第二話 和製バレンチノの遺言
野羅 久良男 と名乗ったこともあるサイレント時代の2枚目
金子みすゞの迷霊を見送ってから、数日が過ぎた。
前回の出来事以来、リリは当然のように湊の骨董店に入り浸るようになっていた。
「なんだか最近、全然お腹が空かないんですよね。不思議だなあ」
帳場のそばで、カチコチと時を刻む古い振り子時計を眺めながら、リリが無邪気にこぼす。自分が肉体から切り離された「生霊」であることによる、避けようのない魂の変質。湊は本から目を離さず、相変わらず短く応じた。
「……そうですね」
湊は沈黙を守りつつ、彼女の輪郭が夕日の光に溶け、かすかに透ける瞬間を静かに見つめていた。
そんな折、店に古い映画のフィルム缶と、使い込まれた洋書が持ち込まれた。
「あ、これ英語の本だ。かっこいい」
リリの指先が、その洋書の表紙に触れた。
瞬間、湊の頭の中に、言葉を超えた思念の濁流が流れ込んできた。
眩いスクリーンの光、回転する映写機の規則正しい音。そして、冷たい病床での激しい咳と、底知れぬ絶望感。リリという生きた霊体との接触が引き金となり、湊の〈遺品感応〉が、再びその扉をこじ開けたのだ。
パチン、とフィルムが弾けるような音が響き、二人の前にモダンな三つ揃えのスーツを着こなした青年が現れた。
銀幕に愛された端整な面立ちと、長身でスマートな佇まい。
「……まだ、演じたい役があった。カメラの前に立ちたかった」
青年は虚空を見つめ、静かに、しかし消し去れぬ執念を口にした。
彼は一九二〇年代から三十年代、日本映画界で「和製バレンチノ」と呼ばれ、絶大な人気を誇った伝説的俳優、岡田 時彦だった。
湊が洋書に触れると、彼の意識の奥底へと深く繋がった。流れ込んでくるのは、都会的で知的な演技の記憶。小津安二郎監督の作品で見せた軽妙な空気感や、溝口健二監督の作品で見せた清潔な切なさ。
しかし、同時に押し寄せたのは、三十歳という若さで不治の病に倒れた男の、激しい無念だった。
「あなたは……死んだことは、受け入れているのですね」
湊の静かな問いかけに、岡田は深く頷いた。彼は愛読していた洋書を愛おしげに撫でながら、震える声で吐露した。
「私が逝ったとき、一人娘の茉莉子はまだ一歳だった。あの子は、父親の顔すら、声すら覚えていないだろう」
湊の脳裏に、病床で喀血しながらも、眠る幼い娘の顔を痛切に見つめる父親の記憶が流れ込む。
「私はこの本を読んで聞かせることも、生きる知恵を教えてやることもできなかった。あの子に……何も残してやれなかった」
映画への未練以上に彼を縛り付けていたのは、娘の成長を見届けられなかった父親としての深い孤独だった。
張り詰めた空気の中、自分が生霊だと気づいていないリリが、真剣な眼差しで口を開いた。
「でも、ちゃんと繋がってるよ。顔を覚えていなくても、言葉を直接もらえなくても……残してくれたものは絶対に消えないから」
自分が「本来の肉体」から切り離されていることに気づいていない少女の、無意識ながらも確信に満ちた言葉。それが、岡田の心に強く響いた。
湊は能力を通じ、岡田の意識へ未来の光景を静かに流し込んだ。
「……あなたの遺したものは、しっかりと届いていますよ」
湊が見せたのは、戦後の日本映画界で大女優として喝采を浴びる娘・岡田 茉莉子の姿だった。
娘が父の出演作を観て深い感動を覚え、自身の芸名に父の本名である「高彦」から一字を取って名乗ったこと。そして、かつて父が輝いた小津監督の作品に娘もまた出演し、親子二代で日本映画史に名を刻んだという真実。
「私が残せなかった言葉の代わりに、あの子は……私の背中を、スクリーンで見つけてくれたのか」
時を越えて娘と「共演」を果たした岡田の目から、大粒の涙が零れ落ちた。
「……最高の、映画だった」
岡田は静かに微笑み、愛読書を胸に抱いたまま、満足げな表情で眩い光の中に消えていった。まるで、一本の古い映画が「終」を迎えるかのように。
店内に、いつもの静寂が戻る。
「親子の絆って、見えなくても繋がってるんだね」
リリは優しく微笑んだが、ふとその笑顔を曇らせ、首を傾げた。
「あれ、私の親って……どんな顔だったっけ?」
自身の記憶の欠落に気づき、戸惑う少女。
湊は、リリの手首が夕闇に白く透けているのを、痛みを堪えるような表情でそっと見つめた。
「……そうですね」
夕暮れの骨董店で、真実を隠し続ける青年は、ただ静かに、消えゆくかもしれない少女の傍らに佇んでいた。




