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第十九話:『老将の檻、頁(ページ)に刻む黙祷』

ミュンヘンの雪原に散った若き天才の想いを繋ぎ、「生き残った者として、この命をどう輝かせるか」という覚悟を胸に刻んだリリ――。


肉体を取り戻し、生身の人間として骨董店『遺品閣』の帳場に立つ彼女。その佇まいからは、かつて時の狭間で怯えていた生霊としての儚さは消え失せ、一人の自立した女性としての力強い輝きが宿りつつあった。


そんなある日の午後。静かに、カランと店の戸が開き、一人の老人が古びた包みを持ち込んできた。

「……これを、引き取っていただきたい。父が遺したもので、どうしても捨てるに捨てられなくてね」


老人が置いていったのは、昭和中頃に発行された、ずっしりと重い一冊の古書だった。黄ばんだ布張りの外箱には、かすれた文字で『今村均回想録』と記されている。


老人が去った後、湊とリリが同時にその背表紙へ指先を触れた。


――瞬間、パサ、パササササッ! と店内のすべての古書が激しく捲れるような怪音が大気を震わせた。


「な、に……これ……っ!?」


リリが思わず息を呑む。初版本の頁から、黒い「活字」が文字の形を保ったまま剥がれ落ち、濁流のように空中へ溢れ出したのだ。

 数百万、数千万もの活字は、激しい霊障の暴風となって渦を巻く。むせ返るような南洋の泥の匂いと、肌を焼くスコールの熱気を伴って、骨董店をじわじわと侵食していった。


渦巻く文字の檻の底から、ゆっくりと姿を現したのは、古びた陸軍大将の軍服を纏った老将の迷霊だった。

 白髪混じりの柔和な顔立ち。しかしその身体は、彼自身が著書に綴った「部下や市民、捕虜に死者を出してしまった」という自責の言葉を象徴する、赤黒い活字の鎖で身動きが取れないほどがんじがらめに縛り付けられていた。


「私の不徳だ……私がもっと早く、完璧に時勢を見極めていれば、あの子たち(部下)も、ジャワの民も、収容所で亡くなった捕虜たちも、誰も死なさずに済んだものを……。なぜ私だけが生きて、ここにいるのだ……」


今村均の魂から漏れ出るのは、他者への怒りや怨念ではない。己の魂を永遠の監獄へと閉じ込め、すり潰そうとする、凄絶なまでの「内向の絶望」だった。


異様な気配を察し、奥から飛び出してきた安倍美晴と蘆屋道徹が即座に術を構える。

「急ぎますよ、美晴! 怨念を喰らう私の闇が、吸い込まれていく……! 悪意が一切ない、純粋すぎる罪悪感の重圧だ。力技では崩せません!」

「神道の秩序の光さえも、彼の『正しい自責』を否定できない……! 湊さん、早くその本から記憶を!」


二人の陰陽師が冷や汗を流して霊障を食い止める中、湊は初版本を両手で強く掴み、老将の記憶の最深部へと意識をダイブさせた。


――視界が反転する。


流れ込んできたのは、南洋の戦場ではない。しんと静まり返った、昭和の世田谷の一角。庭の隅にぽつんと建てられた、暖房器具など一切ないわずか四畳半の極寒の木造小屋だった。


「……う、あ……くっ……!」


感応の海の中で、湊はあまりの寒さと、精神を圧潰しそうな「孤独」に歯を食いしばった。


季節は真冬。薄暗い小屋の中、老いた今村は、すり切れた軍衣を羽織って小さな机に向かっている。寒さで指先は鉛のように凍りつき、感覚を失っている。それでも彼は、執念のように万年筆を握りしめていた。一文字書くたびに、かじかんだ皮膚が裂け、滲んだ血が原稿用紙の端を赤く汚していく。


机の横には、国から支給される高額な恩給のすべてを元部下や遺族に送り、自らは飢えの一歩手前で啜る、わずかな麦飯と塩。彼は死者たちと同じ寒さと飢えを共有することで己を罰し、同時に彼らの生きた証を文字として紡ぎ続けていた。


その時、小屋の引き戸がガタガタと開き、見るからに薄汚れた、怪しげな男が転がり込んできた。男はわざとらしい涙を流しながら、今村の前に平伏する。

「閣下! ラバウルで閣下の部下だった者です! 今、金が全くなく、病気の子供が死にそうなのです! どうか、どうかお助けください!」


小屋の外では、異変に気づいた今村の家族が声を荒らげていた。

『閣下、騙されてはなりません! あの男の兵籍を調べましたが、ラバウルの部下ではありません! 嘘をついて、あなたから金を騙し取ろうとしている詐欺師です!』


だが、老将はすべてを知りながら、ただ静かに微笑んだ。

 彼はかじかむ手で、引き出しから、命を削って書き上げたばかりの貴重な原稿料の包みを取り出すと、男の汚れた両手にそっと握らせた。


「そうか……過酷な戦場を生き残り、戦後もそれほどの苦労を重ねていたのか。気づいてあげられなくて申し訳なかったな。これで、すぐに大切なお子さんを医者に診せなさい」

「か、閣下……! ありがてえ、ありがてえ……!」


男は金を奪い取るようにして、夜闇の向こうへ逃げ去っていった。

 家族が「なぜ渡してしまったのですか!」と詰め寄る中、今村は独りごとのように、しかし酷く静かに呟いた。


「騙されていることなど、初めから分かっているよ。……だがね、彼は私を元指揮官だと信じ、すがる思いで『今村の部下』だと偽ってまで、この極寒の小屋へやってきたのだ。本当に困窮していなければ、人間、そんな惨めな嘘はつけまい。私が背負ったあの戦争の影が、今も彼のような人間を生み出しているのだとしたら……私の持つわずかなもので彼の心が、命が救われるなら、指揮官であった私が差し出さない理由がどこにある」


――ドクン、と湊の心臓が爆ぜるような衝撃を受けた。


それは高潔な聖人の姿などではない。自分という個の損得を完全に消滅させ、この世のすべての悪意や痛みを「自分の責任」として全肯定して包み込もうとする、一種の『狂気』とも言えるほどの、圧倒的な利他の意志だった。


(他者への想いが強ければ……人は、ここまで自分をすり潰せるのか……!)


湊の脳裏から溢れ出たその壮絶な記憶は、浅井の血脈を通じて、隣に立つリリの魂へとダイレクトに伝播した。


かつて天海という巨大な国家のシステムによって「都合の良い生贄(記号)」にされかけたリリ。彼女にとって、今村が「自らの意思で、世界の痛みをすべて背負う生贄(檻)」になろうとしている姿は、胸が張り裂けるほどに愛おしく、そして痛ましかった。


「今村さん――ッ!!」


リリは美晴の結界をすり抜け、激しい活字の暴風の中へと真っ直ぐに飛び出した。

 赤黒い文字の鎖が彼女の肌を焼き、泥の匂いが視界を塞ぐ。それでもリリは一歩も引かず、老将の目を正面から見つめて絶叫した。


「あなたはもう、十分にみんなを背負ったわ! 誰も恨せず、騙そうとする人の悪意まで全部自分のせいにして……そんなの、あんまりだよ! あなたのその強い想いは、自分をすり潰して檻に閉じ込めるためじゃなく、未来を優しく照らすために使ってよ……!」


リリの涙ながらの全肯定の叫び。

 それと同調するように、湊は初版本の背表紙を媒介にして、彼が心の底から焦がれていた「もう一つの真真まこと」を、老将の魂へ向かって逆流させた。


それは、彼が命懸けでラバウルで守り抜いたからこそ、無事に日本へ帰り、戦後の焼け跡から愛する家族を育て、現代の平和な日本へ命を繋ぐことができた――十万人の部下たちとその子孫たちの、途方もない感謝の笑顔の記憶だった。


『閣下、ありがとうございました。私たちは、今も生きています』

『あなたのおかげで、我が家へ帰れました』


脳裏に響き渡る、十万の魂の温かい震え。裏切られた悪意の影など一瞬で吹き飛ばすほどの、圧倒的な光。


その瞬間、今村の身体を縛っていた赤黒い活字の鎖が、一斉にパキパキと音を立てて黄金の吹雪へと反転した。


「今です!!」


美晴と道徹が、言葉を交わすことなく完璧に呼吸を合わせた。

「はあああッ!!」


美晴の清らかな神道の秩序光が「他者を愛し抜いた彼の高潔な記録」を包み込んで全肯定し、同時に道徹が放った漆黒の闇の刃が「己を呪い続けた因果の鎖」を外側から一太刀のもとに断ち切る!


バキンッ! と重苦しい檻が砕け散る音が響き、骨董店を満たしていた南洋の熱気と泥の匂いは、ふわりと爽やかで穏やかな、世田谷の春の風へと変わっていく。


張り詰めていた今村の険しい顔から自責の念が綺麗に消え去り、そこには、ただ我が子を愛おしむ父親のような、慈愛に満ちた優しい老人の笑顔が戻っていた。


「……そうか。皆、無事に帰って、生きてくれたか。……私を信じてくれたすべての人々に、幸あらんことを」


老将は、目の前に立つリリと湊、そして陰陽師たちへ向かって、静かに頭を下げた。


「ありがとう。私の戦いも、これでようやく、終わったようだ……。これからの頁(未来)を、よろしく頼みます」


今村均は穏やかな微笑みを浮かべながら、眩い光の粒子となり、彼を慕う無数の兵士や市民の幻影に温かく守られるようにして、彼岸へと旅立っていった。


霊障が消え去り、いつもの帳場に戻った骨董店。机の上には、驚くほど軽くなった一冊の初版本が残されていた。


リリはその本を愛おしそうに両手で胸に抱きしめ、窓の外の静かな景色を見つめながら、ポツリと呟いた。


「湊さん。想いが強ければ、人はこんなにも優しく、強くなれるんだね。言葉は人を縛る檻にもなるけれど、誰かの未来を守る光にもなる。……私も、守られたこの命で、誰かを優しく包み込める人になりたいな」


その瞳には、自らの足でしっかりと未来を切り拓き、生かされた命の重みを誰よりも知る者としての、誇り高き覚隔かくごが確かに宿っていた。


(第十九話 了)

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