第四章 ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉2
砂嵐はイルマの予想を遙かに超えた。
本来遭遇したらじっとカメルを盾にしのぐしかないものだが、今はそれを逆手に取ることで、もし敵が待ち構えていた場合相手の意表を突くことができる。まさかこの砂嵐を越えてはやってくるまいという油断がこちらの勝機となる。
実際これに遭遇するまではそう上手くいくものかと内心首を傾げてたのだが、今なら間違いなく頷ける。砂嵐へのルートはそこを通ってくるとの確信がなければ何かするだけ無駄と切って捨てて当然のものだった。
普段より体を寄せ合ったカメル立ちは、数歩先で吹き荒れる砂に少しも怯える様子を見せず、いつもの調子で黙々と前へ進んだ。
のんびりとした少々間抜けな顔立ちのカメルだが、肝は据わっているようだ。さすがこの不毛の土地を渡る生き物。心の中で称えながら、浅く息を吐く。
余裕だと思っていたのが案外結界の維持に手間取り、アーヴィンが慣れたからとカメルの手綱を引き受けてくれて、正直助かった。杖に集中できる。
目を閉じて、眉間の間の目で世界を視ると、結界の向こう側は乱れた魔力で吹き荒れている。砂嵐だけでなく、竜巻や、豪雨などの少し行き過ぎた自然現象は、魔力も乱れることが多い。そういった常態ではない自然現象を押さえる魔法方程式も、数多くあった。そのうちいくつかを応用して今回の結界を作っている。
その手順はホレスはもちろんアーヴィンにも褒められた。こういった独創的なやり方は昔から得意だ。
それでも砂の威力はすさまじく、たびたび手を加えなければ砂が吹き込む。一度思い切り被ってしまい、口の中がじゃりじゃりと不快感で一杯だった。
「あとどれくらい?」
すぐ左を行くサミュエルに訊くと、彼は肩をすくめる。
「まだ半分も来てないぞ」
右手の、少し前にいたホレスが速度を緩めてイルマの横についた。
「休憩を取りますか?」
「いえ! 大丈夫です」
集中力は途切れていない。平気なのは本当だ。それでも、ホレス相手だとつい張り切って返事をしてしまう。彼もそれをわかっているのか、いつものふんわりとした笑みを浮かべる。
「無理は禁物です。疲れが出たらすぐ言いなさい。この分じゃ本当に先には誰もいないでしょうから、少しくらい行程が遅れても問題はありません」
「お気遣いありがとうございます。でも、本当に平気です。このまま一気に砂嵐を抜けてしまいましょう」
そうしてフードの中や髪の毛についた砂を払ってすっきりしたい。風呂には入れないが、魔法を使えば擬似的なことはできる。風と水ですっきりした気分を味わうことができるのだ。
また笑って、ホレスは先頭に戻る。
そうして元の隊列を組んで随分進んだ後。もうすぐ終わりが見えてきたと喜んでいたところ、アーヴィンが突然カメルの手綱を引いた。
また、大地が揺れる。
微妙に動かし止まれとの命を下す。
「アーヴィン?」
「どうした」
後ろのサミュエルがそれに倣い、ホレスも歩みを止めた。
イルマは素早く方程式を練り、解いて、砂除けの結界をその場へ安定させる。
後ろを振り返るととても近いところに彼の顔があった。思わぬ距離に慌てるが、彼が眼を細めてずっと先、砂嵐の中を真剣に見つめているので、イルマの中のおかしな焦りもすっと引く。
「アーヴィン?」
再び問いを重ねると、彼は顔をしかめたまま言う。
「おかしいんだ。この先の魔力がおかしい」
イルマは前を向いて目を閉じる。だが、砂の乱れと同じ形で魔力が暗闇の中にきらりと吹いている姿しか見えなかった。
「どうかしましたか?」
ホレスはどこかのんびりと穏やかに、カメルを降りてこちらへやってくる。
「この先は何か変です。道を変えた方がいい」
アーヴィンの言葉にホレスもまた両目を閉じた。だがすぐに首を傾げる。
「特に今までと変わりないように思いますが……」
「きれいに乱れ過ぎています。もうすぐ砂嵐は終わりだったね?」
イルマへの質問だと思い、しっかりと頷いた。あと半刻もしないうちに抜ける。
「道を変えた方がいい。待ち伏せされている可能性がある。これより先の砂嵐には人の手が入っている。自然の物じゃない」
「しかし、今から引き返すのはイルマにも随分な負担となります」
魔力の乱れにおかしさを見つけられないホレスは、彼の言い分に不審そうな表情を浮かべる。
イルマにもわからない。どこが先ほどまでと違うのか、少しも差違が見つからない。だが、アーヴィンの言葉だ。
「大丈夫です師匠。少し戻ってぐるっと大回りしましょう」
「……だが」
「師匠、アーヴィンは、その」
ちらりと彼を見る。簡単にいっていいことなのかどうか、イルマには判断がつかなかった。けれど彼はあっさりと口にする。
「僕は、開かれた子です」
ホレスが軽く目を開く。
少しの間のあと、だからとホレスが漏らした。
「だから初日に沙漠で酔ったんですね」
「つい癖で」
魔力で作られた世界を、眉間にある第三の目で見ることができるようになるのは、入学の儀で魔原石に触れ、魔力に触れたときからだ。
それが普通の魔法使いだ。
だが、アーヴィンたちのように、ある日突然第三の目が開くことがある。乳幼児のこともあれば、二十歳を超えた、すでに普通の仕事に就いているような大人になってからのこともある。普通は五、六歳くらいだと言われていた。
魔原石に触れることなく魔力の世界を視た者を、開かれた子と呼んだ。
開かれた子は、国に管理され、最低でも十三歳になったときフェンデルワース魔法学校へ入学する。学費や生活費、すべて国が面倒を見る代わりに、国に仕え働くこととなった。というのも、彼らは総じて魔力を視る能力が高い。子どもの頃から慣れ親しんでいるが故と言われているが、とにかく何かしらの分野で高い能力が認められた。
だが同時に、彼らは魔力の世界を意識せずとも視てしまう。見ないように意識しなければいけない。アーヴィンは初日、本来の土地にある魔力と、実際ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉で見た魔力のあまりの違いにめまいを起こしたのだ。
「師匠、だから、アーヴィンの視る目は確かです」
自分だけなら一も二もなく彼の言葉に従うが、今はアーヴィンのことを知らないホレスを納得させなければならない。サミュエルは、イルマが行くと言えば行く。
「私は大丈夫です。待ち伏せされている可能性が少しでもあるなら、彼の言う安全な道を行きましょう。ここまで来て彼らに気付かれるわけにはいきませんから」
イルマがさらに言いつのろうとしたところを、ホレスは杖を軽く上げて黙らせた。
「わかりました。イルマが薦める彼の言葉です。従いましょう。ただし、砂避けの結界は私がします。イルマは先視の魔法に専念なさい。レケン君のカメルが先頭です。指示をお願いします」
イルマの背後で頷く気配がする。彼はつい一週間前まで馬を操ったことがないというのが嘘のような手綱さばきで、方向を変えるとゆっくりカメルを進ませた。
ホレスの張った結界は、それはもう見事なものだった。
師匠とアーヴィンだったらどちらがよりきれいな結界を編むのだろうなと考えながら、イルマはもしもでなくなってきた魔法を使える敵の存在に肝を冷やした。アーヴィンの言葉が本当ならば――いや、本当だ――、この先に魔法を使うことのできる人間がいる。
アーヴィンとイルマの先導で、敵に遭遇することなく砂嵐を抜け、当初の予定よりもだいぶ遠回りとなったが、無事目的の地点まで移動することができた。予定では昼過ぎだったのが、空には星が輝いている。
干し肉と乾燥させて堅くなったパンを、魔法で暖めたスープに浸して食べる。普段とはまるで違う食事だが、空腹は最高の調味料とはよく言ったもので、とても美味しく思えた。体の中から暖まり、少し不安だった気持ちも落ち着く。
食べ終わると、昨日野営した場所よりも建物の残骸が多く、風よけとしてその側に張った天幕へ、そうそうに引っ込む。明日は朝早く、日が出きらないうちにここを発つ予定だ。
今夜も先に番をするホレスに見送られ、イルマは一人天幕の天井を眺めた。
魔法を使うのは集中力を要する。眠らなくてはと瞼を閉じるが、どこか落ち着かなくてそわそわしてしまう。
そこへ、また地鳴りだ。
横になっていたせいか、いつもよりひどく感じる。周りの残骸には補強の魔法をかけてあるので、倒れてくる心配はないが、それでも気になり起き上がった。
外套を掴んで被ると、外へ顔を出す。
だが、そこにいるはずのホレスの姿が見えない。おかしいなと、そのまま表に出ると古びた煉瓦の向こうに頭が見えた。
月が空高く輝いている。そのおかげで灯りを点さずとも影だけは追うことができる。
もしや敵ではないかと、杖を握りしめ、自分の周りに人目から隠れる結界を張った。そうして影の後を追う。
月明かりに照らされた姿は、自分の知っている人たちとは違っている。これは間違いないと思い始め、引き返すべきか悩み始めた頃、突然肩を掴まれた。そのまま地面へ引き倒される。
「何をしてるんだ!」
突然のことでされるがままのイルマの耳に届いたのは、よく知るアーヴィンの声だ。それでほっとしつつも、次第に怒りがこみ上げる。
だが、彼の声が極限まで音量を抑えたものであったので、今騒ぐことが得策でないことはわかる。だから、瞳には険しい非難の色を乗せる。
その厳しさに気圧されてか、周りの状況が許したのか、アーヴィンは目をそらして、結局諦めのため息をつく。
イルマの腕を取ると、彼女の体を引き起こす。だが、相変わらず立て膝の状態で、立ち上がることは許されない。
指を唇に当てて、とにかく静かにと身振りで伝えてくる。状況がなにやら緊迫しているのはわかった。自分の唇に人差し指を持って行き頷くと、彼はようやく体を離して少し先の古い煉瓦でできた壁の陰に身を潜めた。すぐ後を追う。
「どうしたの?」
掠れたような声でそう訊くと、彼は少し困った顔をした。
「君は、なんでここに?」
「知らない人がいた」
彼の顔が険しさを増す。
だからもう一度詳しく話す。
「さっき、また揺れたでしょ? 外を見たら師匠がいなくて、で、遠くに人影が見えたの。追ってみたら師匠はもちろん、アーヴィンでも兄さんでもなかったから、ちょうど天幕に戻ろうか悩んでいたところ。で、アーヴィンは?」
彼の瞳が揺れる。
「何かあったの?」
「……僕は、ホレスさんを追ってきた」
それは、と言ったつもりだったが、声にならない。アーヴィンの暗い顔が、月明かりに照らされている。
「彼は、どういった人なんだ? 僕もあまり詳しくはないけれど、あの若さで教育係になっているのは、何か理由があるのか?」
自分の顔がこわばっていくのがわかった。
「師匠を疑っているの?」
彼は、イルマの瞳から逃れるように顔を伏せた。
「まさか、なんで、そんなわけない!」
声を荒げるイルマに、彼が慌てて手を伸ばす。彼女の口を塞ぎ、そのまま後ろの壁の壁に押し付けられた。アーヴィンの顔が近づく。
「大きな声を出してはだめだ。向こうも魔法を使う」
「でも……」
ひどい。なぜそんなことが言えるのだ。アーヴィンは師匠を知らない。彼がいなければ、イルマは宮廷魔法使いの見習いを、誰の元で過ごしたかわからない。そしてそれは、あまり気持ちのよいものではなかっただろう。女性であるイルマへの視線は、同年代よりも年上の人間たちからの方が厳しい。女の癖にと内心思っているのが露骨に態度に表れた。ホレスに、どれだけ救われているかをアーヴィンは知らない。
「なぜ師匠が、敵国に力を貸すの? そんなわけない」
誰よりも弟子に優しく、そして厳しい師だ。
「君が、あの人に心酔しているのは知っている。手紙に一番多く書くくらい好きなのはわかってる。それがどうというわけではなく、ただの事実としてね。……まあそれはいいんだ。好き嫌いの話じゃない。彼は嘘をついている。何か、よくない嘘をついていることは確かだ」
「よくない、嘘?」
アーヴィンはイルマの嘘を見抜く。そして、ホレスが沙漠には行かないと言った、あれも見抜いた。
「ところどころ、話に嘘がある。追求すればそれが何かわかるけど、そこまではできなかった」
「そんなの……」
アーヴィンに視察のことを隠すために、それは数え切れない小さな嘘を重ねてきただろう。
「それだけじゃない。砂嵐のとき、確信した」
心臓が跳ねる。
胸の前で握りしめた手の平に、じっとりと嫌な汗をかく。
「言ってたよな。あの砂嵐を通るルートに罠を張るなんて、ないだろうって。実際経験してみて僕も思った。間違いなく、人が来るとわかっていなければあんなところに罠を張るだけ損だと」
イルマも、思った。同じことを、まったく同じように思った。
「だけど、実際罠があった。何者かが待ち構えていた」
どこかに反論したくて、必死に思いを巡らす。彼はイルマの左肩を掴み、右手は顔のすぐ横の壁についていた。こんなにも近いのに、目を合わせることができずにいる。
「それは、砂嵐を越えて僕らが来ると知っていたからじゃないか?」
「でも、そんなの……どうして、師匠だって言えるの?」
めまいがしたと思ったら、また地鳴りだ。アーヴィンは一瞬上を見て壁が倒壊しないか確認するが、すぐまたイルマへ視線を戻す。
「イルマは違う。僕は……君がそうなら、僕は、諦める。でも、やっぱり違う。君はそんなことをしない。それに、この僕に隠しおおせるはずがない。となると、サミュエルさんも違う。あの人は君が悲しむようなことはしない。だろう?」
「残ったから師匠なの?」
強い怒りが、一瞬首をもたげる。
「いや。僕はね、イルマ。魔力の流れがよく視える。それはいいよね」
彼は開かれた子だ。普通の魔法使いより繊細にその形を見極める。
「人の感情に、人をかたどる魔力も反応する。僕が人の嘘を見抜きやすいのはそのためだ。長年見続けていると、詳細はわからなくても大まかな感情は読めるんだ。僕が砂嵐の先に待ち伏せている奴がいると告げたとき、あの人の内側に、強い怒りが湧いた。憎しみや苛立ちの感情が現れた。表面上はあの通り困惑した様子だったけど、内面がまるで違った。そう、予定通りに行かなかったことに腹を立てたように」
「嘘っ! 師匠は、絶対にそんなことは……だって、それじゃあアーヴィンは最初から師匠を疑ってたの? 嘘をついてるってわかっていて、ついてきたの? なんでよ!」
「それは――」
彼のどこか呆然としたような表情に苛立ちが募る。
「師匠の話がおかしいと、嘘をついてるとわかったっていうなら、なんできたのよ。フェンデルワースの宿屋で、随分長いこと今回の調査について話していたじゃない。すでにそこで細々とした嘘はわかっていたんでしょ? ならなぜ来たの!?」
目の前で、歪む顔。こんな表情をさせてしまったと、自分の中の誰かが泣く。
「あなただって、ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉に惹かれて、今回の仕事に興味を持ってやってきたわけでしょう!?」
ああ、自分はいったい何をこんなに悲しんでいるんだろう。何に怒っているんだろう。
「誰もが君のように考えるとは限らない!」
とうとうアーヴィンも爆発する。
「君はいつもそうだ。自分の考えがすべて正しいと、そう信じて譲らない。そうやって、押し付けて、相手が諦めるまで周りの意見なんかそっちのけじゃないか」
「そんなっ!」
そんな風に思われていたのか。
怒りが一気に萎む。胸が苦しい。
「だって、押し付けなきゃアーヴィンは何も、何も言ってくれないじゃない!」
そうか、言ってもらえなかったことが悲しかったんだ。
すとんと降りてきた解答に、そうかと納得する。
溢れてきた涙を見せたくなくて、彼を押しのけ、立ち上がろうとする。だが、手を突いた場所がぐにゃりと沈む。
もう一方の手が宙を掻く。地面が揺れた。
膝が力が抜けたように折れる。いや、膝でなく、足下が。
固く確かな地面が砂とともに流れ出す。
「イルマ!」
アーヴィンが彼女の腕を取った。
だがそこで、イルマの意識は途切れる。