第四章 ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉1
ホレスから簡単に今回の任務について事情を聞かされたアーヴィンは、最後は神妙な面持ちで頷いた。
見方も気をつけているのか、気分を悪くすることもなく旅は順調に進んだ。
「実際どの程度なんだい? その情報の信憑性は」
後ろからアーヴィンが話しかけてきて、イルマは首を傾げる。
「よくわからないの。師匠も、どこまで信じていいかわからないって」
拷問の上吐き出された情報は、信用するに値するか。
「魔原石に関しては、私は正直嘘だと思うの」
「なぜ?」
彼の声が耳元で聞こえて、びくりと肩を揺らした。昨日の夜を思い出してしまう。
動揺を悟られないように前を向いたまま話し続ける。
「だって、魔原石が本当にあるのなら、ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉が荒れたままであるはずがない。魔原石の周囲は、魔力に溢れて、安定しているから」
「それは、――僕もそう思う」
そう言って彼は別の世界を見る。
「こんなに魔力が抜け落ちているはずがない」
イルマもそっと瞼を下ろした。眉間に意識を集中すると、世界が暗転する。そして、魔力が光を宿し出す。本来ならすべての物が大なり小なり魔力を持ち、仄かに光り出すのだが、ここ、ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉は真っ暗な穴があちこちにあいている。一番輝いているのは空だ。空は、この異常に冒されていない。空から魔力がさんさんと降り注いでいた。
「イルマ、手綱を握っているのは君だよ」
「え、ああ。ごめん」
つい魔力の世界に見とれてしまい、手元がおろそかになった。カメルは乗り手の気がそぞろだと、好き勝手に動き出す。慌てて軌道を修正し、カメルの背を撫でる。
「どちらにしろ、かなり慎重にしないとね」
先頭はホレス。次にイルマとアーヴィンのカメルが続く。殿を行くサミュエルが、四人を包み込むように幾重にも結界を張っていた。それぞれが役目の違うもので、珍しく真剣に方程式を解く兄を、イルマは感心して見ていた。
「宮廷の女の子たちが騒ぐのもわかる気がするわ」
「サミュエル先輩は、もともとできるよ。処理能力も高いし。騒がない方が変わってるんじゃないかな」
「うーん。それはわかってるんだけど、普段のアレを見ていると、素直に受け入れられないのよ」
「そう言った面は別にして、普通に憧れてる学生も多かったよ」
ちょうど、イルマが一年生として入学したとき、サミュエルは最高学年である三年生だった。そこで兄の所行をまざまざと思い知ることとなる。
「友達がきゃあきゃあ言ってた覚えしかないわ」
兄と父親の愛情が行き過ぎていると知ったのもその頃だ。
「お母様が早くに亡くなられたから、二人が過保護になるのはわからないでもないんだけどね」
女手がなかったわけではない。貴族の女性として必要な知識は召使いや乳母から嫌と言うほど聞かされてきた。それでも、母親の愛情を注がれなかったと言い、父と兄はその分を取り戻すのだと頑張り過ぎるほどに頑張ってしまったのだ。
イルマとて、二人の気持ちがわからなくはないから、邪険にしきれずにいる。
口を尖らせて悩む彼女を、アーヴィンが小さく笑う。
「なによう」
「いや、羨ましいなと思って」
どこが、と声を荒げそうになって飲み込む。
彼の両親が小さな頃に事故で亡くなったという話を思い出す。人伝に聞いたので、真偽のほどはわからないし、どんな状況でか詳しくも知らない。
「兄さんなら、たまに貸してあげてもいいわよ」
突然黙り込むのも変だと思い、返した台詞がそれだった。気の利いた言葉を考えてはみるものの、アーヴィンからよい反応を引き出せそうにない。
その結果のこれだ。どうなることやらと、内心ひやりとしたが、彼は楽しそうに笑った。
「大変なことになりそうな気がする」
「そりゃもう。私の苦労を一日で知ることになるわ」
二人が一緒に笑うと、ホレスが振り返り、サミュエルがカメルを寄せる。
何でもないと言って、またひとしきり笑う。
そうやって日暮れまで移動したところで、その日は休むことになった。
空にはこぼれんばかりの星が広がり、天に大河を作っている。昼間の辟易するような暑さと日差しがなりをひそめ、急激に寒さが這い上がってきた。
暖かいスープが入ったカップを両手で包み込み、四人は丸くかたまる。
早足の魔法のおかげで、普通に歩くよりもずっと早く目的地まで近づいている。このままいけば、明後日の昼過ぎには魔原石があるとされる場所近くまで行くことができるだろう。
ホレスが見せた地図を前に、アーヴィンが首をひねる。
「本当に、ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉の中心にあるんですね」
「あらそう? ちょっと西に寄ってると思うけど」
杖の先に明かりを点し、それを地図に近づけてイルマが言うと、アーヴィンは首を振る。
「これは最近の地図だろう? 沙漠は拡大している」
そう言って彼は自分の鞄から紙を取り出した。
「写しですね」
「ええ。さすがに原本は持ち出せないので、普段僕が使っているものですが、これは約二百年前の地図になります」
周辺の目印となるものから推測すると、確かにアーヴィンの言う通り、今回言われている魔原石はニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉の真ん中に位置していた。
続けてアーヴィンは今の地図を指さす。
「ここと、ここは、砂嵐がひどい地帯です。避けた方がいいと思いますが――」
「敵がいるなら向こうもそう思って罠を張っているだろうってことだな」
「こちらが迫っていることを知っているかはわかりませんが」
「最悪の事態を想定して近づく方がいいでしょう。ただ、砂嵐をものともしない結界を張れるかどうか、ですが」
ホレスがこちらを見るので、イルマは自信たっぷりに頷いた。
「私がそれは維持します」
これ以上サミュエルの負担を増やすのは上手いやり方とは言えない。ただ、ホレスは必要最低限の魔法だけにしておき、不測の事態に対応する役目を負っている。経験も、能力もそれが最適だ。ということは新しい魔法はイルマの役目となる。
「それではこちらの砂嵐の中を通って行く道を使いましょう」
「カメルはどこまで乗っていくんですか?」
サミュエルが顎に手をやり唸りながら訊いた。
「一応、明日の晩まで。こちらの道を通るなら、この辺りで夜を過ごすことになりそうです。そこからは半日もかかりません。必要最低限の荷物を持って、天幕などは置いて行きます」
魔法があるので、水分の補給はどうにかなる。水分さえ十分にあれば炎天下の中もなんとかしのげる。
ニヒ・ラルゲ〈荒れた土地〉は完全な砂沙漠ではなく、岩がところどころ地表に出ていて日陰も手に入りやすい。隠れるところもない砂沙漠だったら接近するのも一苦労だったが、これならなんとかなりそうだ。
「そうと決まれば今日は早く寝て、明日は日の出とともに出発です。サミュエル、先と後、どちらがいいですか?」
サミュエルがどちらでもと答えて立ち上がる。
見張りの話だと気付くのに少しかかった。
「それじゃあ、先に寝させてもらいましょう」
「私も!」
「お前はいいの」
慌てて手を挙げ主張するイルマのおでこを、サミュエルが拳でつつく。
「僕も――」
「やめてくれ。お前まで言い出したらなおさらこいつが引っ込みつかないだろう。チビ組は大人しく寝ろ」
アーヴィンに皆まで言わせずサミュエルが反論を封じる。
「さ、それじゃあお先に失礼しますね、師匠」
「ええ、おやすみなさい」
そう言ってイルマの肩を両手で押す。
「ほら、行くぞ」
「行くって……」
「天幕二人用が二つしかないんだ。どう考えてもお前と、俺だろ?」
「ええ!? なんで兄さんと同じ天幕で寝ないといけないの!?」
「仕方ないだろう」
サミュエルはよい笑顔だ。少しの疑問も抱いていない。
「昔はよく眠る前にお話してやったじゃないか。そのまま眠ってしまったことが何度もあったろう?」
「そ、それはそうだけど!」
もう十年以上昔の話だ。兄に対して何を思うわけでもないが、この春で十六になった。大人の女性として扱われて当然の年齢だ。
「それじゃあイルマは兄ではなく他の二人と同じ天幕がいいってのか!?」
「そんなっ!」
そうはいってないのに、ホレスは面白そうににこにこしているし、アーヴィンは相変わらずの無表情だしで、口を開けたまま絶句する。さらにアーヴィンと目が合い、あっという間に顔が赤くなった。昨晩の出来事を思い出さずにはいられない。
その劇的な変化にサミュエルが何かを感じ取り、口を開こうとしたところへ、ホレスの笑いを含んだ声が割って入った。
「私と君は交代ですからね。先にレケン君とあちらの天幕を使いなさい」
「っ! そうよ! 師匠の言う通りよ」
あらためてそのことに気付き、今度は怒りで顔を赤くするイルマに、サミュエルは肩を落とす。
「師匠はすぐそうやって最愛の妹との心の交流を邪魔するんですから」
「女性をいじめるものではありませんよ」
「わかってませんね。イルマはこういった反応が可愛いんですよ」
「もーーっ!」
言いたい放題の兄から、矛先が一人すましてるアーヴィンへ移る。
「だいたいアーヴィンもアーヴィンよ! 気付いてたなら言ってよね」
「そこでこっちに八つ当たりされても困る」
八つ当たりじゃないわと暴れるイルマだが、限界が来たのか、杖を振り回すとサミュエルへそれを突きつける。
「もう! 兄さんなんか大っ嫌いよ!」
大変傷ついたという顔をつくるサミュエルを目の端に写し、イルマは自分の天幕へ駆け込む。杖と鞄を放り出し毛布を頭から被ると、バカバカバカと呪いの言葉を繰り返し、やがて眠りの海に飲み込まれて行った。
もう一方の天幕には狭い空間に男二人が寝転がる。
「……なあ、お前イルマになんかした?」
「何かって何ですか?」
「何かっつったら何かだよ」
要領を得ないサミュエルの質問に、アーヴィンは答えようがなく黙りを続けた。
と、杖の先で頭をつつかれる。
「質問の意図がつかめないのでお答えのしようがありません」
「妙にあいつがお前を意識し過ぎている気がする」
鋭い。
さすがはレグヌス王国一の兄馬鹿だ。妹思いが度を超して変態の域に達しているが、観察力は神級だ。どんな些細な情報も、いつ彼女に関わるかわからないと無節操に集め続けた結果、王の起床時間まで把握しているとの噂が、まことしやかに流れている。
「そうですか?」
とぼけてみる。
「そうだろう? 気付かなかったのか? あの可愛らしく焦っておたおたしていたのを」
逃がしてもらえない。
「まさかっ! 昨日あの後部屋でいちゃいちゃ……」
「そんなわけないでしょう」
いちゃいちゃしてたのはニクスとイルマだ。
「言っとくがなぁ! もしイルマに何かしようと思い立ったら、まず俺に報告しろよ?」
「許可制ですか……」
なんなんだこの兄妹は。
「だいたい、どこでどう間違ったとしても、身分が違い過ぎるでしょう。あなたたちは六貴族のインプロブ。僕は単なる庶民ですよ。問題外です」
「馬鹿だな。若いなあ。いいか? あのイルマが政治に利用され、親が勝手に決めた相手に嫌々ながら嫁ぐような女だと思うか? 俺は想像できないね」
確かに、大人しく従う姿など彼女には似つかわない。
「それに、俺も父上も可愛いイルマを無理矢理結婚させようなんて思わないしな。そこらへんは俺がしっかりやっておけばいいことだろう」
貴族とは到底思えない返答に、アーヴィンはイルマの父のことを思い出した。インプロブ家の直系はイルマの母一人だった。イルマの父親は、貴族といっても底の底。名ばかりの貴族でインプロブ家との婚姻が認められたのは奇跡だと、当時噂されたそうだ。もちろんアーヴィンは生まれていない。すべて人から聞いた話だ。
サミュエルやその父親が彼女に関してそんな風に考えているのは、もしかしたらそこが絡んできているのかもしれない。
ちらりと、暗闇の中に浮かぶ金髪を盗み見る。
イルマのためならば自分は政治に利用されようとも構わわないと言う。どこまでもイルマのために尽くすその姿には尊敬の念すら抱く。
だが、それでいいのだろうか。
彼にとって彼女はそこまでする価値のある相手なのだろうか。
「おいおい。お前今、サミュエル先輩可哀想とか考えてたんじゃないだろうな」
「そこまでは思ってませんよ」
「それなりに考えたってことだろう? 俺はいいの。貴族間のどろどろしたやりとり結構好きだし。女の子はみんな愛せちゃう性質だし」
「……僕はサミュエル先輩が結構一途だって知ってますけどね」
ぴたりと、隣の軽口が止まる。
学生時代、アーヴィンは共同部屋での読書が落ち着いてできないと、寮を抜け出して学校内で静かな場所を探した。教師たちはそんな彼を見て見ぬ振りをしてくれていた。事情があって人より長くフェンデルワースにいたし、彼の境遇を哀れに思っていたからだろう。
ある日、警備の魔法使いから逃れるサミュエルを匿ったことがあった。
頼むから見逃してくれとすぐそばで身を隠す結界を張る。だが、それがあまりに不恰好で、間違いなく見つかるなと思ったアーヴィンは、ほんの気まぐれから彼に魔法方程式をいくつか教えた。それにより、サミュエルはその夜発見されずに事なきを得た。
後から、不埒者がフェンデルワースにたまたま滞在していた、とある王族の姫君の元に侵入したという話を漏れ聞いたが、その夜のこととつなげてみることはあえてしなかった。
サミュエルが王宮の結界をも突破できるような方程式はないのかと言って来るまでは。
悪用されては困るので一応用途を訊いたところ、愛のためだとそれだけしか返答がないので、丁重にお断りした。だが、匿ったときの方程式を応用し、自分でそれなりのものを作り上げたらしい。もともと結界方面に素質があったのだろうが、愛の力は恐ろしい。
「とにかく、そんな心配は無用です」
「なぜだ! あんなに可愛いイルマに、邪な気持ちを抱かない男の方がおかしいぞ? しかも最近は可愛いから美しいに移行中で俺ですらはっとさせられるときがあるってのに」
そんなことは言われなくともわかっている。フェンデルワースを卒業したとき、まだ幼さを残していた彼女は、今では十分大人の女性だ。中味が外側に追いついていない分、そのちぐはぐさがまた魅力的だった。
それでも、やはりその心配は杞憂だ。
「彼女は公平ですから」
「なんだそれは」
イルマと同じ色をした男が、暗闇の中で形のよい眉をひそめているのが想像できる。
彼女は、行動に常に理由がつきまとう。
人の輪の中心から少し離れたところにいるアーヴィンを、ことあるごとに招き入れるのは、すべての人にそうやって声をかけているからだ。拒否も受け入れもしないアーヴィンを、外す理由が見つからない。だからイルマは声をかけ続け、自分は拒否しないことでその距離を保てた。
アーヴィンと手紙のやりとりをするのは、研究所に他に同期がいないからで、本来アーヴィンでなくてもいいはずだった。
今回の調査だって、本当なら自分でなくてもよかった。
けれど、公平な彼女はアーヴィンに機会を与えた。
ただそれだけだ。
黙ったままのアーヴィンに、何を勝手に想像したのか知らないが、サミュエルは鼻を鳴らしてごそごそと背を向ける。
「そう思いたいなら思ってろ」
なにやら一人憤慨して眠る体勢に入ったようだ。
アーヴィンも暗闇の中瞼を閉じる。ちらちらと瞼の裏に映る魔力の光が、ぬくもりを感じさせるほど身近に迫ってきた頃、またポツリとサミュエルが問いかける。
「だいたいなんでついてきたんだ」
寝たんじゃないのか。
いや、あのサミュエル先輩だ。気を抜いていい瞬間などない。
思わず身じろぎしてしまったので、眠っていないのもばれた。
「心配だったので」
悩んだ挙げ句の一言は、サミュエルを完全に黙らせた。
誰を、とか何をとの質問が次々投げかけられると思っていたのに予想が外れた。
何が間違っていたのかと考えを巡らすが、わからなかった。
そして、それ以上の追求はなく、乗り慣れないカメルの移動に疲れ切っていたアーヴィンは、隣がホレスと交代したことも知らずに朝までぐっすり眠った。