FIRST CRY
『FIRST CRY』
ふわふわ浮いている、という感覚を初めて知った。
何も無い、真っ白な部屋。ここはどこなのか、見当もつかない。だが、何故か心地が良い。自分の姿を見ると、部屋と同じ真っ白な服を着ている。
「起きたか」
ドアが無いのにも関わらず、誰かが部屋に入ってきた。声からして男だろうが、自分のとは少しデザインの違う、真っ白な服を着ているのが分かるぐらいで、顔は見えない。
「起きたばかりだが、お前には次の場所に行ってもらうぞ」
「え、ちょっと待て。行くって、何処に?」
話が唐突すぎて、頭の中が整理できない。そんな俺を無視して、男は話を続ける。
「お前の行先は東京だ。よかったな、また日本だ。あぁ、今回はお前一人じゃないからな。とても珍しいパターンだが、上手くやってくれ」
男が淡々と話し続けるのを見ながら、俺は回らない頭で理解しようとした。しかし、無駄だった。分からないことが多すぎて、理解なんて出来ない。
「あのさ、ここは何処だ?それと、行き先って何?」
脳をフル回転して出てきた質問は、小学生レベルの幼稚なものだが、今の俺には精一杯のものだ。すると、男は一瞬黙ったが、すぐに口を開いた。
「今のお前が知る必要のないことだ。なぜなら、お前はこの場所のこともあの場所のことも、すでに知っているのだからな」
男が話終わるのと同時に、俺の目の前が真っ暗になった。
どれだけの時間が経ったのかわからない。一瞬だったかもしれないし、一日だったかもしれない。気がついた時には、俺は暗闇の中で立っていた。
何も見えない、何も感じない。この感覚には、いつも悩まされる。
光の見えない世界は、恐怖に満ち溢れている。この部屋と言っていいのか分からない空間はとても広く感じ、膝下くらいまで水が溜まっている。体の中心には、ロープのようなものが巻きついていて、引っ張ると抵抗があることから、何かと繋がれているのだとわかった。その何かは、暗闇のせいで先が見えない。ただ、このロープのせいで動きが制限されるのは、少し不満だ。
先ほどの男が言っていた通り、俺はこの場所を知っている。あの真っ白な部屋では思いだせなかったのに、今はすべての記憶が蘇ったかのように、思い出せた。ココに入るのは、記憶しているだけで十回目。何回も入ったことがあるため、ある程度慣れてはいるが、やはり怖い。
「あっ、初めてだ。ココに一緒に入る人」
丁度、俺の真正面から声が聞こえた。顔は、正直薄暗いためによくわからない。しかし、その声の主の言うとおり、この場所で自分以外の人間と出会うのは、初めてだった。そういえば、男が「今回はお前一人じゃない」と言っていたのを思い出す。なるほど、だから「珍しいパターン」なのかと一人で納得した。
「俺も初めてだよ」
徐々に近づいてくる声に答える。薄暗い中、俺に近づいて来た男が笑顔を見せたのがわかった。
「ですよねー。滅多にないですよね」
俺も一つ溜息を吐きながら、声の主の方に歩み寄ろうと一歩踏み出したその時、何か固い物が足に当たった。
「ふぇ?」
間抜けな声が、足下から聞こえた。
「えっ、もう一人居るの?」
そう言えば、男が「とても珍しいパターン」だと言っていたのを思い出し、また溜息を吐いた。
こうして俺達三人は、はじめて顔を合わせた。
目というものは、暗闇に本当に少しずつではあるが慣れていくもので、他の二人の顔をはっきり認識したのは、出会ってから二ヵ月が経っていた。
一番初めに言葉を発した人物は、自分ことを慎と名乗った。いつもニコニコしていて、眼尻には笑い皺まである。声も大きいし体も大きい。それに加えて、リアクションも大きい。ココに入るのは五回目らしい。
「あんたは?」
「えっ?」
慎が自分のことを話している時、突然聞いてきた。
「だから、名前!教えて」
そう言えば、慎の話ばかり聞いていたため、自分のことを話していなかった。
「名前は…秀だ」
小さくそう言えば、慎はいい名前じゃん、と言った。
「で、お前は?」
慎は俺の隣で膝を抱えて座っている男に目を向けた。目が大きく髪は短め。慎と同じでいつも笑っているけれど、ふんわりと柔らかい笑い方をする。女の子に間違われてもおかしくないほど、可愛い顔つきをしている。
「ぼく?」
首を傾げて慎に聞き返す。
「そう。外に居た時は、なんて呼ばれてた?」
慎が優しく言うと、男はニコッと笑った。
「えっとね、ぼく直っていうの」
直は続けて、自分のことを楽しそうに話し始めた。直はココに入るのは多分二回目らしい。外での生活が短かったのか、直の話す言葉はとても幼い。
「ねぇ、お外ってどんなところ?」
外の生活の記憶が曖昧らしく、直は俺や慎に問いかけてきた。
「外ねぇ…。綺麗なところもあるけど、汚いところもある。矛盾だらけの世界だよ」
慎が真剣な表情で、そう言った。
「人がたくさん居て、みんな同じように生きている。同じように生きているのに、どこかが違う。どんなに探しても、自分と同じ人が見つからない、不思議な世界だよ」
慎の話を聞いている直の表情は、キョトンとしている。
「って、直にはちょっと難しいかな」
ごめんな、と言いながら、慎は直の頭を優しく撫でた。髪を撫でる慎の手が心地良いのか、直は瞼を擦り大きく欠伸をし、俺の肩に凭れかかってきた。
「直、眠いの?」
小さな声で直に聞こうとしたが、直からの返事は無く、代わりに寝息が聞こえてきた。
「うわー、弟のこと思い出すな」
慎は直の寝顔をまじまじと見つめている。
「弟居たんだ」
「うん、二歳下の。秀は?」
「俺は、妹が三人居たな」
外の世界に居たころのことを思い出す。少し歳の離れた妹達。そう言えば、今みたいに俺の肩に凭れて寝ていることもあった気がする。もう随分前の話だが、今でも思い出せる。
「ココに一緒に入ることになったってことは、俺達もう兄弟みたいなもんだな」
直の頬を指で突きながら、慎は言った。
「みたいじゃないぞ」
慎は顔を上げてこちらを見た。
「俺達は、兄弟だ」
寝ているはずの直が、笑ったように見えた。
時は、何もしなくても流れるもの。しかしこの世界では、その時の流れさえも感じられない。二人と出会い、かなりの時間が経ったはず。でも、光の射さないこの場所には、一日という始まりも終わりもない、暗闇の世界。
「ココに入って、どれくらい経ったかな?」
胡坐をかいて座っている慎が、ボソっと呟いた。
「んー、八ヵ月ぐらい、かな」
わかんないけど、と続けると、そうだねー、と慎が続けた。
「あれっ、直は?」
そう言えば、先ほどから直の姿が見えない。甘えん坊の彼は、いつも俺か慎の傍を離れようとしない。
「また何処かで寝ているのかもな。探すか」
直はとにかくよく眠る。多分、一日の半分以上寝ている。以前、直が俺の肩に凭れかかりながら眠っていると、俺の肩からずり落ち、激しい水音とともに倒れた直が、水を飲み咳き込んで泣き喚いたことがあった。
「あっ、あれ直だ」
意外にも、すぐに見つかった直は壁に凭れかかり座っていた。また寝ているのか、と思い近づくと、直の顔が青いことに気がついた。目線を下げ首元を見ると、いつもは腰のあたりにあるはずのロープが、直の首に絡みついていた。
「直!大丈夫か。今助けてやるからな」
慎は慌ててロープに手をかけ、無理やり引っ張ろうとした。
「やめろ!」
俺は慎の手頸を掴み、それを阻止した。こちらを見た慎は、今にも泣き出しそうな顔をしている。
「なんで止めるんだよ!早く直を助けないと」
「いいから聞け。このロープを無理やり引っ張ったりすると、外に出た時に脳に後遺症が残る時がある。直のためを思うなら、今は冷静になれ」
少しきつくそう言うと、慎は頷きロープから手を離した。
「大丈夫、直は絶対大丈夫」
慎と自分にそう言い聞かせる。そっと直の口元に手を当てる。すると、僅かではあるが口から空気が漏れている。かろうじて、呼吸はしているみたいだ。ゆっくりとロープを首から外し、結び目になっている所も綺麗に解く。
「直、直。大丈夫か、秀だ。わかるか?」
直の頬をペチペチと軽く叩くと、直がうっすら目を開けた。
「うああああぁん」
直は目を開けた瞬間、泣きだした。
「直、大丈夫だよ。秀が助けてくれたから。もう大丈夫」
慎は泣いている直を抱きしめた。直はまだ泣いている。俺は優しく直の頭を撫でた。
「あっ、聞こえる」
突然、直が上を見た。
「何が、直」
興味深そうに慎は直に問いかける。
「誰かの…こえ」
直が上を見たまま、そう答えた。俺と慎には聞こえない声が、直にだけ聞こえるらしい。ということは。
「そろそろ、この部屋から出る時だな」
慎に向ってそう言うと、慎は嬉しそうに笑った。
「やった!やっとココから出られる」
両手を上げて喜ぶ慎は置いといて、直はまだ上を見ている。
「直、なんて言っているか、聞こえる?」
「うんと、い、たい…とか」
直が懸命に聞きとってくれるが、はっきりとは聞こえないみたいだ。
「うわっ、水が」
先ほどまではしゃいでいた慎が、声を上げた。今まで床に溜まっていた水が一気に流れ出し、瞬く間に水が無くなった。水の流れた方向を見ると、一筋の光が見えた。
「あっ、出口!」
ココに入ってから十ヵ月。やっと、光が差し込み出口が見えた。三人一緒にその出口に近づく。出口の大きさは人一人が通るのが精一杯の大きさだ。
「さぁ、誰から出る?」
横に居る二人と目を合わす。直が少し震えているのがわかった。
「なお、こわい…」
慎にぎゅっとしがみ付く直の頭を撫でる。慎も不安そうな目で俺の方を見た。俺自身も、いつもこの瞬間は不安だらけだ。もし、外に出るまでに何かアクシデントがあれば、その時点で俺の命は終わってしまう。それほど、危険と隣り合わせなのだ。
「わかった、俺が一番に行く。その次に直でその次に慎。いいか?」
二人の顔を交互に見て、優しく笑いかけると、二人とも小さく頷いた。
「慎、直のこと頼んだぞ」
「おおっ、絶対無事に俺が見送る。約束する」
慎が右手の小指を出してきたので、俺も右手の小指を出し、指切りげんまんっと、子供のように約束を交わした。
「直、もし怖くなったら、こうやって右手と左手の指を組むんだ」
遥か昔、教会の牧師様が教えてくれたことを、直に教える。
「その時に、自分に『大丈夫だ!』って教え込むんだよ。できるか?」
「うん、できる!」
直は涙が溢れ出しそうな目を擦り、ニコッと笑った。そんな直の頭を撫で、慎に目を向けると、慎も親指を立て答えた。
「じゃあ、また外で会おうな」
一言だけそう言い、俺は振り返ることなく出口へと続く道を歩き出した。道はとても狭く、思うように進むことが出来ない。しかし、光が段々大きくなるのがわかる。その光が大きくなるにつれて、頭がガンガンと痛くなる。以前外に出た時の記憶が、少しずつ消えていく。先ほどまで言葉を交わしていた二人の顔も、声も、名前も出てこない。
「やく…そく…」
唯一思い出せる言葉を口に出せば、勝手に右手の小指が立つ。頭痛で足が動かなくなり、その場に崩れ落ちると、眩い光に包まれた。
「おめでとうございます、鳳さん。元気な三つ子の男の子ですよ。」
後処置のためバタバタと動き回る看護師と喜び合う夫婦。その夫婦の傍には、今生まれたばかりの三人の赤ん坊が寝かされている。その赤ん坊達の内、二人が右手の小指を立て、その二人に挟まれた赤ん坊は、まるで神に祈りを捧げるかのように指を組み、小さく笑っていた。
END