第五章 ウェトゥム・テッラ〈古王国〉1
どこか遠くで声がする。
鳴き声が。
いや、泣き声だ。よく知った泣き声。自分が、声を殺して泣く声だ。
サミュエルはイルマを執拗に女性として扱う。どんなに反発しても、彼女を守るべき対象としてどこまでも可愛い妹、可愛い少女と通してきた。兄のその態度が通常でないとわかったのがフェンデルワースに入学してすぐ。
そして、兄の力が絶大だったと知るのは、彼が卒業した二年のとき。十四のときだった。
今思えば当然のことだが、なんでもはっきりと言ってしまうイルマが、すべての人間に好かれるはずがなかった。実技も、筆記も、すべてにおいて全力を尽くし、それに伴った成績を打ち出す彼女は、羨望の的であり、また嫉妬を一身に受けることになる。
それでも、男子生徒は女子に負けたという事実が根底にあり、だからといってそれに嫉妬していると周囲に思われるのは自尊心が許さない。表だってイルマにつっかかるような者はいなかった。むしろ、積極的に関わってくる。イルマを認めたという心根の広さを周囲に知らしめる。
だが、いつの世も、女性の執念深さは常軌を逸する。
細々としたことは、確かに一年のうちから始まっていたと思う。二年になり、それがあからさまになった。けれど、正面切ってつっかかってくるような女子生徒はいない。
困ったなと思いつつも、気にしないでおこうと放置してた。同時に、はっきりと言われれば言い返してやれるのにと腹も立てていた。
そんな態度が見え見えだったのだろう。状況は悪化し、とうとう、望み通りはっきりと正面を切って言われた。
要約すれば、同じ女子であるイルマが頑張れば頑張るほど、自分たちも本来は女だから手を抜けることが抜けなくなってしまう。余計なことをするな。また、そうやって健気に頑張っている演技をして、男子に媚びているのが腹立たしいと言うことだった。
前半の主張と後半の主張で、イルマは結局頑張っているのかいないのかよくわからない。
ただどちらも彼女たちの本心なのだろう。
つまり、イルマの存在に苛立ちを感じているわけだ。
どうしようもないその事態に、言い返してやろうと思っていた言葉が消えた。
あなたたちの言いたいことはよくわかったと、それで終わった。わかったがどうしようもない。けれど、言ってすっきりしたのだろう。泣きも喚きもしないイルマに、居心地の悪さを感じながら、それでも彼女たちは満足して去って行った。
残されたイルマは、初めて向けられた苛立ちを、どう処理していいかわからずに立っていた。
他人から見れば、険しい表情のまま。
こんなとき普通ならどうするのだろうと考えて、兄の言葉を思い出す。
何をしていいかわからなくなったらとりあえず泣いてみればいい、と。
それには常に、兄の胸で泣けばいいというおまけがつくのだが、彼は王都レグヌスセスにいる。フェンデルワースよりもずっと北だ。
仕方ないので一人で泣いてみた。
そんな簡単に泣けるとは思ってもみなかったが、案外すぐに涙がこぼれた。一度こぼれ出すと止まらない。
寄宿舎の裏の木陰で、声をこらして泣く姿は、それは珍しいものだっただろう。
彼女たちに呼び出された場所から動いていない。だから、まさか誰かいるとは思ってもみなかった。すぐ後ろの茂みでがさりと人の動く気配に涙が止まる。
振り返る。
普通なら、そう、その場から逃げ出すのが正しいような気がする。だが、そのときのイルマは、茂みに向かった。
「……アーヴィン?」
分厚い本の向こうから、藍色の瞳がちらりと見える。
「……やあ」
「……いつからいたの?」
「君らが後から来た」
つまり、全部聞いていた。その場を動くことができず、じっとしていたのだろう。
それまでアーヴィンと意識して話すことはなかった。積極的に人の輪に入ってはこないし、何か始めるとき、側にいれば誘う。そして彼は断らない。ただそれだけだった。
このまま立ち去ることもできず、少し悩んでイルマはアーヴィンの隣に座った。顎を膝に乗せて抱える。
アーヴィンも膝を立てて、その上に重い本を乗せて静かにページをめくる。
ぱらぱらと、紙の音だけがする。
かなりの早さでめくられていくページに、黙っていられなくなる。
「ねえ」
「うん?」
「慰めてくれたりしないの?」
「慰めて欲しいの?」
「全然」
「だろうね」
言い切られてむっとする。
「君が慰めて欲しいと思っていたら、本気で心配する」
またまたむっとする。
でも言い返せなくて、足下の芝生をぶちぶちと引き抜いた。
自分の周りの芝生がほとんどなくなって、再び手持ち無沙汰になる。
部屋に戻ればいいとはわかっている。アーヴィンは、イルマが泣いていたなんてことを吹聴しないだろう。けれど、なんと声をかけてその場を後にすればいいかわからない。
「何を読んでいるの?」
人を殴り殺せそうなほど分厚い本だ。ここまで持って来るのも大変だっただろう。こういった類の本は持ち出し禁止が多いのに、珍しい。
「ウェトゥム・テッラ〈古王国〉の最後の王に関しての本だよ」
「ふうん。楽しい?」
「まあね」
また、会話が止まる。
続けようと思うのがいけないのだろうか。
「最後の王に関してなんて書かれているの?」
「諸説あるからね。ただ、常に言われているのは、最後の王の魔力が、他の人よりも少なかったから、ウェトゥム・テッラ〈古王国〉は滅びたということだ」
「……なんで?」
「さあ。王にふさわしくないと、争いが起きたからと言われているけれど、それが真実かは知らない」
「ふうん」
今日は授業も何もない。みんな好きなことをしている。イルマも午前中に課題を片付け、午後は何かゆっくりしようと思っていた。だが、結局こんな事態に陥っている。
どうしてこんなことになったんだろうなと思っていたら、自然とそれが口に出た。
「どうしたらいいんだろうね」
「さあ」
こちらから話が始まれば、それには答えてくれるようだ。
だが、欲しい言葉とは限らない。だいたい、イルマ自身がなんといって欲しいかもわかっていなかった。
「ねえ、ちょっと冷たくない?」
「優しくして欲しいの?」
「そんなことないけど!」
「だろうね」
さっきとまったく同じ会話が続く。
「だって、君へこんでないだろ」
ちょっと方向が変わってきた。
「慰めようがない」
「……そう?」
自分は、落ち込んでなかったのか?
「でも、ほら。私さっき泣いてたじゃない」
言って、ちょっと後悔した。なんだか恥ずかしい。頬が赤く染まる。
だが、失礼なことにアーヴィンがくすりと笑った。
「あんな風に、よし、泣くぞって勢いこんで泣かれてもね」
「……ほんとに、よく見てたのね」
じっと、本の切れ目から彼の顔を見つめる。
ふいと目をそらされ、彼は本を閉じる。パタンと、よい音がする。
「あら、読書は終わり?」
「落ち着いて読めない」
「私のせいね」
「でも君、悪いと思ってないよね」
「こんなときぐらい付き合うべきよ」
芝生の上に本が落ちる。
「いい? 学校で一番の美人があなたの隣で泣いているのよ?」
「すごいね」
「そうよ、すごい状況なのよ」
「いや、その自信が」
「なによ、文句ある? 事実じゃない」
「主観的な問題だ」
「じゃあ、アーヴィンから見た学校一の美人って誰なの?」
俄然興味が出て来た。
だが、彼はそのイルマの勢いに怯えて身を引く。ねえねえとせがむが、両手でぐっと肩を押され、元の位置に戻される。
「別に一番の美人と思う人と、恋する人とは別だから、主観でアーヴィンの好みを聞いたって特に問題ないはずなのにー」
イルマはそういって頬を膨らませるが、彼は首を前へ傾け項垂れる。
「まあいいわ。それじゃあ、同級生のちょっと可愛い女の子があなたの隣で泣いているのよ? 声をかけようと思わない?」
彼はため息をつく。なんとひどい態度だろう。
「何を泣くんだい?」
棒読みだが、少しましになった。
「それは――」
ただ、答えられない。
返ってきた言葉が、予想外に深くて、考え込む。
沈黙だ。さっきは苦々しく思った沈黙を、今は自分が作り出している。なぜなら本当は、私が答える番だったのだから。
考えても、解答は得られない。わからないから泣いていたのだ。
「兄さんがね、とりあえず泣いてみるのも手だって」
「サミュエル先輩の言いそうなことだね。自分の胸でお泣きって」
「うん。まさにその通り」
「それで、泣いてみてどうだった?」
「それをアーヴィンが邪魔したんじゃない!」
いいところで止まってしまった。
「……悪かったね」
「そうよ、悪かったのよ。責任取ってね」
「どうやって」
「一緒に考えてよ。どうしたらいいか」
「どうしようもないと思うよ」
彼は本を持って立ち上がった。逆光で暗くなった彼の顔を見上げる。
「君は今のやり方を変える気はないだろ? 努力し続けることをやめたら、それはイルマ・インプロブではない。彼女たちの要求と、君の生き方は相容れないんだ」
きょとんとして彼を見る。口が笑っている。
「今回で、溜まりに溜まっていた鬱憤も少しは晴れただろうし、しばらくは何もないんじゃないかな。君は彼女たちに何の不満もないんだし、一方的な不満はそのうちむなしくなるだけだ。今までは、言いたくても言い出せる状態になかったから、これからは小さな爆発がたびたびあるかもしれないけれど、君が気にしなければいいだけだよ」
気にしないでいいのだろうか。
「人の顔色を見て、自分の行動を決めるなんていやだろう?」
ああでも、と彼は続けた。
「泣きたいなら、思い切り泣けばいいと思うよ。その間見張っていろと言うならそうする」
それが、そのときの彼の精一杯の優しさなのだと思った。長衣の裾についた芝生を払い、イルマも立ち上がる。
「次の機会にお願いするわ」
優雅に、そういって微笑んだ。
彼のことを、同級生の一人、からアーヴィン・レケン一個人と認識し始めたのは、まさにそのときだったかもしれない。