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第四話 虚無の丸ペン、空き地の残照

「生きていたことさえも忘れてほしい」

「お墓はいらない」

「死んだ動機については一切話さないこと」



 夕暮れの光が差し込む骨董店。


「私、昨日何をしてたっけ……ううん、自分の家がどこなのかも、思い出せないんですよね」


 最近、リリの記憶の欠落は顕著になっていた。彼女の魂の輪郭は、以前よりもかすかに揺らぎ、背後の書棚の背表紙が薄く透けて見えた。湊は、彼女が「生霊」であることを隠し続ける罪悪感に苛まれながら、逃げるように本の頁へ視線を落とした。


「……そうですか」


 そんな重苦しい空気の中、リリがガラスケースの片隅にあった古い丸ペンに、不用意に指を触れた。持ち込まれたばかりの、乾いた黒いインクがこびりついた、使い込まれたペンだった。


 瞬間、店内の空気が一変した。

 九十年代の場末を思わせる、湿り気を帯びた不穏な空気が充満する。現れたのは、錆びついた遊具とカラスの鳴き声が支配する「夕暮れ時の空き地」の幻影だった。


 二人の前に、虚無的な瞳をした三十代の女性の霊が現れた。名を、Nという。


「生も死も、等しく無価値よ。どうせ誰もがいつか死に、誰かにとっての肉に過ぎないのだから」


 善悪もモラルも存在しない。ただ「強い者が弱い者を食う」という剥き出しの摂理。一九九八年に自ら命を絶った彼女は、自身の死すらも「どうでもいい些事さじ」であるかのように、乾いた声で呟いた。


 しかし湊は、丸ペンを通じた〈遺品感応〉によって、彼女の意識の奥底に淀む「おり」を読み取っていた。残酷な世界を描くことを求められ、絶賛される裏側で、彼女自身の純粋な魂は、研磨剤で削られるように摩耗していたのだ。


「あなたの本当の未練は、それだけではないはずだ」


 湊の静かな声に、Nの瞳がわずかに揺れた。


「……Yさんのことが、気がかりなのですね」


 Nの作品は、夫であり共同制作者でもあったYと二人三脚で生み出されたものだった。ネームを彼女が描き、背景を彼が支える。それは共依存にも似た、密やかな世界の構築だった。

 彼女をこの世に繋ぎ止めていたのは、愛などという甘い言葉ではなく、「自分が去った後、遺されたYが『N』という虚無の偶像に一生呪縛されるのではないか」という、冷たい危惧だった。


「本当に、最初から何も意味なんてなかったのかな……私がいなくなっても、誰も困らないのかな」


 記憶が薄れ、自分の存在意義を見失いかけているリリが、Nの放つ虚無に強く引き込まれた。彼女の輪郭が、夕闇に溶けるように曖昧に揺らぐ。


 このままではリリが消失すると直感した湊は、強い意志でNの意識へ、彼女が知るはずのない光景を流し込んだ。


「意味がないと切り捨てた世界に、あなたは消えない傷跡を刻んだ。それは、救いでもあったはずだ」


 湊が見せたのは、彼女の描いた剥き出しの真実が、時代を超えて海外でも高く評価され、当時の生きづらさを抱える若者たちの孤独を「肯定」し続けている未来だった。


「彼は、あなたに囚われたのではありません。あなたと共に創り上げたその地獄を、誰よりも誇りに思い、守り抜いているのです」


 湊の言葉に、Nは少しだけ目を見開いた。


「……ふうん。まあ、いいか」


 やがて彼女は飄々と笑うと、肩の荷が下りたような足取りで、夕暮れの空き地の幻影とともに消えていった。足元を、一匹の子猫が音もなく通り過ぎていった。


 迷霊が去った後、リリは自分の手のひらを見つめた。

「私には……何が残ってるんだろう」


 不安げに呟くリリに対し、湊は彼女の透ける指先から目を逸らし、絞り出すように答えた。


「……これから、見つけるんです」


 静かに、しかし確実に崩れゆく日常。

 湊は、生霊の少女に真実を告げるべき時が、もうすぐそこまで迫っていることを予感していた。

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