき――…真蛇の振りかざした爪に引き裂かれる寸前、めらりと紅蓮の光に包まれた。

 

「!?」

 

 朱金に燃える焔の中で黒い毛玉の輪郭が蕩けて――…次の瞬間そこに現れたのは小柄な少年だった。もっふりとした癖のある黒髪に、褐色の肌。目尻がやや吊り上ったぱっちりとした双眸は陽の色を思わせる明るい橙だ。中華ファンタジーの物語の中で見かけるような黒の道士服に身を包んでいる。手にしているのは、身の丈ほどはあろうかという棍。紅蓮の光を帯びたその棍でもって、少年はしたたかに真蛇の爪を打ち払うと、くるりんぱっと猫にも似た身軽さですたりと着地した。


 その身体の表面を、ちろりと熾火のように朱金の光が舐める。

 どろどろと暗い闇に慣れた目を灼くような、鮮烈なまでに清浄なひかり。

 

 それから少年は、何かとてつもなく厭そうな顔をして、たった今真蛇と打ち合った棍へと目を向けた。


「俺、こういうモノ(・・・・・・)苦手なのだけれど」


 ぽつりと柔らかな声で呟いて、少年は魔法使いへとちらりと視線を投げかける。


「依頼を受けたのはセイレムだのに、俺に投げるのは狡いのでない?」

「正確には君に投げる、というよりも君を投げたわけだけど。まあ、僕は非力な魔法使いだからね。――助けてくれるだろう?」


 試すように投げかけられる甘い声音。

 少年が厭がることをわかった上でしたのだと、その声が自白している。

 昏い灰蒼の双眸と、鮮やかな橙が互いを探りあうように絡みあい……それは真蛇が少年に向かって振り下ろした一打によって断ち切られた。


「……ッたく、邪魔しないでよ」


 鋭い爪で頭から引き裂こうとしたその一撃を、少年はひらりとかわす。

 今度はもう、少年は魔法使いを振り返ろうとはしなかった。

 鮮やかな橙色の双眸で目の前の敵を睨み据えたまま、声だけで問いかける。


「俺への御褒美は何だの?」

「高級猫缶でどうだ」

「――帰ろうかしら」

「待て。特売肉ワンパック」

「ねえそれ、下手したらランク落ちてない?」

「…………」


 ぐぬぬ、と魔法使いが黙りこむ。

 魔法使いは眉間に皺を深々と刻みこみ、真理の探究に悩める賢者のような面持ちでしばし悩んだ末に、少年への褒美を吊り上げた。


「高級和牛でどうだ」

「一頭?」

「う」


 眉間のしわがますます深くなる。


「どう、だの?」

「……背に腹は代えられないか。わかった、高級和牛1頭だ」

「よっしゃ」


 嬉しそうに少年がぴょんこと跳ねた。

 そして、着地と同時に黒のカンフーシューズの底がざり、と地を鳴らす。

 もう、ただ避けるだけで終わらせる気がないのだということが、その後ろ姿を見ているだけの洋平にもわかった。

 棍を構えた右手を後方に、左半身は間合いを測るよう目の高さで構えている。




あ”あ”あ”あ”あ”あ”あ”ッ!!




 真蛇が、夜闇を震わせる雄叫びをあげて少年へと腕を振り下ろす。

 今度こそは必殺、この邪魔な少年を引き裂いて血祭りにあげて本来の目的を果たしてくれるのだという執念を感じる一撃。

 それに合わせて、たんッとこちらはどこまでも軽やかに少年は踏み込んだ。


「しッ」


 鋭くこぼれる呼気とともに真蛇の間合いに飛び込み、己の脳天めがけて振りおろされる腕へとタイミングを合わせて内側から叩いて軌道をそらす。そして、腕が開いたところに全身の捻りを効かせて叩き込まれる棍の一撃。真蛇のガードは間に合わない。ずめり、と鈍い音が響いて、蛇腹が歪なくの字に折れた。小柄な少年の体躯からは想像もできないほどの、重い打ちこみだった。何せ、インパクトの瞬間真蛇の巨躯がずっと横に滑ったほどである。


「なんだよ、あれ……」


 思わず洋平は呟いた。

 ふわっふわの黒毛玉が人に化けたのだ。

 その段階で普通ではないのはわかっていたが、洋平とそう年が変わらないように見える少年が、真蛇と正面から打ち合う様は冗談のようですらある。


「そういえば、君のさっきの質問に答えてなかったね」

「え……?」


 さっきの質問が何であったのかすらスムーズに思い出せなくて、洋平はぽかんと何度か瞬く。


「ほら、さっき(ぽんで)のことを聞いただろう」


 そうだ。

 洋平は先ほど、生体カイロとして魔法使いに良いように揉みしだかれる黒毛玉が何なのかと聞いた。


「あれはね――……」


 語る魔法使いの視線の先で、橙の瞳を爛と輝かせた少年が棍を振るって真蛇を強かに打ちすえる。ぼろぼろとはげ落ちる黒い鱗が、びちびちとのたうちながら地面でみじめたらしく震えている。


「僕の、」


 魔法使いの楽しそうな声をさえぎるように、真蛇の絶叫が闇をびりびりと震わせる。それと同時に、地面に落ちてのたうっていた鱗の一つ一つが、意思を持った蛇のように黒く伸び上がって、魔法使いと洋平に向かって襲いかかった。その軌道はまるで二人を囲う檻のようで、その檻の中でいくら逃げ惑ったところで、全てを避けきることなど不可能だと言うことが洋平には瞬時にわかってしまった。

 あ、詰んだ、とまるでゲームの画面を眺めていて自機の末路を察した時のコントローラーを放り出す時の感覚に近い。もう何をしても無駄で、「あー……くっそ」と呻きながら諦めるあの感情。いっそ自分からリセットボタンを押して何もかもをなかったことにしてしまいたくなる、ような。

 

 けれど、洋平にリセットボタンはないし。

 次の自機(命に予備)があるわけでもないのだ。

 

 だから、洋平は避けようがないことを知りつつも最後まであがくべく、魔法使いの手を引く。


「おい!」


 結構な勢いで引っ張ったというのに、魔法使いは動かなかった。

 足に根が生えたかのように、口元に緩く笑みを浮かべたまままっすぐに前を見据えている。見えていないはずがないのに、自らに飛びかかる黒い蛇のことなど気に留めてもいないといった風だ。


 黒い蛇が、迫る。

 魔法使いは動かない。


 蛇の顎門が、真っ当なイキモノではありえない角度と深さでめきめきと裂けて二人へと喰らいつく。洋平はとっさに手をかざして顔を庇おうとして――…不思議なものを見た。伸ばしたところで、喰われる順が腕から先になるだけだと思っていたのに、洋平の腕が黒い蛇のぬめる咥内に呑まれようとした瞬間、その手の先にめらりと焔が生まれたのだ。


「え?」


 ぽかん、とする。

 痛みと惨劇に備えて目を閉じかけていたのも忘れた。

 朱金交じりの紅蓮が、洋平と魔法使いを包むように燃え上がり、黒い蛇の群れをあっという間に塵と化す。

 はらはらと崩れて散る黒い蛇にちらりと視線を流して、魔法使いがようやく言葉の続きを口にした。



「――神様だ」




 ――あれは、僕の神様だ。

 

 そう口にした魔法使いの言葉に背を押されたかのように、少年がトンッと軽やかに地を蹴って飛びあがる。先ほどよりも明度をあげて金に光る双眸でまっすぐに真蛇に向かって飛ぶ。


「痛いでしょう、苦しいでしょう」


 囁く声は優しく。

 振り下ろされる爪を避けるのは最低限の身のこなし。

 傷を避けることよりも、勢いを削がれることを避けたのか、少年の纏う黒衣が掠めた爪に裂かれ、夜闇に微かに赤い飛沫が舞う。


「今、俺が終わらせてあげる」


 そして。

 その言葉通り――…少年の振るった棍がまっすぐに真蛇の額を撃ち抜いた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 お”お”お”お”お”……

 

 額を撃ち抜かれた衝撃のままにのけぞった真蛇が苦鳴の声をあげて身悶える。

 その声に混じるように微かにぴしぴしと脆く崩れゆく音が聞こえた。

 ゆらぁっと身を起こした真蛇は、もはや少年や魔法使い、洋平への敵意を忘れてしまったかのようだった。ただただ崩れゆく顔を抑えて、嘆くように声をあげている。黒く鋭くとがった爪の間から、ぱらぱらと石膏のように白い欠片が零れて落ちていく。それに合わせて、真蛇の身体からは黒く澱んだ「何か」がぼたぼたと滴り落ちていく。


「何が……」

「”呪い”が解けているんだよ」


 魔法使いが興味なさそうな声で呟く。

 すっと細められた灰蒼の双眸には、珍しく笑みの色が乗っていない。


「魔法使い……?」

「……浅ましいね」


 その呟きは誰に向けられたものなのか。

 洋平が聞き返すよりも先に、魔法使いはいつもの人懐こい笑みを浮かべると、すたすたと少年の元へと歩き出した。

 真蛇に近づくことには抵抗があるものの、この場において魔法使いや少年から離れることの方が恐ろしい。


「ちょっと待てよ!」


 洋平は慌てて魔法使いを追いかける。

 洋平が魔法使いの隣に追いついた時、真蛇はだいぶ縮んでしまっていた。

 いや、元のサイズに戻ったというべきだろうか。

 蛇と化していた下半身は崩れ、そこにいたのはただの少女だった。

 背を丸くし、顔を両手で覆って震える女の子がいるだけだった。

 その姿にどこか見覚えがあるような気がして、洋平の口は脳みそが答えを導き出すより先に勝手に動いていた。


「影山……?」


 そう。

 恥じ入るように身体を縮こめ、顏を覆っているのは、洋平の知る相手だった。

 クラスこそ違うものの、一度放課後の玄関で話したことがある。

 靴を隠されたことに嘆くこともせず、ただただ諦念をにじませた面持ちで淡々とその事実を受け入れていた。その癖、洋平が一緒に探してやると言ったら、心底驚いたようにぽかんと目を丸くしていた。おずおずと口にされた「ありがとう」という言葉がくすぐったくて、洋平はそれからも彼女を見かけるたびに、なんとなく気にかけていた。その度に、能面みたいに無表情だった彼女の表情が少しだけ和らぐのが、なんとなく嬉しかったのだ。


「なんで……、なんでだよ」


 悲しかった。

 思い上がりかもしれないが、洋平は彼女からは好かれているとすら思っていた。

 それが実際は逆で、こうして呪詛により殺そうとするほど憎まれていたなんて。


「なあ、影山、なんでなんだよ……っ」


 声が震えた。

 殺したいほど憎まれていたのだという事実に、声が無様に揺れる。

 喉に熱い塊がせり上げて、油断すると嗚咽が零れてしまいそうになった。

 目元が、じっとりと濡れる。

 ぎゅっと手を握りしめて、弾けてしまいそうな理性をとどめる。


『ごめん、なさい』


 小さく、やもすれば風の音とも勘違いしてしまいそうな囁きが、顏を覆った両手の向こうから微かに響いた。

 人としての存在感が感じられない、幽かな声だった。


『私……、橘くんに優しくしてもらえて、すごく嬉しかった。

 誰かに優しくしてもらえるなんて、久しぶりだったから、本当に嬉しかったの。

 嬉しかったから、逆に自分がどれだけみじめなのか気づいちゃったんだ』

「あ……」


 その言葉は、あまりにしっくり来た。

 洋平だって思っていたはずじゃないか。


”能面みたいに無表情だった彼女の表情が少しだけ和らぐのが嬉しかった”、と。


 洋平が優しくしたことで、彼女はいかに今の自分の待遇が酷いものであるのかに気付いてしまったのだ。気づかないでいれば、耐えられたかもしれないのに、気づいてしまったらもうこれ以上我慢することが出来なくなってしまった。とうに迎えていた限界に、彼女はようやく気付くことが出来たのだ。


『せっかく、優しくしてくれたのに、ごめんなさい』


 顏を覆ったまま、少女はぺこりと頭を下げた。


「……ッ、違うだろ……っ!!」


 なんだか、腹が立って洋平は叫んでいた。

 謝ってすむ問題じゃない、とか。

 どれだけ怖い思いをしたと思ってるんだ、とか。

 そんな言葉よりも、何よりも、洋平は自分自身に腹が立っていた。

 洋平は、気づいていたはずだ。

 影山姫子という少女が、隣のクラスでいじめにあっていることに気付いていた。

 気付いていながら、洋平はただ優しくしただけなのだ。

 影山姫子のために、何かをしたわけではない。

 いじめのことを教師に相談したわけでもなく、子供じみた嫌がらせを繰り返す連中に何か言ったわけでもない。

 ただ、自己満足のように影山姫子に”優しく”してやっただけだ。

 

 彼女が自分だけに微かな笑みを見せてくれることに優越感を感じたくて。

 

 そんなの、いじめに加担していた連中とそう変わらない。

 むしろそれよりも酷く残酷な方法で、影山姫子を追い詰めた。


「……っ、ごめん、影山、ごめんな……っ」


 ぽたぽたと俯いた洋平の足元に水滴が落ちる。


『ふふ、やっぱり橘くんは優しいね』


 柔らかな風のような囁きに、洋平は顔をあげる。

 影山姫子は、もう顔を隠してはいなかった。

 学校で見かける時のような、陰気な能面めいた顏はそこにはなかった。

 ふぅわりと優しく微笑む、少女がいるだけだった。


『ごめんね、本当に、ごめんなさい。花房さんにも、酷い八つ当たりをしてしまったよね。橘くんの隣で笑う花房さんが凄く羨ましくて、眩しくて、同じなのにどうして、って思ったら憎くてたまらなくなってしまったんだ。……謝ってすむようなことじゃないけど、本当にごめんなさい』


 文字通り、憑きものが落ちたかのように少女が謝る。

 申し訳なさそうに、頭を下げる。


『最後に一つ、お願いをしてもいいかな』

「なんだよ」


 ずび、とみっともなく鼻を啜って洋平は問いかける。

 

『花房さんに、私が謝っていた、って伝えてくれる?』

「いい、けど」


 そこで、ふと洋平は気づいた。

 ”最後に”というのはどういうことだ。

 まるで、まるで。

 これが言葉を交わす最期、であるかのような、


『私のことは、忘れてください。……ごめんなさい』


 そのことを問いただすよりも先に。

 彼女の姿はそんな淡い言葉を残して闇に蕩けるように消えてしまった。

 後に残るのは、先ほどまでの異界ぶりが嘘のようにいつも通りの日常に戻った住宅街だけだ。しんと静まりかえった道の中に、魔法使いと少年、そして洋平だけが残されている。


「さて、これで君との契約は果たした。”呪い”は”返された”。

 これで君も、君の周囲の人間も命を落とさずに済むよ」


 さあこれで幕は下りた、とばかりに魔法使いは明るい調子で語る。

 先程の少女の淡い笑顔が脳裏に残っていなければ、これで大団円なのだと思ってしまいそうだ。


「待てよ……なあ、影山はどうなったんだ……?」

「彼女は死ぬよ」


 至極あっさりと、当然の道理のように魔法使いは答えた。


「”魔”に命を売って願いを叶えてもらったんだ。”願い(呪い)”が終われば、命を回収されるに決まってる」


 洋平の脳裏に、いつか魔法使いが語った言葉が思い出される。






『”殺したい相手がいるから呪う”のか、”呪いたいから相手を探す”のかもう境界はわからなくなる。目的が手段に飲まれるんだ』






 それを魔法使いは、過ぎた力を手に入れた故の暴走であるかのように語ったが。

 もしかしてそれは、「願い(呪い)叶えば(終れば)代償に命を失うから」なのではないのか。力を与えてくれた”何か”に、己が命というツケを払うのを先延ばしにするために、呪いに手を出した人間は呪い続けるしかなくなるのではないのだろうか。


「なんとか、ならないのか……?」

「ならない。それが契約だ」

「でも……っ、そんなのってないだろ!」


 影山姫子は死ぬ。

 追い詰められてすがりついた呪詛すらも返されて、彼女は命を落とす。

 それが呪いに手を染めた彼女への罰だと言うのなら。

 受け入れるしかないのか。


「嫌だ、俺はそんなの、嫌だ……ッ!」


 子供の駄々のように洋平は繰り返す。

 影山姫子と、もっとちゃんと話がしたい。

 影山姫子のために、もっと何か出来ることがあったはずだとようやく洋平は気づくことが出来たのだ。

 やっと気づいたのに、何も出来ないまま終わるなんて嫌だ。


「影山、探さないと……!!」

「間に合わないよ」

「うるさいっ」


 魔法使いの冷静な声に咬みつくように叫んで、洋平は走りだす。

 どこに向かえばいいのかなんてわからない。

 けれど、このまま何もしないでいるわけにはいかなかった。


 今度こそ、影山姫子を助けたい。

 

 そんな想いに突き動かされて、洋平はただがむしゃらに走る。

 遠くで、魔法使いが呆れたように溜息を零すのが聞こえて――…続いて、何やら間の抜けた悲鳴が聞こえた。


「ぎゃ、ちょ、(ぽんで)、たんまっ、ストップ! お座り!!」


 何が起きているのか少し気になったものの、今は振り返る時間すら惜しい。

 そんな、そのまま走り去ろうとした洋平の隣にすっと併走する影があった。


「お前……っ?」


 爪に裂かれた傷跡もそのままに、洋平の隣に並んだのは黒衣に身を包んだ少年だった。片手で魔法使いの襟首を引っ掴み、見た目に不釣り合いな怪力でずざざざざッと引きずり倒しながら洋平の隣に並ぶ。


「急ぐんでしょう、乗って」

「乗るって……っ!?」


 何に。

 そう洋平が最後まで口にするより先に、隣を駆ける少年の身体が紅蓮の焔に包まれた。鮮やかな焔の中で、人の形がとろりと崩れ――…朱金交じりの紅蓮から生じたのは闇よりもなお深い漆黒の毛並を誇る獅子だった。


(ぽんで)、締まるッ、締まるッ、僕死んじゃう!!!」


 そんな叫びをあげる魔法使いの襟首を口元に咥えて、漆黒の獅子が金色に煌めく一瞥を洋平へと向ける。

 それはすなわち、『乗れ』という意味に違いなくて。


「く……ッ!」


 これまで生きてきて、大抵のスポーツはある程度こなせる程度に運動神経がある方だと自負してきた洋平だが、隣を併走する獅子に跨る、なんていうのは初めてのこと過ぎた。豊かな鬣をぐっと手で握って、全身で貼りつくようにしてその背に飛び乗る。とたん、獅子の足元に再び紅蓮が渦をまき、その焔を足場にするよう黒獅子は虚空へと一息に駆け上がった。


 ごうごう、と耳元で風が鳴る。


 冬の冷たい風が容赦なく洋平の体温を奪う。

 暗く眠る街の上空を、流星のように焔を散らして黒獅子が駆け抜ける。

 やがて、見えてきたのは街のはずれを流れる川べりだった。

 まるで墨でも流したかのように、その一角だけが異様なほどに暗い。

 のっぺりとした闇に包まれたその川べりに、制服姿の影山姫子の姿があった。

 腰のあたりまでを川の中程に沈めるその顔色は闇の中であるせいか一層白さが際立っている。作り物めいた青白さに、間に合わなかったのではないかと洋平の鼓動が撥ねる。

 

「影山!!!!!!」


 叫ぶ。

 そんな洋平の声に反応したように、微かに少女の顏が動いた。

 ふっと、本当に微かではあったけれど、確かに彼女は洋平を見上げたのだ。



「あ――…」



 色を失った唇がわなないて、小さく音を零す。

 それは、幽かな微笑みのようでも、慟哭のようでもあった。

 闇がその足元で広がる。

 ドロリと冷たい川の水が澱んだ黒に染まり、そのままずぶずぶと少女の身体を呑みこんでいく。


 間に合わない。

 

 洋平は身を乗り出す。

 飛び降りて、間に合うか。

 飛び降りた先で何をどうしたら彼女を救うことが出来るのかなんてわからない。

 ただそれでも、このまま独りきりで彼女を逝かせてしまうことだけは我慢ならなかった。


「  」


 洋平を見上げる少女の口が、小さく言葉を刻む。

 聞こえないはずのその声が、「だめ」と囁くのを聞いたような気がした。


「駄目なわけ、あるか!!!」


 ぐっと黒獅子の背から飛び降りる。

 ぐぽん、ととろりと粘度の高い液体に飛び込んだような音が響く。

 底なしの黒い淵に、ずぷずぷと足を取られる。

 きっとさぞかし冷たいのだろうと思ったのに、不思議なことに温度を感じなかった。いや、温度すら感じなかった、というべきだろうか。


 そこには何もなかった。


 ただただ虚ろな黒い水が洋平へと絡みつく。

 どこか生暖かく、このままこの中に身を委ねてしまえば、きっとさぞかし楽になれるのだろうと思った。もう何も頑張らなくて良いし、何も考えなくて良くなる。ただふわふわとこの黒い水の中をたゆたうだけの安寧が水底で待っている。

 けれど、洋平はそんな安寧を蹴り飛ばし、踏みつけて、全身に絡みつく水をかきわけて少女の元へとがむしゃらに進む。


「影山!!!」


 手を伸ばす。

 今度こそ、その手を取りたいと思うのに。

 どろどろとした黒い水に阻まれて、洋平の手は彼女に届かない。


「邪魔すんなよ……ッ!!」


 怒鳴る。

 そして、懸命に伸ばした指先が、黒く澱んだ水の中で、微かに冷え切った肌に触れた。


「……!!」


 手を伸ばす。

 指先が肌を掠める。

 それなのに、つかめない。


「影山、手を伸ばせ!!!」

「たちばな、く」


 小さく呼ぶ声がした。

 か細く、助けを求めるような声。

 触れあった指先が、ひくりと震える。

 微かなそれが、彼女の出来る限りだった。

 

 どぷん。

 

 それを最後に、まるで最初から彼女などいなかったかのように彼女の姿は黒い水の中に沈んだ。


「おい、影山!! 影山!!!」


 ばしゃばしゃと水面を叩くように探しても、もう指先が彼女のぬくもりに触れることはなかった。

 結局、洋平の手は彼女には届かなかったのだ。


「なんだよ……ッ、なんでだよ、なんでこんなことになるんだよ!」


 暗く静かな川べりに、洋平の声だけが虚しく響く。

 どろどろと澱んでいた黒が、呪いの対価を得たことで満足したのか、さああ、と引いていく。どろどろと澱んでいた水面に透明な川水が混じり始め、今更のように洋平の身体に刺すような冷たさが押し寄せてくる。

 何事もなかったかのように、影山姫子という少女の存在だけを欠落させて、いつもの日常が戻ってくる。

 ぐるり、と最後の名残のように闇が川の中央でとぐろを巻いて、最後に残った染みのような点すらも消えかけて、










 大気が、破裂した。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 それはもう音ではなかった。

 それはもう光ではなかった。

 暴虐の限りを尽くす白々とした”何か”が、点となった闇に突き立つ。


「――俺の領域に穢れを持ちこむなと言ったはずだろう」


 苦々しい恫喝が、雷のように響く。

 その声には聞き覚えがあった。

 迷いこんだ洋平のことを、けんもほろろに追い返した薬局の店主の声だ。

 声に誘われたように、洋平は顔をあげる。

 

「――」


 ぽかん、と言葉を失った。

 すっかり日常に戻りつつあると思われた夜の川の水面に、当たり前のように店主は立っていた。眉間に皺は初対面の時よりも深く、世界の滅亡でも見てきたかのような凶相が浮かんでいる。


「まったく、これだから人間なんかには関わりたくないんだ」


 忌々しそうにぼやきながらも、店主は水面に屈むと、ずぶりと腕を水の中に突っ込んだ。そして、いとも無造作に、ずるりと濡れそぼった少女の身体を引きずり出す。


「影山……っ」

「……魂が”持っていかれている”か」


 淡々と呟いて、店主はぐったりと力を失った少女の身体を無造作に洋平に向かって放った。慌てて抱きとめたその身体はぐんにゃりと力を失い、冷え切っている。目を閉じてぴくりとも動かない様は、よく出来た人形(モノ)のようにすら見えて、洋平の不安を煽った。


「影山、おい影山っ」


 名前を呼びながら頬を軽く叩くものの、反応はなかった。

 呆然と水の中で少女に身体を抱く洋平を振り返って、店主が呆れたように言う。


「いつまでそこで突っ立っているつもりかな。まあ、凍えて死にたいというのなら止めもしないが」

「……っ」


 店主の言葉にはっと我に返って、洋平は彼女の身体を抱いたまま川べりへと向かった。水深が下がるにつれ、腕にかかる重みがずっしりと増していく。濡れそぼった服が体に貼りつくのが気色悪い。疲れ切った腕からは今にも力が抜けて、彼女の身体を落としてしまいそうになる。冷えて感覚のなくなった手指にも力をこめて彼女の身体をしっかりと抱き抱えて洋平は何とか陸へと上がった。


「ああ、良かったね、無事で。アレに君が飛びこんだ時はもう死んだものだと思ったけれど」


 にこにこと人懐こい笑みを浮かべてロクでもないことを言う魔法使いが、洋平を迎えてくれる。少年の姿も、黒獅子の姿も見えないことを疑問に思って視線を巡らせれば、濡れそぼってぺしゃぺしゃになった黒毛玉が川辺でひらぺったくなっているのが目に入った。


「君らを助けようとして川に入っちゃってね。神様なんだから、あんな穢れに触れればタダじゃすまないってわかってただろうに」


 呆れたような、聞き分けのない子供の無茶を語るような調子で言って、魔法使いがほっそりと瞳を細める。


「トージぐらい格上の神様なら、」

「セイレム」


 つらつらと語ろうとした魔法使いを、その背後で黒毛玉を拾いあげて回収していた店主が呼び止めた。それは余計な軽口を遮るかのような、不機嫌そうではあっても何気ないもので。だからこそ、魔法使いもいつものように笑みを浮かべたまま店主を振り返ろうとした。

 そして。

 

 ぞぶり、と。

 

 魔法使いの腹から、剣が生えた。


「わ、あ」


 間の抜けた声をあげて、魔法使いが咳き込む。

 かふり、と吐き出された赤黒い血が、もともと青白い魔法使いの唇を彩る。


「俺は面倒に巻き込んだら殺すと言ってあったはずだが」

「はは……、相変わらずトージは、容赦ないな」


 ぴったりと魔法使いの背後に身を寄せるようにして、その腹を背中から貫いた店主が、不機嫌そうに言う。それに対して、苦しげに眉を寄せながらも、やっぱり魔法使いは笑っていた。


「な、なんなんだよ一体……」


 蹲って冬の冷たい風に震えながら、それでも同じく冷え切った少女の身体を膝の上に抱き抱えて、呆然と洋平はつぶやく。

 洋平を助けることを拒絶した店主が、今になって表れて影山姫子を助ける手助けをしてくれたことはありがたいと思う。けれど、それが何故こんな結果につながるのかが理解できない。

 

 何故、店主は魔法使いを刺した?


 ずるり、と店主が魔法使いを貫いていた剣を引き抜く。

 支えを失ったかのように、がくりと魔法使いがよろけてたたらを踏む。

 漆黒のスーツに、じわじわとドス黒い染みが広がっていくのが見えた。


「なんで……っ」


 声を荒げかけた洋平へと、ちらりと店主が冷めた目を向ける。

 片手に美しい抜き身の剣をぶら下げて、物分りの悪い生徒を見やる教師のような顏で店主が溜息をつく。


「世の中には、腐るほど『おまじない』が溢れているのに、何故今回に限って”本物”だったのかを考えてみたかい?」

「……え?」


 呆然と洋平は瞬く。

 何故、こんな怪異が起きたのか。起きてしまったのか。

 

「それは……影山の恨みが、強すぎたから、じゃ……」

「違うな。恨めしい憎らしい羨ましい、なんて想いだけでこんな怪異がほいほい生まれていたならば、この世はもっと人が少なくて住みやすかっただろう」


 店主は皮肉げに語りながら、無造作に剣を右から左へと持ち替えた。

 そして自由になった右手を、やはり背中からぐぷりと魔法使いの身体の中へと突っ込んだ。剣でこじ開けた傷口をめりめりと押し開き、内臓を掻き混ぜるような暴挙に魔法使いの身体がガクンと折れる。ぽたぽた、とその口角から泡交じりの血が滴って地面を汚す。


「ぐ……ッ、ぅ。もう、少し……優しく、して、くれよ」

「黙ってろ」


 こんな時ですら、魔法使いの言葉はどこか狂気じみて軽い。

 自分の腹の中を掻き混ぜられているのに、血反吐を吐きながらも魔法使いはどこか笑っているように見えた。


「この男が、原因だ」

「え……?」

「この男はな、魔法使いを名乗ってはいるが、元はただの人間だ。”悪魔”と契約して力を得ただけの、ただびとだ」


 悪魔と契約して力を得る。

 それは、それは、どこかで聞いたことがあるよう、な。


「”悪魔”は対価を支払わなければ力を貸さない。”悪魔”との”契約”がなければコイツはただの死体だ。とっくに命数など尽きている」




『”殺したい相手がいるから呪う”のか、”呪いたいから相手を探す”のかもう境界はわからなくなる。目的が手段に飲まれるんだ』




 脳裏に、魔法使いの言葉が甦る。

 店主を否定したいのに、頭のどこかで奇妙な符号が一致するのを洋平は感じていた。


 呪いが終われば、願いが叶えば、魂を対価として捧げないといけないのならば。

 永遠に呪い続ければ、永遠に生き続けられるのではないのか。


「この男は呪いの種を振りまき、人が”魔”と契約する背中を押す。そうしてこいつは、己と契約した”魔”に命を喰わせて力を得るんだ。全く、だから余計なことはするな(・・・・・・・・・)と言っただろうが」

「そんな……嘘、だ」


 呆然と洋平はつぶやく。

 力なく頭を横に振る。

 人懐こい魔法使いの笑みが、脳裏に浮かぶ。

 そしてそれと同時に、店主の言葉が嘘でないこともわかってしまっていた。



『”呪い”というのはね、病によく似ているんだよ。一人感染者が出たら、そこからどんどんと広がっていく。だから”呪い”は難しい。君たちは呪いで手軽に憎い相手を殺せたらいいのに、みたいなことを言うけど――…僕から言わせれば、それは素人の考えだよ。呪いは、”的を絞る”のが一番難しいんだ。人を呪わば穴二つ、なんて言葉があるだろう。呪いは”広がる”んだ』


『……浅ましいね』



 あれは。

 あれらの言葉は。

 あの、酷く冷めた言葉は。

 もしかしなくとも、魔法使い自身に向けられたもの、だったのではないのか。

 

 洋平には魔法使いが何を望んで人を辞めたのはわからない。

 魔法使いは何かを呪い(望み)、”魔”と契約し、己が願い(呪い)叶え続ける(終らせない)ために今も”呪い”を広げ続けている。


「それじゃあ、なんで……なんで、俺を助けようとしてくれたんだよ……ッ」

「はは……」


 乾いた魔法使いの笑い声が、河原に響く。

 唇を赤黒い血で汚しながら、魔法使いがゆらりと顔を上げる。

 灰蒼の双眸、その中心で獣のような瞳孔が細く裂ける。


「ちゃんと、最初に言っただろ」


 掠れた声で、魔法使いは嗤った。


「”暇潰し”さ」


 そして、ひび割れた声が”魔”を呼ぶ。


「"Old Nick"」


 そのとたん、魔法使いの影がずぶりと変質する。

 ただの影から、先ほどまで川を埋め尽くしていたのと同じ黒く澱んだ漆黒へと。

 魔法使いは、そんな影に溶け込むことで店主の腕から逃げおおせた。


「君や君の幼馴染が死ねば、手に入る命は三つ。そこから”呪い”が広がればもっともっと稼げたかもしれないけど、まあ最悪でも彼女の命だけは手に入ると踏んでたから遊んでみたんだけど」


 ずるり、と少し離れたところに影から這い出た魔法使いは、よろよろと孔のあいた腹を抑えつつ大して残念そうでもない様子でぼやいた。


「まさか最後の最後にトージが出てきて、全部かっさらうとはね」

「お前が川を呪詛の場に使ったのが悪い」

「ジャパニーズ的伝統に則ったつもりだったんだけど……、はは、そうか、川はトージの聖域か」


 ドジったな、と魔法使いは笑った。

 人懐こい、悪戯に失敗した子供のような笑みだった。

 ぼたぼたと腹にあいた孔から中身を零しながら、楽しそうに笑う。


「それじゃあ仕方ない。トージ、(ぽんで)、また遊ぼう」

「死ね」


 ひらりと手を振った魔法使いに向けて、容赦なく店主が手にしていた剣を投げつける。魔法使いの頭をぶち抜く軌道で投げられたそれは、魔法使いが影に溶け込むように姿を消したことで目的を失い、やがて剣自体も虚空に溶けるようにして消えた。


「全く、これだからあの阿呆に関わるのは嫌なんだ。(ぽんで)くんも(ぽんで)くんだ。君はあの阿呆に甘すぎる」


 説教のようにぼやく店主の懐で、まー、と呻くように鳴く細い声が響いた。

 そして、店主はすたすたと洋平の目の前までやってきた。


「俺は人間など大嫌いだ。だが、目の前で死なれても目覚めが悪い」


 ブツブツと文句を言いながらも、店主はそっと手を伸ばして洋平の腕の中で体温を失い、ぐんにゃりと動かなくなっている少女へと触れた。魔法使いの腹をたやすく抉った大きな手のひらが、濡れそぼった青白い額を優しく撫でる。

 店主の触れた箇所から、ほうっと温かな光が広がり……


「っ……けほっ」


 少女の胸がびくんとわななくように震え、彼女は喉に詰まっていた黒い泥を吐き出して蘇生した。

 

「影山……っ」

「橘、くん……?」


 呆然と名前を呼びあう二人を後目に、店主はすっと立ち上がると興味なさげに、それでも最後の忠告を口にした。


「これに懲りたら、怪しげな魔法使いになど関わらないことだ。ああ、それと無理矢理”悪魔”から奪い返したとはいえ、そこの少女の魂は穢れている」

「……っ」

「”魔”と契約した代償からは逃れられない。君は死後、”悪魔”にその魂を喰らわれることになる。俺はただ、”今は取り返してやった”だけに過ぎない」

「…………はい」


 小声で、少女が頷く。

 命が助かっただけでも、きっと喜ばなければいけないのだろう。

 例え、その魂が汚染され、いつか命を落とす時には再び”魔”に取りこまれることが運命づけられていようとも。


「――ただ」


 すたすたと二人に背を向けて歩き始めていた店主は、なんでもないように小さく言葉を続けた。


「君らが、魔法使いの(ことわり)とは別に在る”神様”を知っているのなら、救済を願ってみると良い。彼はとことん人が好いからな。力を貸してくれるはずだ」


 ひらり、と手を振って歩み去る店主の足音に重なって、「まうー」と存在を主張するような小さな鳴き声が河原に響いた。




















 それが、橘洋平が巻き込まれた不思議の結末だ。

 花房海も、影山姫子も、しばらく学校を病欠した後、ほぼ同じタイミングで復帰することになった。

 

 姫子は、全てを話して海に謝ったらしい。

 

 洋平はその場に同席することを許されなかったから、詳しいことはわからない。

 けれど、放課後の空き教室から出てきた時、姫子の顏はぐしゃぐしゃに泣いた痕が残っていて、同じく目元を赤らめた海がその背中を優しく撫でてやっていたのを見て、なんとなく大丈夫なんじゃないかな、と思った。

 

 それから、学校の帰り道、三人で寄り道してお守りを買った。

 三人が選んだのは、お揃いの琥珀だ。

 澄んだ色合いが、”神様”の瞳によく似ている。

 姫子曰く、黒い川に溺れる怖い夢を見ても、その琥珀を思えば黒い毛玉が勇ましくまうまう吼えて悪夢を蹴散らして助けてくれるのだそうだ。

 人の好い神様は、夢にまで主張しては姫子を助けてくれているらしい。

 

 そんな日常の中、洋平は一度あの薬屋に行こうとしてみたことがある。

 黒い毛玉に導かれて歩いた道のりを思い出して、記憶の通りに進むものの、いつも行き止まりの袋小路に辿りついてあれ以来あの不思議な通りに出ることはなかった。


 

 あれは、夢だったのだろうか。

 

 

 そんな風に思うこともある。

 日常の中に紛れ込んだ非日常。

 有りえないはずの一夜の大冒険。

 


 次第に薄れゆくあの夜の現実感。

 そんな中、ぼんやりと雑踏を歩いていた洋平の耳に、ふと聞き覚えのある声が飛びこんできた。


「ねえセイレム、俺の高級和牛は?」

「早く買ってやりたまえよ、セイレム」

「ねえ待って僕まだ腹の孔が塞がってないんだけど」

「なんだ、まだ治ってないのか」

「ニックの餌が足りてないんだよッ」


 はっとして振り返った先、長い三つ編みを揺らして歩く白衣の長躯と、細身の黒いスーツ、そしてその二人に挟まれ、軽やかな足取りで弾むように歩く少年の後ろ姿がちらりと見えた気がした。

 

 人嫌いの店主と、人懐こい外道な魔法使いと、人が好きな神様と。


 三人の人非ざるものは、なんだかんだ今も三人つるんでいる模様。

 なんだかその姿に笑いだしたいような気がして、洋平は口元をむにりとさせて、三人の後ろ姿から視線をきって、歩きだした。


 人は、人らしく。

 地道に生きるのが一番だ。

 

 

 

 

 

#終わり



 


短編のつもりで書き始めたら三万字超えて頭を抱えたブツ。


ここまでお読みいただきありがとうございました。

PT、お気に入り、感想、励みになっております。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
[良い点] この度はなろうコン大賞に御参加頂きまして真にありがとう御座います。 人の持つ負の感情、嫉妬や浅ましさというものが伝わってくる、そんな作品でした。 確かによくよく考えれば『穴二つ』で済むも…
[一言] 3万字も書くなら素直におっさん書けよと思いつつも、思わず最後まで一気読みしてしまい、更に連載してくれないかな~ 等と思ってしまった良作
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ