第六章 竜と魔力2
「ああ! 愛しの我が姫君! 今ここに助けに参りました」
驚いて振り返ると、入り口とは反対側の天幕の裾を持ち上げて、這うようにして現れた兄の姿がある。
「寂しかっただろう、可愛い妹よ。もう大丈夫だ」
頼りがいのある笑顔。だが、口を突いたのは別の言葉。
「なんで兄さんなのよっ!」
「ええっ!?」
その後は決壊した涙が滝のようにこぼれ落ちた。
落ち着くのにしばらくかかる。手の縄を解いてもらい、小さな頃されたようにぎゅっとイルマを抱きしめるサミュエルの胸で泣く。途中つっかえつっかえそれまでのことを話すが、兄の相槌が次第に怒りを帯びていった。
「へえ。あの野郎め。俺だってしたいのに我慢してるっつう口にキスをまんまとさらったと。ほーおー」
「アーヴィンが言ってたの。私と同じように、誰もが考えるわけじゃないって。師匠は私が喜ぶと思ったかもしれないけど、でも、全然嬉しくない。私、今までいっぱいいろんなこと言ってきたけど、でも、相手にとっては嬉しくないことだったのかもしれない」
「イルマお前、ちょっとそれは違うと思うんだ」
「でも……」
「とりあえず、その件は保留しような。どこで間違ったのかそんな風に考えたらあの坊やが救われん。今はいったん引いて体勢を整えよう」
「うん」
素直に頷くと、いい子だと頭を撫でられた。
だがそこで、ふと気付く。これだけ騒いで誰も見に来ない。外をちらりと気にすると、サミュエルは大丈夫とイルマの肩を両手で叩いた。それを見て、さらに驚く。
「兄さん、杖は?」
「ん? ああ。取られた。俺だってなあ、捕まったんだぞ。あの人がいきなり天幕に入ってきてさ、不意打ちだよ。それでも防御の結界が働いたから俺の顔に傷はつかなかったけどな」
「魔法もなくて、どうしてこの天幕に入れたの? しかも気付かれてないわ」
杖がなくとも魔力の形は見える。天幕には外からも中からも、許可された者しか出入りできないように結界が張り巡らされている。魔法なしで気付かれずに来られるはずがないのだ。
そして、兄には確かに魔法の加護がある。
「杖ね、杖。そのなんだろうなー。……父さんには絶対内緒だぞ」
珍しい兄の真剣な顔に気圧され、頷くと、右手の人差し指にはまっている指輪を見せられる。それはインプロブ家に伝わる大切な家宝だ。蛇を象った家紋が台座に彫られている。父親は入り婿で、母が渡したこの指輪を一度も身につけることなく、兄に譲った。
「実はな、入学の儀に準備していた魔具を忘れて行った」
「なっ!」
慌てて自分で自分の口を押さえる。
入学の儀には、自分の魔石の元となる魔具を持って行く。ペンダントだったり、ブレスレットだったり。そのどれにも透明な水晶か金剛石がはまっていて、魔石の元となる。そこへ校長が直々に魔力の種を植え付けた。
魔具を持っていかなければ、入学資格を失ってしまうのだ。
「さすがに校長も慌てててな」
「校長じゃなくて! 兄さんが慌てるんでしょうよ!」
「なー。参った参った。もうびっくりだよ。で、これに気付いたんだ」
「……兄さん」
家宝だ。それは代々受け継がれる物だ。
「ね。困っちゃうだろう?」
つまり、本来学校を卒業したら杖にはめるはずの魔石だが、家宝をそんな風にするわけにいかず、杖の石は偽物というわけだ。
「毎日必死だったよ。色つくな、つくなってな。願いが通じて、俺の魔石は珍しく透明のまま。誰にもばれないよう、偽の魔具にも魔法で魔力が通っているようにしてさ。そこら辺は校長が手伝ってくれた」
「……校長先生に、本当に感謝しないと」
父が知ったらどんなことになるか。
でもそのおかげで今こうやってサミュエルは魔法を使える。
「卒業の儀で魔石の魔力を固定したら、杖にはめないと魔法がすごく使いにくくなるだろ? 大変だったんだこれがまた。でもまあ、人間死ぬ気でやればなんとかなる。さ、とにかくここから出よう」
「うん」
二人はこっそりと天幕を離れる。サミュエルは隠れて行動するのが得意だった。色々な敵の目を欺く方法を知っている。それを何に使っていたかは追求したくない。とにかく、この状況にはそれらがとても役立った。
ある程度離れると、今度は魔法で自分たちの周りに結界を張る。彼のそれは、結界がそこにあることを知られないよう複雑にいくつもの方程式を組み合わせる。
「さて、どうする」
人の横をすり抜ける、そんな緊張の連続ですっかり息が上がってしまったイルマは、砂の上にぺたりと腰を下ろして兄を見上げた。
「どうするって?」
「俺の希望を言おう。――このまま東へ沙漠を抜けて、王都へ帰る。俺には、ホレスの魔法の目をかいくぐって伝令を飛ばすのは無理だ。必ず見つかる。警戒しているだろうからな。ただ、俺たちが沙漠を抜けるのは可能だ。二日で行ける」
「でもそれじゃあ、魔原石は移動されてしまう」
それがどれほど恐ろしいことか。
イルマとサミュエルの姿が見えなくなったとしたら、今以上に急いで作業を進めるだろう。魔原石の移動に間に合わない。
「だめよ」
イルマの反対に、サミュエルは空色の瞳を細めた。
「絶対ここで止めないとだめよ」
「なぜだ? ホレスのその研究とやらがどれだけのものかは知らないが、あそこにいるやつら、確かに魔力は持っているが、まともに魔法を使えるやつなんていなかったぞ? 手に入れた魔力と付き合うのが精一杯だ。実戦に耐えられる魔法使いを作るには早くても半年はかかるだろう」
「そうだけど」
何か引っかかっている。焦りにも似たこの感覚は、イルマに考えろと呼びかける。
「移動させるのは絶対にだめだわ」
そのつぶやきに、サミュエルが首を傾げる。
「いやに魔原石にこだわるな。そこから戦争になるのが拙いってわけじゃなく、魔法使いを人為的に作り出すのがいけないという話でもなく、魔原石を移動するのがだめなのか?」
「……うん。そう。それがだめ。なんで、何が」
『ゲナのカルブンクよりは少し魔力が安定していないように思えるが』ホレスは確かにそういった。
「カルブンク……クリュソスプラにサップーヒ」
「学校にある魔原石か?」
「赤がなんとかブンクか、ヌ……ゲナのカルブンクは赤、フェンデルワースのは緑で、スペキリにある魔原石は青だわ」
あの、地下の記録の間にあった円。あれは、現存する魔原石を表していたのか。となると、記録の間は四つ目の魔原石を作る儀式のためのもので、さらにそれは完成されていない。あんなにしっかり儀式の形を残しておくはずがないからだ。
「目の儀式……」
「何?」
「だめよ、絶対だめだわ! 兄さん、絶対に止めないと!」
「落ち着けイルマ!」
両頬を手の平で挟まれ、瞳の行き先をしっかりと固定される。自分のものと同じ空色の瞳が、真っ直ぐイルマを射貫く。
「深呼吸だ。そして、――話せ」
サミュエルの魔法――本人命名:恋人たちの沈黙のヴェール――は、確かにすごかった。ホレスが張り巡らしているであろう、いくつもの結界を難なくすり抜け、一番大きな天幕に苦もなく近づけた。普段ならここで、いかにこの結界が女性の寝所へ潜り込むのに役立ったかと話し続けるところだが、今日はそんなわけにはいかない。
「動かないで!」
途中で拾った剣をホレスの首筋へ突きつける。魔法と剣、どちらが早いか、それは意見が分かれるところなのだが、魔法使いが方程式を解くその瞬間を見逃さなければ勝機はある。
剣も、防御の結界を突き抜けられるよう、魔法がかかっていた。
「師匠、話を聞いてもらいたいだけです。でも方程式を解く素振りが見えたら、容赦はしません」
イルマは己の腕と剣の長さを十分に考慮した距離から、ホレスの首筋を狙っていた。腕が疲れたり、ほんの少し前に傾くだけで頸動脈を傷つける。
ホレスを止めるための手段を考えたとき、魔法では到底敵わないと結論が出た。たとえイルマが杖を持っていたとしても、あの方程式を解く早さには追いつけない。それは、彼が努力してきた結果であり、彼が魔法に没頭してきた年月の結果でもあった。また、人数でも圧倒的に不利だ。そうなった場合、取る行動は一つ。頭を押さえる。あくまで一時的に。時間が経てば形勢は逆転するだろう。不意打ちでホレスの注意を引き、話をする機会を得るのが精一杯だった。
第一段階は成功した。
「聞こう」
目で周りの人間たちに合図し、武装を解かせた。
ホッと息をつきそうになり、それを飲み込む。まだだ。気を抜いてはいけない。
「魔原石の移動はやめてください」
「イルマ……」
「いえ、わかっています。師匠が何を思い、行動に移したか、理解はできなくともわかってはいるつもりです。それでも、魔原石を動かすのは危険なんです」
ホレスの周りの魔力の動きに細心の注意を払いながら、問題の魔原石へ目をやる。
天幕は、イルマがここまでに使っていたような小さなものでなく、何十人もが生活できそうなほどの大規模なものだ。
その中心に透明な石が地面から顔を出している。
拘束されていたときから強大なプレッシャーを感じていた。学校で触れた魔原石よりもずっと活発で活動的な魔力が詰まっている。
「古王国の人々は、師匠と同じように魔力を手に入れるために魔原石を作りました。でも、考えてみてください。どうやってこれだけの魔力を集めたか。王都の、魔力の豊富な貴族が何十何百といても、あれ一つに到底足りない。それほどの魔力がどこにあったか」
「魔力を集める方法を知っていたのだろう」
イルマの剣などないもののように、平然とホレスは振る舞う。声に怯えの色など微塵も見られない。
「そのような話を聞いたことはありますか? 古き歌や、古文書に、魔原石が放つような強力な魔力を溜める魔法を、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉の人々が知っていたと」
「秘術中の秘術だったのだろう。今は失われた。それだけのことだ」
「違います師匠。彼らは強大な魔力を持つものを知っていたのです」
ホレスの眉がぴくりと動く。平然として見える彼の心に興味が宿った。
「魔原石は、あの力の源は――竜です」
途端に、弾けるように笑う。こちらが切っ先で彼の喉を傷つけないよう気を遣わなくてはいけないほど、声を上げて笑う。
「イルマ。竜などというものは、お伽噺の産物だ」
「いいえ、師匠は貴族ではないから、それも六貴族ではないから知らないだけです」
笑いはぴたりと止み、彼の顔に嫌悪の表情が浮かぶ。貴族はホレスにとって憎むべき相手でしかないのだろう。イルマも貴族だ。憎むべきウェトゥム・テッラ〈古王国〉の血を濃く引く六貴族だ。それをあらためて思い出したのかもしれない。
彼に触れられた唇を噛む。
「竜の話、私は兄から聞きました。兄は母から。お話として受け継がれています。でも、そういえば父は知らなかった。学校の友人も、師匠も、方程式の研究をしていて文献や歌、古くからの言い伝えに詳しいアーヴィンでさえ知らなかった」
彼の名を呼んだとき、胸がずきりと痛んだ。その苦しさを吐息の中に紛れ込ませる。ここに来る前、心の中で遙か地中の彼へ言葉を投げかけた。見ていてくれと。
「それは、魔原石から魔力を取り出し力を手に入れた、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉の人々の所行を隠すため」
周囲の男たちはオキデス帝国特有の肌も髪や瞳の色も濃い色をした者が多かった。だが、中にはレグヌス王国の魔法使いもいる。杖を持って、イルマの話に眉をひそめている。
「それでも、絶対に忘れないように六貴族にだけは伝わっているんです。だって、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉が滅びたのは、その魔原石を作る目の儀式のせいだったんですから」
「目の儀式?」
「はい。地下の遺跡に記録の間がありました」
イルマの推測がかなり混じっているが、それをあたかも事実のように話す。たまにはこんなはったりも必要だ。
「目の儀式は、竜を捕らえ、我々が力の目と呼ぶ魔力の詰まった目を魔原石に変える儀式です。ウェトゥム・テッラ〈古王国〉ではそこから魔力を取り出し、魔力のない人々に移し替えていたんです。ですが、最後に失敗しました。何が原因かはわからないけれど、記録の間は未完で、その魔原石も他の三つの魔原石のように完全な姿にはなっていません」
ここで後ろを振り返る。剣がぶれないように、だが脅威が薄れないように気をつけながら男たちを見る。天幕の中には三十人ほどがいた。
「魔法学校があんな風に小高い場所にあるのはなぜだと思う?」
フェンデルワースはどちらかと言えばなだらかな土地だ。そこに突然丘があり、その上に魔法学校が建てられていた。魔原石はその地下深くにある。入学の儀を執り行うとき、初めて丸く掘られた学校の地下へ降りて行くのだ。あれは竜を封じている。
「魔原石の、竜の目を移動しようとその周りを掘り起こすことにしたのよね? でも、地面があまりに固くてそれが叶わなかった。おかしいと思わない? ここは砂地。沙漠よ。こんな表面が固いなんて。でもね、それは仕方ないの。掘削の道具がぶつかったのは竜の鱗。竜の表皮は硬く、どんな鋭利な剣でも貫けないと言われてる」
ざわりと彼らの間に動揺が広がった。
うち捨てられた、先の曲がった工具。彼らもまたおかしいと感じていたのだろう。
「師匠。ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉がこんなに魔力のない土地になっていったのも、この竜がまだ生きているからだと言えませんか? どちらかと言えば魔原石のある土地は魔力に溢れている。それなのにここは、草木も育たぬ不毛の土地」
長い間国が研究し続け、そして原因がわからなかった仕組み。砂嵐を越えてようやくたどり着いた魔原石。
「竜は生きています。下手に刺激して目を覚ましたら、これだけ広範囲の魔力を吸い取ってきたんです。力は十分回復している。捕らえられていた怒りに、レグヌスどころか陸続きのオキデス帝国だってどうなるかわからない。だって、竜は力の目を手に入れる代わりに、理性の両目を手放した、魔力の塊、感情の塊のようなものなんですから」
重い沈黙が降りる。
ここで作業していた者たちにも思い当たることがあるのか、不安そうにちらちらとお互いを見やる。
「師匠!」
イルマの呼びかけにホレスはふっと口元を緩めた。
その瞬間、また地面が揺れる。
とっさにバランスを取るが、剣がホレスの首を傷つけないように必要以上の距離を取った。
彼はそれを見逃さない。
右手を伸ばしイルマの手首をひねる。そのまま杖を器用に脇へ挟むと、もう一方の手で喉を掴み、地面に押し付けられた。そのまま馬乗りになり体の自由を奪われる。剣を持つ手が地面に叩きつけられ、その容赦ない痛みに柄を放してしまう。
「ぐぅっ」
衝撃と、己の失敗にうめき声が漏れた。
「サミュエル出て来い! 近くにいるのはわかっている。私は魔力に敏感だぞ。お前が方程式を解き私を攻撃するのが早いか、それともお前の愛しい妹の首がへし折れるのが早いか。試してみるか?」
本当にすぐ側で空気が揺れる。
周囲に動揺が走り、苦渋の表情でサミュエルが立っていた。
「素直ないい子だ。その結界は本当に素晴らしいな。後で方程式を調べてみよう。……杖もなしでと思ったが、そうか、お前は家宝を魔具にしたのか」
「諸事情により」
「ふうん……杖の補佐なしであれだけ上手く魔法を使い、またそれを周りに悟らせなかったとは。私はお前を侮っていたようだ」
ホレスは慎重に杖を握り直し、立ち上がる。サミュエルの側の男が指輪を奪おうとするが、ホレスがそれ止め、落ちていた剣を拾った。
隙を見て身を起こそうとするイルマの胸を、足で踏み阻む。
「本当に惜しい男だ。ぜひ一緒に連れて行きたいと思うが、その眼では無理だな。第一お前は貴族だ。しかも六貴族インプロブ家の次期当主。私の考えなど一生わからぬだろう」
そういって剣を構えた。
男たちが無理矢理サミュエルを跪かせる。兄の顔が、仰向けに倒れたままのイルマのすぐ近くにある。
「手に入らないのならお前は危険だ。さよなら、サミュエル・インプロブ」
「兄さん!!」
イルマの絶叫とホレスの怒号が同時に起こった。
剣を振り上げた格好のまま、ホレスは魔原石の方へ吹き飛ばされる。
胸の上の重圧が突然消えて、激しく咳き込んだ。
「なに……」
「魔法を使いたくないのは、人を傷つける魔法があるから。……でも、魔法を使わないで大切な人が死ぬのをこれ以上は見たくない」
肘を突いて、体を起こしかけたまま呆然とそこに立つ人を見る。
「アーヴィン?」
「だから大丈夫だって言ったろ? 一見わからない抜け道がそこかしこにあったんだから。僕は暗闇でも移動できる」
飄々とした笑顔で笑う彼に、イルマは泣きたいのか一緒に笑いたいのかわからなくて、ひどく間抜けな表情をさらす。
「貴様はっ!」
怒りに顔を赤くしたホレスが起き上がり、彼の周りに魔力が集まっていく。
「僕はイルマを、ついでにサミュエル先輩を回収しに来ただけですよ。あなたたちの相手はそれだ」
真っ直ぐと杖を向けた先、ホレスのさらにその後ろ。
透明な魔原石。だがそれが見あたらない。
――地面が揺れる。
そして、再び魔原石が現れる。
「う、うあああああ!」
一瞬消えた魔原石。それは瞼が下ろされた、竜の目だった。
「自分たちのしたことです。後始末はよろしく」
アーヴィンが準備していたのだろう、二人を連れてその場から消え去る。かなり高度な転移の方程式だ。それをこともなげに操る。
一人が恐怖におののいた叫びを上げると、次々に伝染した。彼らの声が響き渡る頃には、三人の姿は天幕から消え失せていた。
そして、大地が動き出す。