第一章 新たなる魔原石2
鳥が、すぐ側でぴるるるると鳴いた。
暖かい季節だ。木々も一番生長し、青々とした葉を茂らせる。枝や葉の隙間から漏れる太陽の光が、地面に光と影の模様を映し出す。
その下を、二人は迷うことなく進んでいる。
背の高いホレスは、その分歩幅も大きい。彼に並んで歩こうとすると、イルマはいつも小走りになる。イルマだからといって決して歩調を緩めるようなことはない。
走り出すほどでもなく、早足は続く。
少し息が上がってきた頃になって、ようやくホレスがイルマを振り返る。
「先にそのアーラドリを薬草園の魔法使いに預けて行きましょう」
「はい」
親鳥はイルマの肩で機嫌よさそうにさえずっている。彼らのように翼があればと思う。だが実際は、こうやって二本の足で行くしかないのだ。
ときどき、こちらを窺っている気配を感じる。だが、気付いていないかのように真っ直ぐ前を見て進んだ。二人は何も言わずに薬草園を目指す。
ホレスはイルマを他の青年たちと同じように扱った。それはイルマを女性として差別しないという彼の態度が、表面的なものではないことを物語っていた。
彼に預けましょうと、少し先にいる薬草の採取をしていた魔法使いに巣を渡す。緑色と黒の斑模様の卵が二つ。割れることなく並んでいた。親鳥は二、三度イルマの頭の上を旋回すると、巣へと戻って行く。
ようやく手が空いたと、腰で結んだ長衣の裾をほどきながら、隣を行くホレスを見上げた。
すっと通った高い鼻と、優しい紫の瞳。肌の色は白くはなく、割と濃い目だ。榛色の髪の毛は、いつも光を浴びて淡く光っている。宮廷内でもかなり女性に人気が高い。けれど、誰かと親しくしているという話はあまり聞かない。もったいないなと思いながらも、誰にでも丁寧に分け隔てなく接する師匠を、イルマは誇りに思っていた。
見習いの期間は、特定の師に就いて学ぶ。
同期の中では群を抜いて成績のよかったイルマだが、女性である。宮廷魔法使いは男性社会だ。
他の見習いたちが次々に受け入れ先が決まっていく中、イルマを迎えようという教育係はなかなか現れなかったと聞く。最終的に、ホレスの弟子となることが決まったのは期日ぎりぎりになってからだった。彼は教育係の中でも一番若く、イルマと十しか離れていない。他の教育係は前線を退いた四十代五十代、一番上では六十代といった年寄り連中ばかりだ。教育係の中では異色の人物だった。
「どうかしましたか?」
随分長い間見つめていた。その視線に気付いて、ホレスが笑いながらイルマを見下ろす。
「いえ、何も」
慌てて前を向く。そこには白亜の城が天を突く勢いで高くそびえ立っていた。王の居城だ。その周りには尖塔がいくつも並び、それを起点とした結界が敷かれていた。イルマたちが先ほど使っていた防御の結界などとは違って、本格的な防御の陣だ。これによって王宮は外敵からの攻撃を防ぐ。結界師の仕事だった。
彼らの編み出す方程式は複雑ではあるが美しく天を覆う。
ホレス師匠の下で学ぶ二位が、イルマは結界師になればいいと言った。
見習いは、三つの位に分けられる。入って一年目は三位。これは誰もが通る道で、全体にまんべんなく宮廷魔法使いの仕事を経験する。一番あちこちへと忙しい年だ。二年目以降は二位。二位からは仕事を選ぶこともできる。たいていは教育係である師匠が、弟子の能力と本人の希望を計り仕事を回すことになる。二位は最高でも三年間。その間に方向を決めるのだ。そして、半年ごとに行われる試験に合格すれば、一位となり、教育係の下を離れ、それぞれの職場で働くこととなった。そこで今度は実地で適性を見られるのだ。悪くすれば適性なしとして、二位に落とされることもある。だが、そんなことは滅多になかった。一位になればほぼ間違いなくその職に就ける。
その彼は結界師の道を選んでいた。次の試験は間違いなく通ると言われている。イルマの結界はきめが細かくよく褒められた。それを知っていたのだろう。
同時に、彼女の本当の望みも、彼は知っていた。イルマが公言してはばからないからだ。
王属護衛官になりたい。
それが、目標だった。
宮廷魔法使いの中でも花形の職業、王属護衛官は、その名の通り王やそれに近しい者を護衛する職務だ。武芸に長けた騎士と、宮廷魔法使いの中でも特に能力の高い者がその任に就く。イルマはそれを目指して日々鍛錬に勤しんでいる。
だが、女性だからという理由で宮廷魔法使いになることですら反対された。
皆が口を揃えて言う。
過酷な任務だ。きつい仕事だ。イルマは女なんだから、わざわざそんな辛い道を選ばなくともよかろうと。
周囲の反対を押し切って、誰にも文句を言わせない成績で試験を通ると、今度は宮廷魔法使いの中でも女性に向いた仕事がある。王属護衛官は常に神経をすり減らさねばならない。女性では無理だと立ち塞がる。
「イルマ、どこか怪我でもしたんですか?」
今度は反対に、ずっとこちらが見られていたようだ。
いいえと答えようとして、留まる。
そしてホレスの瞳とぶつかった。
「師匠……、私、やっぱり、王属護衛官にはなれませんか?」
薄い紫色の瞳が一瞬揺らぎ、色を濃くしたように思えた。目を細めてイルマを見返す。
少しして、彼は視線をそのまま前方の城へ向けた。レグヌス王国を象徴する不落の城だ。
「魔法使いほど、男女という性による能力の差がない職業はないと思いますよ」
城を見据えたまま彼は笑う。
「努力を怠らぬことです。君は私が受け持った魔法使いの中でも群を抜いて優秀です。確かに今は男性優位の社会です。特に、この宮廷魔法使いという仕事は。けれどね、変わらないものなんてないんです。そうでしょう?」
「はい!」
イルマは元気よく返事をした。
ぎゅっと左手の杖を握りしめる。
陰っていた表情が、明るく切り替わった。杖の先のオレンジ色の魔石のように、彼女の空色の瞳も輝きを取り戻す。
あまりに簡単だと言われそうだが、師匠の言葉はいつもイルマを助けた。彼の慰めは、口先だけのものではない、そう思わせる何かがあった。
ホレスの右手がイルマの頭へ伸び、柔らかいその金色の髪を優しく撫でた。
「努力は報われる。そうでなければいけません。あとは、チャンスをものにすることです。機運を待っているのではなく、呼び寄せるんですよ」
「呼び寄せる?」
「ええ。……さあ、急ぎましょう」
薬草園を抜け、城の外苑にたどり着く。少し行くと城とは比べものにならない簡素な作りの建物が見えた。その奥に白い石を使って建てられた丸い塔がある。
手前の建物は見習いたちが詰める控えの場所。その奥が彼らをまとめる教育係の部屋がある塔だ。ホレスは真っ直ぐそこを目指して行った。
普段は朝、詰め所に二位がやってきてその日の仕事を指示する。魔法学校を卒業したあとも、こうやって年次の呪縛に囚われると同期たちは不平を漏らすが、イルマはその制度が好きだった。そう、ホレスの言う通り、平等にチャンスが与えられる。すべての仕事に触れることができた。
ときどき、師匠の元へ特別な仕事が入り、それを手伝うこともある。
先月、ちょうど薬草園の除草作業が入った頃に、イルマはホレスの供として東の港町に赴いた。今回も同じような簡単な仕事の補佐なのだろう。見習いを連れて行くくらいだ。難しい、危険な仕事はそうそう入らない。
当然のこととは言え、残念な気持ちもある。同時に、どこか、安心もしている。魔法学校は三年間。そこで習うのは魔法の基礎の基礎。実戦とはほど遠い。実際、習ってきたことがまったく役に立たず困ってしまう場面がこの一年で何度もあった。そのたびに、王属護衛官になどなれるものかと自分で自分を笑う。最近は、この一年でどれだけ成長したかと自分自身に不安を抱く。
再び物思いに沈みそうになり、慌てて視線を戻した。すると塔の前に男の姿があった。
裾が地面につくほどの長衣を着て、口元の黒いひげを揺らしている。茶色の瞳が、こちらをきつく見ていた。禿頭の彼はメルヴィン・ウルカニウ。このレグヌス王国の中でも王属に連なる家と言われる六貴族の出だ。
六貴族はその名の通り、六つの家のことだ。ウルカニウ家はその中でも特に影響力のある貴族だった。実はイルマのインプロブ家も、六貴族の一つだった。とはいえ、昔ほど力はなく、六つの中でも一番末席にいる。
メルヴィンは教育係の一人で、さきほどイルマと一緒に蔦退治をしていた同僚の師匠だ。
普段から女であるイルマを何かと目の敵にしている。自分の弟子よりもイルマの方ができるのがよっぽど気に食わないらしい。
だが今日は珍しく、視線の先にあるのは自分ではなかった。
先を歩くホレスへその熱いまなざしが注がれている。
何かあったのだろうか。
わざわざ塔の前でこちらが近づくのを待って、言葉が届く距離になった頃になって目をそらした。
ホレスが軽く頭を下げ通り過ぎる。イルマもそれに倣った。
だが、大変珍しいことに、メルヴィンが呼び止めた。
イルマは慌てて足を揃え振り返る。ホレスもゆっくりと、イルマにだけ聞こえる小さなため息をついて体の向きを変える。
「どうされましたか? メルヴィン様」
人の歩みを止めておいたくせに、メルヴィンはじっとホレスを睨んだまま口を結んでいる。
とにかく絶対に口を挟んではいけないと、置物の彫像にでもなったように視線も地へ向けたまま固定した。自分が特定の言葉に激しやすいのはよくわかっている。さっきもそれで突っ走ってしまった。これ以上失態を重ねないためにも、いつそれらの言葉が飛んできても余計なことを言わないで済むように、心を凍らせる。
十分な沈黙が通り過ぎた後、ようやくメルヴィンが再び口を開いた。
「いったい何のつもりだ」
「いったい何のことでしょう」
押し殺したメルヴィンの言葉に重ねるように、ホレスがどこか笑いを含んだ軽やかな返事をする。
始まり方が不穏だ。
「ふざけるでない。先ほどの話だ」
「ああ。それで今イルマを呼んできたところです」
「なぜお前が――」
「なぜ?」
「あれはわしの弟子が行くはずだった!」
「おや、それこそなぜ、ですね。メルヴィン様。誰かと問われて、では私がと応えたまでです」
「貴様は先月の任務にそれを伴ったばかりであろう」
それとはイルマのことだ。どうやらホレスは今回の任務を奪ったらしい。基本的に、突発的な、経験を積ませるための任務は持ち回りだと聞いている。
「はっきり初めに告げられていたはずです。内容が普段のものとはまるきり違う。それはあの場にいた全員がわかっていた」
いつの間にか周囲に魔法の結界が張られていた。外と、内を完全に隔離するものだ。ホレスか、メルヴィンか。二人の会話にはらはらしている間にどちらかが方程式を解いたらしい。
「ならば、今からでも申し上げに参りましょう。メルヴィン様もこの任務を積極的に受けたいと」
メルヴィンが顎を引いて呻く。
「いまさらそのような真似ができるか」
「違うでしょう。積極的にではなく、仕事を押し付けられて受けたいだけだ」
「何を――」
「体力に不安があるとか適当に理由をつけて、弟子を数人送り込んで成功すれば上々とするつもりだったのでしょう。失敗しても弟子がやったこと。仕方ないと終わらせる」
畳み掛けるような物言いに、メルヴィンの顔が赤く染まる。
イルマは息を飲む。
こんな風に相手を挑発するような態度をとるホレスを初めて見た。どちらかというと無難にかわし、無駄な衝突を避けようとする人なのだ。
「今回の任務がそれで済まされる類のものではないことは重々ご承知でしょう。だからこそ慣例を覆し私がこの任務に就けたのですよ」
荒い息をメルヴィンはゆっくりと整える。何があったのかは知らないが、よっぽどのことなのだろう。普段からあまり仲のよいといえないホレスの下へわざわざ文句を言いに来たほどだ。
「……確かに今回は、その小娘が適任かもしれん」
ほら来た。大丈夫と心の中でつぶやく。大丈夫。まだ我慢できる。
「ただの小娘ではありませんよ。彼女は三位の中でも実に優秀な魔法使いです」
「だが、所詮女だ」
拳をぐっと握って耐える。平気だ。この差別が大好きな男の前で、思う壺の反応をしてやる義理はない。
「確かに彼女は女性ですが、それが何か? 魔法使いは男性の方が優秀だとでも?」
今日のホレスはどうしてここまで攻撃的になるのだろう。普段はイルマが何か言われても上手く話をそらして、後でよく耐えたと言うくらいだ。下手に反論すればそれだけまたイルマへの風当たりが強くなるのをわかっているから。
「では今の三位の中で一番優秀なのが女である彼女なのはなぜなのでしょうね」
「わしの弟子を愚弄する気か!」
「それはあなたの方でしょう。弟子の優劣を師が競うなど、無意味なこと。師が弟子を駒に自分の優越感を満たすのは愚かなことだ」
「わしが弟子を駒にしているだと!?」
「……弟子を育てるのが師の役目。よいところを見つけ、やる気にさせ、伸ばしてやるのが教育係りです」
「そのようなこと、貴様に言われずともわかっている! 小娘の能力はお前が引き出してやったとでも言うのか」
「いえ、イルマが今の実力を身につけたのは彼女の努力の成果です。人の弟子のことばかり気にしていないで、少しはあなたの弟子を見てやったらいかがですか?」
放任主義というのは便利な言葉だと、同僚が憤慨していたのを思い出す。
彼にも思い当たる何かがあったのだろう、さらに顔を赤くして怒鳴りつけたいのを我慢しているように見えた。
「それでは、急ぎますのでこれで」
ホレスが歩き出し、イルマも心の中で舌を出すと塔の中へ入って行った。
「……すみません。君をだしに使ってしまいました」
「いいえ! でも、師匠が珍しいですね」
「聖人君主ではありません。私にだって、腹立たしいことはありますよ」
それを常に押さえているのが師匠だと思っていた。