第五章 ウェトゥム・テッラ〈古王国〉3
と、壁の上部に何かが見えた。
煉瓦が組み合わさっている壁は、側面のものと変わりない。そう思っていたが、質感の違う石がはまっている。
「アーヴィン、上を照らして」
数瞬遅れて、こちらを振り返りながら腕をできるだけ伸ばしてカンテラを頭上へ掲げた。
「鳥?」
彼のつぶやきに、イルマも目を細めてそれをじっと見つめる。
煉瓦ちょうど二つ分の大きさの石だ。周囲とは材質が違う。ずいぶん剥げているが、色石を張り合わせて基礎となる白い石に、鳥の形を作っていた。
「アーラドリじゃない?」
つい先日見た、波の模様の羽がそこにはあった。飛び立とうとしている姿がそっくりだ。
「……アーラドリ。そうか、そうだよイルマ。記録の間だ!」
「きろくのま? 確か、スペキリへみんなで見学に行った?」
「そうさ。ここは記録の間への入り口だ!」
「入り口って、壁しかないじゃない」
「確かにそうだけど、前に本で読んだことがある。記録の間は初めは封じられているんだってね」
記録の間とは、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉で行われる大規模な魔法陣の模擬を行う場所であった。今もいくつか遺跡として残っている。
規模が大きくなれば大きくなるほど方程式は複雑化し、手順を魔法使い同士が確認し合うために図形を床と天井へ書き記した部屋が記録の間だった。
が、次第にそれだけの規模の魔方陣を執り行うことができるという権力を現す場にもなっていった。
「模擬を行うから、なるべく邪魔が入らないようにするのが自然なんだ。その一番簡単な方法として、出入口をなくした」
「それじゃあ、入れないの?」
「いや、それは困るだろう? だから仕掛けが施されている」
そう言って、彼は先ほどイルマを止めたにも関わらず扉へ手をつく。
だが何も起こらない。
「やっぱり僕じゃだめだ。薄き血如きでは受け入れる価値がないんだろうね」
そう言って、目だけでイルマを促した。薄き血ではだめだと言うならば、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉の血を濃く受け継いだ者が触れればどうだろう。
そんなアーヴィンの心の声が聞こえてくるようだ。
けれど、こんなことをしている場合なのか? 閉鎖された空間だというのならば、地上への出口など見つかるはずもない。
単なる視察で来た末に見つけたと言うならば、喜んでこの記録の間の謎に挑戦したいと思うが。
思ったことをそのまま口にすると、アーヴィンは頷く。
「確かにそうだね。まあでも地上への道はさほど心配することはないと思う。それよりも、記録の間に出入り口がない状態のままだというのが異常なんだよ」
「なぜ?」
「それはつまり、儀式が完成していないってことだ。儀式が完成すれば、出入り口が設けられ、秘術の部分はまっさらにされてここで何を行ったかを記すだけの空間となっているはず」
「儀式が始まる前に何かあったかもしれないってことでしょ?」
「いや、むしろ、まだ途中なんじゃないかってことだよ」
もどかしそうに空中へ視線をやりながら、言葉を探している。
「ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉の魔力の抜け落ち方は異常だ。それは言ったよね? こんな状態で物が存在していられる方がおかしいんだ。普段魔力と言ってるのには二通りある。僕らが魔法を使うための魔力と、物がそこに存在するための魔力だ。後者は誰もが備えている。だから普段はそれを魔力とは呼ばない。魔力がないと言うのは前者の魔力がないことを指す。それは、後者の魔力がないことなんて絶対にありえないからだ。魔力なしに物質は形を保っていることができないんだ。なのにこのニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉では、本来砂の一粒一粒にあるはずの魔力すら、ほとんどないんだよ」
彼は真剣にそう訴える。
「つまり、このニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉の異常にこの儀式が関わっているんじゃないか、ってこと?」
「そう。もしかしたら、途中で放り出された儀式がニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉を作りだしている原因なのかもしれない」
ちょっとした興奮状態だ。それは結局ここを抜け出して地上の様子を窺いにいくことを優先しない理由になっていないわけだが、彼はもうそれに気づいていないのだろう。確かに興味がわかないわけでもない。
諦めて壁の前に進み出ると、アーヴィンがとても嬉しそうな顔をする。感情の起伏が緩やかというかほとんど変化を見せない彼が、それほど夢中になるというならば、少しくらい協力したいと思う。
ゆっくり右手を伸ばす。
指先が軽くしびれるような感覚。まるで壁と指の間に電気が通っているかのようだ。
そう思った瞬間、手が引っ張られた。壁へ吸い寄せられる。
「アーヴィン!?」
あっと言う間の出来事だ。手は壁を突き抜け、長衣の袖ごと肘までめり込む。そこに壁などないように。
「そのまま進んで」
カンテラを持った左手を、アーヴィンが手を伸ばして掴む。体が煉瓦を通り抜けるときはさすがに目を閉じた。
そして、空気が変わったのを感じる。
「イルマのカンテラも点けよう。ほら、この台に二つを置くようになってるから」
やたらと響く彼の声で目を開く。あたりは真っ暗だ。アーヴィンが持つカンテラだけが二人の間で揺れている。
鞄から燐寸を取り出すと、彼がもう一つに火を点す。照らす範囲は二倍になるが、周りはその分さらに闇を濃くしたように思える。
「見学のときは、魔法を照明の変わりにしたけれど、実際はたった二つの小さなカンテラで巨大な空間に明かりをもたらした」
そう言って、彼が二つの明かりを、すぐ目の前にあった白い石の上に据えた。石には四角い溝が彫られている。ちょうど、カンテラの底がはまるようになっている。
イルマはスペキリの見学時に、教師が言った言葉を思い出していた。
記録の間は、明かり取りなどを設置できず、そのため照明を持ち込むことになるのだが、魔法の演習を行う場所として他の余計な魔法を使うことが基本的には禁じられている。そうなると部屋全体を明るくするのが難しい。あまりに大量の松明を持ち込めば、空気の循環もままならない部屋はすぐに息苦しくなってしまう。
そこで取り入れられたのがこれだ。特別な技術で作られたカンテラは、絶妙な位置に置かれた水晶や鏡によって光を反射し、部屋全体を昼間のように明るくすることができるのだ。
現れた空間に、二人は息をするのも忘れてしまう。呆然と上へ下へと目を走らせる。
ここが砂の下であることが信じられない。それほどに広い。
壁が光り出す。だが、明かりがちらついて眩しいなどといったことはない。すべては計算されている。
「アーヴィン……」
「すごい、すごいよここは、これが本当の記録の間なのか――ほら、天井と、床に方程式が記されている。やっぱりここは未完だ」
儀式が完了すれば消されるはずの方程式がそのまま記されている。イルマはアーヴィンに手を引かれてさらに進む。
小さな音もこの巨大な空間にこだまする。声がぶつかるものがなく、どこまでも遠くへ響いていく。
「ここが中央かな」
彼は足元と天井を交互に見て言った。
丸い円が描かれている。
「違う、球ね」
「ああ。その隣のはコクレアの方程式だ」
魔法の難しさは、それを紙面で伝えられないことだ。魔法は三次元であり、それを正確に二次元で表現するには限度があった。立方体は描けても、それがいくつも重なり合うことを表現するのは難しい。一応表現するための記号や書式はあるのだが、それも正確ではない。
コクレアの方程式は螺旋を作り出す基本の方程式だ。下の渦が上の渦より小さいので、下から上へ方程式を展開していた。球はグロブスの方程式によって作られる。描かれている円の中心にαの文字があった。これが基準となるという知らせだ。
渦の中心には2とあるので球より二倍の大きさで方程式を解くようになっていた。他にも立方体や円柱、円錐に半球と基礎の方程式がたくさんちりばめられている。そのすべてに数字が添えられているが、2なんて整数はめったにない。小数点が、細かいものでは三桁まである。一回見ればだいたい覚えられるが、頭の中で想像して、とんでもなく大きな布陣になるなと驚いた。
「すごいわね。いったい何の魔方陣になるのかしら?」
そうイルマが話しかける。しかし、返事がない。
背後に立っているはずの彼に聞こえないわけがない。振り返りざまに顔を覗き込むと、目は開いていた。
「アーヴィン? どうしたの?」
彼は、頭の上と床を見ているのではなかった。入ってきた方から見て左手にある壁を、眉をひそめて見入っている。
イルマもその視線を追う。
「ああ。竜ね」
壁一面を使って描かれているのは黒い竜の姿だ。その竜は、かなり広めの応接室二つ分はあった。ただしそれは絵の部分だけ。その周りにびっしりと文字が書かれている。魔法で彫られたものなのだろう。もし手彫りだとしたら、どれだけの日数がかかるか想像できない。
竜の絵の下には、その細かい文字よりもずっと大きな字で何かが書かれていた。絵の説明かもしれない。ところどころ崩れ落ちてしまっているので、全部を読むことはできないが、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉で使われていた一般的な文字だ。
「目? 目の儀式って書いてあるのかしら? なんだか変ね」
大きな竜の絵と、小さな三人の人。たぶん魔法使いだろう。その一人が雷に打たれている。
「まさか、そんな……」
あらためて彼を見ると、紺色の瞳が大きく見開かれ、口が開いている。わかりやすい驚愕の表情だ。
「何? どうしたの?」
「だってイルマ、この絵」
「竜の絵でしょ? 火は噴いていないみたいだけど、翼は案外小さいのね。ああ、でも考えてみたら彼らは魔力の塊なわけだから、きっと魔力で浮くのよね」
疑問に自分で解答を述べ、うんうんと満足げにうなずく。そんなイルマをアーヴィンはまじまじと見ている。
「君は……、なんでそんな簡単に受け入れられるんだ!」
「えっと、何が?」
信じられないと彼はつぶやき、真っ直ぐ絵に指を向ける。
「竜だよ! もし、もしこれが本当にウェトゥム・テッラのもので、本当にここが記録の間だとしたら、竜がいたってことになるんだぞ!?」
最後は声が裏返っている。
しかし、そんなに慌てる理由がイルマにはよくわからなかった。
「だって、竜はいたもの。でしょう?」
驚く理由がわからない。昔から話によく出てくるではないか。
「確かにいたという物的証拠はなかったけど、ウェトゥム・テッラの人と竜の話は昔よく兄さんがしてくれたし。結構お気に入りよ?」
「それはどんな……」
「どんなって、たくさんあるけど。……だって、私たちが魔力を見る目だって、もともとは竜と人がそれぞれ道を別った原因になっているわけだし」
「待ってくれ、何か話が」
「私たちのこの眉間にある力の目は、本来は人が捨てた目なわけでしょ? 壁画はちゃんと竜が三つ目だわ。額のものが力の目ね。で、竜は両の目を閉じているでしょう? それは彼らは理性の両目を捨てて、力の目を取った。だから大きな魔力を持ったわけだけど、理性が薄れてやがては滅んでしまった。人は力の目を捨て、理性の両目を手に入れ地上に栄えた。ってやつ」
「そんな話聞いたことない」
アーヴィンは気の抜けたような声でつぶやいた。
「そうなの? 王都で流行っていたのかしら。アーヴィンはゲナの生まれだったわよね。だから小さい頃にあまり聞く機会がなかったのかも。竜の話って不思議と大人はしないし。私も兄さんから聞いたくらいだもの」
アーヴィンは口元を押さえて考え込んでしまった。こうなると話しかけても無駄だ。方程式を熱心にいじっているときと同じ状態だった。イルマは肩をすくめて他の壁を見るため歩き出した。
天井と床は方程式を表す場所と決まっていたが、他はこれと決まった形式はない。ただ、後年儀式に関するものや、その年起こった出来事、またはその大きな儀式を執り行う人物について書かれていることが多い。つまり、権力を誇示するためだ。竜に関わる目の儀式とやらが、ここで行われようとしていた――もしくは行われている途中だった。その竜の絵の向かいの壁には三色の丸い色硝子がはめ込まれていた。ただし、一つがイルマの背より大きい。硝子はもろい。割れてしまわないように補強の魔法がかけられている。それくらいなら、イルマでも目を閉じればわかった。
その赤と緑と青の円の中央にひときわ大きく文字が彫りこまれている。
「クリュ……なんて発音するんだったっけなあ」
ウェトゥム・テッラ〈古王国〉のこういった場所で使われる形式的な飾り文字は組み合わせでかなり音が変わる。学校でも一例を習っただけで、詳しくやれば一生かかってしまうほど奥の深い学問だ。
結局、赤い硝子がなんとかブンクか、ヌで、緑がクリュなんとか。青い硝子にいたっては、なんとかヒしかわからなかった。
あまりに情けない結果に肩を落とす。
近づいて、硝子の周りに書かれた文字を見る。文字はイルマの手のひらよりも小さかった。硝子へは背伸びをしないと手で触れることはできない。
文字が欠けてしまっているところも多く、単語の意味をとっていくがおぼろげにしかわからなかった。どうやら過去の目の儀式について書かれているらしい。年号も書かれているが、王が変わるたびに年号も変わるのでそれがどのくらい前のものなのか、思い出すのに一苦労だ。アーヴィンなら即座に答えてくれそうだが、今の状態では無理だろう。
保留して次へ行く。
イルマたちが入ってきたちょうど正面の壁には、色つきの硝子で一人の人物があらわされていた。細かく砕いた硝子の破片を組み合わせ、大きな絵に仕上げている。
これはさすがにイルマもわかった。
ウェトゥム・テッラ〈古王国〉最後の王。マニュス・セプテントリ三世だ。
あの夢の出来事の後、彼が読んでいた本を、イルマも読んでみた。
マニュス・セプテントリ三世は、政治的能力に長けた王だったという。彼の行った政策はことごとく的を射ており、人々の暮らしが目に見えて向上したそうだ。ちょっと褒めすぎじゃないかと思うくらい、そういった内容が書かれていた。
だが次の瞬間その褒め上げたセプテントリ三世を蹴落とすのだ。
魔力が少ない、と。
魔力は血筋が絶対だ。そして、それでも、たまに量の少ない子供や、反対に多い子供が生まれることがある。今の世でも同じだった。どれだけ金髪碧眼の貴族的容姿をしていようとも、魔力の量が少ない者はいる。
他でどんな風に頑張ろうとも、最後には惜しむべきは魔力の少ないことだとまとめられるのがセプテントリ三世だった。
それでも、今のイルマたちよりもずっと多い。それは比べ物にならないほどだ。
「そんな王様がいったいなんの儀式をするつもりだったのかしら」
と、遠くで音がした。
とても小さな響きだったが、まったく無音であったこの空間で、それは予想以上に大きく耳に届く。
「何かな?」
アーヴィンもようやく抜け出したのか、入り口へ向かう彼女に追いつく。
「音、したよね?」
「うん。聞こえた」
二人は顔を見合わせる。それぞれカンテラを取ると、途端に記憶の間が闇に沈んだ。
出るのは入るときより簡単だった。こちらから見ると通路は隠されていない。普通に、真っ直ぐ進むだけだ。
「砂が落ちてきたとか?」
「いや、揺れはなかったし……だけど、確かにその可能性はあるな。気をつけて」
先を歩くイルマに、アーヴィンが注意を喚起する。
歩いてきた道を、さっきよりもずっと速い速度で進んだ。
「イルマっ!」
できうる限り声を抑えたのだろうが、狭い通路にはそれが大きく響いた。どうしたのと返すよりも先に、前方に白い姿が揺れた。
「師匠!」
暗闇に浮かぶのは、杖の先に明かりを点して歩くホレスの姿だった。あちらもイルマを見つけると、笑顔を浮かべる。
「無事ですか?」
「はい!」
嬉しくて駆け寄ろうとする。が、イルマの腕を引く者がいる。
「アーヴィン?」
「だめだ、イルマ」
「だって……」
「引き返そう」
「でも、一本道だったじゃない」
「大丈夫だから」
さっき彼が話していたことはわかる。だけど、それならそれで平静を装わなければならないのではないか? まあ、イルマは純粋にホレスが現れて嬉しくて、最初の一歩はそこまで考えていない。
「イルマ、どうしたんですか?」
ホレスは不思議そうに首を傾げる。アーヴィンと師匠を交互に見つめて困っていると、後ろの彼が口を開いた。
「ホレスさん、その人は誰ですか? サミュエルさんではありませんね」
「え……?」
明かりを点している杖ばかりが強調され、その後ろにある人影が誰の者なのか判別がつかない。
そう、確かにホレスの後ろには人がいた。
サミュエルだと思ったが、もし兄なら、イルマの姿を見つけ次第飛びついてくるだろう。兄ではない。
「レケン君は、本当によく気がつきますね」
ホレスの笑顔は崩れない。だが、彼の周りにみるみる魔力が集まった。方程式を解いている。
「けどね、魔法使いの前で杖を持ってもいないくせに、そういった態度はいただけません」
「師匠!?」
「イルマ!」
声が交錯する。
アーヴィンはイルマの外套を強く引くが、その彼があっという間に後方へ吹き飛ばされた。
「アーヴィン!」
駆け寄ろうとするが、今度は自分の体が浮く。足下がすくわれる。
苦痛に呻く彼の声がこだました。手からカンテラが落ちる。高い音を立ててわずかに残っていた油が石畳にしみていく。
「師匠何を!」
そのままホレスの元へ運ばれ、後ろにいた男に両腕を取られる。その顔には見覚えがあった。
「お前は!」
体の後ろに隠し持っていた杖には、期限切れの印が輝いている。
「やあ。お嬢さん」
「気をつけて。彼女は体術もなかなかのものです」
「師匠!」
悲鳴のような呼びかけに、ホレスは紫の瞳を細める。
「大きな穴の横に、あなたたちの杖を発見したときは肝が冷えました。ですが無事でよかった」
彼の大きな手がイルマの頬を撫でた。
普段なら安心する仕草だが、なぜかぞくりと鳥肌が立つ。
「レケン君はここでさよならです」
ホレスが式を解く。
「解」
両側の壁が崩れ出す。
「アーヴィン!」
狭い通路はあっという間に砂と石が積み上がり、彼の姿がその向こうへ消える。
「師匠、何が! なんで?」
「しばらく眠りなさい」
杖の先の魔石が、紫色の光の帯に包まれる。イルマの意識は光の中に埋もれた。