第七章 目の儀式1
「アーヴィン、アーヴィン!」
涙で濡れた頬を、彼の外套へ押し付けるようにして腕を背へ回す。
「記録の間周辺の造りは,昔から結構複雑なんだよ。だいたい、上へ出られる算段がなかったら、悠長に調べ物なんてしてないし」
「だって、だって……」
「わかったから。ほら、泣き止んで。……サミュエル先輩の目が痛いから」
窮地を助けてもらった命の恩人に向けるには、少し剣呑過ぎる熱いまなざしを、アーヴィンは浴び続けていた。
「お前の本音が見え隠れする台詞のせいだ。まあ、無事でよかった」
三人はさっきまでの場所からかなり離れた位置にいた。あの大きな天幕が、手の平と同じくらいになっている。
古びた煉瓦の壁の陰からアーヴィンが杖を持って来た。イルマとサミュエルのものだ。
「先輩には必要ないかも知れませんが」
「うるさい。父さんにばれないためには面倒だが常に持っていないといけないんだよ」
「どこか歪んでるなってずっと思ってたんですけど、そのせいだったんですね」
「見てわかるやつなんてそうそういないからな。お前くらいだ。……黙っとけよ」
いとおしそうに自分の指にはまった石を撫でた。
「そりゃもう。サミュエル先輩の弱みなんてそうそうないですしね」
サミュエルが短く舌打ちをした。
イルマも何時間ぶりかに自分の杖を握る。手の平に吸い付くような感覚に、心が静まった。
だがそこへ、今まで聞いたこともない咆吼が響く。馬の嘶きや野生動物の警戒音とはまるで違った、その声にすら魔力が含まれている、怒りの雄叫び。
とっさに防御の結界を張る。アーヴィンも、サミュエルも、同じように魔法を振るう。
そのおかげで音の後に来る突風は、なんとかしのぐことができた。砂が舞い、壁が音を立てて崩れた。
「竜だ……」
サミュエルがその音源に目をやり呆然とつぶやく。
今や天幕は跡形もなく吹き飛び、お伽噺と信じられてきた、お話の中にしか登場しなかった竜が、その一つ目に怒りをたぎらせ宙に浮いていた。
砂色の肌は、緻密に組み上げられた魔力を纏い、確かにあれでは単なる剣は傷をつけることすらできまい。
「鎮めなきゃ」
もしこのまま竜が街へ向かったら、どれだけの被害が出るかわからない。イルマたちだって自分を守るのに精一杯だ。
「どうやって」
アーヴィンが言う。当然の質問だ。
だが、実はさっきホレスに話をしていた途中で思いついたことがある。
「ねえ、アーヴィンは下の、記録の間の方程式図案見た? 天井と床にあったやつ」
「まあだいたい覚えてるよ」
「……すごいわね。ほとんど考え込んで見てなかったでしょう」
聞いておいてなんだが、彼の返答に驚いた。
「でも、どんな順番で方程式を解いたらああなるかは全然わからない」
うんうん、と彼の答えにイルマは満足そうに頷く。
そしてにこりと笑った。
「ねえ、アーヴィン。もう一度力を貸して。あなたが必要なの」
彼は怪訝な顔をして首を傾げる。
「僕には、あんな魔力に溢れた存在を押さえる方法なんて思いつかない」
「うん。でも、アーヴィンは変数の方程式を使えるでしょう」
「何っ!?」
サミュエルと、アーヴィンが顔色を変えた。
「お前、あれを作ったのか!?」
詰め寄るサミュエルの手を振り払い、身をかわし、平静を装ったアーヴィンが笑う。イルマから見ればそれは苦し紛れの表情としか思えない。そうか、嘘はこうやって見抜くのか。
「何を言い出すんだ。そんなすごいものを発見してたら、とっくに――」
「ニクス」
杖を突きつけイルマが宣言する。
ティルムで拾った白い子猫。
「宿の中庭で何をしていたか、私が本当に見ていないとでも思った? あんなにぐったりしていた子猫が、驚くほど元気で、傷一つなかった。アーヴィンは変数の方程式を使って治癒の魔法を施した。でしょう?」
彼は唇を噛む。
「いくらあなたでも、経験がものをいう治癒の魔法で、あそこまで回復させるのは、普通なら無理だわ。でも、その経験を補う変数の方程式があれば、可能。あのとき今まで見たこともない魔力の形が、あなたの手元に集まっているのを見たの。ねえ、竜を眠らせる手伝いをして」
「……独学で、短縮の方程式も何も作っていないけど、変数の方程式のだいたいはわかってるつもりだ。けど、それであれを鎮めることができるとは思えない」
空を飛ぶ竜へ杖を突きつけ、珍しく感情のままに話すアーヴィンに、イルマは余裕たっぷりに首を揺らす。
「アーヴィンは私の方程式に合わせて、変数の方程式で相手の魔力のブレを相殺してくれればいい。そうすればしっかりと効くだろうから。反対に変数の方程式がなければ、竜の魔力の前にせっかくの方程式が崩れてしまう」
「君はいったい、何をするつもりなんだ」
イルマはまた、にっこりと笑った。そして歌う。
瞼を閉じて 睡りの泉に身を浸せ
丸い月が 天を回る
無数の月が 世界を回る
天を貫く 四本の柱
円い柱が 空へと伸びる
強い力は 螺旋を描き
後を追うのは 陽昇る軌跡
世界を箱に 閉じ込めて
月の睡りを 誘い出す
二つの渦は 力の道筋
世界を巡る 力は大地へ根を下ろす
瞼を閉じて 睡りの泉に身を浸せ
渦は力を天よりくだす
アーヴィンが再び顔色を変えた。
「小さい頃よく歌ってやった子守歌だな」
「ウェトゥム・テッラ〈古王国〉の末裔は、歌や物語で重要な方程式を伝えてきた。アーヴィンが知らない歌っていうのがおかしいのよ。これもまた、竜の話をみんなが知らなかったように、六貴族に伝わってきた秘密の歌だと考えたの。で、歌の通り方程式を解いていくと、記録の間に合ったような図案に仕上がると思わない?」
父が、インプロブ家の家紋には竜が隠れていると言った。本人が知ってか知らずかは無事帰って聞いてみないとわからないが、今なら確信できる。それは真実だと。この歌は、もしかするとインプロブ家のみに伝わってきていたのかもしれない。大昔、インプロブ家はこの目の儀式に携わって来たのではと、天啓のように悟った。家紋に竜を隠し、子守歌に秘術を隠して伝えてきた。
新しい発見に口元をほころばせてイルマが問うと、アーヴィンはもう同意するしかなかった。
「アーヴィン、お願い。手伝って。あなたの力が必要なのよ」
今まで、すべてを自分でやって、そうしてやっと認められると頑張り続けて来た。そのイルマが助けを求めて手を伸ばしている。
サミュエルも、そんな二人を見つめたまま黙っている。彼にも何か思うところがあったのだろう。
アーヴィンは諦めのため息をついて、彼女の手を取る。
「君はいつも強引だ」
「だって、強引にしないとアーヴィン動かないんだもん!」
三人は空に向かって吠える竜を鎮めるために、再び同じ場所へ移動を始めた。
竜の起こす羽ばたきに、視界を遮られながら、イルマとアーヴィンは魔法を使って前へ進む。サミュエルは少し離れた場所で大がかりな結界を敷き始めていた。儀式の途中、竜がその範囲から飛んで逃げないためにだ。
「アーヴィン、さっき来てくれたときに言ってた、その、大切な人って言うのは」
前を行くイルマの声がしっかりと耳に届く。魔法を使っていた。この風の中の行軍で、そんな余裕があるのは羨ましい。
だが、彼女の問いかけはこちらを慌てさせる。
思わず口走ってしまった言葉に、今更突っ込まれても困る。
「大切な人って言うのは、その」
彼女から始めたくせに、言葉尻を濁してなかなかその先を告げない。ああ、君のことだよと少し切れ気味に言ってやれば気が済むのか。
「もしかして、ご両親のこと?」
いまいちなんと口走ったか忘れたが、絶対にそんな方向に考えられないと思うのだが、彼女の鈍さは折り紙付きだ。自分の中でまた変な方向へ理解を深めてしまっているのだろう。
「イルマは僕の両親のこと、何か聞いているの?」
「ううん。あなたが小さな頃に両親を亡くして、それで十三歳よりもずっと早くからフェンデルワースに引き取られることになったって、それだけ」
嘘が入る隙間のない簡潔な内容だ。きっと他にも色々と吹き込まれているのだろうが、それは彼女の検閲で削除されているのだろう。
「僕の両親はゲナの魔法使いだった。あの日はティルムに用があって、モンス山脈の裾野を馬車で走っていたんだ。僕は荷台に、父と母は御者席に。九歳のときだ」
すでに当時から開かれた子であったアーヴィンは、現実の世界と魔力の世界を交互に見比べ、その美しさを楽しんでいた。だが、そのとき視界に何かちらついた。
「魔法による攻撃だ。当時からオキデスに協力する魔法使いがいたそうだ。そして、オキデスの命により、さらなる魔法使いを手に入れようと狩る。そんなやつらに僕らの馬車は狙われた」
運がよいのか悪いのか。
二人とも対抗するが馬車が渓谷へ落ちてしまった。
もし、捕らえられていれば、アーヴィンは間違いなく両親を動かすための人質として辛い人生が待っていただろう。
馬車は深い谷底に叩きつけられ、両親は打ち所が悪く亡くなった。
「人はね、死ぬとあっという間に内の魔力を世界へ放出するんだ。それが、とてもきれいで、怖い。魔法は確かに役に立つし、よいことも多いだろうけど、同時に人を傷つける。僕はあんな光景二度と見たくなかった。だから、開かれた子だし、身よりもなくてフェンデルワースで暮らすことになったけど、最低限の義務を果たすだけで、それ以上魔法を使わないと決めた」
「……私のせいで約束を破ることになったのね」
ずっと前を向いていたイルマが、後ろを振り返る。眉が下がってとても悲しそうな顔をしていた。
「知ってる? 約束は破るためにあるんだって」
「守るためじゃなくて?」
「昔君の兄さんが言ってたよ」
「もーっ! あんな人の言うことなんて聞いちゃだめよ!」
「でも、頑なにそうやって魔法を使うことを否定し続けて、それで、誰かが死ぬのはやっぱり嫌だ」
「大切な人が死ぬのは嫌?」
やっぱりわかって聞いている。
だからそれには答えなかった。
彼女はふふんと笑ってまた前を向く。一人満足そうな顔が憎たらしい。
何か言い返してやろうと口を開いたところに、イルマの鋭い制止の声が響いた。
「竜が……」
宙で身もだえしている。サミュエルの結界に阻まれ、思うように移動ができないことに苛立っているようにも見えた。竜がぶつかるたびに、結界がその整列を崩す。すかさず補強の方程式が解かれてはいるが、かなりの重労働だ。そう長くは保つまい。
「始めよう」
「ええ!」
イルマの斜め後ろに控えて、まず二人を包む結界の方程式を解き始める。
「僕が他はすべて引き受けるから、君は眠りの方程式に集中しろ」
「ありがとう」
地下から戻ったあとのイルマは、なんだか少し雰囲気が変わった。
前は、方程式を考えるのは得意じゃないとアーヴィンに言うときでさえ、どこかそんな自分に苛立っている様子が見え隠れしていた。
だが今はそれがない。
何があったのか、確かめてみたい気もしたが、今は先にやるべきことがある。
魔法を使わないと決めはしたが、方程式は、魔力の世界はとても魅力的だった。整然と並んだ、隙のない形。あまりにも美しくて、その美しい形を作ることに没頭した。
魔力の世界に魅せられた。
結局それは、方程式の強化につながり、魔法の強さとなった。
魔法を使いたくない、人を傷つけるものを生み出したくない。皮肉な結果に悩んだこともある。だが、開かれた子の運命とそんな言葉で片付けたくはないが、しかしやはり、そうとしか言いようがなかった。
変数の方程式に関わろうと思ったわけではない。初めは偶然の産物だ。
生物の魔力には、固有の波がある。一年ほど前、フェンデルワース魔法研究所に入ったばかりの頃、共同スペースで眠る先輩の姿があった。そのいびきがうるさい。気になって手元の仕事に集中できずに、魔力の世界を視ていると、彼のいびきと、魔力の増減が同じような幅で動いているのが見て取れた。常人にはわからない。アーヴィンだからこそその微妙な変化を見て取ることができたのだ。
つまり、音。音は、波だ。その波を打ち消すことができれば、いびきは消える。
試しに簡単な方程式でまったく逆の波を起こし、彼にぶつけてみた。すると、ぴたりといびきが止まった、だが、すぐに再開する。波がずれた。
生体であるから、どうしても波は不規則だ。それに対応するような方程式も持ち出さないといけない。なんとかして止めてやろうと試行錯誤しているうちに気付いた。
それが変数の方程式の始まりだと。
それ以来、仕事の合間にアーヴィンは変数の方程式について色々な文献を調べ、試してみた。
難しい問題は楽しい。それに集中している間は他の余計なことを考えなくて済む。そうやって完成したものを、先日初めてニクスに使った。動物実験は、やはり後ろめたさがあって今までできなかった。だが、あのときは、小さな子猫から流れ出る魔力に恐怖を覚えた。目の前で、命の炎が消えて行く。それならばと、変数の方程式を使い、そして、治癒の魔法を使った。結果は、その後イルマと遊ぶニクスを見ればわかる。
だがそれを、世間に発表する気はなかった。変数の方程式は治癒にだけ使えるわけではない。人の魔力を打ち消すのだ。放たれた魔法同士ではなく、相手から、一時的に魔力を奪ってしまうことになる。それは、魔法が効きやすくなるということだ。間違いなく、アーヴィンが望まない方向へ利用されて行くだろう。
本当はこの場から逃げ出すべきなのかもしれない。
竜が怒るのは当然だ。何百年も倒れたまま、魔力の回復をじっと待っているしかなかった。そんな目に遭わせた人間へ、報復に出るのは至極真っ当なことに思えた。たとえ、すでにそのころの人間は死に絶えていると言っても、彼らにわかるはずがない。ただ怒りを発散したい。それを、邪魔する方が悪い。
そんなことを考えながらも、方程式を解いていく。
イルマの周りにも濃密な魔力が漂っていた。あの発想は本当に素晴らしい。昔から、着眼点というか、着目点というか、他とは違う斬新なアイデアに何度も舌を巻いた。
これが成功すれば、間違いなく世間に変数の方程式が流れてしまう。
だが、と自分の中の別の誰かが言う。
どうせいつかは誰かが見つける。作り上げられないことではないと、知っている。遅かれ早かれ世間へ流布するものなのだ。
サミュエルと別れる直前、耳元で囁かれた。
「イルマが助けを求めた。それがどういうことか、わかるな?」
言われるまでもない。
そんな風に念を押されるほどに、自分は迷いを見せていたのだろう。それがまた、腹立たしい。
「アーヴィン、いい?」
「……ああ。行くよ」
二人とも、方程式を解き終わった、後は、発動の呪文を唱えるだけだ。
彼女の真っ青な瞳とぶつかる。歌で解く順番がわかっているとは言え、その大小の加減は地下にあった図面を頼るしかない。少し狂えばすぐに修正を入れる。その作業が複雑で難解だ。肩で息する彼女を安心させるように、笑った。
逃げ出すわけがない。
サミュエルに言われるまでもない。
アーヴィンが、イルマの頼みを断ることなどありえないのだ。
彼女が信じているから。それを裏切る気なんて、ない。過去も、そしてこれからも。
「解!」
声が、重なる。
目の前の大きな魔力の塊に放たれた二つの方程式が、真っ直ぐ宙を駆け抜ける。
そのときだ。
イルマの体が、横へ飛んだ。