第三章 武装都市ティルム3
宿は三階建てで、イルマの部屋は一番東の端にあった。窓の外には宿の中庭が見える。宿の主人の趣味だとかで、小さな畑が作られていた。そこで採れた野菜が、朝食に並んでいた。
ベッドの上に寝転んで、そうだと跳ね起きる。
フェンデルワースでアーヴィンにもらった物を、まだ見ていなかった。ゆっくり開ける暇がなかったのだ。
鞄の中から紙袋を引っ張り出すと、両手に載るくらいの木箱が、赤い包装紙に包まれて転がり出る。丁寧に紙をはがして蓋を開けると、中から水晶が出て来た。
丸い銀の枠に、親指ほどの大きさがある透明の水晶がはめ込まれている。銀の土台には、旅の安全を祈る文様が彫られていた。一般的な旅の無事を願って送られるペンダントだ。茶色の皮の紐がつけられている。
早速結ぶと、備え付けの姿見の前でいろんな角度を試してみる。旅の間、肌身離さずつけていれば災厄から旅人を護ると言われているのだ。
アーヴィンの気遣いが嬉しくて、先ほどの自分の強引さがまた、悔やまれる。
猫の様子を見たいと言い訳して、お礼を言いに行こう。
そう決めて部屋を出たが、二つ先の彼の部屋をノックしても、出て来ない。部屋に戻って何気なく窓の外に目をやると、庭の隅でかがんでいる彼を見つけた。身を乗り出して声をかけようと思ったが、途中でやめる。まさか、と思い階段を駆け下りて彼の後ろへそっと忍び寄る。
アーヴィンは何か必死で魔法を使っていた。
彼が魔法を使う。その事態にイルマは眉をひそめる。距離があるので何をしているのか、わからなかった。だが、すぐそれはやんだ。彼の腕から真っ白な子猫が顔を出して、にゃんと鳴く。
「アーヴィン!」
声をかけると、こちらが反対に驚くくらい、彼は動揺した。
一度尻餅をついて、慌てて立ち上がる。
「イルマ? 何をしてるんだ」
「それはこっちの台詞よ。窓から見えたから来たの。庭の隅でかがんでるんだもん、まさか猫ちゃんのお墓を掘ってるのかと思ったわ。でもよかった、とっても元気そう」
彼の腕からふわふわの毛玉をかっさらうと、その頭をゆっくり撫でる。
「あ、ああ。ほとんど怪我もなかったみたいだから、もう放そうかと思って……」
「えーっ! そんなの無責任よ。拾ってきたんだから最後まで面倒みないと」
顎の下を撫でてやると、気持ちよさそうに目を細めた。瞳は茶色い。
「だけど、ここはフェンデルワースじゃないし」
「帰りも転移陣でひとっ飛びよ。一人暮らしなんでしょ? いいじゃない。おうちに帰ったらお出迎えしてくれるかもよ?」
「猫は犬と違って物を引っ掻くから……」
「そんなときこそ魔法を使えばいいでしょ。自分でするのが嫌なら私がやってあげるわよ? もちろん、方程式を組むのはあなたね」
最後にひと撫ですると、アーヴィンの腕に子猫を渡す。
「飼い方がわからないなら私が指導するわ」
「君が?」
「ええ。昔から、拾ってくるのが得意だったの」
「それは、……心強い」
猫の食べ物をもらうために二人は揃って厨房へ向かった。
夕食の席は和やかに始まった。
「もっっのすごく可愛いんです!」
今はアーヴィンの部屋で寝ている子猫について熱く語る。その過程で騒ぎを起こしたことがばれてしまったが、おとがめはなかった。サミュエルがフォローを入れてくれたのが大きい。
「それで、レケン君が飼うんですか?」
「成り行きで」
「嫌ならいいのよ! 私が引き取るわ」
「……嫌じゃないよ」
食事に呼ばれるまで、彼は部屋を荒らされないための魔法方程式を机の上でこねくり回し、イルマは名前を考えた。
「ニクスにしたんです」
「確か、雪と言う意味だったね」
「そうです。野良とは思えないほどきれいな白だったから」
「私も後で見せてもらいましょう」
ホレスの言葉に飼い主であるアーヴィンより先にイルマが頷く。
「ぜひ! 撫でてあげてください」
いつも穏やかなホレスだが、今日はさらに機嫌がよい。
「師匠もご友人にお会いできたんですか?」
サミュエルも思ったのだろう、そう聞くとホレスはにっこり笑って頷いた。
「皆元気そうだったよ」
久しぶりに楽しい時を過ごせたに違いない。
「そう、それで申し訳ないんだが、少し用事ができてしまってね。二人はついてきなさい。レケン君は明日からティルムで二、三日待っていてもらえませんか」
――来た。
「……飛び入りのお仕事ですか?」
「そうなんです。街の庁舎に連絡が入ってまして。もし時間をもてあますようでしたら、壁の見学ができるように手配しましょうか? 私の友人に案内を頼むこともできます」
アーヴィンは少し考えた風だったが首を振る。
「沙漠に行かないのなら、大人しく部屋で方程式を練っています」
師匠は、お願いしますと頷く。
さすがだと、イルマは内心ほっとする。イルマではこうは上手くいかない。些細な嘘も、ことごとくアーヴィンに見破られる。
「二、三日なら、その頃には方程式も完成しているだろうし、帰って来たら頼むね」
「ええ。喜んで」
突然こちらへ話を振られて、そう答えるのが精一杯だった。正直そんなに早く帰って来られるとは思わない。初めから、三日経ったところで他の人間がアーヴィンをフェンデルワースへ送り返すようになっている。彼の部屋へ魔法をかけることができなくなってしまうが、それは仕方がない。彼が自らの禁を破り、自分で魔法を使うことを祈るばかりだ。
夕食後、ニクスとひとしきり遊んで早めに眠った。
明日からのことを思うと、なんだかどきどきして、眠りが浅い。
その浅い眠りの中で、自分の側に気配を感じた。それを現実だと認識するや否や、意識が急速に浮上する。
目を閉じたまま全神経を部屋の中へ注ぐ。間違いなく誰かがいる。物音一つ立てずにいるが、足下の方に気配がある。
指先を気付かれないようそっと動かし、ベッドの脇に立てかけてある杖へ手を伸ばす。
あと少しで触れるというところで、口と、手を押さえつけられた。
閉じていた目を開く。窓には遮光性の高いカーテンがあり、部屋の中は真っ暗だった。
反射的に腕を取り、相手をはねのけようとしたところに、意外な囁きが降ってきた。
「イルマ、僕だ」
押さえつけられている口の中で、驚きの声を上げる。くぐもったそれに、彼はさらに言葉を重ねた。
「大声を出さないでくれ。隣に気付かれたくない」
隣の部屋にはサミュエルがいる。この状況で声を上げれば間違いなく駆け込んで来るだろう。そして、誤解され、アーヴィンがとんでもない目に遭うのだ。
誤解される。
それを考えると、急に顔が熱くなった。
イルマが大人しくなり、アーヴィンはもう一度念を押した。今度は素直に頷く。
彼の手が離れ、大きく息を吸うとゆっくり体を起こす。毛布を胸元へかき寄せて、ベッドの脇に立つ彼の方を向いた。暗闇に目が慣れ、カーテンの隙間から漏れる光でだいたいがわかるほどにはなったが、細かい表情までは読み取れない。
暗くてよかったと、内心安堵のため息を漏らす。
「何かあったの?」
なければ、こんな風に常識知らずな方法をアーヴィンがとることはない。
彼の青い瞳に、月明かりが映りこむ。
一年前までの、イルマより背が低くて、人付き合いが苦手ななんとなく守らねばならないと思った彼の面影が消え去る。
イルマを押さえ込んだ腕の力強さを思い出し、胸の辺りがもやもやと疼く。
いつの間にこんな風にしっかりした、大人になってしまったのだろう。
自分の知らないアーヴィン・レケンに戸惑いを感じる。
「アーヴィン?」
いつまで経っても黙り込んだままの彼を、イルマは再び促した。口から出た言葉の優しさに、自分で驚く。
それは相手にも伝わったのだろう。少し目を大きくして、迷った末ベッドの端に腰掛けた。
彼が近い。
「教えてくれ」
アーヴィンの手に杖はなかった。部屋に置いてきたのか、それとも床にあるのか。重い口ぶりに、イルマは反射的に手を伸ばし、杖に触れると沈黙の結界を張った。
普段の彼なら第一声は間違いなく『すまない』であったのに、この非礼を謝罪しない。
「教えてくれイルマ。君たちは何をしに行くんだ」
彼の質問に言葉を詰まらせる。イエスと答えても、ノーと答えても、アーヴィンは正しい答えを手に入れる。自分がとても不利な立場に立たされていると気付くのに、そう長い時間はかからなかった。黙っているのが一番いい。返事をしないのが自分に残された道だと悟る。
だが、
「イルマ?」
顔が近い。
「し、知らない」
悲鳴が漏れそうになって、反射的に答えてしまう。彼は少しだけ眉を寄せた。
「ふうん。やっぱりニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉なのかな?」
「知らない!」
「そうか……最初から明日行くところが目的?」
「知らないもん」
「誰か待ち人がいるとか?」
「知らない知らない」
そうやって繰り返される質問に、知らないと首を振り続ける。
だが、イルマはアーヴィンに嘘がつけないのだ。
朝、食堂で彼らを迎えたのは旅装を整えたアーヴィンの姿だった。
サミュエルの視線がイルマへ突き刺さる。
ホレスもちらりとこちらへ目を向けたようだが、とがめることはなかった。そのまま彼を静かに見る。
「おはようございます」
普段、無表情を決め込んでいるアーヴィンが笑顔で挨拶する姿を、イルマは初めて目にする。
「おはよう……随分と、万全な旅支度ですね」
「沙漠へ行かないのなら、と言ったんです。目的地が沙漠なら僕も同行します」
「イルマ、お前!」
「し、知らないもん」
昨日から、イルマがずっと繰り返してる言葉だ。
知らない。知らない。アーヴィンの質問にすべて知らないで答えた。だが彼は、それだけでどんどん話の核心へ迫って行くのだ。
途中、何度声を上げてサミュエルを呼んでしまおうかと思ったか。だがその後の、アーヴィンの末路を考えるとどうしてもできなかった。
後から考えれば魔法でアーヴィンを追い出すこともできたのだ。しかし、そのときは必死に知らないと繰り返すのが精一杯だった。
答えれば答えるほどドツボにはまっていくし、そのたびに彼は身を乗り出してイルマへ迫ってくる。叫び出したいのを押さえるので必死だったのだ。
「僕、嘘をつかれるのは嫌いです」
「アーヴィン、色々あるんだよ」
サミュエルがホレスの顔色を窺いながら、そう言ってなだめるが、彼は首を振る。
「僕も一緒に行きます」
「だめよアーヴィン! 危ないわ!」
「ふうん。危ないんだ」
ぐぅ、と喉を鳴らしてイルマは黙る。これは完全に彼のペースだ。泣きそうな顔でホレスを見ると、そちらも困った顔をしている。
「今イルマが言った通り、少々危険な仕事です。二、三日すれば――」
「嘘ですね。二、三日で帰って来るのは無理なんでしょう? ……そんなに奥まで行くんですね」
きっぱりと言い捨てる彼に、ホレスも目を見開く。
「宿屋のご主人に、ニクスのことも頼んでおきました。しばらく預かってくれるように」
「……細かい話はイルマから聞いているんですか?」
「いえ。何も」
「我々が何をしに行くかも知らずに、一緒に来ると?」
「ええ」
「なぜ?」
矢継ぎ早の質問。最後の最後で、彼は回答をためらう。
「ここまで来て、気になるでしょう?」
「嘘ですね」
反対に言い切られて、アーヴィンは顔をしかめ、ホレスは微笑んだ。
「いいでしょう。ですが、命の保証はありません」
「わかっています」
「例えどんな事態になっても、決してイルマを責めるようなことはしないでください」
「はい」
アーヴィンがしっかりと頷く。ホレスはそれを見てイルマたちを見る。
「それじゃあ、行きましょう」
何か言いたそうなサミュエルも、結局肩をすくめて出口へ向かう。
すれ違いざまホレスがイルマの肩に手を乗せる。
「彼の面倒はあなたが見るんですよ?」
それだけで許される。
自分のせいでアーヴィンが危ない目に遭うかもしれない。だが同時に、彼とまたもう少し一緒に旅をできることに、喜んでいる自分がいた。