第二章 魔法都市フェンデルワース1
主要都市には直通の魔方陣がある。
国が管理しており、気軽に使用できるものではなかった。それを今回初めて使わせてもらい、王都レグヌスセスから南の魔法都市フェンデルワースまで一気に飛ぶ。大興奮のイルマに、大人二人は苦笑するしかなかった。
沙漠用に真っ白な外套を纏い、ぴょんぴょんと元気に飛び跳ねる彼女は、転移の塔を出ると大きく深呼吸する。
「この潮の匂い! 懐かしい空気!」
フェンデルワースからは海が近く、風向きによっては風が磯の香りを運んできた。王都から来た学生たちはそれを嫌っていたが、約一年ぶりにこの空気を嗅ぐと、心が弾んだ。
浮かれてくるくる回ってみると、垂らしたままの髪の毛がふわりと浮かび、外套の裾が広がる。そこには熱除けの文様が青い糸で織り込まれていた。
「イルマ! 行くぞ」
旅行気分の彼女のフードをサミュエルが掴んで引っ張る。杖を振り上げ文句を言いつつも、大人しく従った。遊んでいる場合ではないのは確かだ。
街の中心の高台には、フェンデルワース魔法学校が見える。他は平地なのに、学校だけが高い場所にある。一般教養や魔法を学ぶ学校棟の他に、王都にもあった薬草園や生徒たちが寝起きする寄宿舎まで、すべてがあの中にある。
十三歳から十五歳までの三年間を過ごした場所は、懐かしく楽しい思い出でいっぱいだ。
もちろん王都が彼女の故郷だったが、充実した時を過ごしたこのフェンデルワースは第二の故郷と言えた。
町並みのひとつひとつがイルマの記憶を刺激する。
緑色の魔原石、クリュソスプラを抱える都市ということで、この街の建物には緑色がよく使われた。白い壁に緑色の屋根や窓枠、玄関の扉。誰から言い始めたわけではないが、街全体が統一感を持った雰囲気に包まれている。北に魔法学校。中央に市庁舎があり、南には市場があった。目的地である研究所もどちらかというと南に位置する。街中を通り、彼らはそこへ向かった。
すれ違う人々が、ちらりちらりとホレスに目をやる。もちろん彼の容姿も目を引くが、それ以上に左胸につけた銀色の紋章が輝いている。宮廷魔法使いの証だ。
イルマやサミュエルは見習いであり、同じ形ではあるが銅色をしている。
「なんだか、一年見ないうちに雰囲気が変わった気がするわ」
「そうか? 相変わらずだと思うけどな」
王都に負けず劣らずの活気。特に市場へ行けば人と商品で溢れかえり、レグヌス王国でも一番の賑わいだ。魔法に関わる商品は、フェンデルワースで揃わぬものはないと言われていた。王都からもわざわざ買い付けに訪れる魔法使いが引きも切らない。
「君の気持ちが変わったのでしょう。最近は随分と学生気分が抜けてきましたからね」
「そうですかぁ?」
顔をしかめるサミュエルに肘鉄を食らわせ、イルマは師匠の言葉に喜んだ。
フェンデルワース魔法研究所は、国はもちろん個人貴族からもかなりの融資を得ている場所だ。魔法研究所としては国で一番の規模となる。設備も充実している。
だが、新卒の魔法使いは滅多なことではここに来ない。特に貴族の子息令嬢が多いフェンデルワース魔法学校からは皆無に等しかった。というのも、派手な魔法のやりとりはなく、魔力を引き出す方程式を一日中作っては解き、また作り直して解くの繰り返しで、若い魔法使いたちには魅力を感じることができないのだ。
しかも、前線を退き、王都で職もない魔法使いや、宮廷の派閥争いに敗れて逃げ出してきた魔法使いの行き着く先でもあった。
「レケン君を、ですか?」
「ええ。こちらが王都からの指示書です。うちの見習いの実習に付き合わせるのは忍びないのですが、お互い旧知のようですし」
緑化研究室の室長であるダモンは、腹の突き出た大柄な男だった。これなら沙漠で二、三日漂流しても困らないわね、とサミュエルにこっそり言ったところ、お尻をつねられた。だが、兄も顔を伏せて笑っている。身長差があるので笑いを押し殺している顔が丸見えだ。
「人選までは命令されておりませんので、一応彼に訊いてみてからにしようと思います。残念ですが断られてしまった場合は、どなたかご紹介ください」
「まあ、彼もニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉を一度見てみたいとは言っていましたから、お断りすることはないと思いますが……、実際方程式を作っていただけで実地的なことはまだ何も学んでおりませんよ?」
「構いません。こちらも見習いの、みの字すら抜け出せておりませんから」
自分のことを言われてるのだと気付くのに少々時間がかかる。頬を膨らませて兄を見ると、それ見たことかと笑われた。
三人のそんなやりとりを見て警戒を解いたのか、ダモンも頬を緩める。
「それでは、本人に訊いてみてください。ただ、今日は彼は休みなんです。先週まで情報整理で連日出勤でしてね、今週は交代で休んでいるんですよ」
「じゃあ、私探して来ます」
イルマは手を挙げ腰に巻いた鞄から手紙を取り出す。
一瞬目を閉じて追尾の方程式を解いた。手紙はアーヴィン・レケンとやりとりしたものだ。彼の魔力がほんの少しだがついている。それを追うのだ。
「解!」
発動の呪文とともに、手紙が輪郭を蕩かせ、角張った面影が消えると小さな小鳥が現れた。先日見かけたアーラドリに似せて作ってある。鳥は部屋の壁をすり抜けて飛び立った。
「では宿へ。場所は後で知らせます」
「今日出発しないんですか?」
「彼だって準備があるでしょう? 説明がてら夕食を摂りましょう。寄り道せずに来るように」
わかりましたと答えてイルマは駆け出した。
その後ろ姿を見て、ダモンはため息をつく。
「見事な魔法ですね。さすがは宮廷魔法使い様だ。方程式を組み立てて解くまでが本当に短い」
「まだ見習いですよ」
すかさずサミュエルが突っ込むが、ホレスは頷く。
「とても優秀な弟子です。今の見習いの中では一番でしょうね」
「それは、一位から三位まですべて含めて、ですか?」
サミュエルの問いにホレスはにこりと笑った。
「当然でしょう。だからみんな扱いに困っているんですよ」
中途半端ならば、落としてしまえる。だが、誰よりも抜きん出ているがために、資質の面で彼女を排除することができない。
「過保護もいいですが、そろそろ守り方を変えなければ、彼女は潰されますよ」
少しのミスも許されない。そんな道を歩み出しているのだ。
「わかってます」
少しだけ不満そうな表情のままサミュエルは手の平をホレスに向ける。それ以上は言ってくれるなということだ。
見事なまでに真っ直ぐな彼女に、誰もが危うさを感じずにはいられない。
「ならよろしい。それでは失礼します」
呆気にとられるダモンに代わる代わる頭を下げて、二人は研究所をあとにした。
追尾の魔法は、魔法を使えない人間には見えない。つまり魔法使い以外には、イルマだけが前方の空を見上げているようにしか見えなかった。新品の真っ白な外套を羽織った美しい少女が走って行くのは目立つ。外套に負けないくらい白い頬を上気させて、杖が人にぶつからないように駆けて行く。
途中、彼女が一年前までよく市場をうろついていた少女だと気付き、声をかけてくる者がいる。笑顔で挨拶を返し、人であふれかえった露店の隙間を縫うように進んだ。
鳥が二度旋回する。そして店の中へ吸い込まれていった。
露店もあれば、建物の中にも店がある。建物の中の店は、露店よりも少し高級な物を扱うところが多い。追尾の鳥が入っていったのは、宝石店だ。宝飾品というよりも、魔法に使う石を置いてある、魔法使い専用の店だ。イルマは疑問に思いながらも色硝子がはめ込んである扉を押した。カランと訪問を告げる音が鳴る。
店内には低い棚が所狭しと並べられ、品物がきれいに飾り付けられていた。そのどれにも盗難を防ぐための魔法が施されている。鉱石は作り出すわけにもいかず、比較的高価な物が多いのだ。
その商品棚の向こうで、鳥が彼の頭をつつき回していた。本当に痛いわけではないが、頭の周りをうろちょろされて、苛立たしげに手を振っている。
「アーヴィン!!」
イルマは駆け寄りながら、魔法を解除した。ひらりと舞う手紙を掴み、彼の側に立つと、眉をひそめて目を大きく開く。
「私より背が高くなったらもう遊んであげないって言ったのに……」
一年でいったいどれだけ伸びたのだろう。卒業したときにはイルマと身長は変わらなかったはずなのに、今は手の平分だけ彼が上にいる。
「う、裏切り者っ!」
「……なんでここに」
あまり表情が変わらない彼の目が、イルマよりも大きく見開かれている。海の底のような、深い藍色の瞳が驚きに満ちていた。辛うじて肩につかないくらいの髪の毛は濃い茶色をしていた。肌の色も、ホレスと同じように少し濃い。彼の杖にはやはり彼の瞳と同じ藍色の石がはまっていた。こちらは去年と変わらずイルマと同じぐらいの高さだ。
「でも仕方ない。身長くらいは、譲ってあげてもいいわ」
「君は王都にいるはずだろう?」
「男の子だもんね。普通にしてたら伸びちゃうものね。不可抗力よ。兄さんもいつの間にかひょろひょろ伸びて、アーヴィンよりさらに一つ分高いし、あれよりはましだわ!」
「……すぐ終わるから先に外に出ていてくれないか」
「あら、遠慮しないで。ここで待ってるわよ?」
「お店の人に迷惑だから、外にいてくれ」
「えー、ちょっとお。もう!」
無理矢理背中を押されて外へ放り出される。扉に手をかけると、硝子の向こうで怖い顔をしたアーヴィンが人差し指をこちらへ突きつけていた。
そこにいろ、と言われている。
「何よー。……まあ、いっか。滅多に見られない驚いた顔が見られたし」
手紙を丁寧に鞄にしまうと、杖を背にして彼を待つ。
学校を卒業し、友人が各地へ散ってしまった。手紙はイルマの唯一の趣味と言ってもいい。暇があれば近況をやりとりした。そうすることで各地の状況がよくわかり、彼らの目を通して世間も見えてくる。研究所に入ったのはアーヴィン一人で、イルマは同じように彼に手紙を送った。はじめはまったく返事がなかったのだが、懲りずに送り続けると、何通かに一回の割合で帰って来るようになった。溜まっていく未返信の封書に罪悪感を抱いたのだろう。彼のそんなところも見越していた。実際、イルマの知らないことも多く、彼の手紙はなかなか楽しいものだった。
カランと扉の開く音がして、彼が現れた。手に白い紙袋を持っている。
「全然待ってないわよ!」
アーヴィンが何か言う前にイルマが宣言すると、彼は軽く首を振った。そして紙袋を差し出す。
「送る手間が省けた」
「え? なにこれ」
「この間冷却石をくれただろう?」
「ああ! 城に出入りしていた商人が売っていて、品物もよかったし、少し欠けが気になりはしたんだけど、値段もお手頃だったから」
冷却石は、持っていると冷気を孕んだ風が運ばれて来る。石の大きさに比例してその範囲が決まる。手の平にすっぽり収まるくらいだったのでほんの気休め程度だ。ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉にいつか行きたいと言っていたのでちょうどよいと、手紙と一緒に送ったのが一ヶ月ほど前だ。
「そのお礼」
「ええ!? いいのに。そんなんじゃなかったんだけどなあ」
欠けていたので思い切り値切った。
「僕の気が済まないから」
「そう? じゃあ遠慮なく。ねえねえ、今開けていい?」
「後にしてくれ。君、落としそうだし」
「えー! そんなことしないわよ。まあ、宿でゆっくり楽しむか。それじゃあ行こうよ」
先に立って歩き出すが、後ろからついてくる気配がせず振り返る。
「アーヴィン! 早く」
「イルマ……。相変わらず過ぎて何から言えばいいかわからないんだけど、とにかくなんで君がここにいて、僕を連れて行こうとするかだけ教えてくれないか?」
いつもの諦めたような表情で言う。
なんのかんのと理由をつけて彼をいろんなところに引っ張り出したとき、最後にたどり着く彼の顔だ。身長は伸びてもそういった仕草は前の通りでイルマは笑った。
「笑うところじゃないと思うんだけどね」
「ごめん。宿に私の師匠がいるからそちらから説明してもらった方がいいと思うんだけど、えとつまり、今度私ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉に行くの」
彼は息を飲む。
「それは、おめでとう」
「ありがとう。でね、アーヴィンも一緒に行くのよ」
彼は大変思慮深い。在学中、イルマの嘘は何度も見破られた。少しの情報でたくさんのことを知る。彼の前に出て、嘘がばれないようにするには言葉数を減らすこと。
だが、彼の青い瞳の前に立つと、どうもそわそわしてしまう。
そして言葉に言葉を重ね、嘘に嘘を乗せてしまう。
「えっと、ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉の緑化政策の査定なの。師匠と、兄さんも一緒だわ」
「サミュエルさんが?」
「あと、アーヴィンもね!」
「そこでなぜ僕が出てくる」
もっともなご意見だ。本当に査定ならもっと実地調査に詳しい人間が案内すべきだ。
「うん、まあ。結局、査定と言っても私の実習がメインなわけ」
イルマが歩き出すと今度はアーヴィンも後からついてきた。
杖を振るって二人の周りに沈黙の結界を作る。アーヴィンが目を細める。
「アーヴィンには悪いけど、研究所の人はおまけなの」
彼の表情を盗み見るが、よくわからない。
「実習にも色々と種類があるんだけれど、その中にレグヌス王国の各地を回るっていうのがあるの」
これは本当だ。ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉を見ることもたまにあるそうだ。だがごくたまにであり、定期的な調査のときに随行するだけだった。こんな風にこちらから実習を言い出すことはない。ダモンが戸惑っていたのはそこだ。しかし、目の前の彼はさすがにそこまで知らないだろう。
「それでね、実習のことを聞いたとき、真っ先にアーヴィンのことを思い出したの。で、私が師匠にどうかお伺いを立てたってわけ。誰か、研究所の人に随行してもらうという話だったから。手紙でニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉に行きたいけど、上がつかえててなかなか行けそうにないって言ってたでしょ?」
「ああ」
返事に抑揚がない。疑われているのだろうか。
だが、彼のことを思い出したのは事実だ。せっかくなら彼の望みも叶えられればと思った。
「これはチャンスよ」
つい先日、同じようなやりとりをした。
「私が呼び込んだチャンスだけれど、それを掴むかどうかはあなた次第よ」
それで断られるなら仕方ない。
「ホレス師匠から詳しくお話があると思うから、よく聞いて決めてね。あ、でも査定に行く、で師匠は話を止めるかもしれないから、そのときは私が色々喋ったのは内緒よ?」
しばらく彼は黙り込んだ。イルマも気にしないように宿への道へ向かう。ホレスたちが泊まるような宿屋が密集している地区は決まっていた。途中でサミュエルから知らせが届いた。彼が好む蝶の形をした伝達魔法だ。イルマの手の平に当たると、泊まる宿の名前が浮かび上がって消えた。
頭の中で素早く最短の道のりを計算すると、右に折れる。細い、街の人が使う道へ入って行く。
「君が絡むといつも大騒ぎだ」
「そう? でもみんな楽しいって言ってくれてたわよ」
夜中に学校を抜け出したり、寄宿舎でパーティーを開いたり、あの頃はとても面白かった。
「いつの間にか人を巻き込んで」
「本当に嫌なら拒絶すればいいのよ。みんなの嫌だは面倒だってだけ。始まってしまえば楽しめる」
「確かにね」
でしょう? とイルマは彼を見て笑った。そこにはいつものどこか諦めた笑みが浮かんでいる。
「まあ、君がべた褒めする師匠を見ないで帰る手はないね」
「そうよ! 紹介するわ。本当にすごくすごく素敵な方よ。優しくって、でもきちんと厳しく指導してくれる。最高の師匠だわ」
イルマが瞳を輝かせると、その勢いに圧されたのか彼は肩を落とし首を左右へ振った。
「なによう」
「いや。行こう」
宿屋はすぐ見つかった。入ってすぐの受付に人がいるので、話しかけようとすると、サミュエルの声がする。
「こっちだ」
右手の通路に彼の後ろ姿が見える。ふわりと漂う酒の香りに、もう始めているのだとわかった。大きな宿で、少し夕飯には早いが食堂は混み合い始めていた。ホレスとサミュエルが一番奥の机に陣取っている。
木のテーブルの上にはいくつか皿が並んでいる。王都を出る前に食事はしていたので、そんなに腹は減っていないと思っていたが、嗅覚と視覚を刺激されると胃が我慢できないと訴えてきた。
「お待たせしました。こちらがアーヴィン・レケン。アーヴィン、私の師匠のホレス・ディーリゲンス様よ」
初対面の二人を引き合わせ、イルマはさっさと席に座る。ホレスの正面だ。二人が来るまでサミュエルがそこに座っていたのだろう。空の杯が二つあった。今彼は、ホレスの隣に席を移し、手にはもちろん酒がある。三杯目、いや、それ以上か。
「初めまして、ディーリゲンス様。よろしくお願いします」
彼はいつもの調子で物怖じせずに挨拶した。ホレスに席を勧められてイルマの隣、サミュエルの向かいに座った。
「様はやめてください。ホレス、でいいですよ」
「では、ホレスさん、と」
サミュエルが給仕を呼ぶ。
「俺の紹介はなしか?」
「口説いた女は数知れず悪名高きインプロブ家の跡取り息子って?」
「ひどいなイルマ、女性に声をかけないなんて失礼極まりないことだ、……これをお代わりと、香草茶を二つ」
「あ、私もお酒飲みたい!」
「明日から移動するというのに、倒れられては困ります」
すかさずホレスに釘をさされて、イルマは口を尖らせた。
「夜中に介抱するのは嫌ですよ」
さらに笑顔で念押しされた。
「俺はいくらでも介抱してやるぞ」
サミュエルが杯を目の前に掲げながら言った。
二人で結託して、なんとも腹立たしい。
「もう、いいわよ。香草茶大好きだし! アーヴィンはお茶でいいの? お酒の方がよかったんじゃない?」
「いや、酒は匂いだけでもう十分」
「ん? それは俺に対する嫌みか? 随分おっきくなったなあ、坊や」
そう言って、机越しにアーヴィンの頭をがしがしと撫でた。彼はされるがままになっている。
「ちょっと兄さん! もー酔っぱらいって嫌ね」
伸びてくる手をはたき落としていると、給仕がお茶とお代わりの酒を持ってきた。
「それでは楽しい夜に乾杯」
強引に差し出された杯に、イルマは仕方なく自分のものを軽く当てた。
「久しぶりのフェンデルワースに」
ホレスとアーヴィンもそれに倣うが、二人とも無言である。
取り皿を隣に座るアーヴィンへ回し、イルマは早速目の前の料理に手を伸ばした。
「解」
サミュエルがそっと四人の周りに沈黙の結界を張る。アーヴィンが宙を見据えた。結界のできを眺めているようだ。
「イルマからどこまで聞いているのかな?」
ホレスはアーヴィンを見つめて問う。彼はちらりとこちらを見て首を傾げた。
「査定とは名ばかりで実習の一環だというお話まで」
いきなり全部だ。が、それは彼が何かしら疑問を持っているという証の気がしてならない。それが本当なら、全部をばらしてしまったイルマの立場が悪くなるかもしれない。アーヴィンはそんなことをするようなタイプではなかった。つまり、これは話してもいいことだと彼がそう認識しているのだ。
こちらが彼にそう思っていてもらいたいのだとわかっている。
「うちの弟子はお喋りですね。それとも、内情を隠しておけないほど仲がよいということですか?」
「そうです!」
「違います」
軽く隣を睨む。
ホレスはそれ以上突っ込むことはせず、彼の前に大皿を押しやる。食べなさいと指示して自分も少し口をつけた。
「国の勅命ではありませんから。一応室長殿には許可をいただきました。彼もよい機会だろうから、あなたが了解するのであればと」
イルマは余計な口を挟まないよう努力し、アーヴィンの答えを待った。嫌がっていないのはわかっていたが、ただ、不信感を抱いているのもわかっていた。
十分過ぎるほどの沈黙の後、彼はゆっくりと顔を上げた。真っ直ぐホレスを見る。
「お誘いは光栄ですが、一つ、言っておきたいことがあります」
聞いておきたいことではなく、言いたいことに思い当たる。
アーヴィンがこちらを見て笑っている。
「僕は魔法を使いません」
「あまりに当たり前のことになっていて、すっかり忘れていたわ」
「あれ、あの噂本当だったのか」
イルマとサミュエルが同時につぶやく。
魔法を使わない魔法使いを連れて行くのは危険が多過ぎる。沙漠は厳しい場所だ。イルマは己の失態を嘆いた。
が、
「わかりました」
一拍置いてホレスが頷き三人が目の前の宮廷魔法使いの顔を穴があくほど見つめた。
「師匠? 今なんて?」
「了解しましたと言ったんですが?」
「え、だって、アーヴィンが魔法を使わないって言ったんですよ?」
「ええ。聞こえましたよ。実習中、魔法が必要になったら、イルマ、あなたが代わりにやりなさい。それでいいですか?」
最後に三人のやりとりを黙って見つめていたアーヴィンへ尋ねると、彼はゆっくり頷いた。
噂というのは嘘が混ざっていることが多いが、この場合ほとんど真実だ。フェンデルワース魔法学校に魔法を使わない魔法使いがいると、あちこちで囁かれた。事実、当の本人であるアーヴィンは、本当に必要なとき以外、魔法を使わなかった。つまり、実技試験のときだけ彼の魔法を見ることができる。それ以外は覚えた方程式を解き、魔法を使いたがる生徒と違い、彼は決して魔法を使わない。いったい何のために学校にいるのかわからないと言われるほど頑なにそれを守った。
方程式を解くことが、魔法を使うことが下手なわけではない。むしろ、試験で力を振るえば誰も彼の出来にケチをつけられない。教師よりも上手くやるくらいだ。
魔力があまりにも少ないわけでもなかった。貴族ではないが、普通の、魔力の値が規定に足りず学校に入れぬ人よりは断然多い。魔力を節約しているわけではない。
方程式を組み立てることは好きなようで、訊けば色々と教えてくれる。試験前には彼の前に行列がよくできた。
ただ単に、彼は魔法を使いたくないのだ。
過去に何度か、試験以外に魔法を使う彼を見たという話もあった。
それも、誰かが怪我をしそうで、他に助ける者がおらず、かなり不承不承、文句を言いながら魔法を使って助けたという筋金入りだ。
「使えないというわけではないのでしょう?」
「ええ、それは……」
ちらりとアーヴィンを見ると、彼は軽く頭を動かす。
「沙漠は厳しい場所です。ときにはあなたが魔法を使わないことによって怪我や最悪死ぬことがあるかもしれません。ですが、それはご自分のせいです。私たちがあなたを責めることは決してありませんが、反対にイルマを責めることもしないでくださいね」
「それは、当然です」
「では、よろしくお願いします。ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉へ行く基本的な準備はすぐ整いますか?」
「自分でも準備をしてきましたから。ああ。でも外套がまだありませんね」
「そうですか。支度金をいただいていますので、それで買ってしまいましょう。フェンデルワースの店は夜遅くまで開いていますから、食事が終わったらイルマを連れて行きなさい。せっかくですから良い物を選ぶといいですよ。彼女のように、暑さ避けの魔法がかかっているものが便利です」
呆気にとられるインプロブ兄妹を完全に無視して、ホレスとアーヴィンは話を進めて行った。