第二章 魔法都市フェンデルワース2
街の明かりが空の瞬きを消してしまう。沙漠へ、ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉へ行けば降ってきそうな星空というものに出会えるのだろうか? いくつかの都市へ行きはしたものの、未だにそのような情景に出会えていない。地上の明かりは天へと届く。そして天を霞ませてしまう。
外套選びに熱心でないアーヴィンの代わりに、イルマは次々店の奥から品物を持ってこさせた。ずらりと並んだ中から、かなり時間をかけて選んだのは、イルマと同じ真っ白で、青い刺繍糸で暑さ除けの文様がかなり大きく描かれているものだった。内側にはポケットがいくつかあり、イルマのあげた冷却石もそこに入れれば快適だろう。
機能的であればいいと渋るアーヴィンをなだめすかして、最後は財布を握るのはイルマだと脅してお買い上げだ。
既製品の中から、値段や機能を比べてお値打ちな物を探す楽しみは、このフェンデルワースで覚えた。貴族らしくないと散々横で言われたが、貴族らしさを出したら、預かった金では到底足りないのだ。
「ねえねえ、夜こうやって歩いてるとさ、思い出さない?」
二人は店じまいを始めた市場の中を、ふらふらとさまよっていた。先を行くのはイルマなので、彼女が好き勝手歩くのを、アーヴィンが放って帰るわけにもいかず仕方なしについてきているだけとも言う。
「みんなで抜け出して、学校の丘から布敷いて滑り下りたときのこと!」
「ああ、あれは君が無理矢理――」
「でも、すっごく楽しんでたじゃない。アーヴィン、絶対魔法使わないって言うから私と一緒の布に乗って、裏手の林の中を思い切りスピード出して!」
「生きた心地がしなかったよ」
「私がいっちばん早く下りたのよね」
「あとで教頭先生にこっぴどく怒られた」
「もう! なんで楽しかったことを忘れて怒られたとか、そーゆうのばっかり思い出すの?」
突然足を止めて振り返り、彼の鼻先に指を突きつける。
「せっかく覚えるなら面白かったことを覚えておくべきよ」
「……努力はしたいが、君といると怒られたことの方が印象的でね」
「後ろ向き過ぎるわ」
そう言いながらも気分はよい。やっぱり買い物はいい。預かったお金は余っているし、二、三着長衣を買ってもよかったんじゃないかと思うのだが、それはアーヴィンが許さなかった。
自分の金でやってくれと言われたので、今度自分のお金でアーヴィンへ長衣をプレゼントしよう。何色が似合うかと考えているだけで楽しくなる。
もちろん、アーヴィンが言った意味は十分理解している。
その上でわざと取り違えて押し付けてしまえばいい。アーヴィンに似合う色は、兄には似合わないから、いらないと言われてしまえば捨てるしかなくなるのだ。それにはアーヴィンが耐えられないだろう。イルマの勝ちだ。
「ねえ、明後日にはニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉よ? どきどきしない?」
「してるよ」
「そんなすました顔で、全然説得力ないわ」
イルマは笑いながら先を歩く。白の外套が街の灯りを受けて光の軌跡を描く。
瞼を閉じて 睡りの泉に身を浸せ
丸い月が 天を回る
無数の月が 世界を回る
天を貫く 四本の柱
円い柱が 空へと伸びる
強い力は 螺旋を描き
後を追うのは 陽昇る軌跡
世界を箱に 閉じ込めて
月の睡りを 誘い出す
二つの渦は 力の道筋
世界を巡る 力は大地へ根を下ろす
瞼を閉じて 睡りの泉に身を浸せ
渦は力を天よりくだす
歌に合わせてくるくる回る。
大通りではなく割合細い道を行くので、人には出会わず迷惑はかけていないが、後ろをついてくるアーヴィンはいつ転ぶんじゃないかとひやひやする。
「それは?」
初め何を指しているかわからず首を傾げると、どこの歌? と重ねて問われる。
「さあ? よく知らないけど、子守歌よ」
「子守歌? どこが?」
「どこって……」
「僕の知ってる他の子守歌とは随分違うし、また方程式が山盛り隠されていそうな歌だ」
言われてみればその通りだ。
古くから伝わる歌は、重要な魔法が隠されていることが多い。そうやってウェトゥム・テッラ〈古王国〉の魔法を伝えていたと聞く。
だから方程式の研究者は、まず古い歌を参考にした。
「初めて聞いた歌だ」
「小さな頃から、兄さんが歌って聞かせてくれたのよ」
「音の調べは、子守歌の旋律に類似する点が多いね。でも、歌詞がいまいち。それに、円い柱だの、螺旋だ、箱だと、図形を表すものがたくさんある」
「アーヴィンが知らないっていうのが、珍しいわよね。兄さんは、母さんが歌ってくれたって言ってたけれど」
「インプロブ家に伝わる秘密の歌とかね」
「秘密にしすぎでしょう。アーヴィンに指摘されるまで、私、方程式が入っていそうって全然気付かなかったし」
「……ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉から帰ったら、少し調べてもいい?」
「ええ。もちろん!」
彼の研究者魂に火がついたようだ。
それにしても、と辺りを見回す。歌いながら好きなように歩いてきてしまった。懐かしい風景だ。
「マナの店で食べたスープ、美味しかったなあ」
ふと思い出して、つぶやいた。よく学校を抜け出して食べに行ったのだ。
「確かに、それには同意する」
「でしょでしょ。あれは絶品だった。まだやってるのかなあ?」
「やっているよ」
彼の答えに足を止める。くるりと踵を返し、すぐ後ろにいたアーヴィンに詰め寄る。
「まさか、食べに行ったの!?」
「僕は、ここに住んでるからね」
「ずっっっるーいっ!!」
「ずるくない」
「ずるいわよ。絶対。ずるい。ひどいわ、私を差し置いて。本日二度目の裏切りよ」
「君だって在学中は毎週通っていたじゃないか」
「でもここ一年ご無沙汰だもの。よし、行こう!」
目的を得た彼女は素早い。杖を振り上げて突撃体勢だ。
「今から? 夕飯は食べただろう?」
「スープが入る余地くらいあるっ!」
言い出したらきかないイルマを放っておくわけにも行かず、アーヴィンは横へ並ぶ。
「最近あの辺りは治安がよくない」
だからやめておいた方がいいんじゃないかと言いかける彼を尻目に、方程式を完成させて防御の結界を張った。フルテク蔦に対したときに使っていたあれだ。
「上手くなったね」
彼はぐるりと周りを見回す。
「昔アーヴィンに粗い汚いだの散々言われたからね。二重にしておこうかな?」
結界が二人を包み込む。
魔法使いは国の学校に入り、ほとんどが国の機関に組み込まれる。だが全員ではない。地方の貴族が己の息子を魔法使いに仕立て上げ、己の領地を治めるために利用することもある。力のある、それこそ六貴族が魔法使いを召し抱えることもあった。国はそれを禁じていない。ただ、国外へ魔法使いが出ることは、かなり厳しく制限されている。魔法使いの力の仕組みを外へ漏らさないためだ。
そしてたまに、道を踏み外す者もいた。魔法を使って正攻法ではなく金を儲ける者がいる。魔法使いの犯罪者は始末が悪かった。魔法使いに魔法使いが狙われる。
路地をいくつも曲がり、二人はよく知った道を行った。
両側から喧噪が流れてくる。建物の二階から伸びた看板に目をやると、確かに以前来たときよりも、夜、酒を売る店が増えていた。女の嬌声も聞こえてくるので、そういった場所もあるのだろう。
目的の店の灯りが見えたとき、心の中でほっとため息をつく。絡まれたら面倒だ。魔法で撃退はあまりやりたくない。だが、服を少しでも汚していったら、サミュエルがこの世の終わりがごとく嘆きに嘆くだろう。真相を話せば乗り込んでこのあたりを一掃しかねない。
アーヴィンが先に入る。入り口で止まるので、彼の背中が邪魔で中が見えない。数瞬間を置いて、奥へ進む。イルマも杖がぶつからないよう彼の後に続いた。
飛び交う口笛。これは予想していたことだ。アーヴィンが治安が悪くなったと言った時点で覚悟している。覚悟を決めても来たかった。
だが、次の攻撃はまったく予測しておらず、無防備なところへ完全に決まった。
「この子はっ! 久しぶりじゃないか」
恰幅のよい店主のマナが、力の限りイルマを抱擁する。息が詰まって苦しい。辛うじて彼女の背中に手を回し、再会の喜びを表す。
「ご無沙汰してます。マナも元気そう」
「もちろん元気だよ。何か食べるかい? それとも酒を?」
イルマが酒の名前を言おうとすると、アーヴィンが遮るようにスープを注文した。睨み付けるが、彼は奥の席にさっさと座る。仕方なく向かいへ腰を下ろした。
「もう、いいじゃないちょっとぐらい」
「酒を飲ませて返したら二人から怒られる」
たぶん怒られるどころじゃない。
マナはすぐに盆に二つスープ皿を載せて持ってきた。野菜がたっぷり入っていて、作るのに丸三日かかると言う。手間暇かかっているだけに絶品だった。
「美味しい!」
一口食べて、身もだえする。マナはそんなイルマを見て満足そうだ。
「それはよかった。ところで、宮廷魔法使いさんがこんなところで何してるんだい? 山の方ではオキデスが騒がしいって聞くけど、あんたもそっちに行かなくていいのかい?」
山とは、オキデス帝国との境界でもあるモンス山脈のことだ。
「騒がしいって言ってもいつものことよ? あの付近にはゲナもあるし、王都の魔法使いが出て行くような戦は起きてないわ。ティルムもあるし、大丈夫よ」
イルマが笑顔で答えると、マナも口元をほころばせる。
「それに、私はまだ見習い!」
「フェンデルワースで一番に優秀だったんだから、あんたならすぐに見習い脱出だろう?」
「そうなればいいんだけど、やっぱり学校と実戦とはだいぶ違うわ。頑張り甲斐はあるけれど」
「そこらの男どもに負けるんじゃないよ? 私はあんたを応援してるからね」
「ありがとう!」
後ろから新たな注文の声が上がり、マナはイルマの頭を撫でるとそちらへ向かった。
イルマは引き続き懐かしの味を賞味する。
「オキデスの攻撃が激しくなってるって、本当なのか?」
「んー」
イルマはスプーンをくわえて、杖を取る。二人の周りに沈黙の結界を張った。不用意な言動がおかしな事態を引き起こすのは避けたい。見習いとはいえ宮廷魔法使いである彼女の言葉に周囲の人間は耳をそばだてるだろう。
「ちょっといつもより激しいっていうのは聞いてるわ。ゲナ周辺の魔法使いと、ティルムの兵たちが結構ぴりぴりしていたって、この間ゲナへ研修に行った同僚が言ってたの。今回はティルムを起点として移動するって話だから、気をつけた方がいいかもね。みんな苛立ってるだろうし」
それにしても、オキデスの噂がフェンデルワースのこんな場所にまで広まっているとは予想外だ。普段のお約束的な侵攻なら、こんなところで話に上らないだろう。
サミュエルも気にしていた。ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉に不穏な動きがあるところへ、季節外れの侵攻。たまに同じように時期を外して仕掛けてくることもあったが、このタイミングが嫌だと、漏らしていた。
「まあ、大丈夫よ」
何の根拠もないイルマの台詞に、アーヴィンは肩をすくめた。
「なんたってホレス師匠が一緒ですもの」
「自分が一緒だから、じゃないのか」
こちらを見ずに、アーヴィンがスープをすくいながら言う。
「それはもちろん! 大前提じゃない」
悔しかったので、極上の笑みを浮かべて応戦した。だが彼にはこれも通用しない。ちらりと視線を向けるがすぐにスープへ戻す。自分でもそれなりのランクに入ると思うのに、アーヴィンには効かない。
イルマには足りないものがある。魔力や方程式を解くスピードはそうそう負けはしないが、それでもやはりホレスやサミュエルが話しているのを聞いていて、自分は幼いなと感じることが多々あった。
だが、この幼さを克服するのは、それこそ経験を積んでいくしかないのだろう。
焦っても無駄だと思うのだが、たまに苛立ちに打ちのめされる。
「まあ、僕の分の魔法はよろしく」
「ええ。任せておいて!」
「早足と冷却と軽減と防御」
「……多い」
「魔力の浪費を押さえる方程式を考案したから、後で教える。試してみてくれ」
「えええええ……アーヴィンの方程式ややこしい上に長ったらしい」
「仕方ないだろ? まだ試行錯誤の段階なんだから、省略式はきちんと完成してから作らないと二度手間どころの話じゃないし」
アーヴィンは方程式をいじるのが好きで、また上手かった。ただし、本人の方程式を解く速度が尋常でないため、その省略式は作っている式が本当に完成するまで作られない。実験台として何度かアーヴィンに頼まれ試してはみたが、まずはその式を覚えるのに一苦労する。そして、もたついているとやれやれと肩をすくめるのだ。気分が悪いことこの上ない。
「僕が君に頼んだのは、他の人間じゃ覚えるのに丸一日かかるが、君なら半日で済むからだ。その点は評価しているんだよ」
「褒められてるように思えなーい!」
さらには、イルマは決してアーヴィンに自分でやればいいとは言わない。一度だけ、なぜ自分でやらないのかと訊いたことはある。答えは簡潔で、やりたくないからだ、と。自分がやりたくないことを人にやらせる。そんな風に言われて協力する人間の方が少ない。
それでも変わらずにイルマはアーヴィンの手伝いを進んでやった。
イルマにとっても勉強になったし、楽しかったというのもある。
「とにかく、君の元の魔力が多いとはいえ、有限だ。僕のためにそれを消費してもらうのは心苦しいから、せめて開発中の方程式を提供しようと言ってるんだ」
「大丈夫よう。そんな気を遣ってもらわなくても」
有益な新しい方程式を開発すれば、それなりに金になる。初めの頃は彼の方程式も魔法を覚えたての子どもが少しいじくる程度だったが、年を重ねるにつれて高度なものへと変化してきた。そうなると、軽々しく他人が試していていいのかと思うのだが、彼はそこら辺は頓着しない。
いくつか高額な賞金がかけられている方程式がある。それを狙う在野の魔法使いも多い。
ただ、アーヴィンの場合国の研究所に属しているので、よっぽどの大発見でもない限り、研究所から発表となり少額の報奨金で終わる可能性が高かった。
「何か役立つ方程式になればいいわね」
「僕のはいつも役に立つ」
「言い方を変えるわ。誰にでも使える、役に立つ方程式が出来上がるといいわね」
「例えば? 君の大好きな竜のように強くなれるような?」
いいわね、とイルマが身を乗り出す。だが、彼はため息をついて肩をすくめた。
「お伽噺なお年頃はもう卒業しただろう?」
「お伽噺なんかじゃないわ。竜はいるもの!」
イルマの勢いをよそに、彼は黙々とスープを口へ運ぶ。
「ちょっとアーヴィン! もう。仕方ないわね。とっておきの秘密を教えてあげる。いい? インプロブ家の家紋、知ってるわよね」
首にかけていたペンダントを外してテーブルの上へ置いた。宮廷魔法使いになった祝いに父からもらったものだ。透明の石の台にインプロブ家の家紋が描かれている。
銀の蛇が肢体をうねらせ蔦と絡みついていた。
「他の五つの家の家紋は、鷹とか、獅子とか狼とか強くてかっこよさそうなものばかりでしょ? 蛇ってなんか手足がなくって生理的にだめって人も多いし、正直子どもごころに不満だったのよ。そうしたらね、お父さまが言うの」
指先で蛇の背を指す。
「ほら、ここ。まるで羽根があるように見えない?」
「……そうだね」
言われて初めてそうかもしれないと思えるものだが、確かにインプロブ家の家紋の蛇には、背に羽根がついているように見ることもできた。蔦の葉が上手い具合に羽根の形をしてそこにあるのだ。
「だからね、蛇じゃなくて、竜なのよ、これは」
「……それこそ、子どもの不満を解消してやるためのものなんじゃないの?」
「あら! お父さまが嘘をおっしゃったと言うの?」
ぷっくり頬を膨らませるイルマに、アーヴィンはやれやれと息を吐いてスープを黙々と平らげる。そんな彼の態度に不満を抱きながらも、イルマの興味は次へと移る。なんといっても目の前のスープだ。暖かいうちに存分に味わおう。
実際イルマも父の話はこじつけであり、彼女の夢を壊さぬためのものだと思っていた。
夕飯もかなりしっかりと摂った上のスープだが、あまりの美味しさに皿はきれいに空となる。