第五章 ウェトゥム・テッラ〈古王国〉2
こぼした涙もすっかり乾いていた。指先でその跡をなぞる。
頬がひやりとする。
名前を呼ばれる。
遠くで。ぼんやりと。まるで水の中にいるような具合に。
やがて呼びかける声が、だんだんと近づいてきた。うるさいなと顔をしかめる。と、鼻をつままれた。
――冷たい指先。
「ふぇっ?」
重い瞼を押し上げると、目の前に人の顔があった。全体的に暗く、はっきりと見えるわけではない。それでも、背格好でアーヴィンだとわかった。こちらが気付くとすいと体を離す。
「起きた? 痛いところは? 気持ちが悪かったり目が回ってたりしない? 何本に見える?」
矢継ぎ早の質問と、右手の人差し指を立てて目の前で振る彼に、固まる。
「イルマ?」
何も答えが得られないのに焦ったのか、頬をぺちぺちと叩く。冷たい指。
「ここは?」
口がきけなくなったわけじゃないと安心してか、彼にしては珍しく優しく微笑んで上を向く。
「随分落とされた」
砂のさらさらと流れる音がする。
同じ場所に月明かりが煌々と降り注ぐ。
「頭を打ってるかもしれないと思ったけど、砂を被り続けるのも辛いと思って動かしてしまったんだ。気分は?」
横になったまま頭を振る。肘や踵が少し痛む。落ちながらどこかへぶつけてしまったのだろう。だが、沙漠に入ってからは常に張っている防御の結界のおかげで、致命的な怪我はしていない。
「……アーヴィンは?」
「ん? ああ。僕も君の結界のおかげでたいした怪我はしていない。少し腕をすりむいた程度だよ」
不幸中の幸いと言う。確かに、あれだけの高さから落ちて、この程度なのはイルマの結界の能力を考慮しても、運がよかったと言えるだろう。
もう一度目を閉じて、体の隅々まで意識を巡らす。おかしなところはないと思う。
そう判断を下して、ゆっくり上半身を起こした。
二人は落ちてきた場所より少し離れたところにいる。沙漠には似合わない固い石の床。そこへアーヴィンの外套が敷かれ、その上にイルマは眠っていたようだ。座ったままの状態で体をずらす。
「これ……」
「ああ。眠っている人は体温が下がりやすいって聞いたから」
掛けるか敷くかで悩んだんだけどと、ごにょごにょ口を濁す。言い訳は照れ隠しだ。彼は受け取って、少し離れた場所で砂をはたく。
「うん。ありがとう」
イルマもそう言って立ち上がった。月明かりはほんの一部を照らすに過ぎない。今いる空間が、どのくらいの広さがあるのかもわからない。
そこで、常に身近にある存在が欠けていることに気付いた。
「杖!」
振り返った先で、アーヴィンも肩を落として首を振った。
「探してみたけど、どちらのもなかった。たぶん、落ちたとき上に置いてきてしまったか、途中で引っかかったか。ここは何層にもなっているようだよ」
彼はイルマの手を取り腕を引く。砂が落ちて来る側に立って指さした。
「ほら、まるで地中深くに建物を埋めたみたいだろう?」
「ほんとう……」
崩れて判別が難しい箇所もあるが、この空間の上に同じような高さのものが最低でも五つある。
「登って行くのは、無理そうね」
「うん。だけど、来て」
アーヴィンはとても楽しそうだった。それはとても珍しいことだ。口数も、普段より遙かに多い。
この状況で、どこに楽しむ隙間があるのかと訊きたい。なんだか楽しめないイルマが悪者のように思えてしまうくらい、彼の声は弾んでいた。
「僕もついさっき目が覚めただけだから、まだそんなに調べてないんだけど」
迷わず暗闇に進む。少し歩くだけで光が消えてしまう。
「アーヴィン」
不安になって名前を呼ぶと、彼は少し強く手を握った。冷たい手だ。
「大丈夫。ほら、目を閉じると形が見えてくるよ」
「私は、あなたほど上手く魔力の流れは見えないわ」
「そうか。なら、案内するからついてきて」
彼の歩みに迷いはない。
目が見えているかのようにすいすいと進む。
「地下に埋もれた建物。何だと思う?」
「さあ……ただ、もし魔原石があるとするなら、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉のものかな」
「僕もそう思う。ここは、上ほど魔力が流出していないんだ。ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉にあるのに、魔力が溢れてる。すごく、歩きやすいよ」
「アーヴィンだけよ」
だいぶ気を遣ってくれてはいるが、ところどころ突き出た石に足を取られそうになる。
見えるわけがないのに、つい視線が下がりがちになった。もう先ほどの光は届かない。声の響き方をみるにどこか区切られた場所にいるようだ。
「覚えてる? 開かれた子がなんだって、君に怒鳴られた」
唐突な話に首を傾げながらも、沈黙が続くことが怖くて返事をする。
「そんなこと、言ったっけ?」
覚えてない。
「君っていつもそうだよね」
「……ごめんって、謝るところ?」
「いや、いつも真っ直ぐで、思ったことをすぐ口に出す。それがまた正論でさ、人間あんまり正論をぶつけられると逃げ道がなくて困る。あのときも、結局みんなが困ってたな」
「覚えてないんだけど」
「実習でさ、僕が開かれた子だからって生徒の一人が嫌がったことがあったんだ」
「おかしな話ね。反対ならまだわかるけど。ああ、それか、自分よりできる人間がいると嫌なタイプ? でも私がその場にいたなら私が一番できたわけだからそうじゃないわよね、きっと」
「ほら、正論。まったく同じことを言ってたよ。性格が合わないってならわかるけど、開かれた子だから僕が嫌だっていうのは、筋が通らない。あのときもそう言って彼を叱ってた。だけどさ、それだけじゃ終わらないんだ」
「……思い出してきた気がする」
そして、その状況なら間違いなく自分はアーヴィンにも言わずにはいられない。
「開かれた子だからなんて言われるのは、僕らが魔力の世界ばかりを視て現実を見ないからって。あれは確かに事実だし、誰だって思ってることだけどあんまり面と向かって言葉をぼかすこともなく言える人はそうそういないからね」
イルマと同学年の開かれた子はアーヴィンだけだった。だが、別の学年になら数人いた。その誰もが一人ぽつんと輪から離れたところにいる。だが、彼らはそれを改善しようとしないし、他の生徒はどんどん疎遠になっていく。
「ああいうのはどちらにも腹が立つのよ」
「それはわかる」
「個人の好き嫌いはね、正直仕方がないと思うの。性格の不一致ってあるから。私だって苦手な人とかいるし」
先ほど見た夢を思い出す。あまりにも懐かしい。新学年が始まって、少し経ってからのことだったはずだ。
「でも、個人を見ないで大まかなくくりで嫌いだと、嫌いでいいんだってするやり方は――」
女が、男より魔法使いとして優秀とは、とか、宮廷魔法使いを目指すなんて、と散々言われ続けたそれが、そのままぴったり当てはまってしまう。
「嫌なのよ」
「うん。イルマが大変だったのは知ってる。みんな知ってるよ」
いつの間にか細い通路を通っている。肩が当たって、反対側へ逃げるとまた壁に当たる。とても、狭い道だ。話ながら、本来なら杖を握っている手を壁へつけてみると、案外しっかりしていて驚いた。砂の浸食もなく、いったいどれほど長い間こうやってあったのか。
「あのときはみんなお互いに気まずくなった。だってさ、彼が僕につっかかってきたのは、本当は開かれた子とか、そんなものは関係なかったから」
「え? そうなの!?」
「そうだよ」
闇の中でアーヴィンが笑った。今日の彼は本当によく話す。落ちた衝撃で何か起こってしまったんじゃないかと心配してしまうくらいに。
「彼は、君が僕に構うのが嫌だったんだ」
「……それなら」
何かを言うなら自分にではないかと言いかけて、彼の言わんとするところよようやく飲み込める。
「本当のことを言いたくても、なかなか言えないこともあるよ」
でも、とかだって、と心の中で文字が浮かび上がり、そして消えていく。
この話の先が、どこへ届くのかもわかってきた。
「アーヴィンも、言いたくても言えなかったと?」
「だって、どうなるか目に見えてるだろ? 言っても無駄というより、状況が悪くなりそうだったから」
「そんなことないわ!」
「それなら、君はホレスさんのこと、今はどう思ってるの? 僕からあんな話を聞いた今、君はどんな風に考えるの?」
「それは、何かの間違いよ。だって、師匠はとっても――」
「ほら。間違いだと言って、彼がそんなことをしていないと言える材料を探し始める。サミュエル先輩に相談して、あまつさえ本人にそれとなく探りを入れたりするだろ? こちらが気付いてるってのが、きっとばれるよ」
「じゃあ、なおさらよ。なんでアーヴィン、ついてきたの?」
「……たまには自分で考えてみるといいよ。君は頭がいいんだから」
とても嫌味に聞こえて、彼の手をぐっと力を込めて握る。が、ほら、と言った。
「あれなら見えるだろ。あの、床に落ちてる物」
アーヴィンは彼の元にイルマを引き寄せると、肩を両手で掴み体の向きを変える。
「もっと顎を上げて。そう、それくらい。真っ直ぐ先にある」
「何も……」
闇に目が慣れてきたとしてもそれは微かな光がある場合だけ。月明かりさえ届かない完全な暗闇では、見るも何も、すぐ前にあるアーヴィンの背中さえ判別がつかなかったのだ。肩に置かれた彼の手だけが、夢ではないのだという実感をもたらしていた。
「そうじゃなくて、魔力だよ」
ああそうかと両目を閉じる。これは気分の問題だ。眉間に意識を集中すると、辺りが一気に明るくなる。だが、イルマではこの中を自由に歩くのは少々難しい。どれが何を構成しているかがいまいちつかめないのだ。
「ほら、奥にひときわ輝いてる。カンテラだよ」
「カンテラ!?」
「うん。魔力がかかってる。油が蒸発しないように、古王国からの、骨董品だ。でも使えるね、これは」
近づいて、彼は鞄から燐寸を取り出し擦った。その明るい光に目がくらむ。暗闇に慣れてしまったイルマには、痛みのようにも感じた。
イルマがあわてて瞼を下ろしている間に、アーヴィンはカンテラに火をつけた。瞼の裏がオレンジ色に染まる。
「もう一つある。こっちは後でつけようか」
そう言って目を閉じたままのイルマについていないそれを渡す。金属のひやりとした冷たさと、長年放置されていてさび付いたのだろう、ざらざらと金属が皮膚をこする感覚が時を感じさせる。
ようやく慣れて開いた目に映ったのは、明かりに照らされたアーヴィンの顔だった。先ほどは気付かなかったが、頬に傷がある。
イルマの視線に直前まで握っていた手がそこを押さえる。
「もう痛くないよ。顔に傷がついたのが、僕でよかった。これがイルマだったら、後でどうなったことか」
「兄さんに、問答無用で殴られるわ」
「だろうね。この傷よりひどいことになりそうだ。さあ、行こう」
明かりがあるので先導は必要はないのに、彼はまた同じ手を差し出した。イルマもそれを黙って握る。
「適当に歩いていたんじゃなくて、一応魔力の崩れがましな方へ来ていたんだけど、この先何かあるね」
アーヴィンがそういって腕を上げた。カンテラの明かりが揺れる。奥の奥まで照らし出すことはできないが、道が途絶えている。
突き当たりに何かがちらりと映った。
「行き止まり?」
「みたいだね」
突然途切れてしまった通路に、二人は顔を見合わせる。
「でもここが一番魔力が集まってる」
慌ててイルマも両目を閉じた。辺りが一瞬暗くなり、そして輝き出す。確かに彼の言う通り、両側の通路の壁をかたどる魔力よりも、目の前の壁の魔力の方が整然と並んでいる。――いや、並びすぎていた。これはさすがにおかしいとイルマでも気付く。
「何か仕掛けがあるのね」
イルマが手を壁に伸ばす。
指先が触れるか触れないかの距離だった。爪に、ぴりっと何かが走った気がする。
慌てて引っ込めると、自分の手をまじまじと見る。アーヴィンがカンテラの明かりで照らしてくれたが、特に異常は見られない。
気のせいかともう一度伸ばそうとすると、今度は止められる。
「あまり不用意に触らない方がいいよ。今ので壁の魔力が少し動いた。間違いなく反応している」
「でもそんなに悪い感じはしなかったから……わかったわよう」
睨まれた。明かりの当たり方が表情をより険しいものにしていて、しぶしぶ引き下がる。
その様子に頷いて、アーヴィンは壁を入念に調べだした。触れないように細心の注意を払い、何かこの謎を解く手がかりを探す。
この通路はそれほど大きなものではなかった。真っ直ぐ手を伸ばして背伸びをすれば天井に指先が触れる。道幅も、両手を広げてくるりと回るのがギリギリできるくらいだ。
熱心に壁を見るアーヴィンを置いて、イルマは来た道を数歩分戻る。少し離れた場所からカンテラの明かりに浮かび上がる壁を眺めた。
完全に探索モードに入ってしまった彼の邪魔にならないよう、その姿をぼんやりと見る。
明かりを灯し、両目を開くとすっかり忘れていた心配事が首をもたげてきた。
上はどうなっているのだろうか。
サミュエルが、アーヴィン不在に気づけば、同時にイルマがいないことも知るだろう。捜索を始めてさえくれればすぐに迎えに来てくれるはずだ。魔法を使えば、それくらいわけない。
感覚でしかないが、まだそれほど時間は経っていない。長くて一刻程度だろう。先ほどの地震は大きかったが、ここに来てから何度も遭遇しているサミュエルが、いつものことと目を覚まさなくてもおかしくはない。交代の時間まで、気づかなくても致し方のないことだ。
そう無理やり信じたい自分がいた。
そうでなければ、今の今までサミュエルが現れないのがおかしい。
やあ、待たせたねと軽口をたたきながら、イルマを抱きしめないはずがない。
兄の身にも何かが起こったとしか思えないのだ。
アーヴィンの指摘を、胸のうちで繰り返す。
もし師匠が本当に、そう、ならば、自分はどうするのだろう。
まさか、という思いが湧き上がり、考えることをやめてしまう。
ホレスに対して、信頼以外の感情を持つことはない。疑うという行為が驚きの対象だ。
それを、アーヴィンが打ち砕いた。
自分は疑い始めているのだろうか?
信じたくないと否定するのは、そうしないと肯定されてしまうような材料があるからなのだろうか?
だめだ、と頭を振る。自分がどんどん落ち込んで行っているのがわかる。目の前のことに集中しよう。杖無しで地上への道を探すのは困難極まりない。
もしかしたらこの先に出口につながる道が隠されているのかもしれない。
閉じていた両目を開く。そう。理性の目だ。人は竜とは違う。ひと時の感情に押し流されて、理性を失ってはならないのだ。